top /
読書ノート / 古代史
異常なまでに大規模な墳丘、度をこえた厚葬 日本の古墳では、大仙陵古墳が最大規模ですが、次の表が示すように、新羅や高句麗の最大規模の古墳と比べて突出した大きさです。
このような状況を、著者は次のように述べて、「異常なまでに大規模な墳丘」「度をこえた厚葬」と表現しています(12〜13ページ)。
つまり、前方後円墳という統一された形式の墓が各地に作られ、その大きさに序列があることから、中央勢力と地方勢力との間に本家と分家のような上下秩序があったことが推測される一方で、日本の古墳が、新羅や高句麗のように王都に集中しないで、各地に分散していることから、地方勢力がある程度の自立権を保持した地域連合のような支配体制であったと推測されるということでしょうか。
古墳の出現年代は3世紀中庸? 古代国家の形成過程を探るための史料としては、日本書紀と古事記がありますが、8世紀の天皇支配の正当性を主張することが目的であり、当時の支配者層の国家形成史観を記述したものにほかならず、5世紀以前の時代については、「史料としての射程が及ばない」(15ページ)と、著者は述べています。 魏志倭人伝(3世紀の卑弥呼・邪馬台国について記述)や、宋書倭国伝(5世紀の倭の五王について記述)など中国の文献は貴重な史料ですが、4世紀の史料が欠けています。 そこで、考古資料が重要な役割を果たします。 考古資料の年代決定方法には、型式学的方法と層位学的方法(考古学のキホン−古いか新しいかを知るには−)がありますが、相対的な前後関係しか分かりません。 稲荷山古墳のように、出土した鉄剣の銘文に「辛亥年」の記載がある場合は暦年代を決定できますが、そのような例は極めて稀です。 しかし、年輪年代法の研究が進み、古代の木材が切り出された年が1年単位で判明するようになりました。その結果、古墳の出現年代が3世紀中庸過ぎまで遡る可能性が高くなり、邪馬台国から古墳時代へスムースにつながるようになったということです(18ページ)。 ただし、日本古代史ネットワークという団体が、このデータに疑問を示し(年輪年代法の問題点―弥生古墳時代の 100 年遡上論は誤り)、奈良文化財研究所に基礎データの開示を求め提訴しています(奈文研の「年輪年代法」データ不開示、市民団体が提訴)。 庄内式土器の時代は転換期 弥生時代から古墳時代への転換は、土器、集落、墳丘墓について確認されます。 土器は、弥生土器から土師器へと変遷します。いずれも赤焼きの土器ですが、弥生土器は地域的特色が豊かであるのに対し、土師器では各地の共通性が著しくなります。布留式土器は土師器に分類されていますが、庄内式土器については見解が分かれています。庄内式土器の時代には、地域を越えた土器の移動が顕著となります。 集落の形態では、弥生時代の環濠や土塁が、庄内式土器の時代になると、姿を消して行きます。 墳丘墓は、弥生時代から大型化し始め、後期には古墳と呼んでも良いくらいの規模になっていました。このころには、墳丘の形態や葬送儀礼に地域ごとの共通性が見られるようになり、地域的な首長同盟、首長連合が成立していたことが推測されます(34ページ)。
箸墓古墳が卑弥呼の墓? 著者は、邪馬台国畿内説の立場で、奈良県桜井市の箸墓古墳が卑弥呼の墓だと推測しています。 古墳出現期の各地の墳丘墓は、竪穴式石室の前方後円(方)墳という画一的な形態で、副葬品の組合せや配置に至るまで共通しているのが特徴です。著者はそのような特徴を持つ墳丘墓を代表するものを箸墓古墳と見ており、それ以前の墳丘墓を単に墳丘墓と呼んでいます(46ページ)。 箸墓古墳は、宮内庁が管理していて内部の調査はできませんが、周辺部の調査から、庄内式の最新段階と見られています。この年代は4世紀始めころと考えられてきましたが、前述のように、最近の研究によれば、3世紀中庸過ぎまで遡る可能性が高くなって来ました。 魏志倭人伝によれば、「倭国は7〜80年の騒乱の後、卑弥呼を女王とし混乱が収まった。卑弥呼は238年、魏に使いを送り親魏倭王に任じられた。卑弥呼は247年ごろ死去し塚がつくられた。」ということです。箸墓古墳の築造が3世紀中庸過ぎまで遡れるならば、年代的には卑弥呼の墓である可能性が出てきます。 弥生時代に入ると、多くの地域で鉄器の使用が始まり、弥生時代後期には、本格的な鉄器の時代に入ります。日本で製鉄が始まるのは6世紀以降と考えられているので、それまでは朝鮮半島南部の弁辰(弁韓、後の伽耶あたり)から入手していました(57〜58ページ)。 