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  海賊の日本史 (講談社現代新書) 
山内譲/著(講 談社2018/6/21

 2025/5
 本書の内容は次の通りです。時代的には、平安後期から戦国時代に亘っています。
序章 海賊との遭遇
第1章 藤原純友の実像:天慶の乱(939〜941)
第2章 松浦党と倭寇:前期倭寇(14〜15世紀)
第3章 熊野海賊と南朝の海上ネットワーク:南北朝(14世紀)
第4章 戦国大名と海賊 西国と東国:戦国時代(16世紀)
終章 海賊の時代

「海賊とパイレーツは全く異なる」
 著者は次のように、日本の海賊とパイレーツは全く異なると述べています(3〜4ページ)。 
 明治から大正時代にかけて『ピーターパン』や『宝島』などのパイレーツの物語が日本にはいってきた 時、この「パイレーツ」という語を「海賊」と翻訳したために混乱が生じてしまった。なぜなら、海賊は日本史 上に実在する海上勢力で、大西洋やカリブ海で活動したパイレーツとはまったく異なる歴史的背景を有する存在 だからだ。……
 このことを言いかえると、現在使われている海賊という言葉には二つの意味があるということである。一つ は、日本史上の実在する海上勢力を指す場合であり、もう一つは、そこから派生して、パイレーツを含めて世界 各地に幅広く存在した、あるいは今なお存在する、海上で非法行為をなす武装勢力を総称する場合である。
 日本の海賊の本源的な姿は、「浦々に拠点を置いて、航行する船舶を襲う」ことにあるということです(4ページ)。海上での 非法行為という点では、このような本源的な海賊とパイレーツは共通しているようにも思えます。 
 海賊の最も本源的な姿ということになれば、やはり、第一にあげた、各地の浦々に拠点を置いて、航行す る船舶を襲う海賊になるのではないだろうか。彼らが時代的背景や地域の実情の影響を受けて変貌したり、成長 したりした……

海賊には、4つのタイプ
 著者によると本源的な姿から変貌成長する海賊は、次のような4つのタイプにまとめることができるということです (190〜203ページ)。
  海上交通との関係  権力との関係 
マイナスイメージ
古代から存在 
@土着的海賊、略奪者、本源的な姿  A政治的海賊、荘園領主や国家権力に反抗=藤原純友 
プラスイメージ
中世後期に登場 
B安全保障者としての海賊=村上氏等  C水軍としての海賊=村上氏等 
 @は、運搬船を襲って金品を奪うという本源的なタイプで、特定の限られた浦々を縄張りとする小規模な土着の海賊です。
 Aは、荘園領主や国家権力に反抗したため海賊と呼ばれたタイプです。領主や権力者にとって反逆者=賊となります。藤原純友 は、そのような意味で大規模な海賊となります。
 Bは、安全保障者としての海賊です。瀬戸内海の村上氏のように、有償で通行許可状等を発行し、広範な支配領域内での通行の 安全を保障するというタイプです。
 Cは、水軍としての海賊です。戦国大名に海上の軍事力として雇われるタイプです。瀬戸内海の村上氏のように、普段は安全保障者として、通行料徴収などで生計を立て、戦時には水軍として雇われるタイプもあります。
 @とAは、古代から存在するタイプで、賊としてのマイナスイメージが強いです。一方、BとCは、中世後期になって登場した タイプで、海賊と呼ばれているものの賊としても印象は弱まり、プラスイメージが強くなります。
 ただし、Bも海上通行料の徴収という形であっても、運搬船から金品を奪うという点では@と共通する部分があり、賊というイメージは完全には払拭できないように思えま す。

変わりつつある純友のイメージ
 「第1章 藤原純友の実像」では、Aのタイプの海賊である藤原純友を取り上げています。日本史上の記録に海賊の記述が最初 に現れるのは838年で、9世紀後半に増え始め、その後沈静化するものの、930年代に再び増え始めます。藤原純友が登場す るのはそのような時期です。 
承和5(838)年2月10日 日本史上の記録に海賊が最初に現れる 
9世紀後半  九州や瀬戸内海沿岸諸国からの税物輸送が陸路から大量輸送が可能な海運方式に切り替わる→
突然歴史書に記される海賊記事が増えてくるが
運送責任者の負担軽減や運京システムの改革により海賊は沈静化する 
930年代(承平期)  再び史料上に海賊のことがみえ始める 
 承平期の海賊については、寛平・延喜の国政改革(9世紀末〜10世紀初頭)に反発する「前司浪人(前の国司に従っていて地 位を失った者たち)」や「部内居住衛府舎人(本国に居住したまま特権のみを享受する近衛府兵士)」の存在や、海運方式への大 転換が関連しているという次のような指摘があります(48〜49ページ)。権力に対抗するという意味では、Aのタイプの海賊 の要素が強いと言えそうです。
小林昌二「藤原純友の乱」 国衙(在地の官庁)と対立する前司浪人と海上交通・交易関係者が結びついたもの 
福田豊彦「藤原純友とその乱」  力を強めた運輸業者集団 
下向井龍彦「部内居住衛府舎人問題と承平南海賊」  国衙権力による人員削減や特権否定に追い詰められた衛府舎人 
 ところで、近年の研究によると純友のイメージは、次のように変わりつつあるということです。
  かつてのイメージ 近年の研究の動向 
反乱の名称  承平・天慶の乱  天慶の乱 
純友の出自  伊予の豪族の出身 律令官人藤原氏の一族 
承平6年(936)6月 純友は南海賊徒首 純友は海賊追捕を命じられる
 藤原純友は、承平年間に平将門と相呼応して東西で蜂起したと云われてきましたが、承平年間には、純友は、海賊を取り締まる 立場で、将門も一族間の私闘に明け暮れていたに過ぎなかったというのが本書の著者の見解です。
 純友の出自については、伊予の豪族の出身であるという史料と律令官人藤原氏の一族であるという史料(尊卑分脈)がありま す。近年では「尊卑分脈」の方が信憑性が高いとされているそうです。「尊卑分脈」によると、純友の系図は次のようになってい ます( 愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱)。

