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 八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体 
 島田裕巳/著(幻冬舎)2015/7/29

 2024/10
 2015年、自民党の三原じゅん子議員が参院予算委員会の質問で、八紘一宇に言及したことで話題を呼びました( 第189回国会 参議院 予算委員会 第6号 平成27年3月16日)。
 三原議員は、冒頭で貞観地震にふれ、次のように述べました。
 東日本大震災は千年に一度の大地震だと言われておりますが、今から千百四十六年前に東北地方を襲ったのが貞観地震であります。その被害の大きさに心を痛めた清和天皇は、陸奥の国震災賑恤の詔を仰せになります。大震災により罪のない国民を苦しめた自らの不徳を悔い、その上で、死者のお弔いに手を尽くす、生存者には金品を与える、これを賑恤と言うのだそうですが、その上、税金を減免するなど事細かに心を砕いて、困った人に対してそれぞれの事情に即した手厚い支援を差し伸べるようお言葉を下されたということであります。 天変地異に際して自らの不徳を省みるというお心に私は素直に驚きました。さらに、国民のことを第一にお思い、常に共にあろうとなされる天皇のお心、これはその後の時代にもしっかりと今も受け継がれているのだと思いました。そして、天変地異に対して謙虚に畏怖し、そして復興を祈り、将来の希望を見出そうとする歴代の天皇陛下のお心、これを思いますと、今回は自然災害に加えて原発事故も起きており、自然に対してはもちろんでありますが、科学技術の発展、こういったものについてもおごることなく畏れと祈りというものを忘れずにこれからの復興に努めていきたいと、改めて心に誓ったところでございます。
 この日の質問は、グローバル企業の租税回避に関するものだったので、この冒頭の発言は、質問とは無関係に一方的に清和天皇賛美を述べたものです。本書の著者は「果たしてこれが、現代の国会で行われる議員の質問なのだろうかと、不思議に思えてくるようなものだった」と評しています(5ページ)。
 三原議員は、質問の本題に入って、グローバル企業の租税回避にふれた後、次のように八紘一宇の解説を始めます。そして、八紘一宇という根本原理を指針としてはどうかと、当時の麻生太郎財務大臣に問いかけています。
 私は、そもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の影の部分にもう私たちは目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。
 そこで、今日、皆様方に御紹介したいのが、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、天の下覆いて家となさむとおっしゃったことに由来する言葉です。
 今日、皆様方のお手元には資料を配付させていただいておりますが、改めて御紹介をさせていただきたいと思います。これ、昭和十三年に書かれた「建國」という書物でございます。
 八紘一宇とは、世界が一家族のようにむつみ合うこと。一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強い者が弱い者のために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族を虐げている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができたとき、初めて世界は平和になるということでございます。
 これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中に現在のグローバル資本主義の中で日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと私は思えてならないんです。
 麻生大臣、この考えに対していかがお考えになられますでしょうか。
 麻生大臣は、次のように八紘一宇の精神に共感を示しているものの、三原議員の問いかけには正面からは答えずはぐらかしています。「往け八紘を宇となし」は愛国行進曲の一節で、この曲は今でも海上自衛隊の東京音楽隊などで演奏され歌われています(三宅由佳莉さんの、「愛国行進曲」)。それにしても、「五世紀から少なくとも日本書紀という外交文書を持ち、古事記という和文の文書を持って」というのには、少し驚かされます。
 もうここで戦前生まれの方というのは二人ぐらいですかね、ほかにおられないと思いますけれども。これは、今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのは建っております。宮崎県の人いない。八紘一宇の塔あるだろう。知ってるかどうか知らないけど。ねえ、福島さんでも知っている、宮崎県に関係ないけど。八紘一宇っていうのはそういうものだったんですよ。
 日本中から各県の石を集めまして、その石を全部積み上げて八紘一宇の塔というのが宮崎県に建っていると思いますが、これは戦前の中で出た歌の中でもいろいろ、「往け八紘を宇となし」とかいろいろ歌もありますけれども、そういったものの中にあって、メーンストリームの考え方の一つなんだと私はそう思いますけれども、私どもはやっぱり、何でしょうね、世界なら世界の中で、千五百年以上も前から少なくとも国として今の日本という国の同じ場所に同じ言語をしゃべって、万世一系天皇陛下というような国というのはほかにありませんから、日本以外でこれらができているのは十世紀以後にできましたデンマークぐらいがその次ぐらいで、五世紀から少なくとも日本書紀という外交文書を持ち、古事記という和文の文書を持ってきちんとしている国ってそうないんで、そこに綿々と流れているのは多分こういったような考え方であろうということでこの清水さんという方が書かれたんだと思いますけれども、こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのにちょっと正直驚いたのが実感です。
 三原議員は、この後、次のように租税回避防止に触れて、八紘一宇の理念の下に崇高な政治的合意文書作ることを世界に提案してはどうかと、当時の安倍晋三総理に問いかけています。
 これは、現在ではBEPSと呼ばれる行動計画が何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされているということも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜け駆けをすることによって、今大臣おっしゃったとおりなんです、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう。つまり、九十九の国がせっかく足並みをそろえて同じ税率にしたとしても、たった一つの国が抜け駆けをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。この期に及んで単に法人税をもっと徴収したいというような各国政府の都合に基づくスタンスからもう一歩踏み出して、つまり、何のためにこうした租税回避を防止するかという理念に該当する部分を強化する、こういったことが必要なのではないかと思っております。
 総理、ここで私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税のゆがみは国家のゆがみどころか世界のゆがみにつながっております。この八紘一宇の理念の下に世界が一つの家族のようにむつみ合い助け合えるように、そんな経済及び税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを安倍総理こそがイニシアチブを取って世界中に提案していくべきだと思うんですが、いかがでしょうか。
 安倍総理は、この問いかけには答えず、次のように一般論を述べるにとどめています。
 こうした言わば租税回避ができるのは本当に多国籍企業であり、巨大な企業であって、こういう仕組みをそういう企業のみが活用できるわけでございます。まさに日本の中でこつこつ頑張っている企業はそういう仕組みをとても活用することができないわけでございまして、そういう意味において正直者がばかを見てはならないわけでございますし、しっかりとそれを進めていく国とそうでない国に大きな差が出てはならないわけでございますので、このBEPSプロジェクトの取組がOECD租税委員会において進められているわけでありますが、本年中の取りまとめに向けて日本政府としてもしっかりとリーダーシップを発揮をしていきたいと、このように考えております。
 三原議員は、次のように、八紘一宇の精神を外交に生かすことを提案して、質問を終えています。三原議員は、このように国会質問の場を利用して、八紘一宇についての自説を一方的に展開しています。
 八紘一宇という家族主義、これは世界に誇るべき日本のお国柄だと私は思っております。この精神を柱として、経済外交に限らず、我が国の外交、国際貢献、こういったもの、総理には力強く今後とも進めていただけますことを最後にお願いして、質問を終わらせていただきたいと思います。
 三原議員は、国会質問の意図を次のように説明しています( 三原じゅん子『予算委員会の質問でお伝えしたかったこと』)。
昨日の予算委員会における私の質疑にたくさんの反響を頂きました。
ご意見の中には、「八紘一宇」という四字熟語について、「戦争や侵略を正当化する『スローガン』『標語』だったことを軽く見ている」といったご指摘が多くありました。
 
私があえて「八紘一宇」という言葉をつかって、委員会質疑で問題提起を行った意図をお伝えしておきたいと思います。
 
この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化する原理やスローガンとして使われたという歴史は理解しています。侵略を正当化したいなどとも思っていません。私は、この言葉が、そのような使い方をされたことをふまえ、この言葉の本当の意味を広く皆さんにお伝えしたいと考えました。
 
ご指摘いただいた中にもありましたが、「八紘一宇」という四字熟語そのものは、大正時代に入ってからつくられた言葉であると言われていますが、もともとは神武天皇即位の際の「橿原建都の詔(みことのり)」にそもそもの始まりがあります。
 
