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  水軍と海賊の戦国史 中世から近世へ 
小川雄/著(平凡社)2020/4/27

 2025/6
 本書の内容は次の通りです。戦国時代末期の16世紀後半から17世紀初頭にかけての瀬戸内海と関東・東海の海賊(水軍)の活動を分析することにより、中世から近世への移行を論じています。
第一章 戦国時代の水軍と海賊
第二章 瀬戸内海の水軍と海賊
第三章 関東・東海の水軍と海賊
第四章 海上戦闘の広域化・大規模化
第五章 豊臣政権下の水軍と海賊
第六章 朝鮮出兵における水軍と海賊
第七章 江戸時代における水軍と海賊

秀吉の天下統一により、船手に統一
 「第一章 戦国時代の水軍と海賊」は、水軍と海賊の違いについて説明し、各地域の水軍と海賊を概観しています。
 水軍と海賊について、著者は次のように定義しています。なお、水軍という語彙は当時の史料では確認できず、学術・概念用語と捉えるべきと著者は述べています。
水軍 軍事的運用を目的として編成された船団
海賊 海上活動を存立の主要基盤とする軍事勢力
 また、戦国時代における海賊の領域権力との関係について、おおむね次のように分類しています。関東・東海は従属型、瀬戸内海は自立型が多かったようです。
上位の領域権力に従属 武田家中の小浜氏、北条家中の梶原氏など
領域権力として自立 能島村上氏、来島村上氏など
 水軍の呼称については、各地域で次のようになっています。関東・東海では、海賊衆と呼ばれていたのに対し、瀬戸内海では、警固衆が主流で、船手(ふなて=船の部隊)の文言も使われていました。羽柴秀吉は船手の文言を使っており、秀吉の天下統一により、船手に統一され、徳川政権でも継続して、船手が使われました。
関東・東海 海賊衆→船手 
瀬戸内海 警固衆・船手→船手
 毛利氏の水軍は、直属と従属の勢力で構成されていました。毛利元就の三男の隆景が相続した小早川氏も同様の構成です。
  毛利氏  小早川氏 
直属の水軍  川ノ内警固衆、譜代の児玉就方が統括  毛利家中の井上春忠が出向し指揮 
従属勢力の水軍 因島・能島・来島の村上氏  庶流の乃美宗勝が指揮 
 関東・東海では、戦国大名が伊勢・紀伊の海賊を招聘して水軍を編成しています。もともとの海上活動拠点から切り離されるので、経済的に自立できず主家に依存することになります。九鬼嘉隆は、織田信長・信雄父子から志摩海賊を束ねる立場に引き立てられ、領域権力として成長するようになります。
紀伊の梶原氏  北条氏が招聘 
志摩の小浜氏・小野田氏
伊勢の向井氏 
武田氏が招聘 
志摩の九鬼氏  織田信長・北畠信雄(信長の次男)に引き立てられ水軍を編成 
 秀吉の天下統一へ向け軍事行動が広大化していくと、「水軍大名」と称すべき領域権力も形成されていきます。淡路の脇坂安治や、伊予の加藤嘉明・藤堂高虎らです。その一方で、領域権力として自立する海賊の存在は重要性を低下させていったということです。
 徳川将軍家は、1609年に諸大名の軍船を原則として500石積以下に制限しますが、それは水軍の解体を意味する措置ではなかったとし、著者は次のように述べています(31ページ)。
 十七世紀に入り、たしかに戦乱は終息したが、徳川将軍家や諸大名は、勢力の均衡を保ちつつ、対外的緊張に対応するために、水軍を抑止力として維持していた。一部の論者が語るように、九鬼氏・来島村上氏などが海上活動から離脱したことを過大視し、江戸時代に水軍が解体されたとする見方は不適当である。……戦国時代から水軍編成における大名権力と海賊の結合は進行しており、江戸時代の水軍編成のあり方はその帰結だった。

本格的な戦闘は計2年余り
 「第六章 朝鮮出兵における水軍と海賊」は、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)の海上の戦いを取り上げています。
 本書では、地上の戦いについてはほとんど触れられていないので、秀吉の朝鮮侵略(日本史リブレット)34を参照してまとめると、概略は次のようになります。期間は、1592年から1598年に及んでいますが、1593年から1597年まで講和期間を挟んでいるので、本格的な戦闘が行われたのは、文禄の役(1592/4〜1593/4)と慶長の役(1597/7〜1598/10)の計2年余りです。
 文禄の役の関係図は次のとおりです(文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城)。

 慶長の役の関係図は次のとおりです(文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城)。

 日本軍の軍勢は、文禄の役で16万人、慶長の役で14万人ということになっていますが、これは所領の知行石高に基づいた計算上の数値であり、割り当てられた人数を出せたとは限りません。また、次のように、動員された軍勢の全てが純戦闘員というわけはなかったということです(文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城)。実際の戦闘員は4万人程度といったところでしょうか。
例えば九州肥前国福江の五島純玄に課された軍役700人中、陣夫と想定される「小人」・「下夫」は約300人と相当の割合を占め、水夫も200人を占め特徴的である。  

「一時は降伏や死をも覚悟」
 文禄の役では、開戦2か月で日本軍は首都漢城、平壌を占領し、朝鮮国王は国境の義州へ退避します。まさに向かうところ敵なしの快進撃ですが、まもなく各地で抗日義兵が蜂起し、明の参戦もあって、戦況は一変します。年が明けて、平壌が陥落し、4月には漢城も撤退し、日本軍は朝鮮半島の南岸沿い各地に城を築き防戦に回ります。その後、明との講和交渉が始まります。4年余りの期間を経て交渉が決裂し、慶長の役が始まります。日本軍は開戦直後は一時漢城へ向け進軍しますが、その後は南岸沿い各地の城をめぐる攻防となります。1597年12月22日から1598年1月4日にかけての蔚山(うるさん)の籠城戦では、加藤清正は「一時は降伏や死をも覚悟するほど極限状況に追い込ま」れます(蔚山城の籠城戦 )。1598年8月、秀吉が死去したことにより、日本軍は撤退します。
1592/4/12 日本軍が釜山に上陸、文禄の役(壬辰倭乱)が始まる 
1592/5/3  日本軍が首都漢城を占領、朝鮮国王は平壌へ 
1592/6/15 日本軍が平壌を攻略、朝鮮国王は義州へ。抗日義兵、各地で蜂起 
1592/7  明が参戦 
1593/1/7  平壌陥落、日本軍は漢城へ撤退 
1593/4  日本軍は漢城を撤退 
1593/5  明の講和使節が日本に到着 
1597/7  慶長の役(丁酉再乱)が始まる 
1597/9/7  稷山の戦い、毛利秀元と黒田長政の兵が明軍と戦うが決着つかず 
1597/12〜 蔚山の籠城戦 
1598/8  秀吉死去 
1598/10  五奉行が撤退命令 

