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読書ノート / 古代史
古事記序文をめぐる問題 古事記の序文には、次の1節があります(28ページ)。 これを要約すると次のようになります。
これを要約すると次のようになります。
さらに、古事記の序文には、次の1節があります(32ページ)。 これを要約すると次のようになります。
古事記序文と日本書紀のこれらの記述からは、次のような疑問が生じます。
「『序文』偽作説の現在 / 三浦佑之」は、古事記と日本書紀という、まったく性格の異なる二つの史書編集事業を同時に行うということは、大きな矛盾(180ページ)であるから、古事記の序文は(後世に)でっち上げられたとみたほうが理解しやすい(181ページ)と主張しています。序文が偽作であるとすると、「大きな矛盾」は回避できます。ただし、そうすると古事記がいつ書かれたかが問題となります。 古事記は変体漢文で書かれているとされていますが、7世紀後半の日本では、すでに変体漢文が文体の主流であったとする近年の研究を紹介し、「認識の幅は、以前では考えられないほど広くなった」(177ページ)と述べています。つまり、712年よりも以前に、古事記は文書化されていた可能性があるということです。 著者は古事記の序文に拘(こだわ)る理由について、次のように述べています(182〜183ページ)。
「天皇は編纂にどう関わったのか / 寺川眞知夫」は、古事記と日本書紀は編集方針が異なると見ています。 著者は、天武の歴史書構想を次のように説明しています(10ページ)。
神祇令践祚条と天孫降臨神話との関係について、著者は次のように説明しています(13ページ)。
としても、天武の構想に従って神祇令践祚条を制定し、天孫降臨神話を背景に持統が即位したと考えることは可能です。 持統の古事記完編纂への関与については、著者は次のように説明しています(14ページ)。
また、天照大御神については、天武の時代に、伊勢に日神が祭られたときの祭神名は大日孁貴(おおひるめのむち)であったが、持統朝に天照大御神の神名の成立とともに祭神名は天照坐皇太神(あまてらすますすめらおほかみ)に改められたとみられることをあげています。 以上から、持統の古事記への関与について次のように結論付けています(18ページ)。
日本書紀の神代巻には、多くの異伝が注記の形で配されていますが、このことについて著者は次のように述べています(21〜22ページ)。文中の「紀」は日本書紀を指しています。日本書紀における官僚(豪族や王族)の編集方針に不満を持った新設の天皇家が、思い通りの歴史書を作ろうと独自に編集したのが古事記だということでしょうか。
「ほんとうに和銅五年に誕生したのか / 谷口雅博」は、天武が稗田阿礼に「皇帝の日継」と「先代の旧辞」とを誦み習わせ、太安万侶がそのうち「先代の旧辞」のみを編集し直したという、二段階プロセス説を提唱しています。 稗田阿礼の誦習について、著者は次のように述べています(34ページ)。「特殊能力を持つ阿礼以外には読めない原古事記」とはどんなものなのでしょうか。安萬侶もまた、そのような特殊能力を持っていたのでしょうか。
古事記神話の変貌 古事記神話は、仏教教義の影響を受け、中世神話というものに変貌して行きます。 「神々の成長譚という読み方 / 斎藤英喜」と「後世、古事記はいかに読み継がれてきたのか / 岡部隆志」はこのテーマを扱っています。 「神々の成長譚という読み方 / 斎藤英喜」によると、奈良時代から平安時代前期にかけて、アマテラスの祟りにより天皇が病気になるという記録が何例も残されているそうです。中世の神仏習合の時代にあっては、アマテラスは大日如来と同体とされ、さらにはアマテラスのご神体は「蛇身」という異説さえ生み出されたということです。 また、中世の出雲大社ではスサノヲが主祭神されていたということです。また、仏教の教えから、スサノヲのいる「根の国」は「地獄」のことであり、スサノヲは地獄の閻魔王と考えられていたそうです。また、祇園社(現在の八坂神社)の祭神は、牛頭天王(ごずてんのう)という外来神でありそれは日本のスサノヲのことであるとされていたそうです。 このように中世に変貌した神話については、著者は次のように述べて肯定的な見方を示しています(54〜55ページ)。
「後世、古事記はいかに読み継がれてきたのか / 岡部隆志」は、近代日本のナショナリズムと結びついた古事記神話は、中世神話の延長上にあると見ています。そして、最近のナショナリズムの台頭に呼応して、古事記を日本の宝として顕彰する動きがあることに警戒を示しています。 古代において、正史は日本書紀であり、古事記は資料として引用されることはあっても、「埋もれた典籍」でした。 伊勢神道の興隆もあって、古事記神話は中世神話的に読み替えられて行きますが、古事記はまだ脇役的存在でした。その経緯を著者は次のように述べています(62〜63ページ)。
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