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読書ノート / 中近世史
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「海賊とパイレーツは全く異なる」 著者は次のように、日本の海賊とパイレーツは全く異なると述べています(3〜4ページ)。
海賊には、4つのタイプ 著者によると本源的な姿から変貌成長する海賊は、次のような4つのタイプにまとめることができるということです (190〜203ページ)。
Aは、荘園領主や国家権力に反抗したため海賊と呼ばれたタイプです。領主や権力者にとって反逆者=賊となります。藤原純友 は、そのような意味で大規模な海賊となります。 Bは、安全保障者としての海賊です。瀬戸内海の村上氏のように、有償で通行許可状等を発行し、広範な支配領域内での通行の 安全を保障するというタイプです。 Cは、水軍としての海賊です。戦国大名に海上の軍事力として雇われるタイプです。瀬戸内海の村上氏のように、普段は安全保障者として、通行料徴収などで生計を立て、戦時には水軍として雇われるタイプもあります。 @とAは、古代から存在するタイプで、賊としてのマイナスイメージが強いです。一方、BとCは、中世後期になって登場した タイプで、海賊と呼ばれているものの賊としても印象は弱まり、プラスイメージが強くなります。 ただし、Bも海上通行料の徴収という形であっても、運搬船から金品を奪うという点では@と共通する部分があり、賊というイメージは完全には払拭できないように思えま す。 変わりつつある純友のイメージ 「第1章 藤原純友の実像」では、Aのタイプの海賊である藤原純友を取り上げています。日本史上の記録に海賊の記述が最初 に現れるのは838年で、9世紀後半に増え始め、その後沈静化するものの、930年代に再び増え始めます。藤原純友が登場す るのはそのような時期です。
純友の出自については、伊予の豪族の出身であるという史料と律令官人藤原氏の一族であるという史料(尊卑分脈)がありま す。近年では「尊卑分脈」の方が信憑性が高いとされているそうです。「尊卑分脈」によると、純友の系図は次のようになってい ます( 愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱)。 ![]() 「尊卑分脈」によると、純友は藤原北家に属し、大叔父には藤原家で最初に関白となった基経がいます。基経の子の忠平は、承 平・天慶期の最高権力者の地位にあった人物です。このような点から見て、本書の著者は純友は「決して傍流ではなく、中央の権 力の中枢に意外に近いところにいた」と評価しています(46ページ)。 一方、愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱 では、次のように述べています。
純友が承平年間に海賊を率いて蜂起したと云われてきたのは、「日本紀略」承平6年6月条に「南海賊徒首藤原純友」という記 載があるからですが、これは後世の潤色のようで、別の史料では、純友はこの時期に前掾(さきのじょう)として、海賊追捕を命 じられ、都から伊予に向かったことになっています。ということは、それ以前に伊予掾の任期を満了していたことになりますが、 具体的な時期は分からないようです。 純友が反乱を起こすきっかけとなったのが、天慶2(939)年12月26日に備前介の藤原子高(さねたか)を襲撃した事件 とされています。この事件は、純友の盟友・藤原文元(ふみもと)が、摂津の須岐駅(現在の芦屋市)で子高を襲撃し、とらえ、 子高の子息を殺害したというものです。愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱によると、播磨介嶋田惟幹も子高と共に虜掠され たということです。この襲撃について、本書の著者は、純友は子高と文元のトラブルを調停しようとしたがうまくいかなかったた め、襲撃事件として表面化したと見ています(54〜55ページ)。ただし、このような事件を起こしたにもかかわらず、律令政 府は融和的な態度をとり、天慶3年正月には、純友を従五位下に叙しています。これは、将門への対応をふまえて、両面作戦を避 けるためであったと、本書の著者は見ています(56ページ)。一方、 愛媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱は「これらを皆東国における将門の乱の激化を 配 慮しての純友懐柔策ということのみで解釈するのは困難である。結局政府首脳は天慶二年末の純友の兵士らによる国司襲撃を、いかなる意味でも国家への反逆行 為とはみなしていなかったとせざるを得ないし、逆に純友の側にもそのような意図があったとは考え難いのである」と述べていま す。備前と播磨の介(現在で言うと副知事)を拉致して、おとがめなしということでしょうか。
