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読書ノート / 中近世史
鎌倉幕府は関東を中心とする地方政権として出発し、奥州藤原氏を滅ぼして東北地方に勢力を拡大し、承久の変で京に進駐し(六波羅探題設置)、文永・弘安の元寇を機会に九州に影響力を及ぼします。しかし、(次第に衰退して行くものの)朝廷もまだ統治機能を維持しており、朝廷と幕府の二重統治であったとも考えられ、その実態は曖昧模糊としています。この点について、著者は次のように述べています(4ページ)。
「T 鎌倉幕府の機構整備」では、鎌倉幕府の統治機構をかなり詳細に説明しています。幕府成立期に作られた次の3つの機構は、後に北条氏が作り出した諸制度の前提となっていて、室町幕府もこれらの機構を引き継いでいます。
玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所/変化する幕府の組織によると、北条時頼のころに得宗専制政治が成立し、「図は得宗家の独裁政治(どくさいせいじ=他の意見を聞かずに政治を行うこと)を現しています.得宗が自ら執権になれば,すなわち執権が最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)になるので赤字にしてありますが,そうでない時はかざりものでした.こうして鎌倉時代の後期には完全に北条一族が政権をひとりじめしていたのです.」ということです。 しかし、本書では、次のように述べて、得宗独裁体制という考え方には否定的です(34ページ)。
「U 蒙古襲来と安達泰盛」では、安達泰盛による弘安徳政の試みとその失敗を取り上げています。 安達泰盛が自害した霜月騒動については、著者は次のように述べています(98ページ)。
「V 六波羅・鎮西と北条氏」では、六波羅探題と鎮西探題の制度と人事の変遷を極めて詳細に説明しています。 「W 敗者、北条氏」では、鎌倉末期から北条氏滅亡までを取り上げています。滅亡の原因については、直接言及しているわけではありませんが、当時の状況を検証することにより、それを示唆しています。 霜月騒動、平禅門の乱、嘉元の乱などの争乱を通じて、得宗の外戚、近親、得宗家執事、得宗自身、北条家庶家、それぞれが一度は敗者となり、「それぞれがその形式を残しつつ微妙なバランスを保ちながら、幕府が運営されるようになった」(168ページ)と、強力な指導者不在の状況を指摘しています。 幕府成立の当初は、鎌倉に多くの御家人が集まってきていたものの、中ごろを過ぎると、鎌倉での儀式に参加するという御家人の役目が特定の特権的支配層に固定され、それ以外は鎌倉から離脱する傾向にあったとしています。 鎌倉時代の守護制度は東国と西国では性質が異なっていて、東国では「守護」の語が使用されない国があり、古代以来の既得権が認められていたが、守護制度が画一的に適用されるようになり、摩擦が生じるようになったと見ています。 後醍醐天皇の倒幕計画は、次のように述べて(176ページ)、自らの系統で皇位を独占したいという個人的都合から生じたものであるとしています。
つまり、(私なりの見解でやや強引に結論付けるならば)楠木正成や新田義貞は所領と生活を守るため、足利高氏は倒幕勢力の棟梁に祭り上げられ、やむなく蜂起せざるを得なくなり、後醍醐天皇の野望に従ったということになるのでしょうか。 |