忠清南道の地図を見れば一目瞭然であるが、大河錦江は、忠清南道の全域をカバーして流れているが、それにも拘らずその流域の沿岸にそう熊清とか泗沘などの諸邑からも牙山まで陸路で輸送されていた。
それが後代になると、牙山へ陸上輸送されてから海上輸送される納税穀物は、牙山湾に近い全義、燕岐など六邑だけに減少している。つまり他の諸邑は、錦江による水上輸送に切り替わったことを示している。それが物語ることは、李王朝の中宗時代前後までは錦江は、重量船の海上との直通輸送には難点があり、忠清南道の主要海港は牙山湾であったことを示している。
錦江は、豪雨のたびに大量の土砂を流して、河口航路を変動し、河口の郡山の対岸に江口制水堤が四一〇メートルにわたり築造されるまでは、高潮時以外の出入りを困難とする泥堆河目底であった。
昭和年代の調査でも、潮汐は江景上流一五キロまで達し、潮升は江景で四〜五メートル、熊津まで航行できる河川用船は五トンまで、低潮時でも江景まで自由に航行できる船の喫水は一メートル以内となっている。(朝鮮西岸水路誌)これでは万単位の兵力輸送は明らかに困難である。
歴史的な百済の戦略面からしても、百済西海岸がうけた脅威は、常に北の高句麗、中国の楽浪郡、帯方郡、新羅が占領した漢江方面など北方からのものであって、南方から西海岸に脅威をうけたことはなかった。
北方から百済西海岸を攻撃する北方諸族にとって、手近にある海港牙山湾を無視して、わざわざ江口通過に困難な錦江まで南下しなければならない必要性はなかったのである。
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