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 シリーズ<本と日本史> 1 『日本書紀』の呪縛 (集英社新書) 
 吉田一彦/著(集英社新書)2016/11/17

 2019/8/2
  本書は、日本書紀の概略や学説、最近の研究動向などをまとめた前半部(第1〜5章)と、日本書紀を継承あるいは反駁するため作られた数多くの書物を分析する後半部(第6〜12章)の2部構成となっています。
第1章 権威としての『日本書紀』
第2章 『日本書紀』の語る神話と歴史
第3章 『日本書紀』研究の歩み
第4章 天皇制度の成立
第5章 過去の支配
第6章 書物の歴史、書物の戦い
第7章 「国史」と「反国史」・「加国史」
第8章 『続日本紀』への期待、落胆と安堵
第9章 『日本書紀』の再解釈と偽書
第10章 『先代旧事本紀』と『古事記』
第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い
第12章 『日本霊異記』――仏教という国際基準
終章 『日本書紀』の呪縛を越えて 

「神話は編纂者たちによって創られたものである」
 「第3章『日本書紀』研究の歩み」では、代表的歴史学者として津田左右吉(1873〜1961)を取り上げています。津田は、日本書紀と古事記について、合理的・実証的な解析を加え史料評価を行い、1920〜30年代に次々と研究成果を発表しました。1939年に、いわゆる津田事件が起こり、津田の研究は不敬罪にあたると告発され、津田は早稲田大学教授の職を辞し、本は発禁処分とされ、出版法違反で有罪判決(禁錮3ヶ月、執行猶予2年)を受けました。津田の研究は戦後再構成され刊行されています。
 著者は、津田の結論を次のように紹介しています(47ページ)。
 まず、神話は一部に民間説話を含むとはいえ、その大部分は皇室による統治を権威化するために人為的に創作、構成されたもので、もともと人々に語り継がれてきたようなものではなく、編纂者たちによって創られたものである。
 次に、神武天皇から仲哀天皇にいたる記載は、歴史的事実を記録したものとは認めることができず、これらの物語を作った朝廷および諸氏族の思想を表現したものと見るべきである。また、応神天皇から持統天皇にいたる記載は、天武天皇・持統天皇の部分は実録の性格があり、記録の集成と認めることができるが、それ以外の部分は歴史的事実とは認められないものが多く、やはりこの書物が編纂された時代の思想を表現した史料としてとらえるべきであるという。
 津田は、この書物を事実の記録として読むのは誤りであるとし、そうではなく、この書物が作られた時代、すなわち七世紀末〜八世紀初めの時代の思想を表明した思想史の文献として読むべきであり、そう読解するなら極めて価値の高い文献であると論じた。私はこの理解は妥当なものだと評価している。 
 津田は、聖徳太子についても、太子伝説は「聖者を示すための創作である」(48ページ)とし、憲法17条は「太子の真作ではなく『日本書紀』が作成される過程で編纂者たちによって創作されたものであると結論した」(49ページ)と述べています。大化改新の「改新之詔」についても疑問を提起し、「この詔は全四箇条とも原文は綱目の部分だけと見るべきで、他の部分は『日本書紀』の編纂者が編纂段階で付加した文章にほかならないと論じた」(50ページ)と述べています。
 近年の聖徳太子研究について、著者は、大山誠一の聖徳太子虚構論(「聖徳太子」の誕生聖徳太子の真実)を紹介しています。大山説では、厩戸王(うまやとのみこ)に関して歴史的事実と認定できるのは、@用明の子であること、A実名が厩戸であること、B斑鳩宮に住み斑鳩寺(法隆寺)を造ったこと、の3点だけで、それ以外の事跡はすべて後世の創作と見るべきであり、聖徳太子は中国の理想的な聖天使像、儒仏道三教の聖人として造形された、ということです(53〜54ページ)。
 なお本書出版後の話ですが、文部科学省は、2017年2月、小学校教科書で、聖徳太子は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校教科書では「厩戸王(聖徳太子)」とする案を示しましたが、結局は「聖徳太子」に統一することで決着しました(指導要領に「鎖国」復活…どう考えればよい?)。保守派からの反発が強かったようです( 次期指導要領で「聖徳太子」復活へ 文科省改定案、「厩戸王」表記で生徒が混乱 「鎖国」も復活「厩戸王(聖徳太子)」 教科書記述めぐり国会激論)。 

