top /
読書ノート / 古代史
![]()
日本書紀と古事記に、4通り6つの伝承 記紀神話によると、「アマテラスが孫のニニギ(天孫)を地上に遣わし(天孫降臨)、ニニギの曾孫の神武が即位し日本を建国した。したがって、アマテラスこそが、皇祖神=国家神である」と、一般に理解されています。 しかし、降臨神話の司令神(主神)としては、タカミムスヒという神がいて、こちらが本家で、アマテラスが後発であったと著者は述べています。 日本書紀と古事記には、主神としては本文と異伝合わせて、4通り6つの伝承が載っています。日本書紀の異伝というのは、本文以外の内容の異なる伝承のことで、日本書紀は神話ごとに大量の異伝を載せています。 日本書紀・日本語訳「第二巻:神代・下」| 古代日本まとめと稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 古事記 現代語譯 古事記 を参考に、6つの伝承における主神と三種の神器の関係を整理すると次のようになります。異伝Aでは、あくまでもタカミムスヒが主役で、アマテラスはニニギに宝鏡を授ける役割を担っている程度です。一方、古事記では、アマテラスの名を先に記しつつ両者を同格に扱っています。なお、真床追衾(真床覆衾)とは、ニニギを覆った掛け布団のようなものだそうです
![]() 主神についての4通り6つの伝承について、著者は次のように述べています (64〜65ページ)。
なお、690年、忌部氏が鏡と剣を奉り、持統天皇が即位したということですから、この時点では神器は三種(鏡・剣・勾玉)ではなく、また、記紀神話による権威付けも、まだ、なされていなかった事になります。 記紀神話は、二元構造 著者は、記紀神話は、イザナキ・イザナミ系神話とムスヒ系建国神話の二元構造になっていると見ています。そして、形成過程について次のように試論しています。
中心のラインは、イザナキ・イザナミ〜スサノヲ〜オオクニヌシ イザナキ・イザナミ系神話の主役は次のように変遷します。
地上世界の支配権の調整が問題に 天岩戸事件で天上界を追放されたスサノヲは、出雲の国に降り立った後、ヤマタノオロチを退治したことで、一転、英雄となり、クシナダヒメと結ばれ、子孫のオオクニヌシは地上世界の主神となります。一方、ムスヒ系建国神話では、タカミムスヒは、ニニギを天下らせますが、その際、地上世界の支配権の調整が問題となります。 そこで国譲り神話が登場することになりますが、著者はその経緯を次のように説明しています(130〜131ページ)。
すると、ニニギが天降る地上界には、すでに、オオクニヌシが君臨している事になるので、オオクニヌシに国を譲らせることで調整します。しかし、ニニギは何故か出雲ではなく高千穂に降臨、イザナキ・イザナミ系神話が突然終了してしまいます。そして、ニニギのひ孫の神武が東征し、建国するという建国神話が展開します。
アマテラスは、伊勢地方の地方神だった アマテラスを祭る伊勢神宮について、著者は次のように述べています(141〜142ページ)。
「古事記で神話を一元化」 前述のように、降臨神話では、712年に完成した古事記で「アマテラス+三種神宝」が追加され、720年に完成した日本書紀では、異伝@という形で古事記の説を併記していますが、この点について、著者は次のように述べています(195〜196ページ)。
「古事記は天武の意図を反映」 天武と古事記の関係について、著者は次のように述べています(192〜194ページ)。
文書としての性格に大きな違い 本書では、古事記と日本書紀をともに歴史書として対比していますが、両書には、文書としての性格に大きな違いがあります。 それは、日本書紀は変則的な歴史書であるのに対し、古事記は神話と伝承を中心とした一種の叙事詩であるという違いです。 両書の構成は次のようになっています(古典への招待 【第3回:歴史書としての『日本書紀』】)。
