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読書ノート / 中近世史
著者は、中世史の専門家で、本書では主に、平家滅亡、南北朝、後南朝における神器争奪事件を扱っています。時代を経るにつれ、神器の価値が失われていくのが明らかとなります。中世史から眺めれば、三種の神器の実体が見えて来ます。
即位に必要だったのは、鏡と剣だけ? 「第一章 宝剣喪失――鎌倉期における三種神器」では、『日本書紀』(720年に完成)の記述に従い、三種の神器の由来をおおよそ次のように説明しています(13〜14ページ)。
剣と鏡は本物がそれぞれ2つ? 奈良時代には、三種の神器は後宮の蔵司(くらのつかさ)が保管し、平安時代になると、玉と剣は天皇の身辺に置き、鏡は賢所(かしこどころ)に安置された、ということです(17ページ)。しかし、剣と鏡は神体として神宮にあるはずです。ということは、剣と鏡は本物がそれぞれ2つあるということでしょうか。 剣璽がなくても上皇詔書により践祚 1183年、木曽義仲の入京に伴い、平氏が都落ちするとき、安徳天皇を連れ三種の神器を持ち去ってしまいました。 後白河法皇は、安徳天皇(1178~1185)を退位させ後鳥羽天皇(1180〜1239)を即位させようとしますが、三種の神器がないので剣璽渡御の儀が行えません。剣璽渡御の儀とは次のような儀式です(コトバンク)。つまり、天皇の即位には、当初は鏡と剣の奉上が必要だったのが、剣璽(剣と玉)を引き渡すことにより、譲位する方式に変化したということです。
昼御座の剣で代用 ところが、1185年、壇ノ浦で平氏が滅んだ際、鏡と玉は取り戻すことができたものの、剣は海底に沈んで行方不明となってしまいます。その後、大規模な捜索を行ったもののついに発見できませんでした。 そこで、後鳥羽の元服(1190年)では、昼御座(ひるおまし)の剣で宝剣に代用します。その後も、宝剣の代用は続きます。さらに、1210年に、伊勢神宮の剣(1183年に後白河に贈られていたものですが)を宝剣として採用します(42〜43ページ)。 (宝剣は、アマテラスがニニギに授けたはずですが、もともとそんなものは存在しないのですから、儀式の体裁が整えば何でも良かったのかもしれません) 後醍醐が持ち出した三種の神器は別物? 「第二章 南北朝における三種神器」では、南北朝時代の三種の神器の争奪を扱っています。 1333年、後醍醐天皇は足利尊氏の協力で鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始めますが、尊氏と対立するようになります。1336年8月、尊氏は後醍醐に対抗して光明天皇を擁立します。このとき、三種の神器は後醍醐側にあるので、光明の践祚は上皇詔書により行われました(64ページ)。 軍事的に劣勢となった後醍醐は尊氏と和睦し、三種の神器を引き渡します。著者はその間の経緯を次のように説明しています(66ページ)。
真偽の確かめようはない その後、1339年に後醍醐が死去し、後村上が南朝を継ぎますが、圧倒的に不利な状況は変わらず、1348年には吉野を攻略され、行宮(あんぐう)を賀名生(あのう)に移してます。 しかし、その後、尊氏と弟の直義の間に対立が生じ、状況は一転します。1251年10月、鎌倉を拠点としていた直義を討つため出陣するに際し、尊氏は南朝と和議を結びます。その内容は、北朝の崇光天皇を廃位し、南朝の後村上天皇の親政を実現するというものです。 三種の神器の扱いについては、著者は次のように説明しています(77〜79ページ)。
しかし、アマテラスがニニギに授けたという「本物の三種の神器」などそもそも存在しないのですから、いずれの三種の神器も、ともに本物であり偽物であるともいえるので、真偽の確かめようはありません。 結局、南朝が北朝から引き渡された三種の神器を処分することによって決着をつける他なかったといえます。 広義門院を代役として強引に践祚 尊氏は直義を破り鎌倉を回復しますが、その直後の1352年閏2月、南朝軍が一斉蜂起し、京都と鎌倉に攻め込みます。尊氏は鎌倉を追われ、京都の留守を預かっていた嫡男の義詮(よしあきら)も大敗し近江に逃れます。まもなく、北朝軍は鎌倉と京都を奪回しますが、南朝軍は、北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)を賀名生に連れ去ってしまいます。 京都を回復した義詮は北朝の再建を試みますが、三種の神器がなく、上皇も連れ去られいるので詔書による践祚も行えません。そこで、広義門院(後伏見女御)を上皇の代役として、強引に後光厳天皇を践祚させます。 「三種神器などあってもなくても構わない」 このような強引な手法が後に及ぼした影響について、著者は次のように述べています(82〜83ページ)。
三種の神器は、南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇に「譲国の儀」によって譲渡されました。 皇位継承は、南北朝が交代で行うこととされますが、これは幕府によって反故にされ、不満を持った南朝の末裔は後南朝と呼ばれ、室町時代にトラブルの火種となります。 神鏡は、もはや原形を留めていない 「第四章 禁闕の変――神璽強奪」では、禁闕の変(きんけつのへん )を扱っています。 禁闕の変とは、1443年、後南朝の一党が内裏を襲撃し、宝剣と神璽を奪ったという事件のことです。幕府は一党を鎮圧し、宝剣はしばらくして清水寺で発見されます。 宝剣を放置した理由について、著者は、宝剣は目立つ上に、代用品であり価値が劣ると見られていたからではないかと推測し、さらに、次のように述べて(149〜150ページ)、無傷で伝わった神璽(玉)の重要性(鏡は燃えてしまっています)を指摘しています。(壇ノ浦で取り戻すことができた鏡は燃えカスのようなものだったのですから、後白河にとって、宝剣が行方不明になった衝撃は大きかったものと思われます)
「神器が欠けていても正統性が保証される」 唯一無傷で残っていた神璽が奪われてしまったのですが、朝廷にとってそれはさほど重大な痛手ではなかったようです。著者は、その事情を次のように説明しています(161〜165ページ)。
神璽奪還は、細川勝元の意向? 「第五章 長禄の変――神璽奪還と赤松氏再興」では、長禄の変(ちょうろくのへん)を扱っています。 長禄の変とは、1457年、赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、神璽を持ち去った事件のことです。 嘉吉の乱後、赤松氏一族は、次々と討伐され、旧臣らは牢人となります。旧臣らは、吉野の後南朝討伐と神璽奪還を手土産に主家再興を願い、後花園天皇と将軍義政の了解を取り付けます。 著者は、次のように述べて、この計画は、赤松氏再興により山名氏を牽制しようとした細川勝元の提案によるものではないかと推測しています(171〜172ページ)。
幕府は一兵も出さず? 赤松氏旧臣らによる神璽奪還計画の実態について、著者は次のように述べています(173〜174ページ)。 幕府は一兵も出さなかったというのですから、神璽そのものには、もはやほとんど価値を認めていなかったということでしょうか。
「神璽奪還は、単なる政治的な茶番」 それから1年後の1457年12月2日、旧臣らは計画を実行に移します。 後南朝の後胤とされる一宮(自天王)、二宮(忠義王)の兄弟の首を討ち取り、神璽を奪いますが、郷民らの反撃に会い奪い返されてしまいます。1年がかりの計画は失敗に終わったわけです。 その後、旧臣らは地元の土豪の協力を得て、神璽奪還に成功します。 無事、神璽は帰還しましたが、著者は次のように述べて、一条兼良は一連の騒動を「政治的な茶番」と見ていたのではないかと推測しています。
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