 「尊卑分脈」によると、純友は藤原北家に属し、大叔父には藤原家で最初に関白となった基経がいます。基経の子の忠平は、承 平・天慶期の最高権力者の地位にあった人物です。このような点から見て、本書の著者は純友は「決して傍流ではなく、中央の権 力の中枢に意外に近いところにいた」と評価しています(46ページ)。
 一方、愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱 では、次のように述べています。
……長良の男子のうち三男基経は良房の養嗣となってその跡を継ぎ、やがて周知のように関白に至り、その 子時平、忠平と続く後裔は摂関家として藤原氏本流を形成する。いっぽう基経の長兄国経は従四位上右大弁とい う中級官人としての地位にとどまったが、次兄遠経も同様で、その子良範になると従五位下筑前守、大宰少貳と みえており、典型的な受領貴族となっている。良範の三男純友もその当初からほぼ父と同様の途を歩むべく条件 づけられていたともいえる。
……
 純友の伊予掾補任時期については、喜多郡の不動穀が襲撃された承和四年(九三四)末ころかと推測されてい るが、具体的には不明である。ともかく遅くとも承平六年前半以前には紀淑人の伊予守就任にやや先行して伊予 国に下向し、天慶二年末以前にその任を終えて、そのまま土着した。……豊後前司中井王をその典型として、九 世紀以降秩満解任(任期終了)後の土着受領が営田、私出挙活動を通して積極的に財富を形成していったように (本章第一節)、純友の場合も単なる海賊首領としてではなく、南予地域に勢力を有する私営田活動の主体とし ての側面を評価する視点も存在する。
 純友は、従五位下ですから一応貴族ですが、伊予掾(いよのじょう)というと、伊予国のナンバースリーということになりま す。国司は守(か み)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官制となっています。承平年間には、伊予掾として海賊の取り締まりに当たっていたようですが、天慶年 間には秩満解任(任期終了)し、土着受領とし て伊予にとどまり私営田を経営していたということですから、平将門と共通する側面もあるのかもしれません。
 純友が承平年間に海賊を率いて蜂起したと云われてきたのは、「日本紀略」承平6年6月条に「南海賊徒首藤原純友」という記 載があるからですが、これは後世の潤色のようで、別の史料では、純友はこの時期に前掾(さきのじょう)として、海賊追捕を命 じられ、都から伊予に向かったことになっています。ということは、それ以前に伊予掾の任期を満了していたことになりますが、 具体的な時期は分からないようです。
 純友が反乱を起こすきっかけとなったのが、天慶2(939)年12月26日に備前介の藤原子高(さねたか)を襲撃した事件 とされています。この事件は、純友の盟友・藤原文元(ふみもと)が、摂津の須岐駅(現在の芦屋市)で子高を襲撃し、とらえ、 子高の子息を殺害したというものです。愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱によると、播磨介嶋田惟幹も子高と共に虜掠され たということです。この襲撃について、本書の著者は、純友は子高と文元のトラブルを調停しようとしたがうまくいかなかったた め、襲撃事件として表面化したと見ています(54〜55ページ)。ただし、このような事件を起こしたにもかかわらず、律令政 府は融和的な態度をとり、天慶3年正月には、純友を従五位下に叙しています。これは、将門への対応をふまえて、両面作戦を避 けるためであったと、本書の著者は見ています(56ページ)。一方、 愛媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱は「これらを皆東国における将門の乱の激化を 配 慮しての純友懐柔策ということのみで解釈するのは困難である。結局政府首脳は天慶二年末の純友の兵士らによる国司襲撃を、いかなる意味でも国家への反逆行 為とはみなしていなかったとせざるを得ないし、逆に純友の側にもそのような意図があったとは考え難いのである」と述べていま す。備前と播磨の介(現在で言うと副知事)を拉致して、おとがめなしということでしょうか。
天慶2/11  将門が常陸の国衙を占領 
天慶2/12  将門が新皇を称す 
天慶2/12/26 純友の兵士が、摂津の須岐駅で備前介の藤原子高(さねたか)を襲い虜とする 
天慶3/1  純友が従五位下に叙せられる 
天慶3/2  将門が討たれ東国の反乱は終息 
 天慶3(940)年8月に入ると、純友の率いる海賊勢力が各地の政府機関を襲撃し始めます。当初は伊予・讃岐・備前・備後 など瀬戸内海東部が対象でしたが、その後、安芸・周防など瀬戸内海西部の山陽沿岸に移ります。純友勢は400艘で襲撃した ということですから、海賊行為というよりも軍事行動に近いといえます。鋳銭司(銭貨発行機関)を焼いたということですから、 国家に対する反乱の域に達しています。
天慶3/8 純友の率いる海賊勢400艘が伊予・讃岐に侵入し、さらに、備前・備後を襲撃し、紀伊にも出没 
天慶3/9 讃岐で海賊・紀文度(きのふみのり)を捕らえる 
天慶3/10 安芸と周防から急使、大宰府追捕使在原相安(ありわらのすけやす)らの兵が純友軍に敗れる 
天慶3/11 周防から急使、鋳銭司が焼かれる 
天慶3/12 土佐の西端に純友軍が姿を現す 
 純友の活動関係地図次のようになっています(38ページ)。伊予の国府から摂津の須岐駅まで、かなりの距離があります。

 西日本の地形 図は次のようになっています(デ ジタル標高地形図「中国」 )。四国地方は、南側3分の2は山が連なっているので、平地は瀬戸内海沿岸に集中して います。中国地方も、平地は播磨・備前・備中・備後の山陽側に広がっています。つまり、瀬戸内海沿岸部は、土地の生産性が高く、人口も集中していたと思われます。また、瀬戸内海は海上交通の大動脈で、無数の島が点在し、海賊にとって格好の拠点となります。そして、伊予の国府(現在の今治市)と讃岐の国府(現在の坂出市)は陸海交通の要所であったといえます。