一方、日本書紀は、神代から持統譲位まで全30巻に収められています。神話・伝説の部分が10巻、舒明から持統までの約70年間は、「巻数では約4分の1だが、紙数で計算すると……3分の1に近い分量」です。この時代は、天智が、クーデターや陰謀で権力を確立し、天武が、その権力を全面戦争により、甥の大友皇子から奪取しています、それらをいかに正当化するかが、日本書紀の主要な目的となっているのが伺えます。一方、建国神話により新政権を権威づけるのも主要な目的となっており、神話・伝承も含んだ変則的な歴史書となっています。 日本書紀の編纂が始まったとされる681年は、672年の壬申の乱から10年も経っていません。645年の乙巳の変からでも36年ですから、当時の関係者も多く生存していたものと思われます。つまり、客観的な歴史事実については、あからさまに改変することは困難なので、それらをいかに都合よく説明するかが、天武にとって最大の関心事だったものと思われます。 それに対し、建国神話では、天皇家が天孫ニニギの子孫であるという大筋が決まれば、天皇の神格化という目的は達成できるので、細部については天武には、さほどの関心はなかったのではないでしょうか。 謎は深まるばかり 著者は、古事記の編纂について、「天武の言葉を、阿礼が記憶していて、それを安万呂が文章にした」と推測していますから、「天武が阿礼を通じて安万呂に口述筆記させた」ということになると思われます。 元明は661年生まれということですから、日本書紀の編纂が始まったころには成人に達していた事になります。また、阿礼がサヴァン症候群であれば、30年前の天武の言葉を1字1句覚えていたという可能性はあります。したがって、元明が天武の死後4半世紀も経って突然昔のことを思い出し、安万呂に古事記の編纂を命じるということも全く有り得ないことでもありません。 しかし、実際に阿礼がどのような行為を行ったかは、古事記序文からは明らかにはなりません。帝紀と旧辞の間違いをただすため、阿礼に帝紀と旧辞を誦習させたということですが、誦習とは一般には読んで覚えることですから、間違いをただす事にはなりません。 古事記序文偽造説もありますが、偽造ではないとしても、天武と阿礼、安万呂の関係についての叙述が真実であるとは限りません。序文が書かれたとされる時点では、天武はすでに亡くなっており、 天武との関係を証明するものは阿礼自身の証言しかないからです。 天武は本当に日本書紀に重ねて古事記を編纂しようとしたのか、阿礼は何を暗誦したのか、安万呂はそれを文章にしただけなのか、阿礼はなぜ文章に残さなかったのか、元明はなぜ4半世紀も前の事を突然思い出したのか、謎は深まるばかりです。 背景には、皇位継承をめぐる動き? この背景には、当時の皇位継承をめぐる動きが関係しているように思われます。 690年に持統が即位して以来、文武を挟んで、元明、元正と女性天皇が続きます。これには、草壁、文武という男性後継者が早世したため、女性親族が皇位を維持し、聖武の成人を待つという意味がありました。
![]() 天武が686年に死去した後、妃の持統が称制を行い、息子の草壁の即位を待ちますが、草壁は689年に満27歳で早世します。そこで、690年に持統が満45歳で即位し、697年に退位し、孫の文武を即位させます。このとき文武は満14歳ですから、政治の実権は上皇の持統が維持します。持統はこの時、満52歳ですから、自分が存命の間に孫に皇位を確保させたいという焦りがあったものと思われます。 そして、それから5年して持統は満57歳で亡くなります。強引に文武を即位させた甲斐があったといえます。しかし、それから5年して、文武が満24歳で早世します。息子の首(おびと、後の聖武)は、まだ満6歳ですから、次の天皇をどうするかが問題となります。 そこで、文武の母の元明が満46歳で即位し、孫の聖武のために皇位を維持します。即位した年齢も、孫との年齢差も持統とほとんど変わりません。ただし、持統は皇后であったのに対し、元明は天皇の母に過ぎなかったという違いはあります。また、持統・元明を支えた藤原不比等は、持統即位当時は、まだ満31歳だったのに対し、元明即位当時は、すでに満48歳に達していました。つまり、聖武即位は必ずしも楽観できる状況にはなかった事になります。 そのような状況下の、711年9月、元明が安万呂に古事記の編纂を命じ、712年1月に完成します。これによって、結果的には、女性皇祖神アマテラスから天孫ニニギへの継承に対し、天武のお墨付きが与えられたことになります。 その後、715年に元明が退位し、元明の娘で文武の妹の元正が即位します。720年には日本書紀が完成し、不比等が死去、721年には元明が死去します。724年に元正が退位し、聖武が即位します。元正は満44歳の壮年期で、上皇として満23歳の聖武を支えます。 |