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  アマテラスの誕生
 溝口睦子/著(岩波書店)2009/1

 2025/8
 本書の内容について次のように紹介されています。
戦前の日本で、有史以来の「国家神」「皇祖神」として奉じられた女神「アマテラス」。しかしヤマト王権の時代に国家神とされたのは、実は今やほとんど知る人のない太陽神「タカミムスヒ」だった。この交代劇はなぜ起こったのか、また、古代天皇制に意味するものは何か。広く北方ユーラシアとの関係を視野に、古代史の謎に迫る。

日本書紀と古事記に、4通り6つの伝承
 記紀神話によると、「アマテラスが孫のニニギ(天孫)を地上に遣わし(天孫降臨)、ニニギの曾孫の神武が即位し日本を建国した。したがって、アマテラスこそが、皇祖神=国家神である」と、一般に理解されています。
 しかし、降臨神話の司令神(主神)としては、タカミムスヒという神がいて、こちらが本家で、アマテラスが後発であったと著者は述べています。
 日本書紀と古事記には、主神としては本文と異伝合わせて、4通り6つの伝承が載っています。日本書紀の異伝というのは、本文以外の内容の異なる伝承のことで、日本書紀は神話ごとに大量の異伝を載せています。
 日本書紀・日本語訳「第二巻:神代・下」| 古代日本まとめ稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 古事記 現代語譯 古事記 を参考に、6つの伝承における主神と三種の神器の関係を整理すると次のようになります。異伝Aでは、あくまでもタカミムスヒが主役で、アマテラスはニニギに宝鏡を授ける役割を担っている程度です。一方、古事記では、アマテラスの名を先に記しつつ両者を同格に扱っています。なお、真床追衾(真床覆衾)とは、ニニギを覆った掛け布団のようなものだそうです
主神 三種の神器
日本書紀本文
日本書紀異伝C
日本書紀異伝E
タカミムスヒ なし
真床追衾(真床覆衾)
日本書紀異伝@ アマテラス 三種神宝
日本書紀異伝A タカミムスヒ+アマテラス 宝鏡
古事記 アマテラス+タカミムスヒ 三種神宝
 アマテラスとタカミムスヒの関係については、ネット上に次のような系図が載せられています(タカミムスビ)。 この系図は、日本書紀本文と古事記の記載を参照して作成されたものと思われます。このような構図にすれば、ニニギはアマテラスとタカミムスヒ両方の孫ということになります。

 主神についての4通り6つの伝承について、著者は次のように述べています (64〜65ページ)。 
 このような六つの異伝のあり方を、さまざまな面からつぶさに考察した結果、タカミムスヒ系の方が古いという結論が出されたわけである。たとえばその理由の一つとして、このなかのアマテラス系は、タカミムスヒ系の神話を元にして、主神の「タカムスヒ」の名を「アマテラス」に変え、さらにアマテラスに関連する事柄など、新しい要素をいくつか加えて作られたものであることが、両者の比較検討をとおしてはっきりしたということがある。つまりこの二種類は、それぞれがまったく独自に作られた別種の神話かというと、そうではない。
 そのアマテラス系の降臨神話が付加した要素の中には、有名な三種の神器(じんぎ)や「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」など、後で加わったとみられる最も新しい要素がたくさんはいっている。
 以上から、日本書紀の当初の編集方針では、「タカミムスヒ+真床追衾」であったのが、712年に完成した古事記で「アマテラス+三種神宝」が追加され、720年に完成した日本書紀では当初の方針は維持しつつ、異伝@という形で古事記の説を併記することにより決着を図ったと考えることもできると思われます。あるいは、古事記は日本書紀の異伝@のみを独立させ、アマテラスを強調する意図で作成されたと考えることもできそうです。
 なお、690年、忌部氏がを奉り、持統天皇が即位したということですから、この時点では神器は三種(鏡・剣・勾玉)ではなく、また、記紀神話による権威付けも、まだ、なされていなかった事になります。