 8月になって、純友の率いる海賊勢力が活発化した理由については、本書には述べられていませんが、 愛媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)藤原純友の乱では、次のように述べています。純友のもとに集まった海賊勢力が膨張するにつれ、統制が効かなくなり過激化し、純友自身も中央政府との全面対決を余儀なくされたということでしょうか。 
…六月一八日にはついに「純友の暴悪の士卒」を山陽道追捕使に追討させるこ とが決定された(以上貞信公記)。純友のもとに結集された海賊勢力が無視し難い規模に膨張しつつあることを 推測させると同時に、その純友の士卒が摂政忠平によってはじめて暴悪と認識され、明確に追討の対象とされた ことが重要であり、本格的な海賊追捕への第一歩と評価すべきであろう。八月二〇日石清水八幡など一二社に南 海凶賊討滅のことを祈った際、次将藤原文元の名があるものの純友の名はみえないことなどからもうかがえるよ うに(師守記)、この段階でもなお純友自身が追捕の対象とはなっていなかった。しかし党類への追捕強化は、 その首魁としての純友の危機意識を深め、やがて再度の直接行動に踏み切ることを余儀なくさせていったであろ うことは容易に想像される。
 ところで、そもそも純友がなぜ反乱に与することになったのかについて、本書では、次のような下向井龍彦氏の説を紹介しています(59ページ)。
 承平六年三月、在京中の藤原純友は、海賊追捕宣旨を受けて伊予に向かったが、その任務は、承平海賊を平定することであった。六月には、南海賊二五〇〇人が紀淑人の「寛仁」なるを聞いて投降してきたが、それは三ヵ月前に入部していた純友が海賊勢力に対して説得工作をおこない、投降のお膳立てをしていたからであり、その意味で純友は承平南海賊平定の最高殊勲者である。にもかかわらず、純友の「軍功」申請は取り上げられず、握りつぶされた。この「軍功」申請の黙殺に対する不満、すなわち三年半前の海賊平定の際の恩賞要求が、天慶二年一二月の純友蜂起の主体的な要因である(「承平六年の紀淑人と承平南海賊の平定」)。
 純友が最高殊勲者であるとすると、伊予守の紀淑人(きのよしと)に手柄を横取りされた事になります。ところが、天慶2年12月の事件では、紀淑人の制止を振り切って、備前介の藤原子高を襲ったことになっています。これは、どういうことなのでしょうか。何か裏があるのでしょうか。
 天慶4年になると流れが変わり、純友は北九州方面に活動の場を移すが、大宰府や博多津で政府軍に敗れ、6月20日に伊予で息子重太丸とともに討ち取られ、残党も播磨や但馬で討ち取られ、乱は終息します。 
天慶4/1/21 「海賊中暴悪の者」とされた前山城掾藤原三辰(さきのやましろのじょうふじわらのみたつ)の首が伊予か ら進上される 
天慶4/5/20 大宰府や博多津で政府軍が純友軍を破る 
天慶4/6/20 伊予で純友と息子重太丸が討ち取られる 
 純友は、典型的なAのタイプの海賊ですが、配下には@のタイプの海賊も多く含まれていたようです。

特異な武士集団「松浦党」
 「第2章 松浦党と倭寇」は、肥前国の松浦地方の中小武士団群・松浦党を取り上げています。松浦は地名では「まつうら」と呼ばれますが、氏族名では「まつら」と発音されます。
 今日でも、松浦市のほかに松浦地域という呼び方が残っています。国土交通省は、東松浦地域と北松浦地域を半島振興対策の対象としています(地方振興:東松浦地域(佐賀県、長崎県) - 国土交通省地方振興:北松浦地域(佐賀県、長崎県) - 国土交通省)。もともとは、松浦郡は肥前国の北西部を占めていましたが、明治時代になって、東西南北の4郡に分割されました。現在の東松浦地域には、唐津市、玄海町があり、北松浦地域には、松浦市、平戸市、伊万里市があります。伊万里市の南には西松浦郡有田町があります。また、五島列島北部には南松浦郡新上五島町があります。これらは、東西南北4郡の名残と思われます。

 廃藩置県後の府県統合により、次のように肥前国は佐賀県と長崎県に分割されます(長崎は国防と節約が生んだ県である | 藤花幻)。その結果、東西松浦郡は佐賀県に、南北松浦郡は長崎県に属することになります。ただし、伊万里が佐賀県に属するなどの例外もあります。なお、東西松浦郡を上松浦、南北松浦郡を下松浦と呼ぶこともあるそうです。

 長崎県の下松浦地域は、現在では過疎が進んでいます(長崎県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。長崎県は、造船や半導体産業のある、長崎市、佐世保市、諫早市に人口が集中しています。

 一方、佐賀県の上松浦地域は、過疎はさほど進んでいません(佐賀県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。

 長崎県デジタル標高地形図を見ると、松浦地域は、沿岸部まで山が迫り平地がほとんどないのが分かります。対馬、壱岐、五島列島もほぼ同じ状況です。したがって、漁業と製塩が生活の手段であったと、本書の著者は見ています(97〜100ページ)。

 「長崎県は、……82の港湾が点在しており、その数は全国の8.2%におよび全国有数の港湾県です。 県下13市10町の……ほとんどの中心市街地の前面海域は港湾となっており、市街地は港湾からなっているといっても過言ではありません」ということです(「長崎県の港湾概要」長崎のみなと・空港 - 国土交通省 九州地方整備局 長崎港湾・空港整備事務所)。まさに「海の民」といえます。