3人の水使が戦死
 朝鮮の水軍は各道沿岸に配置され、日本軍と対峙した慶尚道と全羅道では、それぞれ右道(西)と左道(東)の2つの軍区に分かれ、次の4人の節度使(右水使・左水使)を司令官としていました。慶尚道左水使の朴泓は、日本軍侵入の知らせを聞くと逃亡します。元均も戦いを避け退避したため、日本軍は、ほとんど無抵抗で続々と上陸します。元均は、李舜臣ら全羅道水軍の救援を得て、5月から反撃に出ます。朴泓以外の3人の水使が指揮を取りますが、元均と李億祺は漆川梁海戦で戦死し、李舜臣は露梁海戦で戦死しています。
  右道(西) 左道(東) 
慶尚道 元均(右水使)漆川梁海戦で戦死  朴泓(左水使)逃亡 
全羅道 李億祺(右水使)漆川梁海戦で戦死 李舜臣(左水使)露梁海戦で戦死

制海権は確保?
 秀吉は、陸路で平壌まで進軍し、船団による兵員と兵糧の輸送を待ち、黄海道を基地として海路で北京を衝く計画であったが、朝鮮半島西海岸の制海権を確保できなかったため、目論見は崩れ去ったという指摘があります(海幹校戦略研究/近世における水陸両用戦について)。
……秀吉は、全く敵の水軍に無警戒であり、制海権の獲得について無関心であった。秀吉は、当初、陸路平壌の東西の線に進出、水軍の追及を待ち、その後は黄海道を基地として海路北京を衝く計画であった。
 海を越えて敵地に入り、敵と戦おうとすればなんとしても制海権を獲得しなければならない。常続的な制海権の確保には強力な海軍力が必要である。それを成し遂げたのはまさに朝鮮水軍であった。平壌からさらに北京を目指すには、朝鮮半島西海岸の制海権を確保し、さらに船団による兵員、兵糧の輸送を実施する必要があったが、朝鮮水軍により、もろくもその目論見は崩れ去った。 
……日本水軍は、その活動の場を瀬戸内海から不慣れな朝鮮南岸に移し、耐洋性のない軍船で戦いを強いられた。初戦において朝鮮水軍を侮り、防戦一方となり、朝鮮水軍に比し、戦略・戦術の面において極めて劣っていた。文禄の役では、9,000人を超える水軍を派遣しながら、制海権を獲得できなかった。
 海路で北京を衝くかどうかはともかく、兵糧の輸送を考えれば制海権の確保は重要であり、李舜臣の活躍は戦局に大きな影響を与えたと言えそうです。
 これに対して、次のように異を唱える意見もあります(李舜臣と文禄・慶長の役の海戦に関する考察)。李舜臣の活躍を重視する意見では、もっぱら朝鮮半島西海岸の制海権を問題としているのに対し、この意見では肥前名護屋−釜山間の制海権も含めて論じているので議論はかみ合わないようにも思われます。
 確かに李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍は目覚ましい。一回目の侵攻(文禄の役)では全羅左水使(全羅左道水軍節度使)の李舜臣が元均,李億淇とともに日本の軍用船を朝鮮南岸で次々と沈め,勝利した。しかし,「制海権を完全に奪い,補給路を遮断した」とはいえないだろう。足掛け7年の間,結果的には肥前名護屋−釜山を結ぶ補給路は一度も断たれていない。

朝鮮水軍の主力戦は板屋船
 日本軍は、16万人を延べ4万隻の荷船等で渡海させたということですが、船の建造は諸大名の負担となりました。船種の構成については、次のように軍船は少なかったようです(海幹校戦略研究/近世における水陸両用戦について)。
……朝鮮派兵時に各大名が集積できた船の数は一様ではないが、黒田長政の例を見ると536艘、旗艦というべき13端帆の54挺立新造船のほかに軍船が27艘、18人乗りの飛船が6艘、13端帆から7端帆の規模の廻船が503艘であった。個々の船の構造などはあきらかになってないが、軍船は少なく、その船体も決して大きなものではなかったが、沿海の国々は、割当てられた船については計画どおりに着手し、約1年足らずの間にことごとくみな関西地方の港に廻航することとなった。また、廻船に関しては「買船・かり船共」などと注記がみられ、一定規模の船団とするために買い集めたものや臨時に徴用したもの等がかなり含まれていた。
 上記の旗艦は安宅船に、軍船は関船に、飛船は小早船に相当するものと思われます(小早舟について | 因島水軍まつり公式ホームページ)。

 朝鮮水軍の主力戦は板屋船で、韓国の国立海洋文化財研究所の報告によると、次のようなものであったということです(「李舜臣の板屋船、推進力・方向転換に優れていた」-Chosun online 朝鮮日報)。日本の主力船である関船に比べ頑丈で衝突の破壊力があり、大型火器も複数搭載していたようです。

 文禄の役の初期の海戦では、朝鮮水軍の李舜臣と亀甲船の活躍が有名です。晋州博物館の壬辰倭乱室には、板屋船(左)と亀甲船(右)の模型が展示されています(【韓国の博物館 必見の文化財】D国立晋州博物館)。

 亀甲船は板屋船と同じくらいの大きさで、上部は亀の甲羅のように堅い板で覆われ、甲羅部分にはびっしりと刀が埋め込まれ剣山のようになっていました。船首に1門、左右に6門ずつ、計13門もの大砲を装備していたということです。日本水軍は接舷して相手船に兵士が乗り込み白兵戦に持ち込む戦法を得意としていましたから、亀甲船のこのような特殊な装備はきわめて有効だったと思われます(文禄・慶長の役で秀吉率いる日本軍を苦しめた「亀甲船」はどれだけ強かった?13門の大砲を装備したという戦闘力を技術的に解析する)。
 文禄・慶長の役では、3隻が艦隊の先鋒を務める突撃船として活躍したということです(朝鮮王朝後期における船の文化)。亀甲船は突撃用戦艦だったので敵船と接戦を繰り広げるには適していますが、敵を追撃して攻撃を加えるには不便なため隻数が余り多くはなかったということです(我が国自慢の戦艦?(コブクソン亀甲船))。亀甲船は防御攻撃ともに優れているものの、重すぎて速度が出せず使える局面は限定されていたということでしょうか。