漢籍・仏典からコピーペースト
 著者は、日本書紀について、(ア)出典論、(イ)紀年論、(ウ)区分論、の三つの角度からこれまで研究が積み重ねられてきたと述べています。
 出典論については、次のように説明しています(55〜56ページ)。勝手にコピーペーストしまくったわけですが、江戸時代の学者はそのことに気づいていたということです。
 出典論とは『日本書紀』の編纂者(執筆者)たちがどのような書物を参照、引用したかを解明する研究で、先にも述べたように、江戸時代の谷川士清、河村秀根、河村益根以来の研究の蓄積があり、近代では小島憲之の研究がよく知られている[小島憲之 一九六二〜五]。『日本書紀』には、『史記』『漢書』といった中国の書物(漢籍)や、あるいは仏典・仏書の文章を借用して文を作っているところがたくさんあり、それを明らかにするのがこの出典研究である。
 だが、漢籍や仏典・仏書からの「引用」と言っても、『日本書紀』の場合、書名を明記して引用するものではなく、断り無しに引用がなされている。「○○曰」として引用がなされるのではなく、一読では気がつかないように、そっと無断引用がなされるのである。しかも、それは文章のレトリック(修辞)として用いられるのみならず、記事の本体自体が先行する文献の文章の借用、あるいは変形転用である場合が少なからずある。そうなると、その記事は歴史的事実を伝えるものとはみなせず、先行文献の文章を加工して創作されたものということになる。わかりやすく言い換えるなら、『日本書紀』の文章のもと文探しがこの出典研究ということになる。 
 紀年論については、次のように説明しています(56〜57ページ)。年代設定に無理があることについても、江戸時代の学者はすでに気づいていたということです。
 『日本書紀』には、また、年代の矛盾や不合理があり、江戸時代の学者がすでに問題にしていた。『日本書紀』の時間が、どのような年代観に基づいて設定されているのかを明らかにするのが紀年論である。……
 明治時代の学者那珂通世(なかみちよ、一八五一〜一九〇八)は、三善清行から江戸時代にいたる議論をふまえて、『日本書紀』の神武紀元は、六十年を一元、二十一元を一蔀とする理解に基づいて人為的に設定されたものであり、推古九年(六〇一、辛酉)を起点にそこから一蔀(ぼう)すなわち一二六〇年前にさかのぼった年を神武創業の大革命の年次と定めたものであると論じた。この説は大いに注目され、さまざまな議論が巻き起こった。出版界もこの議論に注目し、さまざまな特集を組んで、論争を後押しした。神武紀元をどう理解するかをめぐっては、その後、一蔀を一二六〇年とするか、一三二〇年とするかをはじめとして諸々の理解が提案され、未だ決着にはいたっていない。 
 区分論については、次のように説明しています(57〜58ページ)。
 『日本書紀』全三十巻には、また、巻ごとに用語、用字、文体などの違いが見られる。それらに着目して、巻々のグルーピンクを行なってグループごとの特色を明らかにし、成立の前後関係や、編纂者(執筆者)の違いを考究するのが区分論である。
 この区分論からのアプローチも長い研究の蓄積がある。森博達の整理によるなら、『日本書紀』が他の見解を引用する際、巻によって「一書曰」「一本云」「一云」「或云」などというように表現に違いが見られることが注目され、また巻ごとに使用語句や万葉仮名(字音仮名)の用字に違いが見られ、さらには巻ごとに分注が多かったり少なかったりし、巻ごとに語法に大きな差異が見られることが指摘されてきた。そして、これらに基づいて各巻のグルーピングがなされてきた。 
 日本書紀では、多数の漢籍を使用していますが、そのほとんどは原典からの引用ではなく、中国の「類書」からの孫引きだそうです(59ページ)。類書とは諸々の書物からテーマごとに文章を抜き出し部門別に分類して配列した百科全書的な書物ということです。つまり、お手軽な参考書のようなものを利用したわけです。