 松浦党の特徴について、本書では次のように説明しています(77ページ)。
 松浦党の歴史は長く、平安時代中期から戦国時代にまで及ぶ。その間さまざまな出来事が継起したが、歴史的に注目されているのは、平安・鎌倉時代にみられた、党という特異な武士集団の成立とその活動、南北朝時代に結ばれた広範な一族構成員による一揆契諾(いつきけいだく)、そして全時代を通じてみられた、漁業や交易など海にかわる活動だろう。
 松浦党という呼称が最初に見みられるのは平家物語だそうです。藤原定家の日記「明月記」にも松浦党と号す鎮西兇党等が高麗で略奪を働いたという記述があります。ただし、瀬野精一郎「平安時代における松浦党の存在形態」によると、松浦党という呼称は、名誉でも好ましいものでもなく、地元の武士団自身は、みずから松浦党と名乗ることはなかったということです(78ページ)。
 ところで、本書では松浦党がどのような組織であったかについては、具体的な記述はほとんどありません。そのかわり、南北朝時代の一揆契諾について詳細に述べています(78〜80ページ)。一揆契諾とは、一族の者が共通の利益を守るために契約を結ぶことで、下松浦のほとんどの領主が参加した大一揆の契約状は4通残されています。そこでは、外部に対しては一致団結して行動し、内部の争いは協議や多数決で処理するという規律が示されています。
 本書の著者は、このような共和的団結が松浦党の本質であるとされたこともあったが、近年では否定的な意見が多いとして、次のように述べています(81ページ)。
 これまで松浦党研究をリードしてきた瀬野精一郎氏は、松浦党の特質とされてきた「共和的連合形態」は、松浦党が鎌倉末期から南北朝期に変質した時期の形態で、「党」としては二義的性格にすぎず、「党」の本当の姿は変質前の鎌倉時代の松浦一族の姿にあるとした上で、そこには、これまで考えられていたような「共和的団結」による政治的・行政的単位、または組織体としての「党」なるものは存在しない、としている(「鎌倉時代における松浦党」)。
 また、瀬野氏は、松浦党に一揆契諾が成立した事情についても、それまでの多くの研究によって示されていた、百姓勢力の発展にともなってそれと対決するためにとられた領主層の自律的な団結であったとする、いわば内部要因説を批判し、一揆契諾は、一三七一(応安四)年に室町幕府の九州探題(きゅうしゆうたんだい)として赴任した今川了俊(いまがわりようしゅん)の活動とともに始まり、南北朝の動乱の終結とともに消滅することなどを指摘し、南朝勢力を抑えようとする今川了俊らの戦略的意図に基づいた、上からの組織化に応じたものであるとする外部要因説を主張した(「松浦党の変質」)。
 松浦家の歴史 松浦史料博物館では、次のように述べています。鎌倉・南北朝時代までは、共和的団結かはともかく、中小の武士団が独立した状態であったのが、そのうちの一つが戦国期に勢力を拡大し、領国を支配する大名に成長したようです。
江戸時代の平戸藩領は、平戸島をはじめとして、 おおよそ現在の佐世保市から北松浦半島、壱岐市、五島列島の一部をふくむ範囲です。鎌倉・南北朝時代における松浦家は、平戸島北部と五島の小値賀(おじか)等を領する「海の武士団」松浦党(まつらとう)の一氏にすぎませんでしたが、室町時代の1400年代半ば頃より松浦党内部において勢力を伸ばし戦国大名となりました。これだけ勢力を伸張させることができた背景には、海外交易による経済的発展と鉄砲等の武器輸入が考えられています。
 松浦党が海賊といえるかについては、史料では松浦党を海賊とする例がほとんどみられないことから、本書の著者は否定的立場です。著者は、@のタイプが本源的な海賊で、それがBのタイプに発展し、Cのタイプも兼ねるようになったとみているようです。瀬戸内海は海上交通の大動脈であったため、このような展開が可能ですが、松浦地域は、海外との交易船以外は海上交通はさほどなかったので、このような意味での海賊の発展は難しかったのかもしれません。
 ただ、海上での非法な活動については、いくつかの例が見られるそうで、1298年に五島列島近海で発生した幕府関係船の遭難事件について、次のように説明しています(83ページ)。
 四月二四日に、五島列島の一角に位置するらしい「海俣(かいまた)」という港から出船した「唐船」が破損した。破損したのは、出港から一里内外進んだところだったというから、出港後間もなくのことだったのだろう。すると、「樋島」の「在津人、百姓」らが七艘の船に乗って漕ぎ寄せてきて「御物(ぎよぶっ)」以下の品物を運び取ってしまった。さらに続いて近隣の島々浦々の「船党(ふなとう)等」も、「樋島」の者たちに交じりあって積荷を運び取った。翌日の二五日、さらに二六日も同様であった。この間の子細は、多くの人から事情を聴いたので違いない。運び取られた「御物」は、砂金、「金」(円形に整えられた金の地金のことか)、水銀、銀剣、白布、細々した具足等である。
 遭難した「唐船」というのは、積荷が「御物」などと呼ばれていることから判断して、幕府や得宗家(とくそうけ)が密接にかかわった日元貿易船だろう。その「唐船」が出港した「海俣」というのは、別の史料には「貝俣」と記されており、五島列島中部の、当時海俣島(かいまたじま)と呼ばれていた現在の若松島(わかまつじま、長崎県新上五島町)のどこからしい。難破船に漕ぎ寄せてきた住人百姓らの住んでいた「樋島」というのは、若松島西岸の小島日島(ひのしま)のことと考えられる
 五島列島略図は次の通りです(95ページ)。唐船(日元貿易船)が難破したのは、図の中央の若松島の周辺で、日島の住民が御物を持ち去ったようです。

