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読書ノート / アジア史
もとの中国語版では、先史時代から1945年までを扱っていましたが、日本語版(2006年)では、戦後編が追加され、さらに今回の日本語版の増補版では、「第10章知識人の反植民地運動」と「第11章台湾人の芸術世界」が追加され、もとの中国語版にに比べ、倍近くのページ数となっています。 目次は、次のようになっています。「先史時代〜清朝統治」「日本統治時代」「戦後」がそれぞれ3分の1ずつの分量です。 本書には、年表がついていないので、記述内容を年表にまとめました。
@先史時代(〜1624) Aオランダ統治時代(1624〜1662) B鄭氏政権統治時代(1662〜1683) C清朝統治時代(1683〜1895) D日本統治時代(1895〜1945) E中華民国統治時代(1945〜) 台湾の現在の民族構成は次のようになっています(ウィキペディア)。 河洛(福佬人)は福建省出身の漢人、客家は広東省出身の漢人で、BCの時代に中国大陸から移住して来ました。合わせて本省人と呼ばれています。 外本省人は、Eの中華民国統治とともに、台湾に渡って来た国民政府の支配層です。 原住民(先住民)は、先史時代から台湾全土に在住していた諸部族です。台湾西部の平埔族は、Cの時代に漢人に土地を奪われ、漢人社会に融合して事実上姿を消しています。一方、台湾西部の高山族(平地に住む部族もある)は、現在も少数民族として残っています。 各時代別の漢人開墾地は次の地図(65ページ)のようになっています。 オランダ統治時代には、開墾地は台南周辺にとどまっています。 鄭氏政権時代には、少し拡大しますが、それでも台湾の大部分は先住民居住地域です。しかし、開墾地では人口が密集しているため、漢人と先住民の人口比率は拮抗しています。 清朝統治時代には、清朝は先住民を保護するため漢人の開墾地を規制しますが、それでも開墾地は広がり続け、末期には平野部はほとんど開墾されつくしてしまいます。下の地図(帝国書院「大きな文字の地図帳」18ページ)を見ると、開墾地と平野部がほぼ一致しているのが分かります。なお、台中の東方にある「仁愛郷」で霧社事件が起きました。 現代の中国の稲作状況(帝国書院「新詳資料 地理の研究」74ページ)を見ると、揚子江流域と広東周辺が中心ですが、台湾西岸もそこそこの生産があることが分かります。それに比べ福建省では稲作はさほど盛んではありません。そのような事情から、清朝統治時代に、台湾への移住が加速されたものと思われます。 なお、現代の台湾のコメ生産量は年間約150万トン(な〜るほど・ザ・台湾 経済ウォッチング)、日本のコメ生産量は年間約850万トン(お米の都道府県別収穫量)です。台湾の面積は日本の10分の1、人口は6分の1ですから、単位面積当たりのコメ生産量は台湾の方が多く、稲作に適していることが分かります。 日清戦争(1894〜1895)の結果、下関条約(1895.4.17)で台湾は日本に割譲されます。しかし、台湾の官民はこぞって反対し、5月23日に台湾民主国の成立宣言し、台湾巡撫唐景ッ(とうけいすう)を総統に推挙します。5月29日には、近衛師団が上陸し、各地で激しい戦闘が始まり、10月20日の台南開城まで、全島占領まで5ヶ月近く要することになります。次の地図(98ページ)が示すように、戦闘が行われたのは、もっぱら漢人居住区です。 台湾人民の武装抵抗について、著者は次のように(99〜100ページ)述べています。
二大抗日事件、すなわち、噍吧哖(タバニー)事件(西来庵事件)と霧社事件は、かなり詳細に紹介されています。 日本軍による、全島平定後も抗日武装蜂起が頻発していましたが、1902年ごろからは、局部的「陰謀事件」が主となります。 噍吧哖事件は、台南を中心に、抗日義勇軍経験者3人(余清芳、羅俊、江定)が合同して起こした「陰謀事件」です。3人は、1915年秋に抗日武装蜂起を予定していましたが、5、6月ごろには計画は発覚し、6月29日に、羅俊が捕まります。余清芳は、7、8月に役所や派出所を襲撃します。日本側は、報復として噍吧哖の壮丁数千人を惨殺したといわれています(噍吧哖虐殺事件)。8月22日に、余清芳が捕まり、江定も翌年4月末に自首して事件は終わります。この事件の被告は1957名に達し、866名に死刑が宣告されますが、日本国内に厳しい批判が起こり、台湾総督は大赦の名目で減刑します。しかし、それでも100名以上が死刑に処せられました。 この事件について、著者は次のように(110ページ)論評しています。