「天皇号は、持統から始まった」
 「第4章 天皇制度の成立」で、著者は、日本の「天皇」号は、天武の途中からではなく、持統から開始された可能性が高いと推定しています(67ページ)。
 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と「辛亥年=471年と推定」の記載があることから、日本では5世紀後半に君主が「大王」の称号を名乗っていたことが判明しています(64ページ)。
 一方、中国の『旧唐書(くとうじょ)』高宗本紀上元元年(674)8月条に「皇帝、天皇と称し、皇后、天后と称す」との記載があり、新羅の碑には「高宗天皇大帝」の語が見られます。つまり、唐の高宗が「天皇」号を用い、それが新羅を経由して、日本に伝わったものとの論じられています。また、明日香村の飛鳥池遺跡から見つかった7世紀末の木簡に「天皇」と記されていました。
 天武は673年に即位し、持統は690年に即位していますから、「天皇」号は、天武の途中からあるいは、持統の当初から採用されたことになります。著者が、持統から開始されたと推定する理由を次のように説明しています(67ページ)。
 私は、日本の「天皇」号は、ペアになる称号が「天后」になっておらず、ために「天皇・天后」とならず、もとより「皇帝・皇后」のペアでもなく、「天皇・皇后」という独特のペアになっていることに注目したい。これは、称号導入時に「天后」にあたる人物が存在せず、時間の経過ののちにあらためて「皇后」の称号が導入・採用されるようになったことを示唆している。ここから、私は、日本の「天皇」号は天武の途中からではなく、持統から開始された可能性が高いと推定している。だとすると、日本の「天皇」はその最初が女帝だったということになる。
 また、『養老令』では君子の称号として、「天子」「天皇」「皇帝」「陛下」が併記されており、『続日本紀』でも天皇を指す言葉として「皇帝」の語が用いられていることを指摘し、天皇がもとは中国の言葉であり、皇帝の言いかえとしてこの語を導入したのであり、当時の貴族層はそのことを認識していたと著者は推測しています(68〜69ページ)。

「アマテラスは持統天皇をモデルに造型」
  「第5章 過去の支配」では、「天孫降臨の段は政治的な側面が強くあり、皇位の正当性や皇位継承のあるべき姿、各氏族の利害関係などが濃密に連関している」と指摘しています(82ページ)。
 著者は、『日本書紀』の神話は、天皇や氏族たちの正当性を述べる政治的な創作物であると述べ、次のように説明しています(84〜86ページ)。
 持統天皇は、夫天武の死後、二人の間の子である草壁皇子(くさかべのみこ)の即位を望み、ライバルを倒して彼を後継者の位置に据えた。しかし、草壁皇子は即位をまたず、早世してしまった。草壁皇子が残した子の軽皇子はまだ幼少であった。持統天皇は今度は孫の軽皇子を後継者とするべく、彼の成長をまった。軽皇子は成長し、ついに六九七年に即位して天皇となった。これが文武天皇である。黛弘道が述べたように、神々の世界の中心に位置するアマテラスは持統天皇をモデルに、その孫として葦原中国すなわち日本国を統治するニニギは軽皇子をモデルとして造型されたが、しかし、この政局にはまだ続きがあった。
 周囲の期待のもと待望の即位を果たした文武天皇は、大宝二年(七〇二)に持統太上天皇が死去すると、まもなく慶雲四年(七〇七)に死去してしまった。在位は十年間、わずか二十五歳での早世であった。文武は子の首皇子(おびとのみこ)を残した。皇子の母は藤原不比等の娘の宮子であった。
 首皇子の天皇即位は、残された持統天皇の一家にとって、また祖父の藤原不比等にとっての悲願となった。だが、首皇子はまだ幼少であり、周囲の政治情勢も整ってはいなかった。そこで、文武の母(草壁皇子の妃)の阿閇(あへ)内親王が即位し、首皇子の成長をまつこととした。これが元明天皇である。彼女と首皇子との関係もまた祖母と孫ということになる。
 私は、『日本書紀』編纂の前期の段階では、アマテラスは持統天皇を、ニニギは軽皇子をモデルに造型されたと考えるが、文武天皇が死去し、元明天皇が即位したあと、すなわち編纂の後期になると、アマテラスには元明天皇が、ニニギには首皇子が重ね合わされるようになっていったと考えている。したがって、アマテラスのモデルは第一に持統天皇、第二に元明天皇を、ニニギのモデルとしては、第一に軽皇子を、第二には首皇子を比定すべきだと考える。
 持統天皇と軽皇子、元明天皇と首皇子の関係を系図で示すと次のようになります(85ページ)。
 