文禄の役では日本水軍は守勢
 文禄の役の前半の海戦は次の図(150ページ)のように展開しました。

1592/5〜  李舜臣ら朝鮮水軍の反撃により、巨済島以西各地で、加藤清正(肥後)蜂須賀家政(阿波)が敗北 
1592/6/2  唐浦の海戦、亀井茲矩(因幡)の艦船21隻は李舜臣の船団に突入され、陸上に逃れる(亀井さん検定 - 鳥取市鹿野往来交流館) 
 朝鮮水軍の反撃に対し、秀吉は水軍専従の九鬼義隆・加藤嘉明・脇坂安治に出動を命じますが、いずれも敗退します。
1592/7/8  閑山沖海戦、脇坂安治は朝鮮水軍に大敗 
1592/7/9  安骨浦海戦、九鬼義隆と加藤嘉明も多くの船を焼き討ちにされ撤退 
 秀吉は、以降、海上での戦闘を回避し、水軍を集結させ、釜山周辺の防備に専念することを命じます。その一方で、大型船舶の増産と大型火器の積載も指示します。 
1592/9/1  釜山浦海戦、日本水軍は釜山浦内に停泊し、湾岸の城塞と連携し大砲や鉄砲で応戦。朝鮮水軍は日本船100余隻を沈めたが、亀甲船によって最前線で戦っていた鄭運が砲弾の直撃を受けて戦死 
1593/2  熊川海戦、朝鮮水軍は日本側の海陸からの射撃に苦戦 
 日本軍は、次の図(155ページ)のように、1593年に入って沿岸の要所に城郭を築き、陸上からの火力の援護下で水軍を出動させるようになります。陸上部隊は、朝鮮北部と中部の戦況が厳しくなり、南部へ撤退を始めたので、慶尚道沿岸部の防衛は強化された事になります。ただし、朝鮮水軍は閑山島を拠点に攻撃を繰り返したので、日本水軍が守勢であることには変わりはなかったようです。


朝鮮水軍に壊滅的打撃を与える
 慶長の役の海戦は次の図(163ページ)のように展開しました。

1597/7/15  巨済島海戦(漆川梁海戦)、日本水軍が朝鮮水軍に壊滅的な打撃を与える、元均と李億祺が戦死 
1597/9/18  鳴梁海戦、李舜臣の率いる朝鮮水軍10数艘が日本軍130艘を圧倒、村上通総が戦死 
1598/11/17・18 露梁海戦、順天城に籠る小西行長等の軍勢の撤退支援に向かった島津・宗等の日本軍と明・朝鮮水軍が激突、日本軍は露梁津から撤退するが、小西勢等は撤退には成功。戦闘前半で李舜臣が戦死 
 巨済島海戦では、日本水軍が朝鮮水軍に壊滅的打撃を与えます。鳴梁海戦では、李舜臣が一矢を報いますが、全般的に日本優勢で推移します。露梁海戦は、日本軍が撤退を完了するための海戦です。
 巨済島海戦について、著者は次のように説明しています(163ページ)。
 この慶長の役序盤において、日本水軍は不用意に釜山周辺まで攻勢に出撃してきた朝鮮水軍の後退を追跡し、七月十五日に巨済島北端と漆川島の海峡で捕捉して、壊滅的な打撃を与えた(巨済島海戦あるいは漆川梁海戦)。とくに朝鮮水軍の人的被害を戦役終盤まで回復できないほど甚だしくしたのは、日本水軍の襲撃で巨済島の陸地に追い上げられたところ、布陣していた薩摩島津氏の軍勢に攻撃されたことだった。釜山海戦・熊川海戦から続く、海陸共同で朝鮮水軍を邀撃する戦術が攻撃的に応用された展開であった。
 この説明でだけでは、巨済島海戦の全体像は把握できませんが、文禄の役の頃に比べ、日本水軍の方が押し気味だったようです。「日本水軍の襲撃で巨済島の陸地に追い上げられた」というのがどういう状況だったのか、良くわかりませんが、朝鮮水軍は多くの船と戦闘員を失って壊滅状態となったようです。
 日本水軍の戦果について、著者は次のように説明しています(164ページ)。

なお、日本水軍があげた戦果は、焼捨一三〇艘・鹵獲三四艘に及び、とくに鹵獲については、詳細な注進状(「洲河文書」)が存在する。

藤堂高虎(伊予国板島・羽柴氏取立)  六艘
脇坂安治(淡路国洲本・羽柴氏取立)  五艘
小西行長(肥後国宇土・羽柴氏取立)  三艘
加藤嘉明(伊予国松前・羽柴氏取立)  三艘
相良長毎(肥後国人吉・旧戦国領主)  三艘
宗義智(対馬国府中・旧戦国領主)   二艘
有馬晴信(肥前国日野江・旧戦国領主) 二艘
毛利吉成(豊前国小倉・羽柴氏取立)  一艘
島津忠豊(日向国佐土原・旧戦国領主) 一艘
福原長堯(豊後国府中・羽柴氏取立)  一艘
高橋元種(日向国延岡・旧戦国領主)  一艘
秋月種長(日向国高鍋・旧戦国領主)  一艘
松浦鎮信(肥前国平戸・旧戦国領主)  一艘

 伊予の藤堂高虎・加藤嘉明と淡路の脇坂安治は、秀吉により取り立てられた大名で、日本水軍の中心勢力だったと言えます。文禄の役では陸上戦の先鋒を務めた小西行長が活躍しているのを始め、九州諸国の諸大名が多数参戦しているのが注目されます。本書では明確には触れられていませんが、文禄の役緒戦の海戦の敗北を教訓にして、大型船舶の増産と大型火器の充実に努めた結果、日本水軍は大きく整備が進んだものと思われます。 