記紀神話は、二元構造
 著者は、記紀神話は、イザナキ・イザナミ系神話とムスヒ系建国神話の二元構造になっていると見ています。そして、形成過程について次のように試論しています。
第1段階:ムスヒ系建国神話の成立 王権中枢が作成
第2段階:イザナキ・イザナミ系神話の成立 地方豪族が作成
第3段階:大国主神の国譲りで両神話が接着 王権中枢が作成
第4段階:天孫降臨後に海幸・山幸神話など日向神話を追加
 ムスヒ系建国神話とイザナキ・イザナミ系神話の関係について、著者は次のように述べています(104ページ)。
 第一章でみたように、五世紀に成立した統一王権は、当時の北東アジア世界における普遍思想ともいうべき、支配者の起源を天に求める思想(=天孫降臨神話)を取り入れて、みずからを権威づけた。ところがその後地方豪族の一部である、大王家から政治的に遠い立場にあった守旧派の人々がこれに対抗して自分たちのアイデンティティを確立するために、四世紀以前から伝承されてきたオオクニヌシなど土着の神々に出自を求め、古い神話・伝説の集成を行った。
 5世紀に成立したヤマト王権が権力を権威づけるため導入したのがムスヒ系建国神話で、それに対抗する形で地方勢力が古い神話・伝説を集成したのが、イザナキ・イザナミ系神話であるというのが著者の考えのようです。ただ、文字に書かれた史料が残っているわけではないので、記紀神話から導き出された試論とはいえそうです。

中心のラインは、イザナキ・イザナミ〜スサノヲ〜オオクニヌシ
 イザナキ・イザナミ系神話の主役は次のように変遷します。
神代七代(かみよななよ)
イザナミ・イザナキ
ヒルメ(アマテラス)・スサノヲ
オオクニヌシ
 著者は次のように(125ページ)、神話の中心のラインは、イザナキ・イザナミ〜スサノヲ〜オオクニヌシであり、アマテラスはスサノヲの相手役に過ぎなかったのではないかと述べています。
 イザナキ・イザナミ系神話の作成者にとって、話の中心のラインはアマテラスではなく、むしろイザナキ・イザナミ〜スサノヲ〜オオクニヌシだったのではないか。つまりスサノヲは、古代の人々にとっては仰ぎ見る英雄であった。そこでこの神の破天荒な行動についての物語を、より壮大に、宇宙的規模で、華やかに描くために、相手役として、太陽女神のアマテラスが選ばれた。むろんそれには、古代の人々にとって太陽神や、太陽を活気づける祭りである冬至祭りが、とりわけ大きな関心事だったということがあったのだろうが、ともかく作成者にとって、主人公はむしろスサノヲであり、アマテラスは相手役だった。このような方向でスサノヲを軸に、この神話を考えることもできるのではないか。
 また、著者は次のように(128ページ)、古代日本の最高神としてアマテラスは8世紀以降のアマテラス像をもとにつくられたものであり、4世紀以前の日本土着の神話世界の神々の王は、オオクニヌシであったと述べています。
 アマテラスを頂点とし最高神とする神々の世界が、古代の日本には存在していたというイメージは、いまなお人々の間に根強く残っている。しかしそれは八世紀以降、律令制以降のアマテラス像をもとにつくられたものであって、そのような神々の世界は、七世紀以前の日本にはなかった。ヤマト王権時代に天の至上神として神々の頂点に立っていたのは、前章でみたようにタカミムスヒであり、それ以前の時代、四世紀以前の日本土着の神話世界における神々の王は、アマテラスではなく、次に述べるオオクニヌシだった。