是非、全文をお読みいただきたいと思いますが(「橿原建都の詔」の全文は、末尾に引用させていただきました)、まずは該当部分の抜粋をご覧ください。
 
「八紘(あめのした)を掩(おお)いて 宇(いえ)と為(せ)んこと 亦可(またよ)からずや」
 
今回、私が皆さんにお伝えしたかったことは、戦前・戦中よりも、ずっとずっと昔から、日本書紀に書かれているような「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、簡単に言えば「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神です。
 
この詔を素直に読んでみますと、国民のことが「おおみたから」と呼ばれているように、自分より他人をいつくしみ思いやる利他の精神、きずなを大切にするこころや、日本の家族主義のルーツが、ここに表れているのではないかと私は感じました。
 三原議員の理解によれば、八紘一宇は神武天皇が即位の際に示した和の精神で、「世界を一つの家族として、人類は皆兄弟としてみんなで仲良くし、ともに発展していこう」というものであったということです。そう考えるならば、戦前の日本で、八紘一宇を侵略を正当化するスローガンとされたのは、本当の意味を理解しない使われ方だったということになります。したがって、八紘一宇の精神を外交に生かすことには何の問題はないと、三原議員は考えているようです。このような三原議員の姿勢を、著者は「確信犯」と評しています(8ページ)。

神話上の架空の人物
 そもそも、神武天皇は実在したのでしょうか。
 日本書紀によると神武天皇が建国したのは紀元前660年ということですが、中国の歴史書に倭の奴国が初めて登場するのは、それから700年以上も経った、紀元後57年のことです。
BC660年 神武天皇が建国(日本書紀)
57年 倭の奴国が朝貢し,後漢の光武帝が印綬を与えた(後漢書)
107年 倭国王の帥升が朝貢(後漢書)
239年 卑弥呼は魏の皇帝に対して使節を派遣し、奴婢を含む数多の品を献上(魏志倭人伝)
 次の図のように広域地域圏の形成されたのは弥生時代後期と考えられています(倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス)。土器様式の分布圏から、1世紀後半には畿内圏がほぼできあがっていたと推測されています。

 ヤマト王権が成立したのは3世紀後半以降と考えられています。当初は豪族たちのゆるやかな連合勢力だったようです(「大和朝廷」ではなく、「ヤマト王権」という用語を使うのはなぜですか。|株式会社帝国書院)。巨大古墳の築造にはある程度の規模の政治権力が必要ですから、箸墓古墳が卑弥呼の墓だったとするならば、ヤマト王権の成立は、3世紀前半に遡る事になりますが(箸墓古墳|いつ築造されたのか【箸墓の年代 Part2】 | 日本・史跡ナビ)、それでも、神武天皇建国説による年代とは、大幅なずれがあります。
 そもそも、日本書紀では神武天皇は天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のひ孫とされています。したがって、現代人の普通の感覚からすれば、神武天皇は、神話上の架空の人物ということになります。

世界の凡てを一家のように睦まじく
 麻生大臣が言及した「八紘一宇の塔」の正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」と言い、1940年に皇紀2600年を記念して建設されました。塔の台座には、県内、国内をはじめ中国や朝鮮、台湾などから集めた石も使われています。戦後、GHQの命令で「八紘一宇」の文字が削られましたが、1965年に観光振興などを理由に復元されています(「八紘一宇の塔」歴史学ぼう 内部レリーフも公開 15日、宮崎市で見学会|【西日本新聞me】)。
 この復元運動の先頭に立ったのが岩切章太郎で、本書ではその理由について次のように述べています(25ページ)。岩切が主張するように、本来の八紘一宇が世界平和を目指すものであったなら、この復元には、何ら問題はなかったことになります。
 岩切は、なぜ八紘一宇の文字を復元するのかについて、それをオリンピックの精神になぞらえていた。「スポーツを通じて世界は一つ、というのがオリンピックのスローガン。世界の凡てを一家のように睦まじくというのが八紘一宇の文字の本義。二千六百年の昔、神武天皇はこの美しい理想を八紘一宇という言葉で表現された」というのである。
 これは、三原議員の主張とも重なり合ってくる。たしかに、八紘一宇が、岩切の言うように、「世界の凡てを一家のように睦まじく」することをめざすものであるならば、それ自体は平和主義を志向するものであるということになる。

翻へせ! 八紘一宇の御旗!
 では、戦前の日本で、「八紘一宇」という言葉はどのように使われていたのでしょうか。内閣が初めて「八紘一宇」という言葉を使ったのは、1937年11月10日に刊行された「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」という小冊子においてとされています。そこでは、次のように説明されています。
 「八紘」は「八荒」ともいひ、前者は八方の隅、後者は八方の遠い涯(はて)といふ字義であつて、共に「世界の涯」とか「天(あめ)の下」とかいふ意味である。「一宇」は「一家」といふ字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従つて「八紘一宇」とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・各民族をして夫々(それぞれ)その処を得、その志を伸(のば)さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつゝも、相倚(よ)り相扶(たす)けて、全体として靄(あい)然たる一家をなし、以て生成発展してやまないといふ意味に外ならない。それは外国の覇道主義の国家に見られる如く、他国を領有しようとする侵略的思想とは、霄(せう)(じやう) の差をなすものであつて、禍を除き、道を布き、弥々高く益々広く向上発展する我が国の進路を示すと同時に、各国家・各民族をして道義的・平和的世界を実現せしめる創造の道を示したものである。この道は、実に肇国以来、一系連綿たる天皇の天津日嗣の大御業であり、又我々臣民が一身を捧げて皇運を扶翼し奉る窮極の目標である。
 「各国家・各民族は、相倚(よ)り相扶(たす)けて、全体として靄(あい)然たる一家をなし」という表現は、「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」「みんなで仲良くし、ともに発展していく」「世界の凡てを一家のように睦まじく」という表現と類似しているようにも思えます。
 この点について、本書の著者は次のように述べています(26〜27ページ)。
 ここでも、世界全体を一つの家のようにまとめあげ、統一され、秩序のある共同体を打ち立てるという意味が、八紘一宇に与えられている。しかし、それが平和主義を志向するものであるかどうかということになると、かなり疑問である。それを象徴するのが、「皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ」という箇所である。この場合の皇化とは、天皇の徳による教化の意味だが、要は、日本以外の国家や民族が、日本の天皇のもとに統一されることがあるべき姿として想定され、それに服従しない勢力については、それをすべて取り除くとされているわけである。
 それは当然、皇化の対象となる他国や他民族にとっては、自分たちが侵略されることを意味する。ところが、『八紘一宇の精神』は、これに続けて、「それは外国の覇道主義の国家に見られる如く、他国を領有しようとする侵略的思想とは、霄壌(しようじよう)の差をなすものであつて」、「各国家・各民族をして道義的・平和的世界を実現せしめる創造の道を示したものである」とされている。「霄壌の差」とは、天と地ほどの差があるという意味である。
 ここでは、八紘一宇が、外国の覇道主義にもとづく侵略的な思想とはまったく異なるものであることが強調されている。しかしそれは、世界を統一しようとする日本に対して敵対する勢力を排除するという意味を含んでおり、恐ろしいほどの自国中心主義であるとも言える。少なくとも、他の国家や民族が到底受け入れられない考え方である。ところが、この時代、日本の権力の中枢部は、こうした小冊子を発行することで、侵略戦争を正当化しようとしたのである。
 しかも、最後の「むすび」の部分では、「『八紘一宇』の御旗の下に蹶起(けつき)せよ」というアジテーションが行われ、「起て!国力総動員のために!/翻へせ! 八紘一宇の御旗!」ということばで結ばれていたのだった。
 「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」が唱えた「一つの家」には、「天皇の徳により教化された」という前提があり、「それに服従しない勢力については、それをすべて取り除く」ことになります。それは「各国家・各民族をして道義的・平和的世界を実現せしめる」ためであるから、覇道主義にもとづく侵略的な思想ではないと主張しています。
 三原議員は、「国民のことを第一にお思い、常に共にあろうとなされる天皇のお心」を称賛し、「神武天皇がお示しになった八紘一宇の理念の下に世界が一つの家族のようにむつみ合い助け合えるように」しようと提案していますが、これは「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」の主張と重なる部分が多くあるように思えます。