鳴梁海戦では日本水軍は苦戦
 鳴梁海戦について、著者は次のように、日本水軍は苦戦して、少なからぬ損害を出したと述べています(166〜167ページ)。

……また、巨済島海戦の戦勝は、無理に日本側勢力圏に突出した朝鮮水軍の敵失によるところも大きかった。当時失脚していた李舜臣が復権して、朝鮮水軍の残存兵力を掌握すると、九月十八日の鳴梁海戦で、日本水軍は苦戦して、少なからぬ損害を出した。
 この戦闘で、日本水軍は強風・急潮のために安宅船を使用できず、中型軍船の関船を主力として進軍したところ、適切な指揮を受けた朝鮮水軍に圧倒された(「毛利高棟文書」「藤堂家覚書」)。防御力・積載量に優れる一方で、機動性の低い安宅船の難点が露呈した展開だった。釜山海戦以降の陸上城砦と連携して朝鮮水軍を迎え撃つ戦術において、安宅船の鈍重さは問題とならなかった。しかし、より積極的に敵対勢力圏に侵入して、海上戦闘をおこなう場合、安宅船を中心とする編成は適切ではなかったのである。

 文禄の役では、日本水軍は守勢ではあったものの、湾岸の城塞と連携し防備を固めてからは、朝鮮水軍も敵地に深入りするのに慎重になっていました。巨済島海戦当時、李舜臣が失脚し指揮系統に乱れが生じていたのも、朝鮮水軍の敗北に繋がったのかもしれません。鳴梁海戦では、安宅船が使用できなかったのが、日本水軍の苦戦の理由とされていますが、朝鮮水軍は板屋船を使えたのでしょうか。
 ただし、著者は次のように、日本水軍は鳴梁海戦で苦戦したものの、慶尚道・全羅道の南部沿岸は、ほぼ日本側の制圧下に置かれることになったと述べています(168〜169ページ)。

 日本水軍は鳴梁海戦で苦戦したものの、敗走したわけではなく、最終的に後退したのは朝鮮水軍であった。巨済島海戦で大敗した結果、朝鮮水軍が鳴梁海戦に投入できた兵力は板屋船十余艘にとどまった。そのため、安宅船を欠くとしても、一三〇艘もの兵力を有する日本水軍の数的優位に抗しきれなかったのである。
 もともと、日本水軍の目的は、全羅道の制圧作戦の一環として、同地域における朝鮮水軍の拠点を掃討することにあった。そして、朝鮮水軍は全羅道南西岸の鳴梁で日本水軍に痛撃(村上通総の戦死)を与えつつも、圧倒的な物量差を覆すには至らず、北方に退却せざるをえなかった。これにより、慶尚道・全羅道の南部沿岸は、ほぼ日本側の制圧下に置かれることになった。文禄の役で、日本水軍は朝鮮水軍への対処法を見出した後も、釜山や巨済島の周辺を確保するにとどまったが、慶長の役では、遙かに広大な地域を制圧したのである。対外戦争に応じた水軍編成の変革が相応の成果を収めたといえよう。
 ただし、慶長の役における豊臣政権の戦略は、中国大陸や韓半島の征服ではなく、韓半島南部(慶尚道・全羅道)を制圧しつつ、朝鮮から譲歩(日本への謝罪)を引き出すことにあった。そのため、日本軍はやがて戦線を整理し、蔚山城・泗川城・順天城を中心とする持久態勢に移行して、明・朝鮮連合軍との攻防を繰り返した。


露梁海戦では所期の目標を達成
 露梁海戦については、次のように説明し(169〜170ページ)、日本軍は、明・朝鮮水軍と互角以上に渡り合いつつ、所期の目標を達成したと述べています。

 日本側の主要拠点のうち、西端の順天城は、光陽湾に突き出た半島の奥に築かれており、水軍を収容しつつ、陸上からの攻勢にも対応しうる構造であった。在番に配置されたのも、小西行長や日野江有馬氏・平戸松浦氏など、巨済島海戦での朝鮮水軍の殲滅にも参加した諸大名からなる、陸海両用部隊としての性格が強い軍勢だった。
 実際、慶長三年(一五九八)九月以降、明・朝鮮の連合軍は、陸海から順天城を攻囲したものの、小西行長らはよく堅守している。海上からの攻撃では、城側の射撃によって、明水軍・朝鮮水軍に死傷者が続出し、明水軍が浅瀬で干満を見誤り、一挙に四○隻以上の軍船を座礁で喪失する場面すらあった。座礁による損失は、朝鮮水軍も熊川海戦で経験しているが、明水軍は地勢の不案内によって、一層深刻な損害を出した模様である。陸上城砦と連携して敵水軍を迎撃する戦術が依然として有効性を失っていなかった状況もみえてくる。
 戦役最後の大規模戦闘となった露梁海戦(十一月十七日・十八日)も、順天城をめぐる攻防の中で生起したものであった。羽柴秀吉が同年(慶長三年)八月に死去すると、豊臣政権は戦争目的(朝鮮の謝罪)の達成を断念し、十月には韓半島の外征軍に撤収命令が届いた。しかし、順天城からの撤退は、明・朝鮮連合水軍の阻止行動によって遅延した。そこで、泗川城などに在番していた諸大名の水軍が撤退支援のために西進したところ、明朝鮮水軍もこれを察知して、露梁津(韓半島と南海島の海峡)の西側出口で迎撃したのである。
 この海戦で日本軍は明・朝鮮水軍を突破できず、露梁津から後退したが、連合水軍もケ子竜(明)・李舜臣(朝鮮)などが戦死しており、人的被害は日本側よりも大きかった観すらある。また、明・朝鮮水軍が露梁津に出戦した隙に、小西行長らの船団は、順天城を放棄して、釜山方面へと撤退していった。露梁海戦の日本軍は、明・朝鮮水軍と互角以上に渡り合いつつ、所期の目標(順天城の撤退支援)を達成したことになる。

 著者によれば「全羅道の南部沿岸は、ほぼ日本側の制圧下に置かれた」ということですが、全羅道東端の順天城ですら、明・朝鮮の連合軍により、陸海から攻囲されています。
 蔚山の籠城戦では、加藤清正が一時は降伏寸前まで追い込まれ、順天城では、小西行長が最後まで陸海から攻囲され、かろうじて撤退できたということですから、慶長の役では、日本勢はかなり厳しい戦いを強いられたようです。
 小西行長の脱出路は次の通りです(露梁海?-快?百科)。朝鮮の水軍が包囲を解いて露梁海峡に向かった隙をついて、小西行長の船団は、南方に大きく迂回して脱出したようです。


