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読書ノート / 古代史
「神話は編纂者たちによって創られたものである」 「第3章『日本書紀』研究の歩み」では、代表的歴史学者として津田左右吉(1873〜1961)を取り上げています。津田は、日本書紀と古事記について、合理的・実証的な解析を加え史料評価を行い、1920〜30年代に次々と研究成果を発表しました。1939年に、いわゆる津田事件が起こり、津田の研究は不敬罪にあたると告発され、津田は早稲田大学教授の職を辞し、本は発禁処分とされ、出版法違反で有罪判決(禁錮3ヶ月、執行猶予2年)を受けました。津田の研究は戦後再構成され刊行されています。 著者は、津田の結論を次のように紹介しています(47ページ)。
近年の聖徳太子研究について、著者は、大山誠一の聖徳太子虚構論(「聖徳太子」の誕生、聖徳太子の真実)を紹介しています。大山説では、厩戸王(うまやとのみこ)に関して歴史的事実と認定できるのは、@用明の子であること、A実名が厩戸であること、B斑鳩宮に住み斑鳩寺(法隆寺)を造ったこと、の3点だけで、それ以外の事跡はすべて後世の創作と見るべきであり、聖徳太子は中国の理想的な聖天使像、儒仏道三教の聖人として造形された、ということです(53〜54ページ)。
漢籍・仏典からコピーペースト 著者は、日本書紀について、(ア)出典論、(イ)紀年論、(ウ)区分論、の三つの角度からこれまで研究が積み重ねられてきたと述べています。 出典論については、次のように説明しています(55〜56ページ)。勝手にコピーペーストしまくったわけですが、江戸時代の学者はそのことに気づいていたということです。
「天皇号は、持統から始まった」 「第4章 天皇制度の成立」で、著者は、日本の「天皇」号は、天武の途中からではなく、持統から開始された可能性が高いと推定しています(67ページ)。 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と「辛亥年=471年と推定」の記載があることから、日本では5世紀後半に君主が「大王」の称号を名乗っていたことが判明しています(64ページ)。 一方、中国の『旧唐書(くとうじょ)』高宗本紀上元元年(674)8月条に「皇帝、天皇と称し、皇后、天后と称す」との記載があり、新羅の碑には「高宗天皇大帝」の語が見られます。つまり、唐の高宗が「天皇」号を用い、それが新羅を経由して、日本に伝わったものとの論じられています。また、明日香村の飛鳥池遺跡から見つかった7世紀末の木簡に「天皇」と記されていました。 天武は673年に即位し、持統は690年に即位していますから、「天皇」号は、天武の途中からあるいは、持統の当初から採用されたことになります。著者が、持統から開始されたと推定する理由を次のように説明しています(67ページ)。
「アマテラスは持統天皇をモデルに造型」 「第5章 過去の支配」では、「天孫降臨の段は政治的な側面が強くあり、皇位の正当性や皇位継承のあるべき姿、各氏族の利害関係などが濃密に連関している」と指摘しています(82ページ)。 著者は、『日本書紀』の神話は、天皇や氏族たちの正当性を述べる政治的な創作物であると述べ、次のように説明しています(84〜86ページ)。
日本書紀編纂期の天皇の交代を年代順にまとめると次のようになります。7世紀中ごろからは、クーデター(乙巳の変)、海外進出の挫折(白村江の戦い)、内乱(壬申の乱)と国内は大きく混乱します。 天武天皇は、国内体制の整備を目指して日本書紀の編纂を開始しますが、途中で死去します。後継を目された草壁皇子は若くして逝去したため、持統天皇が即位し、孫の軽皇子(かるのみこ)の成長を待ちます。14歳になった軽皇子は文武天皇として即位しますが、10年後に逝去します。 今度は、文武の母が元明天皇として即位し、孫の首皇子(おびとのみこ)の成長を待ちます。元明天皇に次いで、娘(首皇子のおば)が元正天皇として即位し、成人した首皇子に位を譲り、首皇子が聖武天皇として即位します。元明は日本書紀完成の翌年に他界しているので、孫の聖武の即位を見届けることはできませんでした。 持統は、女性天皇であり、しかも幼い孫に位を譲るのは、かなり無理があったのではないでしょうか。そこで、その前例として神話を作ったという可能性はありうるように思われます。権力をめぐる駆け引きと日本書紀編纂が互いに関連を持って、同時進行したということでしょうか。
「聖徳太子こそが日本の仏教の父」 「第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い」では、仏教や寺院をめぐる書物を取り上げています。 著者によれば、仏教伝来以来の受容をめぐる抗争史は、「後世に、ある思想・立場から構成された<創作史話>とすべきもの」であり、最大のスターは<聖徳太子>(厩戸王)であり、「『日本書紀』の記述に従うなら、日本仏教の開祖は聖徳太子であり、聖徳太子こそが日本の仏教の父ということになる」ということです(192〜193ページ)。 つまり、日本書紀によれば、天皇一族は神の末裔であるばかりではなく、一族のスター聖徳太子は仏教の父でもあるということになります。 現在では、聖徳太子といえば法隆寺を思い浮かべますが、それは明治になって、フェノロサや岡倉天心が、美術史の観点から法隆寺の仏像や建築を高く評価したからであって、江戸時代までは、第一に名が出るのは四天王寺だったということです。「『日本書紀』では四天王寺は聖徳太子建立の寺院であり、仏教興隆(三宝興隆)の象徴的、中心的寺院だと記述されている」のに対し、「法隆寺の扱いははなはだ冷淡と言わざるを得ない」と著者は述べています(194〜195ページ)。 聖徳太子建立とされる寺院としては、四天王寺(大阪市天王寺区)、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、広隆寺(京都市右京区太秦)、橘寺(奈良県高市郡明日香村)が有名ですが、それぞれライバル関係にあり、聖徳太子の伝記や聖徳太子と寺院との関係をめぐって対立する説を主張しています(195ページ)。 たとえば、聖徳太子の生没年についても、次の諸説が対立しています(200ページ)。
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