異民族支配と日中戦争を正当化
 「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」が刊行されるまでの、対外関係を中心とした歴史の流れをまとまると次のようになります。
1894/7〜1895/4 日清戦争
1895/4/17 下関条約で台湾割譲
1904/2〜1905/9 日露戦争
1910/8/29 韓国併合
1931/9/18 満州事変
1932/3/1 満洲国独立宣言
1932/5/15 五・一五事件
1933/3/27 国際連盟脱退を通告
1935/8/3 国体明徴声明
1936/2/26 二・二六事件
1937/7/7 盧溝橋事件
1937/8/13 第2次上海事変
1937/9/23 第2次国共合作
1037/12/13 南京陥落
  日本は、日清戦争で台湾を獲得し、日露戦争で朝鮮への支配を確立し韓国を併合します。さらに、満州事変を経て、満洲に傀儡国家を成立させました。
 国内では、五・一五事件と二・二六事件という軍部によるクーデター未遂が続きます。一方、満州事変は日本の行為は侵略であると認定したリットン調査団報告書に不満を表明した日本は国際連盟を脱退します。さらに、天皇機関説を排撃する国体明徴声明も出ます。このように1930年代は、国粋主義による暴力支配が一段と強化されます。
 盧溝橋事件の武力衝突は、第2次上海事変に拡大し、さらに第2次国共合作も成立し、日中は全面戦争に突入します。
 そのような時期に刊行された「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」は、台湾、朝鮮、満洲での異民族支配と日中戦争を正当化するのが目的であったことが伺えます。

「世界統一」のルーツは、江戸時代の国学に
 「八紘一宇」という言葉を最初に使ったのは、田中智学(1861〜1939)で、「旬刊の『国柱新聞』大正2(1913)年3月11日付で、初めて八紘一宇ということばを造語した」(30ページ)ということです。
 智学は、熱心な日蓮宗信者で、国柱会を組織します。国柱会は国家主義的な宗教団体で、宮沢賢治や石原莞爾も会員でした。現在でも活動を続けていますが、国柱会のサイトを見る限りでは、国家主義的な主張はしていないようです。
 智学は、大正11(1922)年に刊行した「日本国体の研究」で、「悪侵略的世界統一」と区別される「道義的世界統一」について、次のように述べています。
世界人類を還元し整一する目安として忠孝を世界的に宣伝する、あらゆる片々道学を一蹴して、人類を忠孝化する使命が日本国民の天職である、その源頭は堂々たる人類一如の正観から発して光輝燦爛たる大文明である、これで行り遂げようといふ世界統一だ、故に之を「八紘一宇」と宣言されて、忠孝の拡充を予想されての結論が、世界は一つ家だといふ意義に帰する、所謂「忠孝の延長」である、忠孝を一人一家の道徳だと解して居るうちは、忠も孝も根本的意義を為さない、「根なし草」の水に浮べる風情である、忠孝を以て人生の根本義とするところに日本建国の性命はある。
 著者は、この忠孝の意味について、次のように説明しています(29〜30ページ)。
 忠は、家臣、臣下が主君に対して忠実であることを意味する儒教的な道徳観念で、ここでは天皇に対する忠が想定されている。孝は、父母に対して仕えることを意味し、忠孝は、日本人の道徳のもっとも重要な基盤とされてきた。そこから田中は、悪侵略的ではない、道義的な世界統一という考え方を導き出しているわけである。この論理は、すでに見た『八紘一宇の精神』と共通している。日本には八紘一宇の精神に従って、世界を統一する義務があるが、それは忠孝といった道徳的な意義にもとづくものであるから、悪侵略的世界統一にはあたらないというのである。
 この「道義的世界統一」という考えは智学のオリジナルではなく、江戸時代にルーツがあるという、次のような指摘があります(日本人が知らない、「八紘一宇」の本当の意味)。
神武天皇が道義にもとづいて打ち立てた日本は、道義的世界統一を行う使命がある──。「道義的」は後期水戸学(『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』第2章)に通じ、「世界統一」は国学(同書・第4章)に通じるものがある。
 
神武天皇が述べた「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい東征ののちは平和的に日本を統治しようというていどの意味だったと考えられる。それがまさか、世界統一の話になろうとは。『日本書紀』の編者たちが知ったら驚くにちがいない。
 天皇による世界の統一という発想は、本居宣長に遡ることができ、智学の独創性は、これを橿原奠都の詔と結びつけ、「八紘一宇」という熟語を作ったことにある、という指摘もあります(十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策―― いわゆる「皇国史観」の問題を中心として――)。
 ただし、天皇による世界の統一という発想自体は智学の独創ではなく、近世の平田国学の流れにおいてすでに見られるものである。たとえば平田篤胤は、世界各地のあらゆる神話や伝承はすべて日本の古伝の訛伝だとする汎神道主義を展開し、そのことから日本の絶対的優越性を主張するとともに、将来においては全世界の国々が「皇国」日本にひれ伏すであろうことを説いている。また、篤胤の影響を強く受けた佐藤信淵(1769–1850)は、『混同秘策』(文政6年=1823年)において、「皇大御国〔日本〕ハ大地ノ最初ニ成レル国ニシテ世界万国ノ根本」であるから、「全世界ヲ悉ク群県ト為スベク、万国ノ君長皆臣僕ト為スベシ」として、世界征服のための詳細な計画を展開している。この思想は中国に対する対抗意識と欧米諸国のアジア進出に対する危機感を背景にしているわけであるが、これをさらに遡れば、「まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくたゞ一すぢなり。然るに此道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失へり」(『玉くしげ』、寛政2年=1790年刊行)と「皇国の道」の普遍性を説いた本居宣長に行き着くことになる。智学の独創性は、このような思想を『日本書紀』の神武天皇紀、特に橿原奠都の詔と結びつけ、「八紘一宇」という熟語を作ったことに求められる。
 そもそも橿原奠都の詔は、『日本書紀』本来の文脈においては単に橿原の地に都を築くという宣言にすぎないし、その中の「掩八紘而為宇」にしても、智学以前には特に「世界統一」を意味するものとは解されていなかった。たとえば、いわゆる「和協の詔勅」(1893年2月10日)の冒頭には、「古者皇祖国ヲ肇ムルノ初ニ当リ六合ヲ兼ネ八紘ヲ掩フノ詔アリ」と橿原奠都の詔が引用されている。しかしこれは、文脈からも、また詔勅の性格からしても、日本国内における「和協」を求めるために引用されたものであって、決して世界統一を意味するものとして引用されたものではないと考えられる。

「国性芸術」に多彩な才能を発揮
 本書の記述を参考に、田中智学の生涯をまとめると次のようになります。智学は、10歳で寺に入り、日蓮宗の僧侶となりますが、19歳で還俗し、以降は終生にわたり、在家信者として宗教活動を続けます。智学は、弁舌のみならず、作詞、作曲、脚本などに多彩な才能を発揮し、「国性芸術」という芸術運動を展開します。
1861 江戸に生まれ、10歳で日蓮宗の寺に入門し、19歳で還俗し、在家信者となる
1881 日蓮仏教の研究会「蓮華会」を設立
1885 立正安国会を設立。当初の活動は貸席での演説会が中心
1887 仏教史上初の仏前結婚式「本化成婚式」制定
1892 行進曲や長唄の作詞作曲
1902 独自の教義体系「本化妙宗式目」を完成。日蓮の「三大秘法抄」を根拠に、「法国冥合(ほうこくみょうごう)」を強調し、法華経の教えによる世界の統合を最終的な目標に定める
1910 大逆事件に危機感を抱き、国体擁護を強調するようになる
1913 八紘一宇を造語
1914 立正安国会を国柱会に改称
1920 日刊『天業民報』創刊。宮沢賢治入会
1921 日蓮劇「佐渡」の脚本を書く
1922 「日本国体の研究」を刊行
1939 死去

