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 検証白村江の戦い 
 牛島康允/著(近代文藝社)1995/8/31

2015/8/16
  著者略歴によると、大正5年生まれ、陸軍嘱託ハルピン特務機関勤務、鷗浦分派機関長、ソ連戦犯、防衛庁事務官、中央資料隊勤務となっています。
 著者は「はじめに」で、本書について次のように述べています。
 白村江の戦いについては、これまで諸研究には戦いそのものの分析は皆無なので、戦場と戦闘の検証に重点を置いて述べます。
 この戦いは五八九年の統一隋帝国の誕生から約百年続いた東アジアにおける力関係の全面的変動の過程に生まれた一こまであり、その性格は、日本と朝鮮諸国の中華冊封帝国に対する抵抗戦である。
 著者は、百済滅亡後、百済遺臣の拠点となった周留城を、熊津(ゆうしん)北方の全義地区であるとする少数説に立っています。そして、周留城救援の水上輸送は牙山湾経由であったとして、白村江は白石浦であったとする少数説に立っています。
 
 白村江は白石浦であったとする根拠として、著者は次のように、忠清南道の主要海港は牙山湾であったことを挙げています(19〜20ページ)。
 忠清南道の地図を見れば一目瞭然であるが、大河錦江は、忠清南道の全域をカバーして流れているが、それにも拘らずその流域の沿岸にそう熊清とか泗沘などの諸邑からも牙山まで陸路で輸送されていた。
 それが後代になると、牙山へ陸上輸送されてから海上輸送される納税穀物は、牙山湾に近い全義、燕岐など六邑だけに減少している。つまり他の諸邑は、錦江による水上輸送に切り替わったことを示している。それが物語ることは、李王朝の中宗時代前後までは錦江は、重量船の海上との直通輸送には難点があり、忠清南道の主要海港は牙山湾であったことを示している。
 錦江は、豪雨のたびに大量の土砂を流して、河口航路を変動し、河口の郡山の対岸に江口制水堤が四一〇メートルにわたり築造されるまでは、高潮時以外の出入りを困難とする泥堆河目底であった。
 昭和年代の調査でも、潮汐は江景上流一五キロまで達し、潮升は江景で四〜五メートル、熊津まで航行できる河川用船は五トンまで、低潮時でも江景まで自由に航行できる船の喫水は一メートル以内となっている。(朝鮮西岸水路誌)これでは万単位の兵力輸送は明らかに困難である。
 歴史的な百済の戦略面からしても、百済西海岸がうけた脅威は、常に北の高句麗、中国の楽浪郡、帯方郡、新羅が占領した漢江方面など北方からのものであって、南方から西海岸に脅威をうけたことはなかった。
 北方から百済西海岸を攻撃する北方諸族にとって、手近にある海港牙山湾を無視して、わざわざ江口通過に困難な錦江まで南下しなければならない必要性はなかったのである。
 さらに、著者は「白村江=白石浦」説を補強するものとして、「古代文化を考える」1984年11月号の金在鵬「周留成考証」の次の1節を挙げています(37ページ)。当時の倭人が、白石を「はくすき」と聞き、村落があることから「白村」と勘違いしたことから、日本書紀の白村江(はくすきのえ)という名称が生まれた可能性があるということなのかもしれませんが、著者はそのことについては全く触れていません。
 これら戦場の中心地全義は、熊津北方二八キロ車嶺山脈上の要害にあり、北上する二戦略路の交わる地点であり両路を有効に統制できる地区に当たる。周留城と同じく、車嶺山脈の西部にある任存城と周留城とは、牙山湾の白石浦(HAKUSUK)からそれぞれ三〇キロ余の地点にあり、白石浦が日本と高句麗からの両城に対する補給海港である。
 白石浦には村落、入り江、安城川があり「日本書紀」でいう白江、白村江は白石浦のことである。
 著者は、白村江の戦いについては、唐の水軍が先に白石浦に到着し、兵糧輸送任務を完了し、水上戦に備え堅陣を敷いていたのに対し、日本船団は周留城救援の陸兵輸送であり、艦隊と輸送船団の戦いであったと指摘しています。さらに、陸からの新羅軍の襲撃を危惧し、心理的に動揺して、最後は「気象も観ず」、個々の蛮勇にかけて殴り込みをかけることになったのではないかと見ています(123〜125ページ)。