10月27日、セデックらは派出所や霧社公学校を襲い、女性子供含めて日本人139名を殺害します。日本軍・警察の討伐は、10月28日に始まり、12月26日にようやく終了します。決起した霧社群6社で、戦死・自殺など644名の死者が出ました。翌年4月には、日本に協力したセデックのタウサー社が、当局の黙認にもと、事件の生存者を襲い、214名を殺害しています。 事件の原因について、著者は、@労務強制、A山地先住民と日本人の婚姻問題、Bマヘボ社頭目モーナ・ルダオの不満、を挙げています。 @事件発生当時、先住民は建設や補修に狩り出され酷使され、賃金も正当といえなかったことから、不満が募っていたという事情がありました。 A日本は、統治に役立つことから、日本人警察官と先住民の有力者の娘との結婚を奨励していましたが、日本人警察官には内地に妻子がいて、最終的には先住民の娘が捨てられました。 Bモーナ・ルダオと官憲はもともと対抗関係にあり、謀反を企てたこともありました。また、モーナ・ルダオの妹が日本人警察官に嫁いで捨てられるという事件もありました。そんな中でモーナ・ルダオの長男が巡査と暴力事件を起こし、そのことで懲罰が下り、頭目としての威信が傷つくことを恐れ、決起に至ったという側面もあるようです。 この事件は、台湾で「セデック・バレ」というタイトルで映画化され、日本でも2013年4月20日から全国で公開されました。4時間36分に及ぶ超大作で、安藤政信、木村祐一、ビビアン・スー、田中千絵も出演しています。 日本の植民地統治については、近代化という側面については、次のように(124〜127ページ)一定の評価をしています。「日本の行った近代化とは、西洋化であって日本化ではなかった」と留保はつけるものの、近代式の統治や建設など日本の統治が台湾の近代的基盤を作ったことは認めています。
1936年末に始まった皇民化運動の主要な項目は、@国語運動、A改姓名、B志願兵制度、C宗教・社会風俗改革の4点であると説明しています。 @国語とは日本語のことであり、究極の目標はあらゆる台湾人が日本語を話せるようにすることであり、統計によれば、1940年に日本語を解する者は51%に達したといいます。 A改姓名は、姓名を日本式に変更するものですが、許可制であり、朝鮮で行われたような強制(詳しくは読書ノート/創氏改名)ではなかったということです。それでも、さまざまの勧誘や圧力などで、改名する人は徐々に増えたそうです。 B当初は兵役義務はなく、台湾人は軍夫・軍属として出征していましたが、1942年から志願兵制度が始まり、台湾人も兵隊として参戦できるようになります。当時の状況を著者は次のように(190ページ)紹介しています。
C宗教改革の最終目的は、台湾人を日本の国家神道に改宗させることですが、著者はその実情を次のように(186ページ)紹介しています。
1945年8月15日、日本が降伏し、10月17日には、国民政府軍が基隆に到着します。そのときの状況を著者は次のように(204ページ)紹介しています。
事の発端は、2月27日、台北で闇煙草の取締りをめぐるトラブルから取締官が威嚇射撃し、その弾が通行人に命中したことにあります(通行人は翌日死亡)。翌28日、台北で民衆の抗議の民衆デモが行政長官公署に向かうと、警備の兵士が一斉射撃し多数の死傷者が出ます。これに対し、民衆が台湾放送局を占拠し、全省に決起を呼びかけ、全島的な政治抗争へと発展します。3月8日に、大陸政府の派遣軍が上陸、犠牲者1万8000人に上ると言われる二・二八大虐殺が始まります。その様子を次のように(218〜219ページ)述べています。
その後、1949年5月19日、台湾に戒厳令が敷かれ、1987年の解除まで38年、「20世紀の世界でもっとも長い戒厳令」が続くこととなります。 1949年12月7日には、共産党に敗れた中華民国政府が台湾へ撤退します。 国民党の、特務=情報・治安組織は、1987年の解除まで、いわゆる白色テロを行い、14万人が拷問を受け、3000〜4000人が処刑されたといわれています。 20世紀の台湾は、日本の植民地統治と、それに続く白色テロにより、100年近い恐怖と弾圧の時代を経験したことになります。 |