![]() 西日本の地形 図は次のようになっています(デ ジタル標高地形図「中国」 )。四国地方は、南側3分の2は山が連なっているので、平地は瀬戸内海沿岸に集中して います。中国地方も、平地は播磨・備前・備中・備後の山陽側に広がっています。つまり、瀬戸内海沿岸部は、土地の生産性が高く、人口も集中していたと思われます。また、瀬戸内海は海上交通の大動脈で、無数の島が点在し、海賊にとって格好の拠点となります。そして、伊予の国府(現在の今治市)と讃岐の国府(現在の坂出市)は陸海交通の要所であったといえます。 ![]() 8月になって、純友の率いる海賊勢力が活発化した理由については、本書には述べられていませんが、 愛媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱では、次のように述べています。純友のもとに集まった海賊勢力が膨張するにつれ、統制が効かなくなり過激化し、純友自身も中央政府との全面対決を余儀なくされたということでしょうか。
天慶4年になると流れが変わり、純友は北九州方面に活動の場を移すが、大宰府や博多津で政府軍に敗れ、6月20日に伊予で息子重太丸とともに討ち取られ、残党も播磨や但馬で討ち取られ、乱は終息します。
特異な武士集団「松浦党」 「第2章 松浦党と倭寇」は、肥前国の松浦地方の中小武士団群・松浦党を取り上げています。松浦は地名では「まつうら」と呼ばれますが、氏族名では「まつら」と発音されます。 今日でも、松浦市のほかに松浦地域という呼び方が残っています。国土交通省は、東松浦地域と北松浦地域を半島振興対策の対象としています(地方振興:東松浦地域(佐賀県、長崎県) - 国土交通省、地方振興:北松浦地域(佐賀県、長崎県) - 国土交通省)。もともとは、松浦郡は肥前国の北西部を占めていましたが、明治時代になって、東西南北の4郡に分割されました。現在の東松浦地域には、唐津市、玄海町があり、北松浦地域には、松浦市、平戸市、伊万里市があります。伊万里市の南には西松浦郡有田町があります。また、五島列島北部には南松浦郡新上五島町があります。これらは、東西南北4郡の名残と思われます。 ![]() 廃藩置県後の府県統合により、次のように肥前国は佐賀県と長崎県に分割されます(長崎は国防と節約が生んだ県である | 藤花幻)。その結果、東西松浦郡は佐賀県に、南北松浦郡は長崎県に属することになります。ただし、伊万里が佐賀県に属するなどの例外もあります。なお、東西松浦郡を上松浦、南北松浦郡を下松浦と呼ぶこともあるそうです。 ![]() 長崎県の下松浦地域は、現在では過疎が進んでいます(長崎県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。長崎県は、造船や半導体産業のある、長崎市、佐世保市、諫早市に人口が集中しています。 ![]() 一方、佐賀県の上松浦地域は、過疎はさほど進んでいません(佐賀県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。 ![]() 長崎県デジタル標高地形図を見ると、松浦地域は、沿岸部まで山が迫り平地がほとんどないのが分かります。対馬、壱岐、五島列島もほぼ同じ状況です。したがって、漁業と製塩が生活の手段であったと、本書の著者は見ています(97〜100ページ)。 ![]() 「長崎県は、……82の港湾が点在しており、その数は全国の8.2%におよび全国有数の港湾県です。 県下13市10町の……ほとんどの中心市街地の前面海域は港湾となっており、市街地は港湾からなっているといっても過言ではありません」ということです(「長崎県の港湾概要」長崎のみなと・空港 - 国土交通省 九州地方整備局 長崎港湾・空港整備事務所)。まさに「海の民」といえます。 ![]() 松浦党の特徴について、本書では次のように説明しています(77ページ)。
ところで、本書では松浦党がどのような組織であったかについては、具体的な記述はほとんどありません。そのかわり、南北朝時代の一揆契諾について詳細に述べています(78〜80ページ)。一揆契諾とは、一族の者が共通の利益を守るために契約を結ぶことで、下松浦のほとんどの領主が参加した大一揆の契約状は4通残されています。そこでは、外部に対しては一致団結して行動し、内部の争いは協議や多数決で処理するという規律が示されています。 本書の著者は、このような共和的団結が松浦党の本質であるとされたこともあったが、近年では否定的な意見が多いとして、次のように述べています(81ページ)。