日蓮の教えを忠実に実践
 智学は、20代で立正安国会を立ち上げ、40歳を過ぎて、立正安国会を国柱会に改称します。著者は、智学の宗教活動について、次のように説明しています(51〜52ページ)。日蓮の信仰の特徴は、法華経を最重視し、個人の救済よりも社会変革に力点を置くことにありましたが、智学の宗教活動は、日蓮の教えを忠実に実践することが目標となっています。
 日本仏教の各宗派において、僧侶と俗信徒との距離がもっとも近いのが浄土真宗の場合である。浄土真宗では、阿弥陀仏の絶対性が強調され、信徒であれば誰もが唱えることができる念仏の実践に中心がおかれているために、僧侶に対して特別な地位は与えられていない。そもそも浄土真宗の僧侶は出家ではないのである。
 それに次いで距離が近いのが日蓮宗の場合である。開祖の日蓮は、天台宗において出家得度した僧侶であり、生涯その立場を貫いた。ただし、日蓮がもっとも関心を注いだのは、法華経にこそ釈迦の真実の教えが示されていることを明らかにし、それを否定する他の信仰が社会にはびこるのを阻止することであった。
 したがって、日蓮は再三、彼の立場からは誤った仏法である「謗法(ほうぼう)」の取り締まりを為政者に求めた。日蓮は、個人の救済ということには関心を向けず、現実の社会のあり方を変えることに活動の中心をおいた。そのため他の宗派とは異なり、日蓮宗の僧侶は、本来は日蓮のように社会を変えることに奔走しなければならないのである。
 ところが、日蓮没後の日蓮宗の宗門は、次第に体制化し、日蓮が行った国家を諌(いさ)める活動をしなくなる。教学の面でも、すでに述べたように、開祖の教えを学ぶのではなく、天台教学に回帰していった。智学が還俗したのも、そうした宗門のあり方に満足できなかったからで、国柱会の運動は、日蓮の本来の主張に立ち返ることを目的としたものであった。
 智学が、自らの立ち上げた組織を、最初立正安国会と称したのも、法然(ほうねん)の浄土教信仰を中心とした謗法の勢力を駆逐することを鎌倉幕府に進言した日蓮の『立正安国論』の精神に回帰しようとしてのことである。
 そして、国柱会と改称したのは、日蓮が佐渡流罪中に記した『開目抄』にある「我れ日本の柱とならん」ということばに由来する。これは、「三大誓願」と呼ばれるもので、全体は、「我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん」というものである。
 日蓮は、単に仏法の世界を深めていくことだけに関心をむけるのではなく、常に現実の社会、現実の日本社会のあり方ということを問題にした。智学は、その日蓮の精神を受け継ぎ、それを現実化していくために、立正安国会や国柱会の運動を推し進めたわけである。

『国体の本義』が天皇を神格化
 智学は、1910年の大逆事件に危機感を抱き、国体擁護を強調するようになりますが、著者は国体について次の様に述べています (32〜33ページ)。
 国体とは、天皇を中心とした政治的な秩序のことを意味するが、単に日本の政体を客観的に説明するものにとどまらず、特別な価値を与えられていった。
 国体ということばを使いはじめたのは、幕末の尊皇攘夷の思想を先導した水戸学においてで、水戸藩士の会沢正志斎(あいざわせいしさい)が、その著書『新論』の冒頭に国体の章を設けたのが最初だった。会沢は、日本を「神州」と呼んで特別な価値のある国とし、その神州としての日本の政体を、天皇を中心とした国体ととらえたのである。
 明治に入ると、国体ということばは盛んに用いられるようになり、明治2(1889)年に公布された大日本帝国憲法や、その翌年に発布された教育勅語においては、天皇の「大権」を中心とした国体が絶対的な価値を有するものとして強調されるようになる。大日本帝国憲法には、国体の語は登場しないが、教育勅語には、「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝二億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ」とあり、国体の神聖性が強調されていた。
 そして、大正11(1925)年に制定された治安維持法第1条に、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者八十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と規定され、国体の変革をめざす組織を結成することは犯罪として取り締まりの対象になった。
 この法律が昭和3(1928)年に改正された際には、厳罰化が進められ、国体を変革しょうとする者に対しては、「死刑又ハ無期若(もしく)ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」が科せられることになり、最高刑は死刑と定まった。
 そして、昭和12年には、文部省が『国体の本義』(国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開)という書物を刊行し、国体の神聖性を強調するようになる。そこでは、「万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」ことこそが、「我が万古不易の国体である」と規定された。天皇については、「外国の所謂(いわゆる)元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(あきつかみ)」である点が強調された。現御神は現人神(あらひとがみ)とも呼ばれるが、天皇を神と等しい存在とするとらえ方は、この『国体の本義』が広めたものである。それまでは、現人神としての天皇という観念はそれほど国民のあいだに広まってはいなかった。

儒学と国学が合体、後期水戸学に
 国体ということばを使いはじめたのは、後期水戸学の儒学者の会沢正志斎ということですが、荻生徂徠や本居宣長も使っていたということです(近代国体論の誕生)。水戸学が明治以降の国体概念に影響を与えたものと考えられますが、教育勅語との関連を指摘する意見もあります(教育勅語の徳目「忠孝」をめぐる教育史的流布説の再考察 )。
 江戸時代には、水戸光圀等による前期水戸学をはじめとして、儒学、特に朱子学が武士の知識層に広がってゆきます。幕末長州藩の思想 を参考に、その大まかな流れを以下にまとめてみました。
山崎闇斎 1618〜
1682
垂加神道。朱子学によって日本神話の神聖性を根拠づけ強調。忠誠の対象は天照大神・天皇。前期水戸学に影響を及ぼす
山鹿素行 1622〜
1685
天子は神武天皇であり、易姓革命がなく皇統連綿の日本こそが中国よりも優れた「中華」である
新井白石 1657〜
1725
記紀神話を合理主義的に解釈し脱神話化、天子は徳川将軍、天皇は武家政権のために擁立
山県大弐 1725〜
1767
幕府の腐敗を批判し、古代の天皇政治を評価、革命的な尊皇思想を説く。幕府への不敬で死刑
 江戸初期の儒学者である山崎闇斎や山鹿素行の尊皇思想には、天皇の存在により幕藩体制を権威付けようとする意図があり、倒幕と結びつくものではありませんでした。ただし、山崎闇斎の門流の山県大弐は、幕府への不敬という理由で死刑となっています。一方、新井白石の合理主義は他の儒学者の尊皇思想とは異質なようです。