鉄の輸入ルートをめぐり、3世紀初頭に畿内・瀬戸内連合が北部九州勢力に勝利を収め、その争いが「倭国騒乱」であり、畿内・瀬戸内連合が邪馬台国であると、著者は見ています。九州勢力が東遷したとする説については、「畿内や吉備の土器は北部九州へ移動してしているが、北部九州の土器の畿内や吉備への移動はほとんどみられない」(60ページ)ことから、著者は否定的立場です。 西日本における出現期の古墳の分布は、次の図(55ページ)のようになっています。畿内と吉備に大型の古墳があり、北部九州の古墳は小規模です。箸墓古墳は特に巨大で、畿内を中心とした、地域勢力間の序列化が確認できます。 3世紀初頭に邪馬台国(畿内・瀬戸内連合)が勝利を収めたとすると、卑弥呼の時代は、転換期(庄内式土器の時代)にあたります。卑弥呼の死後、古墳時代が始まることになりますが、その変遷の過程を、著者は次のように説明しています(63〜64ページ)。
大和川流域がヤマト王権の原領域 著者は、古墳時代により始まった、広域の政治連合をヤマト政権と呼び、この政治連合の中核を構成した畿内の首長連合の盟主であった王権をヤマト王権と呼んでいます。 著者は、大和川流域の大和と河内が、ヤマト王権の原領域であると考えています。次の図(75ページ)のように、近畿中央部の出現期の大規模古墳は奈良盆地東南部に集中しており、このあたりがヤマト王権の拠点であり、大和川流域に支配を広げていたことがうかがえます。 このヤマト王権の拠点は、現在の天理市から桜井市にかけての山麓沿いにあたります。王塚の候補としては次の6基があります。古墳が築造されたのは、3世紀半ばから4世紀半ばにかけてと見られていますから、平均在位は16年ほどとなります。 築造順は次のように推定されています 箸墓→西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行灯山・渋谷向山
奈良盆地北部を経て大阪平野南部へ 大型古墳の所在地は、奈良盆地東南部の「やまと」(天理・桜井市)から、4世紀後半には、奈良盆地北部の曾布(そふ)の地の佐紀(さき)古墳群周辺(奈良市)に移ります。さらに5世紀に入ると、大阪平野南部の古市(ふるいち)古墳群(羽曳野・藤井寺市)および、百舌鳥(もず)古墳群(堺市)に移ります。 それぞれの位置関係は次の図(111ページ)のとおりです。 奈良盆地北部の曾布の地の佐紀古墳群周辺(奈良市)には、4世紀中ごろになって、突然、大規模古墳群が現れます。王塚の候補としては次の4基があります。古墳が築造されたのは、4世紀後半と見られていますから、平均在位は12年ほどとなります。
五社神→宝来山→佐紀陵山→石塚山 それぞれの位置関係は次の図(112ページ)のようになっています。宝来山古墳は西南方やや離れたところにあります。王塚の候補を青線で囲みました。 古市古墳群では、4世紀後半から6世紀にかけて古墳が築造されています。そのうち次の7基が王墓と考えられています。ボケ山、白髪山、高屋城山はあまり大きくないですが、古墳時代後期には古墳の規模が小型化しているので、こうの程度の規模でも王墓と考えられないことはないということです。
百舌鳥古墳群では、4世紀後半から5世紀後半にかけて古墳が築造されています。そのうち次の3基が王墓と考えられています。
古市古墳群と百舌鳥古墳群の王墓候補の古墳を築造順に並べると次のようになります。5世紀前半、ヤマト政権の盟主墓は、古市古墳群と百舌鳥古墳群の間で、交互に営まれたことになる、と著者は見ています。
と百舌鳥古墳群の大仙陵古墳でピークを迎えます。6世紀に入ると一気に小型化し、数も激減します。7世紀に入ると前方後円墳は姿を消し、 円墳や方墳となり、古墳時代は終了します。 神功・応神・仁徳は実在が疑わしい 神功皇后から武烈天皇までの在位期間と王塚候補数の関係をおおまかにまとめると次のようになります(天皇系図参照)。
応神天皇と仁徳天皇の在位期間は、古墳時代の幕開けから佐紀古墳群周辺に王墓が築造された時代と重なります。この期間の王塚候補は10基 ですから、平均在位期間は13年ぐらいです。ところが、応神天皇は在位40年です。しかも、即位したのは70歳になってからですから、110歳まで生きたことになります。仁徳天皇は在位86年ですから、40歳で即位したとしたら126歳の長寿となってしまいます。 一方、履中から武烈まで9代で王塚候補は10基ですから、天皇の数と王塚候補数はほぼ同じです。 以上を考えると、神功・応神・仁徳は実在が疑わしいということになります。 |