 この事件については、次のような見方があるそうです(85〜90ページ)。
網野善彦「青方氏と下松浦一揆」 下松浦の代表的領主であった青方高家の悪党的・海賊的行動 
瀬野精一郎
「多島海の暴れ者『松浦党』」 
地方の住民が交易船を襲い積荷を奪った。警固の御家人と何らかの関係 
村井章介
「鎌倉時代松浦党の一族結合」 
行動の主体は住民側 
黒嶋敏「海の武士団」  寄船慣行により住民が漂着物を取得。彼らの立場からすれば正当な経済行為 
 前3者は、領主や住民の海賊的行為と見る点では共通しています。最後の見解は、住民にとっては、正当な経済行為であったと見ています。結局、住民が難破船から積荷を持ち去ったことには変わりはなく、住民の認識が犯罪行為であったか、正当な経済行為であったかで、見方が分かれているようです。
 ところで、この章のタイトルは「松浦党と倭寇」となっていますが、倭寇に関する記述は、あまり多くはありません(90〜94ページ)。
 倭寇には、前期(14世紀後半)と後期(16世紀中葉)があります。後期倭寇については、密貿易を目的とした中国人が主体であったことに、ほぼ争いはありませんが、前期倭寇については、次のように見解が分かれているそうです(92〜93ページ)。
田中建夫「倭寇と東アジア通交圏」  日本人と高麗人・朝鮮人とが連合した集団、もしくは高麗・朝鮮人のみの集団が中心 
高橋公明「中世東アジア海域における海民と交流」  倭服を着し、倭語をあやつる高麗国内の海上勢力が関与 
村井章介「倭寇とはだれか」  対馬や朝鮮半島南岸では日本人も朝鮮人もいっしょにマージナルマン(境界人)として独自の風俗や習慣を作っていた 
 著者は、境界人説に近い考えのようで、次のように「松浦党自身が倭寇活動に加わったとは考えにくい」と述べています(91〜92ページ)。
 そのような視点から松浦党と前期倭寇との関係を考えると、弱小とはいえ曲がりなりにも領主階層に属し、沿岸に居住して船舶での移動を得意としながらも、鎌倉期の数多くの記録にみられるように所領の確保に執念を燃やしていた松浦党自身が倭寇活動に加わったとは考えにくい。やはり村井章介氏が壱岐に進出した松浦党に関して述べているように、松浦党のもとにある住民層が戦乱や飢饉などによる社会的混乱時に、松浦党のくびきから離れて「境界人」としての特性を発揮したとみるべきだろう。
 一方、韓国の研究者は、次のように倭寇の実体は九州地方の武士団とみているそうです(東アジア海域と倭寇)。
 一方,韓国側では,倭寇を一貫して高麗・朝鮮を襲撃した日本人とみている。……倭寇の実体は九州地方の武士団(地域権力,広い意味で日本側の公的権力)であって,日本国内の内乱期に兵糧米などの不足を補うために高麗を襲ったとしている。それゆえ倭寇に対する認識も日本人のみの専門盗賊集団であり,彼らの国際性・多様性はほとんど言及されていない。
……既存の研究のなかでも,この倭寇の主体を最も具体的に論じたのは李領氏である。李領氏は,それ以前の倭寇(13 世紀の倭寇)との違いを明確にして,その規模や頻度が以前と比較できないほど拡大した1350年以後から1391 年の高麗滅亡までの倭寇を〈庚寅年以降の倭寇〉と命名し,倭寇による高麗での略奪行為は,日本の南北朝の抗争を背景に一律日本人の専門的武装集団(中世武士団・悪党)が携わっていたとした。具体的な目的には,その始まりの 1350 年の倭寇は観応の擾乱に伴い筑前・対馬守護兼大宰少弐であった少弐氏(少弐頼久)が兵糧米など軍備品の確保にあたったためとし,禑王3年(1377)の倭寇にいたっては北朝軍の激しい攻撃を受けた南朝勢力下にあった松浦党が食糧の確保はもとより一時的避難の場所としたことを挙げている 。
……近年は日本側でも,倭寇の主体を高麗人とみる主張は下火になってきており,「本朝人(日本人)高麗に来りて,強盗・放火を致し,人民を虜掠する」などの記録を倭寇の所業の具体的な表現としている。ただそれでも,倭寇は高麗人を含む他民族で構成された,掠奪者のイメージよりは国家・権力を超越した国際色豊かな境界人としての側面が強調されている。
 ところで、13世紀末には、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の2度、蒙古来襲がありました。侵攻ルートは次のとおりです( 蒙古襲来 | 世界の歴史まっぷ)。対馬・壱岐は人的物的に大きな被害を被り、下松浦も侵攻の拠点となりました。

 倭寇と王直によると、平安末期以降の日本とアジア諸国との武力抗争は次のようになっています。倭寇の主体は日本人であることを前提にしているようです。 
1019  刀伊の入寇、ロシア沿海州から女真族の海賊船50隻が対馬、壱岐、松浦などに侵入し、多くの人を殺害し、1000人を超える人を拉致する 
1226  明月記「鎮西の凶党等、松浦党と号す。数十艘の兵船をかまえ、彼の国(高麗)の別嶋に行きて合戦、民家を焼亡し、資材を掠め取る」 
  松浦の武士たちがしばしば徒党を組んで朝鮮半島へ行き、平和な貿易を望んだが、相手の出方によっては略奪、暴行も辞さなかった 
1274  文永の役 
1281  弘安の役 
1350〜 高麗史「倭寇の侵、此に始まる」 
1358〜 元史「倭寇が山東に現われ、毎年のように沿海部を襲うようになった」、1370年には福建にまで及ぶ 
 倭寇と王直では、次のように、蒙古来襲で被害を受けた中小領主や海民たちが海賊行為を繰り返すようになったと説明しています。蒙古来襲の直後は、報復の意味で、略奪・拉致が行われた可能性もあるかもしれません。
 二つの役で甚大な被害を被ったのは、戦の舞台となり元軍に土地を踏み荒らされた松浦党である、大きな人的被害を受けながらも、善戦奮闘したにもかかわらず、自分たちの領地は自分たちで守るのが当然であるとして、幕府の恩賞からは除外された(白石一郎、前掲書)、これを不服とした松浦党は代表を鎌倉に送り、交渉に努めたが、満足できるだけの恩賞は与えられなかった、ここに至って、彼らは鎌倉幕府を見限り、自らの力を蓄えることに努める、松浦党は鎌倉末期から室町時代にかけて一層結束を固めていくことになる、鎌倉末期には、48の分家があり、現在の佐賀県東部から長崎県五島列島までの沿岸部一体にその勢力が広がっていた(山田吉彦、前掲書)、この松浦家については 4.5 で再びふれるが、16世紀後半には南蛮貿易にかかわることになる。
 文永・弘安の役以降、松浦党だけでなく西日本沿岸の中小領主や海民たちが朝鮮半島や中国大陸沿岸に出没し、食糧や財貨の略奪、さらに人民の拉致などの海賊行為を繰り返すようになった(仲尾宏、2007)。