大東亜共栄圏構想の先駆
 ところで、本書では慶長の役の目的は、朝鮮から譲歩(日本への謝罪)を引き出すことにあったとしていますが、文禄の役の目的については、特に述べられていません。
 秀吉は、大陸への軍事作戦を唐入りと称し、朝鮮に征明嚮導を要求していますから、明への侵攻が目的であった事には間違いはないと思われます。
 文禄の役で、開戦から1か月足らずで日本軍が首都漢城を占領しますが、それからまもない1592年(天正20)5月18日に、秀吉は25ヶ条にのぼる事書を関白秀次に与えています。これは、三四国割計画と言えるもので、概略は次のようになっています(W. 世界征服の構想とその挫折)。これによると、後陽成天皇を唐の都(北京)に移し、日本の帝位は若宮(皇子·良仁親王)か八条殿(皇弟·智仁親王)が継承し、それぞれに関白を置き、朝鮮八道を秀吉の直轄領とし、秀吉は寧波府に居所を定め、いずれは天竺 = インドに攻め込むという計画です。まさに大東亜共栄圏構想の先駆とも言えるものです。
  帝位  関白 
日本 若宮(皇子·良仁親王)か八条殿(皇弟·智仁親王)  羽柴秀保か宇喜多秀家 
唐  後陽成天皇 秀次
朝鮮 秀吉の直轄領、羽柴秀勝か宇喜多秀家が支配
天竺 明を完全に支配したのち武力で征服  

和議条件7箇条を提示
 しかし、日本軍の快進撃も2か月で息切れします。朝鮮各地で抗日義兵が蜂起し、明が参戦し、海戦でも朝鮮水軍に敗退します。1593年に入って日本軍の朝鮮半島南岸へ向けての撤退が始まり、5月に明の講和使節が肥前名護屋城に到着します。秀吉は次の和議条件7箇条を提示します(文禄・慶長の役(壬辰倭乱))。「大東亜共栄圏構想」は夢物語となり、明への侵攻はおろか、戦線維持さえおぼつかなくなったので、朝鮮南部4道の割譲で手を打とうという提案です。
@明朝皇女を天皇家と婚姻させること。
A勘合を復活し、官船・商船を往来させること。
B明・日本の大官による軍事的和平と通好の誓約を取交わすこと。
C朝鮮南部4道を日本へ割譲すること。
D人質として、朝鮮王子および大臣1〜2人を渡海来日させること。
E俘虜となっていた朝鮮国王子2人を返還すること。
F朝鮮王朝の権臣は誓詞を提出すること。 

目的・動機をめぐっては、様々の意見
 朝鮮侵略の原因・目的・動機をめぐっては、江戸時代から次のような意見が出ています(文禄・慶長の役(壬辰倭乱))。
堀正意
林羅山
愛児鶴松の夭逝による鬱憤を晴らそうとした 
貝原益軒
頼山陽
有力諸大名の戦力を殺ぎ、同時に彼らの功名心を満足させるために海外侵略を企図した 
辻善之助
田中義成 
勘合貿易復興説:秀吉が日明勘合貿易の復活を望み、朝鮮にその斡旋を依頼するもこれに応じず、出兵した→「朝鮮征伐史観」 
池内宏  秀吉の功名心こそが朝鮮侵略に至る原因 
田保橋潔
中村栄孝 
秀吉の領土拡張志向 
岩沢愿彦  豊臣政権には知行拡張を求める動き、それから派生する内部矛盾を解消するため、大陸征服の意図が秀吉の関白就任直後から常に存在していた、 
藤木久志 豊臣政権は、明国へは勘合復活を基調 とし、朝鮮国へは惣無事令の適用(支配領域への組み込み)を政策基調としていたとする。したがって朝鮮に対する‘征伐’(征討)は、日本への服従をしなかったことに対する行動の現れであり、ここでは勘合貿易復活云々は関係なかった 
 勘合貿易復興説は、秀吉の和議条件7箇条の条件Aを重視したものと言えます。一方、秀吉の領土拡張志向や豊臣政権の知行拡張を求める動きに着目する説は、条件Cを重視したものと言えます。勘合貿易復興説を突き詰めると、朝鮮出兵の責任はもっぱら朝鮮側にあるということにもなります。

和議条件はまったく無視された?
 文禄・慶長の役|国史大辞典|ジャパンナレッジによれば、交渉はおおよそ次のように経緯しています。
1593/6/28 和議条件七ヵ条「明の軍務経略宋応昌は策略を企て、配下の謝用梓と徐一貫を明皇帝からの使節と詐称して日本の軍営に送り込んだ」「謝用梓らはこの条件を聞き入れ、翌二十九日、名護屋を離れた」
1593/12  「沈惟敬と小西行長は策を練り、行長の家臣内藤如安を偽りの講和使節に仕立て、偽作した秀吉の「降表」(表とは皇帝に奉る文書)を持たせて明皇帝のもとへ派遣した」 
1595/5/22 豊臣秀吉朱印状『大明朝鮮日本平和条目』は、秀吉の最終的な条件提示といえるものですが、このことについては、全く触れていません。 
1596/9  大坂城で秀吉に明皇帝からの封王の金印と冠服を捧げたが、明皇帝の誥勅には「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」(原漢文)とあるのみで、秀吉が提示した和議条件はまったく無視されていた。これが第二次朝鮮侵略(慶長の役)をひき起した 