 江戸時代中期以降、国学が盛んになります。国学は、古事記や万葉集など古代の文献の訓注釈を行う学問分野ですが、歴史や神道など思想分野も含みます。
 荷田春満 (かだのあずままろ) 、賀茂真淵 (かものまぶち) 、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)が四大人(したいじん)と呼ばれています。
荷田春満 1669〜
1736
伏見稲荷神社の神官の次男、万葉集など古典を研究、復古神道を提唱
賀茂真淵 1697〜
1769
万葉集を中心に古典を研究、古道の復活を主張
本居宣長 1730〜
1801
医者、源氏物語を研究、35年を費やし古事記伝を完成、古道の復活を主張
平田篤胤 1776〜
1843
儒教色や仏教色を排除した復古神道を樹立、尊王攘夷論に影響を与える
 春満と真淵は、いずれも神官の家に生まれ、歌人でもあります。万葉集は和歌の源流であり、日本独自の文学の原点ともいえます。その意味で、万葉集の研究は文学を通じたナショナリズムの目覚めであるともいえます。また、仏教や儒教の影響を受ける前の神道を復活させるという復古神道の提唱も同様の趣旨だと考えられます。
 この流れは、宣長によって加速され、篤胤によって完成されます。
 宣長は、当時は資料としてはほとんど重んじられなかった古事記に注目し、35年かけて膨大な注釈書である古事記伝を完成します。
 宣長は、次のように古事記に描かれた古代社会を理想視します( 幕末長州藩の思想)。日本は「万世一系」で「皇統連綿」であり、易姓革命がないから、中国よりも優れているというのは、山鹿素行の尊皇思想を継承しているともいえます。しかし、儒学的な思考を全面的に否定し、理性主義を排除するという、宣長のナショナリズムは、排外的攻撃的な攘夷論に転化する危険性もはらんでいます。
 宣長は、古代において尊皇的な理想的社会が実際にあり、現在も実現可能であるという根拠を、いわゆる「万世一系」「皇統連綿」という「事実」に求める。つまり「天壌無窮の神勅」が現実化して事実としてあることが「神勅」の真実性を証明し、神話の神々が現在も実在しているということを証明しているとする。そして「皇統連綿」という天皇の血筋が持続しているということ自体が、外国の様々な「道」よりも優れている「徴」(証拠)だというのである。この思想は、山鹿素行で見たように、日本独自ではなく易姓革命論の応用とでもいえる考えであろう。
  ……
 しかし宣長は儒学からその思想の根幹部分を受け継ぎつつも、儒学(特に朱子学)を厳しく批判する。宣長によれば、善悪を厳しく説く儒学の教えは「さかしら」であり、偽りである。政権を奪うためのあるいは権力を維持するための手段にすぎない。宣長は儒学に、本来は不可知・不可測である神々の働きを知(理)で捉えたとする傲慢さを見ている。認識批判的な理論として評価できる面もあるにせよ、儒学的な思考を全面的に「漢意(からごころ)」として否定し、排除しようとする自己欺瞞に陥っている。古代の理想社会が崩れた原因を、主に儒学・仏教という「外来思想」の影響に見るのである。そして日本人が本来の穏やかで平和な社会を取り戻すためには、「漢意」を取り除かなければならないとする。ここに、「日本」をそれとして価値的に枠取り理想化し、「攘夷」を根拠づける思想が誕生したともいえよう。しかし宣長の場合、具体的な攘夷が念頭にあったわけではない。宣長の「攘夷」は、存在の根源や倫理を考える際に、理知を先立て、理知によってすべてが解決されるとする理性主義(設計主義)の排除なのである。
 篤胤は、宣長の「死後の門人」ということですが、宣長の霊魂観について次のように反発しています(幕末長州藩の思想)。篤胤の霊魂観を突き詰めれば、天皇の為に命を捧げ戦死すれば、神として祭られるという、靖国信仰にもつながることになります。篤胤の復古神道を継承する門人らは、平田派として幕末神道界の中心的役割を担うことになり、明治維新の神道思想にも影響を及ぼして行くことになります(歴史は何のために学ぶのか(幕末の国学から考える)―わたしたちの教育のルーツを辿る(16))。
 宣長は、善人も悪人も区別なく、死後は汚穢く悪しき世界である「黄泉国」へ行くと説く。その根拠としたのは『古事記』神話の記述である。『古事記』で、イザナミは死んだ後「黄泉国」に行ったと語られている。後を追ってきたイザナキは、宮殿の中でイザナミの腐乱死体を目撃する。ウジ虫がびっしりとたかって音を立てている(「うじたかれころろきて」いる)姿であった。驚き逃げ帰ったイザナキはその国を「いなしこめしこめき穢き国」と表現する。この神話が語るように、死は死後に「穢き国」に行くしかない故に、「せんかたなき」、悲しむしかないことであると宣長は言う。
 篤胤は、この善人と悪人を区別しない、悲しむしかないという死後の霊魂観に反発し、「善人が報われる」(死後の幸福を保証する)独自の霊魂観を説くのである。しかし論述は霊魂観にとどまらなかった。篤胤が『霊能真柱』(たまのみはしら、一八一三)などで説いたのは、霊魂論、対外認識、コスモロジー(世界生成論)、神道論(復古神道)と、それらに基づく過激な尊皇攘夷思想であった。
  ……
 現世では、「天皇命」の「御民」として、天皇に尽くして人々のために働き、死後は「幽冥界」赴いて「その「霊魂やがて神」となって、「大国主の神」の支配下に入り、その賞罰を受けつつ、優れた善き霊魂は「神代の神」と同様の善神(世を「幸(さちふ)神」、「功績(いさを)しき神」)となって人々のために働き続ける。神となった霊魂は、祭られて「祠」あるいは「墓の上」に留まり続けるが、適宜移動して活動する。一方、悪しき霊魂は死後罰を受ける。あるいは邪神「疫病の神」、「疱瘡(もがき)の神」など)になるという。篤胤の霊魂観は、優れた善なる霊魂がその報いとして神代の神々と同列の神となり、永遠の命を得るという救済論としての意味があった。
  ……
 篤胤の神道は復古神道と呼ばれる。それまで一般的であった神仏習合的な神道に代わって、仏教・儒学移入以前の神道を、神話的な世界生成論とともに復活させようとしたからである。現在では、篤胤の神道は決して古代の神道とはいえないことは明らかになっているが、幕末の神道思想や政治思想への影響は大きかった。