 日本書紀編纂期の天皇の交代を年代順にまとめると次のようになります。7世紀中ごろからは、クーデター(乙巳の変)、海外進出の挫折(白村江の戦い)、内乱(壬申の乱)と国内は大きく混乱します。
 天武天皇は、国内体制の整備を目指して日本書紀の編纂を開始しますが、途中で死去します。後継を目された草壁皇子は若くして逝去したため、持統天皇が即位し、孫の軽皇子(かるのみこ)の成長を待ちます。14歳になった軽皇子は文武天皇として即位しますが、10年後に逝去します。
 今度は、文武の母が元明天皇として即位し、孫の首皇子(おびとのみこ)の成長を待ちます。元明天皇に次いで、娘(首皇子のおば)が元正天皇として即位し、成人した首皇子に位を譲り、首皇子が聖武天皇として即位します。元明は日本書紀完成の翌年に他界しているので、孫の聖武の即位を見届けることはできませんでした。
 持統は、女性天皇であり、しかも幼い孫に位を譲るのは、かなり無理があったのではないでしょうか。そこで、その前例として神話を作ったという可能性はありうるように思われます。権力をめぐる駆け引きと日本書紀編纂が互いに関連を持って、同時進行したということでしょうか。
645 乙巳の変 
663 白村江の戦い 
672 壬申の乱 
681 日本書紀編纂開始 
686 天武天皇死去 
689 草壁皇子(662〜689)死去 
690 持統天皇(645〜703)即位 
697 文武天皇(683〜707)即位 
703 持統天皇死去 
707 文武天皇死去 
707 元明天皇(661〜721)即位 
710 平城京遷都 
715 元正天皇(680〜748)即位 
720 日本書紀完成 
721 元明天皇死去 
724 聖武天皇即位(701〜756) 

「聖徳太子こそが日本の仏教の父」
 「第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い」では、仏教や寺院をめぐる書物を取り上げています。
 著者によれば、仏教伝来以来の受容をめぐる抗争史は、「後世に、ある思想・立場から構成された<創作史話>とすべきもの」であり、最大のスターは<聖徳太子>(厩戸王)であり、「『日本書紀』の記述に従うなら、日本仏教の開祖は聖徳太子であり、聖徳太子こそが日本の仏教の父ということになる」ということです(192〜193ページ)。
 つまり、日本書紀によれば、天皇一族は神の末裔であるばかりではなく、一族のスター聖徳太子は仏教の父でもあるということになります。
 現在では、聖徳太子といえば法隆寺を思い浮かべますが、それは明治になって、フェノロサや岡倉天心が、美術史の観点から法隆寺の仏像や建築を高く評価したからであって、江戸時代までは、第一に名が出るのは四天王寺だったということです。「『日本書紀』では四天王寺は聖徳太子建立の寺院であり、仏教興隆(三宝興隆)の象徴的、中心的寺院だと記述されている」のに対し、「法隆寺の扱いははなはだ冷淡と言わざるを得ない」と著者は述べています(194〜195ページ)。
 聖徳太子建立とされる寺院としては、四天王寺(大阪市天王寺区)、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、広隆寺(京都市右京区太秦)、橘寺(奈良県高市郡明日香村)が有名ですが、それぞれライバル関係にあり、聖徳太子の伝記や聖徳太子と寺院との関係をめぐって対立する説を主張しています(195ページ)。
 たとえば、聖徳太子の生没年についても、次の諸説が対立しています(200ページ)。
書物  守屋征伐時(587) 生没年 
日本書紀  15、16歳の間  〜621 
聖徳太子伝暦(四天王寺系)  16歳  572〜621
上宮聖徳法王帝説(法隆寺系) 14歳  574〜622 
上宮聖徳太子伝補闕記(広隆寺系) 14歳 574〜622
上宮厩戸豊聡耳皇太子伝(橘寺系) 15歳   573〜621
 著者は次のように述べ、四天王寺は日本書紀の記述を踏襲するのに対し、法隆寺はそれに反駁する傾向があると指摘しています(201ページ)。
 『日本書紀』では、四天王寺ははっきりと聖徳太子発願、創建の寺院とされ、仏法興隆(三宝興隆)の象徴的、中心的寺院と描かれているのに対し、法隆寺はそうなっていなかった。
 四天王寺は『日本書紀』の記述を自らの寺の最大の特色であると位置づけ、聖徳太子信仰を寺の根本のコンセプトとした。聖徳太子の諸々の事績や四天王寺と聖徳太子との関係については、『日本書紀』の記述に依拠すればよく、それを継承、発展させれば事足りた。
 これに対し、法隆寺は、聖徳太子信仰に関して、四天王寺に大きく後れをとって出発せざるを得なかった。『日本書紀』の記述によるばかりでは、四天王寺の後塵を拝するよりなかった。そのため、法隆寺は『日本書紀』の記述をあえて否定するような言説をしばしば主張した。