日本は絶えず明朝、朝鮮側に妥協
 第59回 SGRA フォーラム 第3回 日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性 17世紀東アジアの国際関係――戦乱から安定へ 「発表論文2 欺瞞か妥協か──壬辰倭乱期の外交交渉」は、SGRAフォーラムに掲載されている中国人研究者の論文ですが、著者は壬辰倭乱期の外交交渉について、日本の学会の定説について、次のような疑問を示しています。つまり、外交交渉が当初から全く嚙み合わなかったわけではなく、相互に妥協を図っており、また、双方の外交担当官僚が欺瞞を共謀し、虚偽な情報を伝達したため交渉が失敗したとはいえないという立場です。
 戦争中の外交交渉に関して、学界では従来、相互の交渉条件がかけ離れているため、妥協の可能性が低く、その上、双方の外交担当官僚が外交交渉で欺瞞を共謀し、虚偽な情報を本国の統治者に伝達し、それによって冊封が失敗し、戦争が再び起こったというのを定説としてきたのである。
 確かに、双方の外交活動において外交代表が交渉主体を務め、交渉過程の情報が幾重のフィルターを経た後、損なわれずに両国の指導部に伝達されるのには無理がある。その意味で欺瞞の疑いがあったと言える。例えば、豊臣秀吉が「大明日本和平条件」で提起した七項目の平和条件は、複数の外交交渉と幾重の情報操作を経て、明朝の指導部に伝えられたものは「冊封」の要請となり、明朝を「騙した」ように見える。一方、明朝側の「「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入るのを認める。勘合貿易は認めない)」との対日政策は、両国使者の複数の解釈を通じて、豊臣秀吉に「冊封体制に入ってから勘合貿易を実現しよう」という期待を与えた。ここでも豊臣秀吉を「騙した」可能性は否定できない。
 明、日、朝の三方の史料、とりわけ当時の文書史料をすりあわせて考察を進めると、交渉過程において、明朝と日本が各自の平和条件を調整しながら、相互の妥協を図ったことが分かる。例えば、明朝は日本軍に朝鮮半島からの撤退を求めると同時に、日本との「冊封」関係の回復を長く議論していた。「封は許すが貢は許さない」という結論に達し、当初承諾した「貢」を取り消した。対日交渉の条件は表ではさらに厳しくなったようだが、操作の余地は残っていた。日本は絶えず明朝、朝鮮側に妥協していたが、朝鮮に対する優位性の確保にも努めた。日本の外交活動は東アジアの冊封体制に戻ろうとした様相を呈しながら、自国の国際的地位を高める意図も伺える。しかし、日本側の要求が明朝と朝鮮側に受け入れられることはなく、東アジアの平和は結局再び武力に訴えられることになった。

7項目について承諾したという事実はない
 上記論文によれば、1593年6月の秀吉の和議条件7箇条提示に対する明朝使者の対応は次のように説明されています。
 @和親要請「明朝皇女を天皇家と婚姻させること」は明確に拒否しています。A朝貢関係とB公式関係修復については交渉に応じる姿勢を示しています。C朝鮮南方四道の領土要請については反対しつつ明朝朝廷に報告することに同意しています。D朝鮮王子人質等については棚上げし、E日本側からの朝鮮国王子返還の申し出については承諾しています。明朝使者が7項目について暗に承諾したという事実はないということです。
 豊臣秀吉死後にまとめられた小瀬甫庵の『太閣記』によると、豊臣秀吉は 5 月 24 日(日本歴 23 日)に 2 名の明朝使者と会見し、外交僧侶の景轍玄蘇に彼らと非公式の筆談を行うように指示を出した。 
 ……
 明朝使者謝用梓、徐一貫が日本に赴いた後、豊臣秀吉が『大明日本和平条件』を彼らに提示した。6月 21 日、22 日の2日間にわたる談判を通じて、明朝と日本の朝貢関係、公式関係の修復、朝鮮王子の帰還は双方の共通認識となった。朝鮮の要人高官らが日本に忠誠を誓うことは言及されなかった。朝鮮王子、大臣が人質として日本に滞在することは棚上げにされた。明朝使者は2日間の外交交渉を通じて、日本側の和親要請を退けた。一方、朝鮮南方四道の領土要請に反対の意を示しながら、明朝朝廷に報告することに同意した。この外交交渉は、明朝使者が日本側の強引な要請を退けて、談判の和平条件を明朝に有利な方向に展開させた点で、実りがあった。日本側の7項目を暗に承諾し、沈惟敬、石星らが明朝朝廷を騙したという事実はなかった。

小西行長と沈惟敬の共謀による偽作?
 1593年12月の、秀吉の降表について、上記論文は次のように説明しています。降表では、もっぱら戦争責任は朝鮮にあると主張し、和議条件AないしBの要請を繰り返していますから、必ずしも秀吉の意思に反するものとは言えないように思われます。
 この降表は以下の内容に関わっている。一つ目は戦争責任。日本が明朝に対して「天朝の赤子」になる志を朝鮮に託して表明しようとしたが、朝鮮はそれを隠匿した。日本は「不得已而构怨(やむをえず討伐をした)」。朝鮮が詐欺と離間を働いた結果、明朝と日本の間に戦争が起きたのである。降表はすべての戦争責任を朝鮮側に擦り付けようとした。二つ目は冊封を求めること。日本は「天朝龍章賜(天朝より龍の章を賜っていただく)」、「以為日本鎮国恩栄(日本の国を治める恩恵と栄えとする)」。三つ目は朝貢関係の修復を求めること。日本は明朝に対して、「世作藩篱之臣,永献海邦之贡」として、永遠に海の国として貢ぐと誓った。
 ……この降表は学界で小西行長と沈惟敬の共謀による偽作とされている。しかし、……降表は確かに形式上整えたもので、それが豊臣秀吉の意思によるものであるかどうかについて、まだ議論の余地が残されていると思われる。

