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読書ノート / 通史
内容は次のようになっています。研究者が執筆を分担しており、歴史研究の最前線を紹介するコラム集としても楽しめます。
大和朝廷から大和政権へ 【大和朝廷 ――「大和政権」と表記するようになった理由】では、「大和朝廷」問題を取り上げています。 以前の教科書では、古墳時代の奈良盆地を中心とする政治権力は大和朝廷と呼ばれていました。
自民党の先生方は歴史研究の動向には興味がない? 自民党の調査によると、次のように「大和朝廷」という用語を使わない教科書が主流となっています。なお、学習指導要領では「大和朝廷」となっていますが、そのように表記しなくても不合格とはならないようです。 本書によれば、天皇号が登場するのは、推古朝(6世紀末〜7世紀初)あるいは天武朝(7世紀末)とされており、それ以前は大王を中心とした政治連合体だったので、朝廷というよりも政権(王権)と呼ぶ方が適切だということです。さらに、「大和」というのは8世紀後半に施行された養老律令の行政区画名であって、「大和」の範囲と4〜5世紀の政治勢力の中心範囲とは異なっています。そこで最近では、「ヤマト政権」や「ヤマト王権」と呼ぶのが一般的になりつつあるということです(41〜42ページ)。(「大和朝廷を勝手に言い換えるのは怪しからん」ということのようですが、自民党の先生方は歴史研究の動向には興味がないのでしょうか) 政治連合誕生には、鉄の入手ルートの確保が関係 本書では、このような政治連合誕生には、鉄の入手ルートの確保が関係していると指摘しています。 当時、鉄の製造技術がなかった日本列島では、朝鮮半島南部の伽耶(かや)から鉄を入手していましたが、半島北部の高句麗が巨大化し、百済を圧迫し始めます。鉄の入手が困難になることを恐れたヤマト政権は百済の要請を受け、各地の豪族に参加を呼びかけ連合軍を派遣します。これをきっかけに、より広範囲な政治連合体が形成されたというのです。 ヤマト政権に関係する歴史事実を年表にまとめると次のようになります。 纒向遺跡の箸墓古墳の築造時期が、近年4世紀前半から3世紀後半に改められ、古墳時代の始まりも早められました。3世紀後半というと卑弥呼の没年と近いことから、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説もあります。 七支刀銘文から、4世紀後半、百済王世子と倭王と間に何らかの関係があったことが推測されています。好太王碑文には、391年、倭軍が朝鮮半島に出兵したとあります。 誉田御廟山古墳と大仙古墳は5世紀の築造と推定されるので、このころヤマト政権の中心は大阪に移動していたことが推測されます。 埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」「辛亥年(471年)」の文字が確認され、熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の銘文にも「獲□□□鹵大王」の文字が確認されています(3字は判読不能)。「獲加多支鹵」は「ワカタケル」という日本語音を漢字で表示したものと推定されています。つまり、5世紀には、ヤマト政権の政治連合に、関東と九州の豪族が参加していたことが推測されます。
「伝仁徳天皇陵」 【仁徳天皇陵 ――世界最大の古墳と習ったはずだが……】では、大仙古墳(伝仁徳天皇陵)問題を取り上げています。 仁徳天皇陵は、現在の教科書では、大仙古墳、大山古墳などと呼ばれています。 宮内庁では、日本全国の約16万基ある古墳の一部を陵墓と比定し、皇室財産ということで発掘を許可していません。 次のように堺市にある3つの古墳は、仁徳、履中、反正の各天皇の陵墓とされています。古墳の形状や円筒埴輪の形式などから、3つの古墳を古い順に並べると次のように、履中、仁徳、反正の順になります。一方、古事記や日本書紀の記述によれば、築造順は、仁徳、反正、履中となります(48ページ)。したがって、考古学者らは大仙古墳を仁徳天皇陵とすることには否定的で、「伝仁徳天皇陵」としています。
仁徳は実在の人物? 日本書紀によると、次の系統図(遠山美都男「名前でよむ天皇の歴史」64ページ)のように16代天皇が仁徳で、17代が履中、18代が反正となっています。すると、陵墓の築造順は、仁徳、履中、反正となるはずです。さらに疑問なのは、仁徳天皇の在位が86年もあることです。仁徳の父の応神天皇は神功皇后の息子とされていますが、母の神功皇后が70年も摂政を務めたため、天皇に即位したのは70歳のときで、それから40年間在位して110歳で死去したとされています。仁徳が、仮に応神が70歳のときの子であったとしたら、仁徳が即位したのは40歳のときとなります。それから86年在位したのだから、126歳のスーパー長寿だったことになります。仁徳は実在の人物と考えるのは、かなり無理があるようです。 |