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読書ノート / 古代史
第1章「白村江への道」では、倭の対中国、朝鮮半島外交を扱っています。 著者は、白村江の敗北は、倭の外交面での稚拙さにあると見ています。 607年の遣隋使において、聖徳太子は隋と対等外交を行おうとしたとする説に対し、倭国にはそのような一貫した意図はなく、単に国際的慣行を知らなかっただけだとしています。 そして、倭の外交は一貫して百済一国主義であり、それは乙巳の変前後で変わりはないと見ています。倭は、人・文物の提供の代償として、百済への軍事援助を行っており、倭のこうした行動を傭兵と評する見解もあるということです。 なお、日本書紀に登場する「任那日本府」は、かつての定説では、倭が加耶地域を支配するため設けたもので、百済・新羅に侵食され滅亡したとされていましたが、実際は次のようなものだったと著者は指摘しています(67ページ)。「任那日本府」の「定説」は、後世の創作なのでしょうか。
第2章「百済の役」では、百済滅亡から白村江の戦いまでを扱っています。 660年、唐と新羅の攻撃により百済は滅亡します。唐軍13万は西方海上から、新羅軍5万は東方陸上から侵入し、王都・泗沘(しひ、現在の扶余)、熊津(ゆうしん)が陥落し、義慈王や太子、大臣・将軍ら1万2000人が唐に連行されます。 しかし、すぐに遺民の鬼室福信らが各地で挙兵します。拠点となったのは周留城で、福信は倭国に救援を要請し、質として倭国にいた王子・余豊璋の帰還を乞います。百済滅亡から白村江の戦いまでを日本書紀によって、年表にまとめると次のようになります。内容が一部重複しているのは、日本書紀の記述がそうなっているからです。第1陣は、余豊璋を守って周留城に駐留したものと思われますが、白村江の戦いでは余豊璋は船上にいたようなので、倭軍も同行したのでしょうか。第2陣は新羅国内に進入したものと思われますが、どうような行動をしたのか全く説明はありません。
白村江の戦いについては、「兵力・装備、作戦、どの面をとっても倭軍には到底勝ち目がなかった」(148ページ)としています。 日本書紀には唐軍170艘、旧唐書には倭軍400艘とされていますが、本書では、倭軍は小舟にすぎず、唐軍は大型船で、蒙衝・楼舡という戦艦も配備されていた可能性もあるとしています。ただ、唐水軍は「熊津江から白江(白村江)に向かい、陸軍と合流して周留城を攻撃するという作戦が立てられた」(144ページ)とあります。熊津江が錦江上流のことだとするならば、戦艦や大型船が航行できたのでしょうか。 また、倭軍が豪族の寄せ集めだったのに対し、唐軍律令制に基づく軍団制度が確立していたことが、作戦に影響したと指摘しています。 |