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読書ノート / 中近世史
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その「論理」とは、次のようなものです(220ページ)。
@については、源氏将軍は、頼朝、頼家、実朝の三代で途絶え、後は頼朝の姉の血筋を継ぐ摂家将軍二代、その後は源氏の血筋とは無縁な親王将軍が四代続いています。ここに至っては、もはや「源頼朝の後継者」とは言えない感じもしますが、著者はこの点について、次のように説明しています(195〜196ページ)。
Aは、北条義時は武内宿禰の生まれ変わりだという伝説です。 著者によると、この話は「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」(1254年)と「平政連諫草(たいらのまさつらかんそう)」(1308年)で触れられており、「鎌倉末期にはこの伝説が鎌倉幕府中枢を含めた武家社会知識層の間に広く知られていたことを示している」(85ページ)とのことです。 北条義時と武内宿禰を比較すると次のようになります。著者は、A、B、Cの類似を指摘し、さらに、D「ともに追討命令を蒙るも助かった」ことに王朝貴族が飛びついたと推測しています。天皇の追討宣旨を蒙りながら、それに反抗し勝利するということは、まさにあってはならない驚天動地の事態であり、「追討命令を蒙るも助かった」先例を武内宿禰に見出し、北条義時は武内宿禰の生まれ変わりだという伝説につながったというものです。そして、北条政権を正当化する根拠として、その伝説が鎌倉武家社会に受け入れられたとするのです。
Bについては、「得宗」は北条義時に関係する何かであるとされているそうですが、「得宗が義時と結びつく語であることを示す史料は、実は極めて少な」 く、「実はよくわからない」と著者は述べています(90ページ)。 著者は「佐野本北条系図」によれば、浄土系信者であった義時の法名は「観海」であった可能性が高いとし、「得宗」が本来の義時の法名であったとする説を否定しています(92ページ)。 そして、「得宗」は「徳崇」の当て字、略字であり、「徳崇」は時頼が曽祖父義時に贈った禅宗系の追号であったと推測しています。庶子であり北条家家督としての正統性を欠く時頼が、同じく庶子でありながら家督を継承した義時に「徳崇」の追号を贈り、自らの法名に「道崇」を選び共通性を誇示したというのです(95ページ)。 かくして、著者の言う「北条氏の鎌倉幕府支配を支えた論理」が完成するわけですが、推論に推論を重ねているという感じがしないでもありません。 著者は、鎌倉武士の知的レベルについて次のように述べています(10ページ)。
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