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読書ノート / 近現代史
テーマは、坂本竜馬暗殺(旧暦1867年11月15日)、松平容保の京都守護職指名、孝明天皇病死(旧暦1866年12月25日)の三つです。タイトルに「定説を斬る」とありますから、そもそも定説がどのようなものかが問題となります。 竜馬暗殺については、京都見廻組犯行説と薩摩藩黒幕説が主要な説であると著者は考えているようです。松平容保の京都守護職指名に理由についてはこれまであまり論じられることはなかったので、特に定説というものはないようです(その意味ではタイトルにあまりふさわしくないテーマと言えます)。孝明天皇の死因については、病死説が定説といっていいでしょう。 黒幕などはいなかった? 竜馬暗殺について、京都見廻組犯行説は実行犯は誰かという問題であり、薩摩藩黒幕説は実行犯の背後にいる黒幕は誰かという問題ですから、両者は両立し得るものです。著者もそのような立場で、「実行犯=見廻組の今井信郎」「黒幕=薩摩藩の西郷隆盛」と推論しています。 京都見廻組の今井信郎は、箱館戦争に参加し、1869年5月、五稜郭で降伏した後、取調べに対し、見廻組の一員として竜馬暗殺に関与したと認めたものの、見張りにすぎなかったと申し立てたため、1870年9月、禁固刑に処せられ、1872年1月に赦免されています。 ところが、明治33年(1900年)に、「近畿評論」5月号の談話筆記では、今井信郎は、自分が坂本竜馬を斬ったと話しています。 さらに、1983年、今井信郎の孫の今井幸彦が、「坂本竜馬を斬った男―幕臣今井信郎の生涯」を出版しています。それによると、今井信郎は、自分が坂本竜馬を斬ったことを「家伝」として語り残したということです。 今井信郎が見張りにすぎなかったと申し立てたのは罪を逃れるためであって、実際に手を下したのは今井信郎であると、著者は断定しています。取調べに対し、見廻組の一員として竜馬暗殺に関与したと認めたのは、不利な事実を認めたものですから、信憑性は高いと思われます。見張りにすぎなかったというのは、極刑を免れるため嘘をついた可能性がありますし、30年後に、自分が坂本竜馬を斬ったと話したのは、見栄を張って嘘をついた可能性もあります。いずれにしても、見廻組の犯行かどうかが重要であって、今井信郎が斬ったかどうかは、どうでも良い気がします。 次に、西郷隆盛黒幕説については、状況証拠と推論しか示していません。 竜馬の潜伏先の情報を見廻組に伝えたのは薩摩藩だとしていますが、その根拠として、見廻組の佐々木只三郎と薩摩藩の八田知紀が親しかったらしいということを挙げているだけです。 西郷隆盛が坂本竜馬を殺害しようとした理由については、著者は明確には述べていませんが、武力による倒幕を目指した西郷にとって、大政奉還を進めようとした竜馬が邪魔になったということのようです。 小御所会議に徳川慶喜を招くべきと主張する山内容堂について、西郷隆盛が「唯短刀一本あれば足る」と刺殺をほのめかし、それを伝え聞いた容堂が急に弱気になり主張を取り下げたとする話を紹介し、「竜馬が出席して容堂を支持していたら、西郷から刺殺命令が出ていたことはまず間違いない」と著者は述べています。 「唯短刀一本あれば足る」の真偽はともかくとして、一介の脱藩者に過ぎない竜馬が、小御所会議に出席し発言するということがありうるのでしょうか。 ところで、坂本竜馬が「お尋ね者」であれば、見廻組はどうして暗殺という手段を使わなければならなかったのでしょうか。正々堂々と、見廻組であることを明かし、捕縛を告げ逆らった場合には斬り捨てればよいはずです。 「一説に龍馬は幕府大目付の永井尚志から、伏見の一件の罪は不問とされ、安心していたともいわれます。仮にもし京都見廻組がそれを知れば、悔しさのあまり暗殺に及んだということも考えられなくはありません」(京都河原町近江屋で坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される)という意見もあります。 暗殺の直前にも、永井尚志を訪問していたようですから(龍馬暗殺5日前の書状 福井藩重臣宛て、3月に公開)、竜馬は、警察=見廻組には手の出せない存在となっていたのかもしれません。「お尋ね者」のままであれば、幕府の有力者を訪問して、ただで済むわけはありませんから。 寺田屋事件で仲間2人を射殺された見廻組としては、それが悔しくて暗殺という手段に訴えた可能性も否定できません。つまり、黒幕などいなかったという推論もありえます。 孝明天皇の死はグッドタイミングだった 天然痘により病死したとされる孝明天皇は、実は砒素により毒殺されたのではないかと疑われる背景には、孝明天皇の死が討幕派にとってグッドタイミングだったということがあります。 