熊野海賊は鹿児島まで遠征
「第3章 熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」は、紀伊半島の熊野海賊を取り上げています。
 1347年、熊野海賊以下数千人が鹿児島・東福寺城の島津軍を襲ったということです。南朝の懐良親王を支援するため、北朝側の島津を攻撃したということですが、この熊野海賊がどのような存在なのかを探るのが、この章の目的です。
 熊野地方とは、和歌山県南部と三重県南部を指します。平安時代の「国造本紀」に「熊野国・・大阿斗足尼定賜国造」と出てくるものの、日本書記は、熊野国と記すことはなく、文献資料では行政的な熊野国は存在しなかったという見方もあります(2017年春期学術大会シンポジウム研究発表 )。
 紀伊国牟婁郡が熊野地方と呼ばれていましたが、明治維新後、東西牟婁郡(和歌山県)と南北牟婁郡(三重県)に分割されました(紀伊 紀州 : LUZの熊野古道案内)。

 熊野地方は山が海岸線に迫っていて、平地がわずかです( 和歌山県の地形図、標高、地勢)。

 東西牟婁郡は一部を除いて過疎が進んでいます(和歌山県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。

 南北牟婁郡も一部を除いて過疎が進んでいます(三重県|一般社団法人全国過疎地域連盟)。

 熊野といえば、近年では世界遺産として注目を集めています。この世界遺産の正式名称は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で、「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」の3つの霊場と、それらを結ぶ「大峯奥駈道」「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」「高野山町石道」の参詣道が含まれます(世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」)。
 それぞれの位置関係は次のようになっています(熊野古道|新宮市観光協会)。

 3つの霊場の概略は次のようになります。霊場のベースには、山岳信仰と密教があります。密教は神秘性・象徴性・儀礼性・土俗性・呪術性を特徴とし(高野山霊宝館【収蔵品紹介:仏に関する基礎知識】)、身密(手に印を結び)、語密(口に真言を唱え)、意密(意に本尊を念ずる)の三密の修行を行います(三密 の内容・解説)。これらの要素が古来の山岳・自然信仰に影響を与え、修験道が成立します。そして、平安末期の末法思想を背景に、霊場に安寧を求める貴族や民衆の熊野詣が盛んとなります。なお、修験道には、天台系と真言系の2派があるそうです(やさしい仏教入門)。
吉野・大峯 役小角(えんのおづぬ)7〜8世紀 山岳信仰+古密教→修験道
高野山  空海が816年に金剛峰寺創建 真言密教 
熊野三山 上皇の熊野詣、民衆の蟻の熊野詣 古代神道+天台密教→修験道
 新熊野神社熊野信仰によると、熊野三山の垂迹神と本地仏は、次のようになっています。アニミズムに、神道、密教、浄土教などの要素が加わり、独特の信仰を形成しているようです。
  所在地  御神体  主祭神(垂迹神)  本地仏 
熊野本宮大社 田辺市  熊野川 スサノオノミコト 阿弥陀如来
熊野速玉大社 新宮市  ごとびき岩 イザナギノミコト 薬師如来 
熊野那智大社 那智勝浦町 那智の滝 イザナミノミコト 千手観音 
 熊野別当は、熊野三山の社僧や神官・山伏たちの最高管掌者ですが、白河上皇のころから在地領主化し、熊野三山や三山領荘園を実質的に支配するようになります。第21代別当の湛増(たんぞう)は反平家の兵をあげ、1185年の壇ノ浦の戦いには源氏方で活躍します。しかし、鎌倉末期には、各地の新興武士団が独自の行動をとり始め、統制に従わなくなり、別当家は歴史の舞台から姿を消します(熊野別当(くまのべっとう)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。田辺市には、武蔵坊弁慶は湛増の子であったという伝承が残っています(源義経にも仕えた武蔵坊弁慶の故郷 田辺市 | わかやま歴史物語)。
 熊野別当は、実質的領主権と宗教的権威で海辺の武装勢力を束ねていたようですが、承久の乱(1221)で後鳥羽上皇方に味方したため、力を失い、1281年に断絶したということです(和歌山県新宮市  和歌山県新宮市 新宮下本町遺跡総合調査報告書第3章 熊野新宮の歴史)。
 熊野別当が支配権を失った結果、独自の行動をとり始めた各地の新興武士団が熊野海賊の主体であったと思われますが、武士団のすべてが一族の歴史を伝える史料を残しているわけではないので、全貌をとらえるのは容易ではないということです。
 海上勢力の拠点は、一定の水量を有する河川の河口が多いということです。次の図(117ページ)に、いくつかの拠点が示されています。