地上世界の支配権の調整が問題に
 天岩戸事件で天上界を追放されたスサノヲは、出雲の国に降り立った後、ヤマタノオロチを退治したことで、一転、英雄となり、クシナダヒメと結ばれ、子孫のオオクニヌシは地上世界の主神となります。一方、ムスヒ系建国神話では、タカミムスヒは、ニニギを天下らせますが、その際、地上世界の支配権の調整が問題となります。
 そこで国譲り神話が登場することになりますが、著者はその経緯を次のように説明しています(130〜131ページ)。
 タカミムスヒは「国譲り神話」で、天孫を降臨させる準備として、何度も地上に使者を送り、地上世界の主神であるオオクニヌシに、その世界の支配権を譲るようにと出雲で談判する。そしてその結果遂に国を譲らせることに成功して、地上世界にはもはや誰一人、はむかうないことを確認した上で天孫を天降らせる。これがこの神話の内容である。
 ところがそのあとの天孫降臨神話では、いざ天降った天孫は、オオクニヌシとは何の関係もない九州の日向に降り立ち、そこから東征の長い旅をして大和に辿りつく。その間多くの敵に出会って戦いを交え、戦闘で兄を亡くしたりもするのである。天孫降臨から神武東征にいたる建国神話のなかで、オオクニヌシの「オ」の字も語られることはなく、「国譲り」は影も落としていない。いったい「国譲り」とは何だったのか。
 ここに記紀神話の物語上の大きな矛盾があることは以前から指摘されている。私はこれを、建国神話が国譲り以前にすでにできあがっていたことから生まれた矛盾であろうと解釈する。すでにある建国神話を変更して、あとでできた「国譲り」との細部での辻褄合わせをするだけの余力が、神話の最終的作成者にはなかったのである。従来天つ神・国つ神からなる記紀神話の構造について、これを日本神話が古くからもっていた、日本神話に固有の構造とする見方が一般的であった。しかし私は、これまでも述べたように、五世紀以降、ヤマト王権時代に、王権の側によって作られた構造であろうとみている。四世紀以前の人々は、オオクニヌシの上に、さらに絶対的な権威をもつ天つ神がいるなどとは考えていなかった。
 著者は、5世紀に成立したヤマト王権が、高句麗などの影響で、ムスヒ系建国神話を作り、それに対抗する形で、地方豪族らが弥生時代から伝承されてきたイザナキ・イザナミ系神話を集成したとみています。
 すると、ニニギが天降る地上界には、すでに、オオクニヌシが君臨している事になるので、オオクニヌシに国を譲らせることで調整します。しかし、ニニギは何故か出雲ではなく高千穂に降臨、イザナキ・イザナミ系神話が突然終了してしまいます。そして、ニニギのひ孫の神武が東征し、建国するという建国神話が展開します。
オオクニヌシ 出雲 イザナキ・イザナミ系神話が突然終了
ニニギ 高千穂に降臨 ひ孫の神武が東征、建国
 結局、延々と語られてきたイザナキ・イザナミ系神話は、ほとんど意味をなさなくなります。そして、イザナキ・イザナミ系神話の脇役に過ぎなかったアマテラスは、ますます影の薄い存在となります。ところが、そんなアマテラスが突然、皇祖神として浮上するという、予想外の方向に話が展開します。

アマテラスは、伊勢地方の地方神だった
 アマテラスを祭る伊勢神宮について、著者は次のように述べています(141〜142ページ)。 
 ヤマト王権下のアマテラスを概観するには、最初にやはり直木孝次郎氏の伊勢神宮論(『日本古代の氏族と天皇』)をみておくのが、いちばんわかりやすい。
 アマテラスを祭る伊勢神宮は、古くから皇室の先祖神を祭る神社だったと長い間固く信じられてきた。しかしそれについてはすでに戦前、津田左右吉によっても疑問が提出されていた(「日本古典の研究上」)。さらに第二章でふれたように戦後直木孝次郎氏の伊勢神宮論によって、七世紀まで伊勢神宮は地方神を祭る神社だったという説が、一つの学説として確立し、現在通説になっている。ということは、つまり伊勢神宮の祭神であるアマテラスは、七世紀までは皇祖神ではなかったということである。そこで直木説を簡略に紹介すると、その理由は次のとおりである。

1 皇室が己の先祖神を、本拠とする大和から遠く離れた伊勢の地に祭るのはおかしい。
2 伊勢は、とくに皇室と深い関係のあった地でもなく、皇室の勢力の強い地でもなかった。
3 古代には、天皇みずから伊勢神宮に参ったという記録が一つもない。
4『日本書紀』の伊勢神宮に関する記事をみると、他の社と同格に記されており、特別な神社であるという意識がなかったことを語っている。これに比べて八世紀の記録である『続日本紀』をみると、ここではじめて伊勢神宮を「伊勢大神宮」という特別な名称で呼んでおり、他と区別する意識が明瞭になっている。