孝明天皇は攘夷論者で、日米修好通商条約に勅許を与えませんでしたが、「幕府当局者は力を尽くして朝廷を説得し、ようやく列国の圧力を認識し」、1865年10月に勅許を与えていますから(条約勅許問題)、対外関係では障害はなくなりました。 一方、孝明天皇は公武合体の立場から、1863年、倒幕を目指す尊攘派の公家や長州藩兵を京都から追放し(8月18日の政変)、1864年7月の禁門の変の直後、長州追討を命じています(孝明天皇とは)。したがって、長州勢は、1866年の第二次長州征討に勝利したものの、孝明天皇がいる限り、京に復帰することは困難な状態でした。また、1866年1月に長州と同盟を結び倒幕に転じ始めた薩摩にとっても、公武合体の立場の孝明天皇の存在は不都合なものとなりつつあったことは推測できます。つまり、孝明天皇の死(旧暦1866年12月25日)は、討幕派にとって、結果的には、まさにグッドタイミングだったといえます。 ただし、武力倒幕が成功するのは、孝明天皇の死から1年後のことです。もし、孝明天皇が生きていたら、その後の薩摩や岩倉の倒幕計画に障害となったであろうと推論できるとしても、1年前の時点では具体的な倒幕計画はなかったのですし、後の歴史がどうなるかは誰にも予測できなかったのですから、「将来あるかもしれない倒幕計画の邪魔になりそうだから、とりあえず天皇を亡き者にしておこう」という発想が、このとき果たして有り得たでしょうか。 原口説が大きなインパクト 戦前は、孝明天皇は病死したというのが定説でしたが、戦後になって、ねずまさし(禰津正志)のように毒殺説を唱える研究者も出始めました。 しかし、原口清が1989年10月、明治維新史学会『明治維新史学会報』第15号に「孝明天皇の死因について」を発表し、病死説を唱えます。これは「正確な痘瘡の医学的知識に基づき、『孝明天皇期』・『中山忠能日記』を読み解き、病死説を後押しした画期的な論文」だそうです(王政復古への道 (原口清著作集)トップカスタマーレビュー)が、学会に大きなインパクトを与え、佐々木克は毒殺説を撤回し(本書141〜142ページ)、病死説が定説化したそうです(本書161ページ)。原口は、「孝明天皇の死因について」に論文リストを掲載し(本書136〜141ページ)、「日本近代史の虚像と実像 1」の「孝明天皇は毒殺されたのか」でも文献を紹介しています(レファレンス協同データベース)。
毒殺説は破綻している? 著者は、毒殺説に立って原口説に反論しています。 反論の根拠とした主な文献は次のようなものです。
著者は、中野操「佐伯先生の事ども」という本を毒殺説を補強する趣旨で紹介しています。この本の著者の中野は、1940年に佐伯理一郎という医師が、大阪で開かれた学士会クラブ例会で、「岩倉具視が女官を使って孝明天皇を毒殺した」と話したのを聞いたということです。佐伯は、毒殺説の根拠として、伊良子光義という医師の祖父・伊良子光順(朝廷の典医)の残した日記を挙げており、天皇の死の直前で日記が中絶していることが傍証となると断言したということです。佐伯は、尼僧となっていた女官から直接、毒殺の真相を聞いたとも述べたということです。ただし、その女官の名前は明かさなかったようです。中野は、直接日記を見たわけではなさそうで、また、女官の話は再々伝聞ということになりますから、なんとも雲をつかむような話です 著者は、次のように述べて(188〜189ページ)、毒殺説を唱える、ねずまさし「天皇家の歴史 下」を高く評価しています。砒素中毒の根拠として、中国の小説の記述を挙げることが「信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」 と言えるかはともかく、「医学書によると吐血・脱血こそが、出血性痘瘡の特徴である」というのが原口説の最大の論拠だと思うのですが、著者はそのことには触れていません。
伊良子光孝は、@では、毒殺説について「真実のところは医師である筆者にも判らない」、尊皇主義の討幕派が「天皇を毒殺することなど考えられない」と述べているそうです(本書215ページ)。 一方、Aでは容態が急変した25日正午以降の様子を次のように描いています(本書223〜225ページ、パソコンで変換できない記号は一部変更してあります)。
現に、本書の著者は20年間も、「その場に居た伊良子光順が、砒素系劇薬による急性毒物中毒症状と直感した」と思い込んでいました。
孝明天皇がいったん回復していたことについては(原口清は、実は回復していなかったとしていますが)、「出血性のものは予後不良となりやすい」という情報もあります(国立感染症研究所/天然痘(痘そう)とは)。 |