ただ、海上での非法な活動については、いくつかの例が見られるそうで、1298年に五島列島近海で発生した幕府関係船の遭難事件について、次のように説明しています(83ページ)。
![]() この事件については、次のような見方があるそうです(85〜90ページ)。
ところで、この章のタイトルは「松浦党と倭寇」となっていますが、倭寇に関する記述は、あまり多くはありません(90〜94ページ)。 倭寇には、前期(14世紀後半)と後期(16世紀中葉)があります。後期倭寇については、密貿易を目的とした中国人が主体であったことに、ほぼ争いはありませんが、前期倭寇については、次のように見解が分かれているそうです(92〜93ページ)。
![]() 倭寇と王直によると、平安末期以降の日本とアジア諸国との武力抗争は次のようになっています。倭寇の主体は日本人であることを前提にしているようです。
熊野海賊は鹿児島まで遠征 「第3章 熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」は、紀伊半島の熊野海賊を取り上げています。 1347年、熊野海賊以下数千人が鹿児島・東福寺城の島津軍を襲ったということです。南朝の懐良親王を支援するため、北朝側の島津を攻撃したということですが、この熊野海賊がどのような存在なのかを探るのが、この章の目的です。 熊野地方とは、和歌山県南部と三重県南部を指します。平安時代の「国造本紀」に「熊野国・・大阿斗足尼定賜国造」と出てくるものの、日本書記は、熊野国と記すことはなく、文献資料では行政的な熊野国は存在しなかったという見方もあります(2017年春期学術大会シンポジウム研究発表 )。 紀伊国牟婁郡が熊野地方と呼ばれていましたが、明治維新後、東西牟婁郡(和歌山県)と南北牟婁郡(三重県)に分割されました(紀伊 紀州 : LUZの熊野古道案内)。 ![]() 熊野地方は山が海岸線に迫っていて、平地がわずかです( 和歌山県の地形図、標高、地勢)。 ![]() 東西牟婁郡は一部を除いて過疎が進んでいます(和歌山県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。 ![]() 南北牟婁郡も一部を除いて過疎が進んでいます(三重県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。 ![]() 熊野といえば、近年では世界遺産として注目を集めています。この世界遺産の正式名称は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で、「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」の3つの霊場と、それらを結ぶ「大峯奥駈道」「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」「高野山町石道」の参詣道が含まれます(世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」)。 それぞれの位置関係は次のようになっています(熊野古道|新宮市観光協会)。 ![]() 3つの霊場の概略は次のようになります。霊場のベースには、山岳信仰と密教があります。密教は神秘性・象徴性・儀礼性・土俗性・呪術性を特徴とし(高野山霊宝館【収蔵品紹介:仏に関する基礎知識】)、身密(手に印を結び)、語密(口に真言を唱え)、意密(意に本尊を念ずる)の三密の修行を行います(三密 の内容・解説)。これらの要素が古来の山岳・自然信仰に影響を与え、修験道が成立します。そして、平安末期の末法思想を背景に、霊場に安寧を求める貴族や民衆の熊野詣が盛んとなります。なお、修験道には、天台系と真言系の2派があるそうです(やさしい仏教入門)。
熊野別当は、実質的領主権と宗教的権威で海辺の武装勢力を束ねていたようですが、承久の乱(1221)で後鳥羽上皇方に味方したため、力を失い、1281年に断絶したということです(和歌山県新宮市 和歌山県新宮市 新宮下本町遺跡>総合調査報告書第3章 熊野新宮の歴史)。 熊野別当が支配権を失った結果、独自の行動をとり始めた各地の新興武士団が熊野海賊の主体であったと思われますが、武士団のすべてが一族の歴史を伝える史料を残しているわけではないので、全貌をとらえるのは容易ではないということです。 海上勢力の拠点は、一定の水量を有する河川の河口が多いということです。次の図(117ページ)に、いくつかの拠点が示されています。 ![]() 鎌倉末期から南北朝にかけての熊野の海上勢力については、西向小山氏と安宅氏のほかは断片的な史料しか残っていないようです(116〜129ページ)。