 そこでこのような疑問をもとに想定された伊勢神宮の歴史は、ほぼ次のような内容である。

1 伊勢神宮は、はじめ太陽神を祭る地方神の社であった。
2 六世紀前半頃に皇室と密接な関係が生じ、皇室の崇敬を受けるようになった。その理由としては、伊勢が東方発展の基地として重視されたこと、また伊勢は大和の東方に当たるため、太陽神の霊地と考えられていたことがある。
3 地方神であった伊勢神宮が、皇祖神を祭る神社に昇格したのは奈良時代前後である。昇格の契機としては、壬申の乱(六七二年)における神宮の冥助(みょうじょ)、すなわちアマテラスの加護が考えられる。

 右に記したような直木氏の伊勢神宮論に、私は基本的に賛成で、第二章でも述べたが、アマテラスは七世紀末葉までは皇祖神ではなく、伊勢地方で祭られた一地方神だったと考える。では一地方神としてのアマテラスは、ヤマト王権下でどのような形で、どのような神として人々の間にあったのか。アマテラスに関する同時代の記録はきわめて乏しく、伝説の類をとおして推測する以外にないのであるが、最初に引く『日本書紀』の記事は、ほとんど唯一ともいえるアマテラスに触れた生の記録、つまり同時代の記録である。
 直木説によると、伊勢神宮は7世紀まで地方神を祭る神社に過ぎなかったが、奈良時代前後に皇祖神を祭る全国レベルの神社に昇格したということになります。著者は、アマテラスは7世紀末葉までは、伊勢地方で祭られた一地方神だったと考えています。とすると、イザナキ・イザナミ系神話に登場するアマテラスは、伊勢地方の地方神だったことになります。ということは、イザナキ・イザナミ系神話は、ヤマト地方の豪族の間で伝えられた伝承を集成したものということになるのでしょうか。

「古事記で神話を一元化」
 前述のように、降臨神話では、712年に完成した古事記で「アマテラス+三種神宝」が追加され、720年に完成した日本書紀では、異伝@という形で古事記の説を併記していますが、この点について、著者は次のように述べています(195〜196ページ)。

 天孫降臨神話についていえば、『古事記』は、第二章でもふれたが、タカミムスヒとアマテラスという、まったく別種の神話世界に属していた神を、ともに降臨神話の主神として二神の名を並べて書くという、思い切ったやり方をしている。天孫降臨神話はタカミムスヒの神話であるが、そこに『古事記』はいきなりアマテラスを持ち込んだのである。『日本書紀』は『古事記』とは違って、開闢神話はイザナキ・イザナミ系だけで一貫させ、天孫降臨神話(本文)では逆に、タカミムスヒを主神として一貫させている。原資料に忠実な方法をとったわけである。
 ただし一方で『日本書紀』は、本文とは別に、アマテラスを主神とする降臨神話を異伝(第一の一書)として載せている。この異伝に、有名な「天壌無窮の神勅」や、「三種の神器」の話が載っている。明治以降流布したのはこの神話である。『日本書紀』は異伝を併記するという方法によって、ムスヒ系とイザナキ・イザナミ系という二系統の異質な神話や、またイザナキ・イザナミ系のなかの多く異伝についても、混合することなく原資料に近い形で収載している。したがってこれらの異伝と『古事記』とをつぶさに比較検討することによって、『古事記』の異伝統合の方法が、箇所によっては手にとるようにみえてくるのである。
 ともかく『古事記』はこのようにして、大胆な思い切った方法で神話を一元化し、統一国家にふさわしい一元的な世界観を創出した。そしてその頂点に、イザナキ・イザナミ系の太陽神アマテラスを天武ははじめて置いた。これは歴史書を作る上で、最終的に、曖昧にすることのできない選択であり、皇祖神転換を天武が決意した直接的理由の一つである。
 著者は、古事記により、天孫降臨神話にアマテラスが持ち込まれたと見ています。そして、古事記の記載は、異伝@という形で日本書紀に併記されたと説明していますが、どのような経緯でそのようになったのかについては述べていません。いずれにしても、神話の一元化は古事記によりもたらされ、それは天武の意図であったと見ています。