 鎌倉末期から南北朝にかけての熊野の海上勢力については、西向小山氏と安宅氏のほかは断片的な史料しか残っていないようです(116〜129ページ)。
鵜殿  鵜殿氏、新宮大社別当家とも縁 
泰地  泰地氏、那智山の衆徒 
古座浦 高川原氏 
西向浦 西向小山(にしむかいこやま)氏、1331年、楠木正成討伐の命を受け、下野小山(しもつけおやま)一族が熊野に来たと伝えられる。熊野新宮の権威と結びつく。南朝方につき瀬戸内海西部の忽那(くつな)氏と連携 
潮崎  塩崎氏、那智山の衆徒 
安宅  安宅(あたぎ)氏、阿波国に所領を有していた一族が、熊野蜂起(1308〜09)鎮圧の命を受け紀伊に来住したと推測される。1350年に、足利義詮から南朝方の沼島海賊退治を命じられる 
久木  久木(ひさぎ)小山氏、山間部を拠点とは別に海浜部にも拠点、木材調達と浦支配を結合、「山間部における熊野水軍」の見方も 
色川郷  色川氏、「山の中の熊野水軍」、沿岸部にも拠点か 
 太宰府人物志/征西将軍宮懐良親王の動向によれば、懐良(かねよし、かねなが)親王の足跡は次のようになっています。懐良親王は後醍醐天皇の皇子で征西将軍として九州の南朝勢をまとめあげることを目的に派遣されました。ウェブ上では、生年は1329年という説もあります。なお、懐良親王が出発したのは、1336年だったという説もあり、本書は1336年説のようです。九州下向には、忽那氏が大きく尽力しますが、忽那までは熊野の海上勢力が送り届けたのではないかと、本書では推測しています。
1338  幼年の懐良親王が征西将軍として従者とともに下向、伊予忽那(くつな)島で数年を過ごした後、南九州に上陸して北上することを企図 
1342/5 懐良親王は薩州津(さっしゅうつ)に上陸して薩摩谷山城に入城 
1348  菊池武光の本城である菊池城に移る 
1353/2 針摺原(はりすりばる)の戦いで一色道猷(いっしきどうゆう)を破る 
1359/8 大保原(おおほばる)の戦いで少弐頼尚(よりひさ)を破る 
1361/8 大宰府入りを果たす 
1372/8 今川了俊(いまがわりょうしゅん)により大宰府を追われる 
1374頃 後征西将軍宮(後村上天皇皇子良成親王?)に征西将軍職を譲る 
1383/3 隠棲先の筑後矢部において死去 
 懐良親王の九州支配と関連する有力武将は次の通りです。一色道猷は足利一門で北朝、菊池武光は南朝、少弐頼尚は状況に応じて立場を変えています。
一色道猷 足利一門、1336年、尊氏に従って九州入り、九州内の尊氏方の軍勢を統括、針摺原の戦いに敗れ、1355年に九州を撤退 
少弐頼尚 大友、島津氏と共に、九州の守護職を3分、大宰府を本拠とする。多々良浜の戦いでは尊氏側に付く。1349年に足利直冬が九州入りすると、尊氏を離れ直冬方に付く。直冬が九州を撤退すると南朝方に付く 
菊池武光 肥後の菊池を拠点とする豪族、九州南朝方の中心勢力 
 九州の対立関係は、次のように中央の状況と連動しています。
  九州  中央 
多々良浜の戦い(1336) 尊氏・少弐>対決<菊池 尊氏>対立<後醍醐
観能の擾乱(1350〜52)   尊氏>対立<直義 
直冬撤退(1352)  菊池・一色>対決<直冬 尊氏=和睦=南朝 
針摺原の戦い(1353)  菊池・少弐>対決<一色 直冬=和睦=南朝 
大保原の戦い(1359)  菊池>対決<少弐  
懐良親王敗退(1372)  菊池>対決<今川了俊  北朝優位 
 1933年、尊氏は後醍醐の挙兵に協力し建武の新政に貢献しますが、1935年、後醍醐に反旗を翻し、1936年、尊氏は一度は敗退するものの、多々良浜の戦いで、少弐勢の協力を得て、後醍醐側の菊池勢を破ります。さらに、湊川の戦いで、楠木・新田勢を破ります。劣勢となった後醍醐は尊氏と和睦するものの、吉野に脱出して、南北朝の対立が始まります。この時、後醍醐が懐良親王を九州に派遣します。
 その後、北朝優位で推移しますが、1350年に尊氏と弟の直義(ただよし)が対立する観能の擾乱(かんのうのじょうらん)が始まります。この結果、北朝尊氏派、北朝直義派、南朝の3極対立となります。九州も、尊氏派の一色道猷、直義派の足利直冬、懐良親王派の菊池武光の3極対立となります。 
 足利直冬(ただふゆ)は尊氏の庶子ですが、冷遇されていたため、直義が養子とし引き立てます。直義は一度は失脚しますが、巻き返しに成功し、直冬は九州探題として九州に勢力を拡大します。しかし、その後、中央では尊氏が南朝と和睦し、直義は敗北します。九州でも、懐良親王派の菊池武光と尊氏派の一色道猷が手を組み、劣勢となった直冬は九州を撤退します。
  少弐頼尚は、直冬に付いていたため苦しい立場となりますが、九州を撤退した直冬が南朝と和睦し尊氏と対立する構図となったため、九州でも菊池と少弐が手を組み、一色と対立することになります。その結果、敗北した一色道猷は九州を撤退します。最終的には、菊池と少弐の戦いとなり、菊池が勝利します。そして、1361年に懐良親王が大宰府入りします。幼年の懐良親王が下向以来、20数年でようやく念願を果たしたことになり、その後10余り九州で優位を保ちます。
 しかし、中央では北朝の優位が確定し、懐良も1372年に今川了俊により大宰府を追われます。
 熊野海賊以下数千人が鹿児島・東福寺城の島津軍を襲った1347年は、懐良親王が南九州に上陸して北上することを企図していたときです。
 この熊野海賊について、著者は次のように見ています(130ページ)。
 島津氏関係史料は押し寄せてきた「熊野海賊」を「数千人」と表現し、別のところでは「四国中国海賊三十余艘」とも述べている。多少の誇張はあるにしても、島津軍をおびえさせるほどの大勢力であったことは間違いない。西向小山氏だけではこれほどの勢力を動員できるとは考えられないので、同氏を中心にして各地の熊野の海上勢力が加わり、さらには東瀬戸内海の沼島や小豆島の勢力、そして西瀬戸内海の忽那氏をも巻き込んで「数千人」という大勢力が成立したのではないだろうか。
 このようにみてくると、島津氏関係史料にみえる「熊野海賊」という言葉は敵対する強力な海上勢力を、敵意と恐れを込めて呼んだものであり、その実態は、西向小山氏など熊野灘周辺の海の領主と西瀬戸内各地の南朝方の海の領主の集合体であったといってよいだろう。
 前述のように、南北朝期の熊野の海上勢力については、西向小山氏と安宅氏のほかは断片的な史料しか残っていません。忽那氏と関係のあった西向小山氏が襲撃に加わっていたことは推測できますが、当時北朝方に付いていた安宅氏が加わっていたとは考えられません。結局、「西向小山氏など熊野灘周辺の海の領主と西瀬戸内各地の南朝方の海の領主の集合体」であったのではないか、著者は見ています。

