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読書ノート / 思想
松陰は、戦時中、「忠君愛国」の理想像として軍国主義教育に利用され、戦後は、奈良本辰也「吉田松陰」(1951年)により、新しい人間像として復権します。そのような松陰像の変遷を時代との関わりで見つめてみようというのが本書の狙いです。 著者は、松本三之介責任編集「日本の名著〈31〉吉田松陰」 (1973年)に「吉田松陰像の変遷」を書いているので、30年ぶりに同じテーマに取り組んだことになります。 明治の前半は、簡単な伝記以外は、松陰に関する書籍はほとんど発行されていなかったようです。 1893(明治26)年に、最初の本格的な吉田松陰論として、徳富蘇峰の「吉田松陰」(民友社)が出ますが、そこでは松陰は「革命家」として位置づけられていると著者は見ています。つまり、平民主義者徳富蘇峰にとっての松陰像は、反体制の革命家であったということのようです。 しかし、蘇峰が平民主義者から帝国主義イデオローグに急旋回したことにより、1908(明治41)年の改訂版では、「革命」が「改革」に置き換えられ、「国体論」「帝国主義」などの章が付け加えられています(ここでは帝国主義はプラスのイメージのようです)。 大正デモクラシー期の松陰像としては、1925(大正14)年に発行された大庭柯公の「吉田松陰」(柯公全集刊行会)を取り上げています。 大庭柯公は新聞記者で、彼の「吉田松陰」は、ペリーの艦船に乗って渡米し、南北戦争に参加し、その後欧州諸国を遊行し、ロシアを経て1870(明治3)年帰国するという奇想天外なフィクションです。柯公は、ロシア革命を明治維新と同様の政治的革命ととらえ、松陰をケレンスキーに、高杉晋作をレーニンに、前原一誠をトロツキーに擬しています。 柯公は、松陰を革命家、愛国者、旅行家として描き、そのような平民的な松陰像を通じて、当時の長州閥を批判したと、著者は見ているようです。 昭和初期の松陰像としては、1936(昭和11)年に発行された玖村敏雄の「吉田松陰」(岩波書店)を取り上げています。 玖村は教育学者としての視点から、家庭人国家人としての松陰の教育者的行動を、時代思想とは距離を置き、史実に即して描いています。 これ以後に出た松陰伝は、玖村の影響を受けて、教育者像に圧倒的比重をかけたものとなっていきます。 一方で、玖村は松陰の愛国的精神にも注目しています。 それが、時局の進展の中で、国定教科書の「忠君愛国」松陰像と重なっていきます。 天皇制絶対主義、軍国主義の進展によって、国体論的、皇国史観的な松陰像は極限に達しますが、その様子を著者は次のように説明しています(93〜94ページ)。
敗戦後は、松陰伝の刊行はピタリと止みましたが、そんな中で、1951(昭和26)年に、奈良本辰也の「吉田松陰」(岩波新書)が刊行されます。 奈良本は、時代に対決して失敗した、いわば敗者としての思想的、政治的実践者としての松陰に、敗戦後の日本を重ね合わせ、死罪にもかかわらず、理念に生きようとした松陰の再生のエネルギーを、再建を目指す日本に託そうとしたのではないかと、著者は見ています。 このようにして松陰は復権しますが、それは皇国史家たちの責任をあいまいにした側面があることを、著者は次のように指摘しています(112ページ)。
次のデータ(58ページ)が示すように、皇国史観が支配的になるにつれて、松陰関係の書籍の刊行数が急増しています。また、明治大正期に比べ、戦後の方が年間刊行数が多いのは意外な感じもします。 近くの公立図書館で、歴史上の著名人関連の所蔵書籍数を調べてみると次のようになりました。右の数字は2000年以降の冊数です。 やはり、幕末、戦国の人気が高いようです。特に、坂本竜馬は2000年以降が半分近くを占めているのが注目されます。織田信長、徳川家康、西郷隆盛、源義経は、山岡荘八らの長編小説が含まれているため冊数が多くなっています(各巻がそれぞれ1冊とカウントされるため)。 長州関係では吉田松陰が最多です。2000年以降でも26冊が刊行されています。最近の発行された吉田松陰関連書籍のリストは次のようになっています(クリックで拡大)。 坂本竜馬 194 98 織田信長 234 66(山岡荘八) 徳川家康 370 46(山岡荘八) 西郷隆盛 218 40(海音寺潮五郎、林房雄) 源義経 89 39(村上元三) 豊臣秀吉 174 28 吉田松陰 189 26(吉田松陰全集) 高杉晋作 75 18 伊藤博文 73 22 足利尊氏 47 10 楠木正成 39 10 |