「古事記は天武の意図を反映」
 天武と古事記の関係について、著者は次のように述べています(192〜194ページ)。
……私見をごく簡単にいえば、国家的事業としての歴史書の編纂が天武十年に開始されたあとで、天武はそこに多くの問題点や困難があることを、はじめて具体的に知ったのではないかと推測している。「帝紀・旧辞(=上古の諸事)」は、系譜や神話・伝説の類で、『記・紀』の原資料になったものである。これらについて、天武は部分的にはその内容を知っていたであろうが、編纂開始とともに集められた大量の「帝紀・旧辞」をとおして、彼ははじめてその全貌や、歴史書編纂が容易な事業ではないことをつぶさに知ったのではあるまいか。
 そこで天武は、とりあえず独自にプランを立てて、新しい国家の基礎となる、神話と歴史のあるべき姿をみずから提示しようと考えた。そこで、記憶力抜群で、古い記録の多種多様な表記や訓みを一度見たらけっして忘れない、優秀な官人(舎人)である稗田阿礼を選んで「帝紀・旧辞」の勉強をさせた。そして阿礼を相手に、周囲に補助する人は多数いたであろうが、天武はみずから歴史書の骨格を組み立てたのではないか。
 ……
 しかし天武天皇は、この仕事が書物として完成しないうちに没し、その後三十年の歳月が経過する。和銅四年(七一一)九月十八日、時の天皇元明は、太安万呂に「稗田阿礼がよんだ、天武天皇の勅語の旧辞を、撰録して献上するように」と勅命を下した。翌年(七一二)の正月二十八日、勅命を受けてから僅か四ヶ月余りで、安万呂が見事に文章化して献上したのが『古事記』三巻である。安万呂がこの間に行ったのが、叙述内容の推敲ではなく、もっぱら表記や文章化の仕事であったことは、序文に書かれた彼の苦心談が、すべて文章化にかかわることにのみ費やされているのをみてもあきらかである。
 一方『日本書紀』は、天武の死後三十四年経って、貴族・官人の合議のもと、共同作業として国家の手で編纂された歴史書である。したがってこの書は、同じ「帝紀・旧辞」を原資料としている点では『古事記』と共通であるが、しかし天武の意図からは完全に離れたところで、『古事記』とは、またまったく別の意図・目的をもって編纂されている。
 著者によれば、古事記は、天武が骨格を組み立て、それを稗田阿礼が暗誦していて、太安万呂が30年後、それを文章化したということですから、古事記には天武の意図がそっくり反映していることになります。

文書としての性格に大きな違い
 本書では、古事記と日本書紀をともに歴史書として対比していますが、両書には、文書としての性格に大きな違いがあります。
 それは、日本書紀は変則的な歴史書であるのに対し、古事記は神話と伝承を中心とした一種の叙事詩であるという違いです。
 両書の構成は次のようになっています(古典への招待 【第3回:歴史書としての『日本書紀』】)。
古事記 日本書紀
神代 1巻 2巻
神武〜応神 1巻 8巻
仁徳〜推古 1巻 12巻
舒明〜持統 8巻
 古事記上巻が扱っているのは神話の世界で、中巻が扱っているのは神話性の強い伝説の時代です。下巻では、天皇の歌謡が主要部分を占めており、歴史的実在が確実となる継体以降は簡単な経歴が述べられているだけです。
 一方、日本書紀は、神代から持統譲位まで全30巻に収められています。神話・伝説の部分が10巻、舒明から持統までの約70年間は、「巻数では約4分の1だが、紙数で計算すると……3分の1に近い分量」です。この時代は、天智が、クーデターや陰謀で権力を確立し、天武が、その権力を全面戦争により、甥の大友皇子から奪取しています、それらをいかに正当化するかが、日本書紀の主要な目的となっているのが伺えます。一方、建国神話により新政権を権威づけるのも主要な目的となっており、神話・伝承も含んだ変則的な歴史書となっています。
 日本書紀の編纂が始まったとされる681年は、672年の壬申の乱から10年も経っていません。645年の乙巳の変からでも36年ですから、当時の関係者も多く生存していたものと思われます。つまり、客観的な歴史事実については、あからさまに改変することは困難なので、それらをいかに都合よく説明するかが、天武にとって最大の関心事だったものと思われます。
 それに対し、建国神話では、天皇家が天孫ニニギの子孫であるという大筋が決まれば、天皇の神格化という目的は達成できるので、細部については天武には、さほどの関心はなかったのではないでしょうか。