 水戸学は、水戸藩第2代藩主の徳川光圀(1628〜1700)の大日本史編纂事業に端を発した思想体系ですが、朱子学を基盤に、神道や国学も取り入れ、尊王思想を強調するという特徴があります(弘前図書館、皇朝史略)。ただし、次のように、光圀は天皇を天照大神の子孫とは見ていなかったという指摘もあります(水戸学の思想と教育)。
 一六五七(明暦三)年に着手された『大日本史』は司馬遷の『史記』を範とする紀伝体の歴史書で、歴史のなかから道徳の鑑を読みとろうとするのが編纂の目的であった。その道徳の基準となるのは儒教的な名分論、それによって歴史上の人物に評価をくだそうとしていたのである。しかし、天皇は名分論的な評価を超えた存在とされて、神武から後小松天皇までの一〇〇代の天皇が支配者をあつかう「本紀」にとりあげられた。それでも、天皇を天照大神の子孫とは見ない。光圀は、記紀の神代はとりとめがないものであり、初代天皇・神武の前に天照大神などの神々の系譜を掲載するべきではないと考えていた。
 大日本史編纂事業は、光圀の没後50年間ほど中断しますが、18世紀後半になって再開されます。再開された編纂事業を担当した学者が展開したのが後期水戸学と呼ばれる思想体系です。これに対して光圀の時代の水戸学は前期水戸学と呼ばれています。
 18世紀後半は、農村荒廃や蝦夷地でのロシア船の出没など、内憂外患の危機感が強まっていました(後期水戸学における攘夷思想の形成)。
 後期水戸学の代表的学者は、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖の3人です。 会沢正志斎は藤田幽谷の弟子で、藤田東湖は藤田幽谷の息子です。会沢正志斎は、第8代藩主徳川斉脩(1797〜1829)の継嗣問題では、第9代藩主の徳川斉昭(1800〜1860)擁立に尽力し、藤田東湖と共に、斉昭の藩政改革の推進を補佐します。
藤田幽谷 1774〜
1826
『正名論(1789)』封建体制の秩序を強化する手段として尊王論を説く。攘夷論よりむしろ尊王論の方を重視
会沢正志斎 1782〜
1863
新論(1825)』国学の影響を受け、神州日本を世界の中心とし、天皇信仰により幕藩体制を再強化し、一丸となった民衆による夷狄撃攘を訴える
藤田東湖 1806〜
1855
『弘道館記述義(1849)』弘道館記(藩校弘道館の設立趣意文、515文字)を解説
 水戸学と吉田松陰を参考に、3人の著作について、以下にまとめてみました。
 藤田幽谷の『正名論』については、次のように説明しています。
 易姓革命がなかった日本は中国より優れているという論理は、山鹿素行の主張と通じるところがあります。そして、綿々と続く天皇へ忠誠を尽くすことにより幕府の支配が正当化され、そんな幕府に忠誠を尽くすことにより諸大名の支配が正当化されるという構図となります。つまり、尊王論が幕藩体制の強化に役立っています。
中国の歴史において、暴君の桀・紂が有徳の湯・武に覆されたという易姓革命を論ずる一方で、日本の歴史に論及すると、中国の易姓革命を賞賛する論理が一転し……
神話に依拠して日本建国の源流を論じながら、古昔から今日に至るまで日本の皇統が綿々として続いてきたため、中国のような易姓革命が日本には存しないことを強調することによって、日本より君臣の義を十全に固守し、実現する国はないと力説……
幕府が天皇に忠誠を尽くせば、おのずから諸大名は幕府に随順し、また、諸大名が幕府に忠義を尺くせば、おのずから家臣は藩主に服従する、という封建体制の秩序を強化する思想を説いている。……
彼の思想においては、前述の 「正名論」 からもみられるように攘夷論よりむしろ尊王論の方が重視され、より多く論じられているのである。
 会沢正志斎の『新論』については、次のように説明しています。天照神話から世界を統括する神州日本という観念を導くとともに、儒学の華夷思想から西洋を夷狄と見なし卑しめています。また、天皇の祭祀と忠孝精神を合体させています。つまり、儒学に国学を取り入れ、天皇信仰により幕藩体制を再強化し、邪説に惑われずに一丸となった民衆により攘夷を成し遂げようとしていると言えそうです。外国の脅威にいかに対抗するかが執筆の動機だったようです(「国体論」の形成と展開)。ただし、正志斎は宣長の古道論には、批判的だったようです(会沢正志斎の国学観)。
神州日本は太陽が昇るところでもあり、気の始動するところでもある。天照大神の血統を受け継ぐ天皇は世々天子の位に居り、これはずっと変わらぬことである。神州日本は世界の中心であり、万国を統括するものである。神州日本は(太陽のように)世界を照らし、日本の徳風が距離の遠近を問わずすべてのところに及ぶ。……
正志斎は儒学の華夷思想に基づき、日本を世界の中心としての神州と位置づけ、西洋諸国を夷狄と見なして卑しめる、という上下関係の理論を展開しているのである。……
天照大神は忠・孝を以て建国した。そして、天孫は天祖の偉業を偲ぶ祭祀を通して天祖の恩に稚いることができると指摘されている。天皇は祭祀によって天にいる天祖に孝行をすることができる。人民は天皇に学んで自らの祖先を祭祀することによって孝行ができるにとどまらず、さらに祖先の有していた天皇に忠義を尽くすという遺志を継受することによって当然、孝行の一環としても天皇に忠誠を尺くさなければならない。……
正志斎は、天皇が行う祭祀を通して民衆の宗教的な信仰をもたらし、忠孝の道徳理念を「信」の段階まで高めることによって、対内的には民心を統合して幕藩体制を再強化し、対外的には一丸となった民衆が邪説に惑われずに同じく敵愾心を燃やして夷狄を撃攘するとの目的を達成しようとする、という論理を築き上げたといえよう。
 藤田東湖の『弘道館記述義』については、次のように説明しています。
しかし、注意すべきは、正志斎が道の根源を「天地」 にもとめるのに対して、「弘道館記述義」 に 「神代は邈たりといへども、古典の載するところ、彰明較著、また疑ふべからず。所謂「その実はすなはち天神に原づく」とは、それ然らずや」(今井宇三郎・瀬谷義彦・尾藤正英校注『水戸学』 (日本思想大系53)、岩波書店、一九七六年、二六〇頁) と明記するように、東湖は道の源泉を「神」 にもとめるという箇所がみられる、ということである。それにもかかわらず、後のところに 「蓋し天地あれば、すなはち天地の道あり、人あれば、すなはち人の道あり。天神は生民の本にして、天地は万物の始めなり。然らばすなはち生民の道は、天地に原づき、天神に本づくや、また明かなり」 (前掲讃、二六一頁) と、天地と天神とを生民の道の根源ととらえている。この箇所における天地と神を道の根源と見なすことは前の解釈とは矛盾しているといわぎるをえない。何故に東湖はこうした矛盾を犯したかといえば、おそらくそれは、如何に東湖が国学に傾いたといっても、そもそも彼は全面的に国学に賛同するのではないし、また彼の思想の背景には儒学の影響があり、さらに当時の水戸藩改革の指導方針の一つが神儒一致なので国学一辺倒の論調はその方針に反するからであろう。
 弘道館は、1841年に水戸藩第9代藩主・徳川斉昭によって創設された藩校です。弘道館記は、515文字で記された漢文の設立趣意文で、1838年に斉昭の命により東湖が起草しました。弘道館記述義は、弘道館記の詳細な解説書で、 1847年に東湖がまとめました。
 東湖は、道の根源を「神」 にもとめていますが、これは神道・国学の考え方です。一方、別の箇所では、天神とともに天地も道の根源ととらえています。天地が道の根源であるとするのは、儒学の考え方です。
 弘道館記には、「敬神崇儒=神州の道を奉じ、西土の教を資り」と明記されていますから(弘道館記碑の沿革)、東湖の本心が、国学に傾いていたとしても、儒学を無視することはできなかったものと思われます。
 吉田松陰(1830〜59)は、1851年に水戸を訪れ、会沢正志斎の教えを請い、その尊王攘夷思想に大きな影響を受けています。長州藩学明倫館の学頭であった山県太華は、次のように、松陰の尊王論に反論しています。水戸学の尊王攘夷論の目的は、幕藩体制を強化することにありましたが、尊王論を突き詰めると倒幕論に転じる可能性もあります。太華は、それを危惧していたものと思われます。
太華は水戸学が国学と儒学を混合する学問のようにみえると考え、とくに水戸学の尊王論が王室尊崇を唱道するものなので、その学問が徳川幕府の存在を脅威するものになりうると危惧している。……
 先述したように、水戸学は為政者の立場で尊王攘夷の論理を展開し、その目的は民心を統合して幕藩体制の封建秩序を強化することである。しかし、水戸学の尊王論には幕府の存立を脅かすという論述がみられないとはいえ、その尊王論をよみかえることによって幕府を覆す言論になることは十分可能である。……
松陰は孟子の革命思想を摂取し、儒学の天命を「天朝の命」 に置き換えることによって、「天朝の命」を奉ずるという「大義」 のもとで征夷大将軍としての職費を果たせない幕府を討伐することがはじめて許容されると考えている。こうした松陰の論述はすでに幕府を擁護する水戸学の立場を超越し、新たな改革の境地に到達したといえよう。……
 松陰が論ずる 「天日の嗣永く天壌と無窮なるものにて、此の大八州は天日の開き給へる所」 に対して、太華は 「これ(引用者注‥天日) を以て独り我が一国の祖宗と云ふこと、極めて大怪事なり」 (『全集』第三巻、四四五頁) と反論し、こうした議論の源流を「神道者叉は国学者流、近世水府一流の学者などの主張する所」 (『全集』第三巻、四四五頁) と考え、とくに日本の建国神話について 「邦人上古のことをいふに、奇怪の説多し。洪荒の世は文字の伝なく、唯だ人の言を以て伝へたるばかりにて、其の事詳かならず。是れを以て怪異信じがたきの説多きなり。存して是れを論ぜずして可なり」 (『全集』第三巻、四四六〜四四七頁) とその合理性に疑問を感じ、神話に依拠して論ずべきではないと主張している。つまり、太華は日本の建国神話を論拠とする松陰の姿勢に極めて批判的である。
 以上のように、後期水戸学は儒学と国学が合体したの思想です。そして、明治以降の教育勅語や「国体の本義」などの国粋主義的支配理念に大きな影響を及ぼしたとも考えられます。