その後、北朝優位で推移しますが、1350年に尊氏と弟の直義(ただよし)が対立する観能の擾乱(かんのうのじょうらん)が始まります。この結果、北朝尊氏派、北朝直義派、南朝の3極対立となります。九州も、尊氏派の一色道猷、直義派の足利直冬、懐良親王派の菊池武光の3極対立となります。 足利直冬(ただふゆ)は尊氏の庶子ですが、冷遇されていたため、直義が養子とし引き立てます。直義は一度は失脚しますが、巻き返しに成功し、直冬は九州探題として九州に勢力を拡大します。しかし、その後、中央では尊氏が南朝と和睦し、直義は敗北します。九州でも、懐良親王派の菊池武光と尊氏派の一色道猷が手を組み、劣勢となった直冬は九州を撤退します。 少弐頼尚は、直冬に付いていたため苦しい立場となりますが、九州を撤退した直冬が南朝と和睦し尊氏と対立する構図となったため、九州でも菊池と少弐が手を組み、一色と対立することになります。その結果、敗北した一色道猷は九州を撤退します。最終的には、菊池と少弐の戦いとなり、菊池が勝利します。そして、1361年に懐良親王が大宰府入りします。幼年の懐良親王が下向以来、20数年でようやく念願を果たしたことになり、その後10余り九州で優位を保ちます。 しかし、中央では北朝の優位が確定し、懐良も1372年に今川了俊により大宰府を追われます。 熊野海賊以下数千人が鹿児島・東福寺城の島津軍を襲った1347年は、懐良親王が南九州に上陸して北上することを企図していたときです。 この熊野海賊について、著者は次のように見ています(130ページ)。
村上海賊は、日本の海賊を代表する存在 「第4章 戦国大名と海賊 西国と東国:戦国時代」は、戦国時代の瀬戸内海の村上海賊と、北条・武田氏の海賊を取り上げています。 村上海賊は典型的なBのタイプの海賊で、同時に独立型のCのタイプの海賊です。一方、北条・武田氏の海賊は従属型のCのタイプの海賊です。 村上海賊は、日本の海賊を代表する存在であって、村上水軍の名称です知られています。村上海賊は、戦国時代に芸予諸島を拠点に活躍しました。 村上氏は、能島(のしま)村上、来島(くるしま)村上、因島(いんのしま)村上の3つの家からなっていました。3つの家は同族意識は持っているものの、互いに独立し、連携や離反を繰り返していました。3家は、次の図(19ページ)に赤枠で示した、能島城、来島城、因島を拠点としていました。能島城と来島城は周囲1キロにも満たない小島全体が要塞となっていました(能島城跡、来島「来島城跡」)。因島は比較的大きな島で、いくつかの城跡があります(因島 | 日本遺産 村上海賊 )。3家の成立期については、14世紀中ごろではないかと、本書の著者は推測しています。 ![]() 現在、芸予諸島は西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)で結ばれています( E76 西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道) | 道路の概要 | 料金・道路案内 | JB本四高速)。 ![]() 村上3家は戦国時代に全盛期を迎えますが、毛利氏と織田氏の拡大期にも当たり、両勢力の間でそれぞれ独自の動きを見せます。
関銭徴集権は、大内氏が公認 瀬戸内海における海賊衆村上氏の実態を、著者は次のように説明しています(29〜30ページ) 。
![]() 『武家万代記』によると、次のように能島村上氏の上関の関所は大内氏から公認されていたということです(わ がふるさとと愛媛学X 〜平成9年度 愛媛学セミナー集録〜 )。
「村上水軍という言葉は極力避ける」 村上氏については、村上水軍と呼ばれることがありますが、最近は次のように村上海賊と呼ばれることが多くなっているそうです( 村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課)。
賊的ニュアンスが抜け落ちる 東国では、海賊から賊的ニュアンスが早い時期に消えてしまったそうです。その理由について、著者は次のように推測していま す(171ページ)。
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