謎は深まるばかり
 著者は、古事記の編纂について、「天武の言葉を、阿礼が記憶していて、それを安万呂が文章にした」と推測していますから、「天武が阿礼を通じて安万呂に口述筆記させた」ということになると思われます。
 元明は661年生まれということですから、日本書紀の編纂が始まったころには成人に達していた事になります。また、阿礼がサヴァン症候群であれば、30年前の天武の言葉を1字1句覚えていたという可能性はあります。したがって、元明が天武の死後4半世紀も経って突然昔のことを思い出し、安万呂に古事記の編纂を命じるということも全く有り得ないことでもありません。
 しかし、実際に阿礼がどのような行為を行ったかは、古事記序文からは明らかにはなりません。帝紀と旧辞の間違いをただすため、阿礼に帝紀と旧辞を誦習させたということですが、誦習とは一般には読んで覚えることですから、間違いをただす事にはなりません。
 古事記序文偽造説もありますが、偽造ではないとしても、天武と阿礼、安万呂の関係についての叙述が真実であるとは限りません。序文が書かれたとされる時点では、天武はすでに亡くなっており、 天武との関係を証明するものは阿礼自身の証言しかないからです。
 天武は本当に日本書紀に重ねて古事記を編纂しようとしたのか、阿礼は何を暗誦したのか、安万呂はそれを文章にしただけなのか、阿礼はなぜ文章に残さなかったのか、元明はなぜ4半世紀も前の事を突然思い出したのか、謎は深まるばかりです。

背景には、皇位継承をめぐる動き?
 この背景には、当時の皇位継承をめぐる動きが関係しているように思われます。
 690年に持統が即位して以来、文武を挟んで、元明、元正と女性天皇が続きます。これには、草壁、文武という男性後継者が早世したため、女性親族が皇位を維持し、聖武の成人を待つという意味がありました。
673 天武即位
681 日本書紀の編纂開始
686 天武(631?〜686)死去、持統が称制
689 草壁(662〜689)死去
690 持統即位
697 持統退位、文武即位
702 持統(645〜702)死去
707 文武(683〜707)死去、元明即位
712 古事記完成
715 元明退位、元正即位
720 日本書紀完成
721 元明(661〜721)死去
724 元正退位、聖武即位
748 元正(680〜748)死去
749 聖武退位、孝謙(718〜770)即位
756 聖武(701〜756)死去
 系図は次のようになります(続日本紀・要点講座A 元明天皇 〜律令国家初の蝦夷征討と平城京遷都〜)。

 天武が686年に死去した後、妃の持統が称制を行い、息子の草壁の即位を待ちますが、草壁は689年に満27歳で早世します。そこで、690年に持統が満45歳で即位し、697年に退位し、孫の文武を即位させます。このとき文武は満14歳ですから、政治の実権は上皇の持統が維持します。持統はこの時、満52歳ですから、自分が存命の間に孫に皇位を確保させたいという焦りがあったものと思われます。
 そして、それから5年して持統は満57歳で亡くなります。強引に文武を即位させた甲斐があったといえます。しかし、それから5年して、文武が満24歳で早世します。息子の首(おびと、後の聖武)は、まだ満6歳ですから、次の天皇をどうするかが問題となります。
 そこで、文武の母の元明が満46歳で即位し、孫の聖武のために皇位を維持します。即位した年齢も、孫との年齢差も持統とほとんど変わりません。ただし、持統は皇后であったのに対し、元明は天皇の母に過ぎなかったという違いはあります。また、持統・元明を支えた藤原不比等は、持統即位当時は、まだ満31歳だったのに対し、元明即位当時は、すでに満48歳に達していました。つまり、聖武即位は必ずしも楽観できる状況にはなかった事になります。
 そのような状況下の、711年9月、元明が安万呂に古事記の編纂を命じ、712年1月に完成します。これによって、結果的には、女性皇祖神アマテラスから天孫ニニギへの継承に対し、天武のお墨付きが与えられたことになります。
 その後、715年に元明が退位し、元明の娘で文武の妹の元正が即位します。720年には日本書紀が完成し、不比等が死去、721年には元明が死去します。724年に元正が退位し、聖武が即位します。元正は満44歳の壮年期で、上皇として満23歳の聖武を支えます。