top /
読書ノート / 中近世史
出版社の説明によると、本書は「1975年に小学館より刊行された、『日本の歴史』第15巻『織田・豊臣政権』を底本とした」ということです。デジタル大辞泉によると、底本(ていほん)とは「写本や複製本の原本。また、翻訳・校訂・注釈などの際、よりどころとする本。そこほん」ということですが、ここでは、絶版になった『織田・豊臣政権』を文庫本として復刻(あるいは加筆)するという意味のようです。 著者は、この本の性格を次のように説明しています。
本書前半部の信長時代は、一向一揆と石山戦争を軸に話は展開し、桶狭間の戦いや姉川の合戦、長篠の戦いなどにはほとんど触れていません。 それは、著者の関心が、信長の支配体制の分析にあり、その確立は、一向宗の寺内(寺や道場を中心に発達し、治外法権的な特権を持った集落)解体とその背後にある石山本願寺権力の壊滅にあると見ているからだと思われます。 桶狭間の戦い(1560年)から美濃制覇(1567年)、入洛(1568年)、姉川の合戦(1570年)を経て、畿内まで勢力を拡大しますが、石山戦争(1570〜1580年)の間、石山本願寺と連携した包囲網と各地の一向一揆に悩まされますから、信長の支配体制の確立は宗教勢力との争いであったともいえます。 また、著者は、楽市楽座の狙いは、寺内の解体と「一向一揆の流通路(大阪通路)の破砕」にあったと見ていますが、信長の政策をそこまで一向一揆対策に還元してよいのかなという気もします。 本書後半部の秀吉時代は、国替えと太閤検地による支配体制の強化と朝鮮侵略への動員体制の完成を軸に展開します。 寺内解体、国替え、検地は信長時代に始まっていますが、秀吉はそれを全国規模で完成したものといえます。検地は豊臣政権の吏僚(石田三成、増田長盛、大谷吉継ら)が乗り込んで、各地の生産力を確認し石高に換算するものですから、それにより各大名の経済力を把握し、島津討伐、小田原攻め、朝鮮侵略の軍役の基礎とすることができます。 一方で、検地により、農地の生産力を確実に把握することができますから、領主の直接的支配力は高まり、相次ぐ軍役と重なって年貢取立ては厳しさを増し、一揆や逃散が相次ぐこととなります。 秀吉の朝鮮侵略のきっかけについて、著者は次のように述べています(193ページ)。信長がどれだけ具体的に中国侵略を計画していたのか疑問も感じますが、秀吉の大陸侵略は信長の意志を受け継いだものということでしょうか。それにしても、「日本の中世国家が、東アジア世界のなかで中国の権威と深くむすびついてなりたっていたという、史的背景にかかわるものであった」というのはよく分からない表現です。
|