四道の領土要請については、放棄
 1595年5月22日の「大明朝鮮与日本和平条目」について、上記論文は次のように説明しています。交渉対象に朝鮮も加えたというのは秀吉側の譲歩といえます。和議条件7箇条のうち、@和親要請とC朝鮮南方四道の領土要請については、要求を放棄しています。そして、A朝貢関係、特に日明貿易の再開と、D朝鮮王子等の人質問題に要求を絞っています。日明貿易の再開については、小西行長が希望的観測を伝えたため、秀吉が可能性があると思い込んだようです。ただ、貿易は双方に利益があるので交渉の余地は残されていたのではないかと思われます。結局、朝鮮王子等の人質問題が最大の争点として残されたことになります。
 前述した『大明日本和平条件』と違い、この朱印状は『大明朝鮮与日本和平条目』という題に改められた。交渉対象は、明朝だけではなく、朝鮮も含められた。2年前の和平条件と比べると大幅に調整された。
 一、領土問題。朝鮮南方四道を放棄する代わりに、朝鮮王子、陪臣が人質としての日本滞在を堅持した。つまり、領土問題を人質問題に入れ替えた。豊臣秀吉は、朝鮮が王子を日本に送れば、朝鮮南方四道を返して、属地の形式として朝鮮王子に下賜することができる。豊臣秀吉は和親の要求が拒まれて、かつ朝鮮南方四道への領土要請が支持を得られなかった末、朝鮮王子、大臣が人質となることで、朝鮮との宗主国関係の確立をはかろうした。これが実現できれば、日本は明朝に次ぐ、朝鮮の2番目の宗主国になる公算となる。
 二、人質と撤兵問題。豊臣秀吉は人質をもって領土を取り替えるという方針を打ち出した。豊臣秀吉は、朝鮮王子と沈惟敬が熊川の日本軍兵営に到着したら、日本はすぐに15の倭城(拠点)の内、10の倭城を取り壊すようにと命じた。事実、朝鮮が日本に王子を送らなかったにもかかわらず、日本は予定通りにほとんどの倭城を廃棄した。このことから、豊臣秀吉は誠意をもって軍の撤退に取り組み、そして王子、陪臣の人質問題をめぐってある程度の妥協をし、朝鮮から完全な撤退をする考えを持っていたと見てよい。
 三、封貢問題。明朝の「封」に対して、豊臣秀吉は特に異議を唱えなかったが、大明勅使が冊封の礼と詔書を日本に持ってくることを要請した。豊臣秀吉が要請した「金印勘合」は明らかに「封」の範疇を超えている。いわゆる「金印」は、明朝が速報の形式で豊臣秀吉に「日本国王」の金印を下賜することを指す。豊臣秀吉は冊封を通じて、「日本国王」の名を得るとともに、「勘合」を実施し、両国の「官船、商船」の「往来」を合法化し、公式の「朝貢」と民間の「互市」の回復を図ろうとした。小西行長が豊臣秀吉に明神宗の勅諭の中身を報告する際、「一封之外,不许别求贡市」を回避したため、豊臣秀吉が「貢市」回復の可能性を思い込んで、小西行長と寺沢正成に事後に「貢市」を実現させようと指示した。
 事実、明神宗が豊臣秀吉への勅諭に冊封後の朝貢問題に言及して、「至于贡献,固尔恭诚,但我边海吏惟知战守,风涛出入,玉石难分,效顺既坚,朕岂责报,一切免行,俾绝后衅」と語った。つまり、明朝の海防兵士らは防御の任を負い、風と波が強い東海を経由する日本の朝貢団体に間違って害を与えることを避けるため、すべて通行禁止としていた。実際、日本側が提起した朝貢経路は海路ではなく、朝鮮経由の陸路であったため、勅諭拒否の理由は十分とは言えない。明朝兵部は、日本が冊封完成後に謝恩使を明朝に派遣する際、「除使臣外,人不得过三百,船不得过三只,先到对马岛,候旨定数进京」と定めた。朝鮮経由の陸路を謝恩使の経路とした。それが朝鮮が「虽不许贡,而贡在其中」という認識を抱いた原因であった。一方、明朝外交官僚らが日本側に「封後求貢(封の後に貢を求める)」策を講じた。例えば、遊撃陳雲鴻が万歴23年(1595 年)1月に釜山の日本軍兵営に入った後、小西行長に「准封则不必要贡,当慢慢请之,未为不可。既封之后,尔国当遣使奉土宜称谢,因此而恭谨请之,则天朝无不准之理。何必忙忙一时要之乎」と語り、「天朝无不准之理(天朝が許可しないはずがない)」。蓟遼総督孫鑛も、沈惟敬が日本側と交渉した時、「令其谢恩时以巧术求贡市」と指摘した 。
『大明朝鮮日本平和条目』は「朝鮮国王に見せない」とされた「大明日本和平条件」と違い、明朝と日本に限らず、朝鮮も交渉の対象とされた。豊臣秀吉は明朝に対し、明朝の冊封を求めるだけでなく、事後に「貢市」関係の確立をも求めた。これは降表の方針と一致し、孫鑛の「既封之后,必渐及贡市」の懸念に当たっている。一方、豊臣秀吉は朝鮮に対して、南方四道を放棄するかわりに、「朝鮮王子、大臣が人質として日本に来る」を堅持した。
 上のことから、豊臣秀吉の降表の提出、内藤如安と明朝の間の「三事(3項目)の約束の交わし」を経て、明朝が最終的に「只封不贡(封だけをし、貢を認めない)」という政策を決めたことが分かる。豊臣秀吉が明神宗の冊封勅諭を知り、『大明朝鮮日本平和条目』をもって『大明日本和平条件』を取り替えて、すでに退けた和親要請に加えて、さらに朝鮮南方四道の放棄までも表明した。そのかわりに、貢市の回復、朝鮮王子、大臣の人質問題という二つの条件を留保にした。その内、朝鮮王子、大臣の人質問題の実施に関して、日本は引き続き明朝、朝鮮と交渉を続けたが、貢市の再開は冊封完成後の日本謝恩使者の北京派遣を待たなければならなくなった。