尊王攘夷の旗頭、徳川斉昭
 水戸学と尊王攘夷論の展開に、第9代藩主徳川斉昭が大きな影響を及ぼしています。徳川斉昭|ジャパンナレッジ天狗党の乱|ジャパンナレッジを参考に、徳川斉昭の生涯を年表にまとめてみました。
1800 徳川斉昭、江戸に生まれる
1829 斉昭が襲封し水戸藩第9代藩主となる。藩政改革に着手、門閥派を排除し、下士層を抜擢・登用する。改革の骨子は、藩校弘道館の建設、武備の充実、全領検地、神道興隆
1844 斉昭は突然失脚。幕府に、退隠、謹慎を命じられ、家督は13歳の長子慶篤が継ぎ、支藩の高松・守山・府中各藩主が後見(背景に門閥派と改革派の対立、そして寺社改革への反発が指摘されています
1849 再び斉昭の藩政関与が許される
1851 脱藩した吉田松陰が水戸の会沢正志斎を訪ねる
1853 ペリー来航後、斉昭は海防問題の幕政参与に任ぜられる
1854 松陰が密航を試み失敗する
1855 斉昭は政務参与も命ぜられる
1857 開国派の老中首座堀田正睦と対立した斉昭は、海防と政務の参与を辞任。将軍家定の継嗣問題で、斉昭は松平慶永らと連携し、一橋慶喜を推し(一橋派)、徳川慶福を推す井伊直弼ら(南紀派)と対立
松陰が松下村塾を継ぐ
1858 4月、井伊直弼が大老に就任
6月、直弼は、勅許のないまま、日米修好通商条約の調印が強行。これに対し、一橋派の斉昭や慶永は不時登城して、勅許を得ずに調印した直弼を難詰。その直後、将軍継嗣が紀伊家の慶福に決定
7月、直弼は、不時登城を理由に、一橋派の斉昭や慶永らに、隠居や謹慎を命じる。島津斉彬は、卒兵上京の計画中に急死
8月、朝廷が、水戸藩に「戊午の密勅」を下す。これに対し、直弼は戊午の密勅問題で、反対派の大弾圧を始める(安政の大獄)。水戸藩の尊王攘夷派は、幕府と対立しても主張を貫こうとする激派と、幕府との衝突を回避しようとする鎮派に分裂
1859 吉田松陰が刑死
1860 3月、激派の水戸藩士が井伊大老を暗殺(桜田門外の変)
8月、斉昭が死去
 部屋住み時代の徳川斉昭には、会沢正志斎が侍読となり、儒教に基づく倫理・政治を教えます。先代藩主・斉脩の後継者選びでは、藩政を握る保守門閥派は、11代将軍・家斉の男子を養子に迎えようとしますが、藤田東湖らの改革派は、斉昭を推します。藩主となった斉昭は、藤田東湖、会沢正志斎などの改革派の藩士たちを要職に抜擢し、藩政改革に着手します(明治維新に影響を与えた? 「水戸学」をつくり上げた徳川斉昭の生い立ち)。
 1844年に斉昭は突然、失脚しますが、その背景には門閥派と改革派の対立や寺社改革への反発があったと指摘されています。維新政府の廃仏毀釈は知られていますが、水戸藩は、江戸時代を通じて2回にわたり廃仏毀釈を実施しています(水戸藩の撞鐘徴収政策)。神仏分離は、津和野藩や長州藩でも行われたそうです(幕末長州藩における神仏分離の展開 - 山口県文書館)。なお、明治の廃仏毀釈は10年足らずで終了しています(廃仏毀釈について)。
 斉昭は隠居させられ、13歳の長子慶篤が家督を相続しますが、支藩の高松・守山・府中各藩主が後見し、門閥派が藩の実権を握ります。1849年、後見は解除され、斉昭の藩政関与が許され、改革派が復権します。
 斉昭は、1853年、海防問題の幕政参与に任ぜられ、1855年には政務参与も命ぜられます。しかし、1857年に開国派の老中首座堀田正睦と対立し海防と政務の参与を辞任します。
 このころ、将軍家定の継嗣問題で、斉昭は松平慶永らと連携し、一橋慶喜を推し(一橋派)、徳川慶福を推す井伊直弼ら(南紀派)と対立します。一方、アメリカ総領事ハリスとの通商条約交渉は大詰めを迎えます。将軍継嗣と条約調印をめぐって、一橋派と南紀派の対立が熱を帯びます。
 1858年、老中堀田正睦が上京し、条約の勅許を求めますが、朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下します。しかし、大老に就任した井伊直弼は勅許のないまま条約に調印します。これに関しては「直弼はあくまで勅許を得るまで調印延期を主張しましたが、最終的には交渉当事者の下田奉行井上清直らに交渉が行き詰まったときは調印やむなし、との言質を与えました。結局、翌19日に日米修好通商条約は調印されました」という説もあります(日米修好通商条約調印 徳川齊昭 茨城歴史事典)。
 斉昭や慶永ら一橋派の諸大名は登城して、勅許を得ずに調印した直弼を難詰しましたが、それに対抗するように、直弼は将軍継嗣を紀伊家の慶福に決定します。さらに、直弼は不時登城を理由に一橋派の諸大名に隠居や謹慎などの処分を下します。これに対して、朝廷からは、無断調印と一橋派の処罰とを責める勅諚(戊午の密勅)が水戸藩に下ります。朝廷が、幕府の頭ごしに、直接諸大名に働きかけるものであり、幕府への挑戦ともいえるものです。直弼はこれに対し、反対派への大弾圧を始めます(安政の大獄)。
 水戸藩の尊王攘夷派は、幕府と対立しても主張を貫こうとする激派と、幕府との衝突を回避しようとする鎮派に分裂し、1860年、激派の脱藩藩士が井伊大老を暗殺します(桜田門外の変)。その後まもなく、斉昭は処分の解けぬまま死去します。結局、斉昭は直弼に敗北し、水戸藩は政治の表舞台から退場します。

尊王攘夷の主役は水戸から長州に 

 戊午の密勅問題では、会沢正志斎は尊皇敬幕の順を守ることを説きます(会沢正志斎が『新論』にこめたビジョンとは?)。少数の激派の過激な行動には、多くの藩士は懐疑的だったといわれており、鎮派からすれば「桜田門外の変は、御三家としての水戸藩の存廃に関わる一大事であり、許されざる事態であった」ということです(幕末水戸藩尊攘「激派」と「鎮派」の政治行動)。
 斉昭の幕政改革には、門閥派の抵抗がありましたが、弘道館の運営についても同様の状況で、1941年の斉昭失脚後は門閥派が実権を握ります。1949年の斉昭復権後は改革派=尊王攘夷派が巻き返しますが、次のように(水戸学の思想と教育)戊午の密勅問題をめぐり、尊王攘夷派が分裂し、激派は弘道館の学外の郷校に行動の場を求め、農民有志らと連携するようになります。一方、学内に残った鎮派は門閥派と連携し、両派の間で抗争が始まります。その後、激派は蜂起したものの四分五裂し壊滅します。 
……安政の大獄の最大の狙いは水戸藩を中心とする尊攘派の勢力の弾圧にあった。
 この幕府による水戸藩尊攘派にたいする弾圧が尊攘派の志士を過激な行動に走らせることになる。皮肉なことだが、弘道館は学問事業一致の実験場となった。いまは「学問」よりも「事業」、弘道館の一部学生は学外に出て尊攘激派の藩士それに同調する農民有志と連帯する。この激派=天狗党の活動拠点となったのは、藩の各地に設立されていた郷校であった。それにたいして、教授頭取の会沢は激派学生を客気にはやる行動と批判、その結果、弘道館の尊攘運動は、天狗党とよばれた学外の激派と会沢を領袖とする学内の鎮派に分裂した。諸生党とよばれた学内の鎮派は門閥派とむすびつく。もともと上層武士の教育に比重がおかれた弘道館の諸生 (学生のこと) が門閥派とむすびつくのは自然の勢いであったといえよう。
 一八六四(元治元)年に起こった天狗党の筑波山挙兵に端を発した天狗諸生の乱では、水戸藩は血で血を洗う「喧嘩所」となり、そのため弘道館の教育は中断を余儀なくされた。天狗党の主力が鎮圧され、藩政を押さえた門閥派によって弘道館が再開されたときには、『弘道館記』にもとづく尊攘教育は排され、朱子学によるとの方針が打ちだされもした。
 一方、長州藩は、1861年、長井雅楽の航海遠略策で幕府と朝廷の周旋を始めますが、その後、尊王攘夷派が実権を奪い、急進派公卿らと連携し、朝廷に攘夷論が高まります。これに対し、1863年、孝明天皇の意を受けた薩摩と会津が政変を起こし、長州藩士と急進派公卿らを京都から追放します。1864年、藩主の免罪などを訴え上京した長州藩兵・諸藩浪士軍と会津・薩摩諸藩兵との間に戦闘が勃発し、激戦の末、長州藩兵は敗退します。
 この出兵には、長州の尊王攘夷派の桂小五郎や高杉晋作らは反対・慎重論をとなえ、久坂玄瑞も当初慎重論だったものの、強硬論におしきられたということです(禁門の変(蛤御門の変)|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ)。その後、長州藩では、保守派が実権を奪いますが、1864年末に高杉晋作の功山寺挙兵をきっかけに、尊王攘夷派が実権を奪い返し、1866年の幕長戦争で実質的に勝利します。
 水戸藩校・弘道館は尊王攘夷思想の総本山だったと言われていますが、1841年に徳川斉昭によって創設されたばかりで歴史も浅く、運営方針も二転三転します。尊王攘夷において、水戸藩は一時は運動を主導する立場にありましたが、主役の座は長州藩に奪われた形となります。
 しかし、後期水戸学の尊王攘夷思想は人々の潜在意識に刷り込まれ、大言壮語の夢物語に過ぎなかった「天皇によるアジア支配」が昭和維新により現実化したのではないでしょうか。

智学は清和源氏の末裔?
 著者は次のように述べ、日蓮の熱心な信奉者だった智学が、次第に宗教的な要素を後退させ国家主義に傾倒して行ったと説明しています(58〜59ページ)。
 この八紘一宇ということばは、『日本書紀』から導き出されてきたものではあるが、その背景には、天皇を戴き、法華経によって世界を統合するという智学の本門戒壇論があったのである。
 こうした形で、智学において、日蓮に対する信仰は国体論へと発展していった。日蓮自身の思想のなかでは、天皇という存在は決して重要視されてはいない。ところが、日蓮の生きた鎌倉時代とは異なり、明治の社会において、天皇は最高権力者に祀り上げられた。智学はそれを踏まえ、天皇を「三大秘法抄」で言及された賢王としてとらえたのだった。
 仏教には、釈迦が生まれたとき、将来において悟りを開いて仏陀になるか、それとも、政治権力を掌握して世界を支配する「転輪聖王(じょうおう)」になるか、どちらかだと予言されたという伝説がある。賢王は、この転輪聖王に近い存在であり、智学は両者を重ね合わせてとらえた。そして、天皇こそが転輪聖王であるとしたのである。
 大正の終わりから昭和のはじめの時代になると、智学の活動は、宗教的な要素を後退させもっぱら国体論に傾いていく。それは、戦争の時代に深く入り込んでいった日本社会全体の動向と重なり合うもので、その分、智学の運動は体制化していったのである。
 一方、智学の自伝等によると、智学は清和源氏の末裔ということを誇りとしており、「智学の日蓮主義は、在家講の急進的な日蓮信仰と尊王の家系意識が、神話的なものを介して雑然と同居するような家庭の思想環境に、その淵源を求めることができ」るということです(田中智学における超国家主義の思想形成史)。
しかし智学が受けた父の感化は、日蓮信仰だけではなかった。それは、家系意識からくる尊王感情である。智学の自伝や国柱会関係の智学伝に基づくと、彼の家系は第56代の清和天皇の第六王子貞純親王から派生した、いわゆる清和源氏の末裔であり、長らく岐阜県の美濃地方に定住して田中姓を名乗っていた。田中氏の宗族には「勤王の義兵を起した」新田義貞もいたとされ(芳谷[1953:1])、智学本人も「勤王の志あつかった先祖への思いはふかく、その家系を終生ほこりとし、源氏名を義世と称していた」(香浦[1977:16])と言われる。そして、この勤王家の誇りは父親や兄弟から受け継いだものだった。
  ………
智学の生家の天皇観は、当時の一般的な天皇のイメージとは明らかに異なり、血族意識からくる皇統への絶対忠誠心に貫かれていた。長ずるに及んで智学は、「それが自分の頭の一つの主人になって、我が精神、生命になるといふほどの意義での「尊王』」(智学[1932c:422])を貫き、その様は「まるで忠君愛国を宣伝するためこの世に生れてきたような人物」(戸頃[1961:106])と評されるほどであった。智学の血肉化された尊王心は、明らかに「明治人としての素朴な感情」(渡辺[1968:152])の域を超えており、智学個人の思想形成史のうえから説明される必要がある。また智学の家族の尊王心は、貞純親王が法華守護の役目を帯びて日本に生誕した、という神話を通じて、本来は国家超越的な法華信仰とも矛盾することなく並存していた。とすれば智学の日蓮主義は、在家講の急進的な日蓮信仰と尊王の家系意識が、神話的なものを介して雑然と同居するような家庭の思想環境に、その淵源を求めることができよう。日蓮信仰に基づく彼の超国家主義は、生家における急進的日蓮信仰と尊王心の思想的雑居から出発していることを、ここで確認しておきたいと思う。
 また、智学は当初から「日蓮主義運動は国体宣揚をもって第一要件とすべきであるとの信念」を持っており、「国家発揚的な事件がおこると、常にそれに応じていろいろの行事や述作を試みた」という説もあります(宮沢賢治の法華信仰)。
「かれは、日蓮主義運動は国体宣揚をもって第一要件とすべきであるとの信念をいだき、明治十八年、立正安国会を結成し、その後、日本の国家発揚的な事件がおこると、常にそれに応じていろいろの行事や述作を試みた。たとえば、明治二十二年に帝国憲法が発布されると、憲法講義会を開催し、二十七年に日清戦争がおこると、国祷会を創設し、久遠釈尊すなわち天照大神すなわち日本皇帝と見なし、その日本皇帝が邪法の清国を打ち破ることを祈った。明治三十四年、『宗門之維新』を著わし、世界統一教としての大日本国教の制定、世界万邦の来り礼すべ大戒壇の建立を主張した。『宗門の維新』の言辞は熱気あふれ、激烈をきわめたもので、たとえば日蓮を大元師とし、『法華経』を剣として、破邪顕正の侵略的折伏に向かい進軍せよと叫んでいる。この書は当時の憂国の志士たち、血気さかんな青年たちの情熱をかきたて、行動の指針として熱狂的に読まれた。
 明治三十七年の日露戦争にさいしても、智学は国会をおこない、『世界統一の天業』を刊行して出征軍隊に寄贈した。四十三年に『日蓮聖人の教義』を出版、ここでも王仏一体による世界統一戒壇の建立が理想とされている。四十四年には、幸徳秋水の大逆事件における国民的反省について論述し、各方面にくばり、尊王護国の覚醒をうながした。また日本国体学を提唱し、講述した。大正三年、あらためて国柱会を設立、ひきつづ正法確立・国体発揚に獅子奮迅する。」