秀吉が2回も立腹
 交渉決裂の経緯について、上記論文は次のように説明しています。結局、朝鮮王子等の人質問題をめぐり、豊臣秀吉は2回も立腹した事が決裂の原因のようです。ただ、豊臣秀吉は大分前から朝鮮王子が来日しないと見込んだ報告を受けており、直後にも変化はなかったということですから、突然の立腹に外交担当者はおおいに戸惑ったものと思われます。
……朝鮮は最初陪臣の日本派遣を堅く拒否したが、明朝と日本の外交官僚の度重なる説得に応じて、ランクの低い黄慎使節団(通称朝鮮通信使)を派遣して、明朝の冊封使とともに日本に赴いたのである。
 ……
 万歴24年(1596 年)9月2日、豊臣秀吉は大阪城で明朝使者楊方享、沈惟敬による冊封を受けた。冊封式典前後、豊臣秀吉は2回も立腹した。明朝の冊封は実質上失敗した。
 1回目の立腹は冊封前であった。豊臣秀吉が島津兵庫頭(島津義弘)に出した書簡及び小早川隆景が羽兵(島津義弘)に出した書簡(いずれも9月7日の日付)によると、朝鮮王子の来日を待っていた豊臣秀吉は予想と違う結果に激怒した。朝鮮が王子を謝罪に派遣しなかったことを理由に挙げて、「事事轻我甚矣(朝鮮がことごとく日本側を軽く見る)」と朝鮮を批判し、朝鮮通信使と会わないことを決めた。しかし柳川調信の陳述によると、豊臣秀吉が大分前から朝鮮王子が来日しないと見込んだ報告を受けており、直後にも変化はなく、予定通りに朝鮮通信使と「速見(短い会見)」を行う予定であった。変心は冊封式典の直前だった。2回目の立腹は、冊封式典終了後の間もない頃であった。
 9月2日と9月3日、沈惟敬は朝鮮との蟠りを捨てようと2回に亘って豊臣秀吉に進言したが、後者の不快感を招いた。9月5日、豊臣秀吉は五奉行の一人である前田玄以に、堺へ向かい、沈惟敬と謝恩表文の作成について打ち合わせを行うことを指示した。沈惟敬がこれを機に、朝鮮に駐在するすべての日本軍の撤退を要請した。これが豊臣秀吉の激怒を招いた。
 しかし、豊臣秀吉は表ではあくまでも明朝の権威を承服し、明朝と決裂する考えはなかった。
『進天朝別幅』は、『大明朝鮮日本平和条目』の明朝と日本の「貢市」問題に触れず、矛先を朝鮮に向けて、冊封の失敗を朝鮮の責任にしている。『進天朝別幅』は、朝鮮の「三つの罪」を提起し、朝鮮を処罰するように明朝に要請した。それと同時に、豊臣秀吉が明朝への謝恩使派遣を見合わせて、「必先通朝鲜后,次可遣使天朝」と称して、明朝側に外交圧力をかけた。また同時に、朝鮮を再び侵攻する準備を整えるよう、大名らに指示を出した。
 豊臣秀吉が語った「先通朝鮮」とは、日本と朝鮮の両者関係をうまく対処することを指す。具体的に言えば、朝鮮が日本に王子を派遣し、朝鮮に対する日本の優位性を確立させることである。『大明朝鮮日本平和条目』原本にも同じ主張があった。柳川調信が釜山に戻った後、「二三陪臣同渡,面修旧好(2、3名の陪臣が来日し、旧交を修好する)」へと変わり、それ以降の外交交渉は陪臣の来日を中心に展開したもので、王子が人質としての来日要請が言及されなかった。冊封式典後の急変について、柳川調信によると、「不知谁人谗间而中变(誰かに離間され、急変が起きた)」ということである。寺沢正成も豊臣秀吉に次のように抗言した。「今此事与行长辈,终始力主,毕竟乖违若此。天朝及朝鲜,必以我辈,为饰诈相欺,我辈何面目见之乎?男儿生世间,受此丑名,宁欲死于此也」、寺沢は、豊臣秀吉が恣意的に変わり、信用がなく、詐欺の汚名を招いたと認識した。
 本書では慶長の役の目的は、朝鮮から譲歩(日本への謝罪)を引き出すことにあったとしていることに少し疑問を感じましたが、交渉決裂の経緯からは、そのように解される事になるのかもしれません。また、交渉の経緯に着目すれば、朝鮮侵略の原因・目的についての藤木久志説も有りうるのではないかと思われます。

背景には神功皇后伝説が関係?
 ところで、秀吉の外交には、一貫して朝鮮を見下す姿勢が感じられます。このような姿勢は、当時の日本の支配階級に共通した認識であり、 その背景には
神功皇后伝説が関係しているという次のような指摘があります( 神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観)。
 神功皇后伝説が展開する上での蒙古襲来に次ぐ画期は、文禄・慶長の二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略である。何よりまず秀吉の軍勢が「伝説」を強く意識していた。以下、北島万次の研究で明らかになった秀吉と「伝説」との関係をまとめておく。秀吉の伝記として知られる「大かうさまくんきのうち」には、秀吉が朝鮮渡海の陣立てを定めた記述に次いで「伝説」が登場し、早珠・満珠譚、「高麗の王は日本の犬」と石に書き付けたとの話を含んでいる。秀吉の祐筆である山中橘内が献じた、筑前志賀島吉祥寺に伝わる縁起に基づくものであった。秀吉一行は京都から肥前名護屋に向かう途中、長門国府で神功皇后及び仲哀天皇の社祠を拝している。「伝説」についての認識は、秀吉個人だけではなく同行した武士たちも共有していた。鍋島、松浦加藤、長曾我部、島津の各大名に従軍した家臣らが編纂した記録に、共通して「伝説」が記されている。それらは「征服」を先例のあるものとし、朝鮮を日本より一段低くとらえるというだけでなく、神功皇后以来日本へ送られるべき朝貢物が近年中断していることを遺憾とし、その復活を掲げることで今回の侵略を正当化するものであった。さらに、宗義智の軍が朝鮮軍を破って忠州に入った時、吉川広家に従った宿蘆俊岳という従軍禅僧が、忠州の地がかつて神功皇后が異国の王を犬と石に刻んだところであることを追憶し、詩文を詠んでいる。ただし彼の表記によれば犬扱いされたのは「新羅王」でも「高麗王」でもなく、実に「唐土王」となっている。またこの話が現在では「世俗の人口に膾炙」している、と記している点も注目される。北島によれば、同行武士団への「伝説」の浸透は、決して秀吉によって一方的に注入されたものではない。九州各地を中心に、武士団の土着信仰、精神的な紐帯として八幡神への信仰があり(具体的には起請文の文言に現れる)、軍神八幡大菩薩への信仰は神功皇后伝説を伴っていたことによるのである。
 なお、確かな史実ではないが、秀吉が京都を立ち西へ向かうに際し、神功皇后を祀る伏見の御香宮で「出征」の式をったとの伝承がある。さらに、宇喜多秀家に従い朝鮮に出兵した家老の戸川逵安(肥後守)という人物が、朝鮮の都より一里ばかり離れた「魔似」という場所で、神功皇后が石に刻んだ「高麗王者日本国ノ犬也」の銘文を見た、との話までが伝わっている。
 このように秀吉軍勢の意識に神功皇后伝説は影を落とし、朝鮮を侵略の対象とする認識の強化に与っていた。そして、ここでの「伝説」は、早珠・満珠譚、「犬」と石に刻む話を含んでいることで明らかなように、『日本書紀』に記される原型ではなく『八幡愚訓』を踏襲した、蒙古襲来を機に中世的な変容を遂げた「伝説」であった。