村上海賊は、日本の海賊を代表する存在
 「第4章 戦国大名と海賊 西国と東国:戦国時代」は、戦国時代の瀬戸内海の村上海賊と、北条・武田氏の海賊を取り上げています。
 村上海賊は典型的なBのタイプの海賊で、同時に独立型のCのタイプの海賊です。一方、北条・武田氏の海賊は従属型のCのタイプの海賊です。
 村上海賊は、日本の海賊を代表する存在であって、村上水軍の名称です知られています。村上海賊は、戦国時代に芸予諸島を拠点に活躍しました。
 村上氏は、能島(のしま)村上、来島(くるしま)村上、因島(いんのしま)村上の3つの家からなっていました。3つの家は同族意識は持っているものの、互いに独立し、連携や離反を繰り返していました。3家は、次の図(19ページ)に赤枠で示した、能島城、来島城、因島を拠点としていました。能島城と来島城は周囲1キロにも満たない小島全体が要塞となっていました(能島城跡来島「来島城跡」)。因島は比較的大きな島で、いくつかの城跡があります(因島 | 日本遺産 村上海賊 )。3家の成立期については、14世紀中ごろではないかと、本書の著者は推測しています。

 現在、芸予諸島は西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)で結ばれています( E76 西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道) | 道路の概要 | 料金・道路案内 | JB本四高速)。

 村上3家は戦国時代に全盛期を迎えますが、毛利氏と織田氏の拡大期にも当たり、両勢力の間でそれぞれ独自の動きを見せます。
能島
村上
・最も独立性が強く、戦国大名と一定の距離を保つ
・武吉(たけよし)とその子、元吉(もとよし)・景親(かげちか)のときが全盛期
・1576年の木津川の合戦では、武吉は毛利水軍の中核として、織田方の水軍に大きな打撃を与える 
来島
村上
・重臣として伊予の河野一族としての扱いをうける
・通康(みちやす)とその子、通総(みちふさ)・通幸(みちゆき)のときが全盛期
・1555年の厳島合戦では、通康は毛利方として参戦の可能性が高い
・1582年に、通総は羽柴秀吉に寝返り、秀吉の四国平定後に1万4000石の大名に取り立てられる  
因島
村上
・備後国鞆(とも)にも拠点を持ち広範囲に活動する。小早川氏や毛利氏と結びつきが強い
・吉充(よしみつ)と弟の亮康(すけやす)のときが全盛
・1582年の村上通総離反のときも、毛利氏への忠誠を誓い、吉充は周防国内に領地を与えられる 

関銭徴集権は、大内氏が公認
 瀬戸内海における海賊衆村上氏の実態を、著者は次のように説明しています(29〜30ページ) 。
 一五五一(天文二〇)年冬、大内義隆(よしたか)を倒して防長の支配者になったばかりの陶晴賢(すえ はるかた)配下の廻船三〇艘が八木(はちぼく米)二〇〇〇石を積んで通りかかったのを能島村上家の者が上関 (山口県上関町)で点検した。宇賀島衆(周防大島の北側に浮かぶ宇賀島=山口県周防大島町浮島を拠点とする 陶氏配下の海賊。先に梅霖守龍の船に接近してきた関の大将「ウカ島」の拠点宇賀島とは別)が一〇〇人ばかり 上乗りとして乗り込んでいたが、彼らは能島村上氏の発行した「切手」を持っていなかった。上関の者たちが、 「古(いにしえ)より島の作法」であるから通すわけにはいかないと告げると、廻船の側は、積荷は公方(将 軍)への進上米であり、しかも宇賀島衆が上乗りしているのだからだれがとがめることができよう、と述べて、 上関の要害へ鉄砲を撃ちかけて強引に通過した。
 これをみると、上関で能島村上氏が通行する船舶をきびしくチェックしたこと、チェックしたのは上乗りと 「切手」(別の所では「免符」と記されている)の有無であること、異なる海賊間では単なる上乗りだけではな く、その上乗りを承認する切手・免符を所持することが関所を通過する際の条件であったことなどがわかる。ま た『武家万代記』は別の箇所で、「帆別銭」を徴収してその代償として「免符」を渡したこと、船ごとに「割 符」を渡した上、船に焼印をすることがあったこと、乗り組んでいる個人については、「過書(過所)手形」を 渡すことがあったことなどを伝えている。
 ちなみに、能島村上氏の制止を振り切って上関を強引に通過した(後世の言葉で言えば関所破り)陶氏の廻船 はどうなったかというと、このあと能島の当主村上武吉(たけよし)が因島村上氏などにも声をかけ、安芸の蒲 刈島で陶氏の船団を待ち受けて散々な目にあわせたことが『武家万代記』に記されている。関所破りの代償はか なり高くついたことがわかる。
 当時の瀬戸内海における海賊の拠点は次の図(18〜19ページ)のようになっています。陶晴賢配下の廻船三〇艘は、能島 (図の紫枠)村上家の者の点検を受けたにもかかわらず、上関(かみのせき、図の赤枠)を強引に通過したものの、蒲刈島(図の 青枠)で反撃を受けています。廻船には、浮島(うかしま、図の緑枠)を拠点とする宇賀島衆が上乗りとして乗り込んでいまし た。 

 『武家万代記』によると、次のように能島村上氏の上関の関所は大内氏から公認されていたということです(わ がふるさとと愛媛学X 〜平成9年度 愛媛学セミナー集録〜 )。
 村上氏は、村上喜兵衛という人が書いた、『三島海賊家戦日記』というのがあります。略して『武家万代 記』と言いますが、それらによりますと、三島村上氏に限らず、縄張りが皆記載されて、どこでいわゆる帆別銭 を取るか、通行税である駄別料を取るかというようなことも規定されております。
 能島村上氏は、西は周防の上関ですね、かまど島(長島)のあるところ、あそこへちゃんと関所を設けていま す。これは大内氏から公認された関所でした。それから東側は塩飽(しわく)諸島(香川県)で、やはり関所を 設けて通行税を取ったということが記録されております。
 また、『武家万代三島海賊日記(武家万代記?)』によると、陶氏の回船三〇艘の警固衆が鉄砲で威嚇射撃して関所破りをした のに対し、能島の村上武吉は陶氏の船団を殲滅して、進上米も没収してしまったということです( 愛 媛県史 古代U・中世(昭和59年3月31日発行)村上三家の興亡)。 能島村上氏は大内氏の影響下にあったものの独立した勢力で、領国支配者に正面から戦いを挑むということもあったようです。
 天文一九年(一五五〇)、大内氏はその家臣陶晴賢の反逆によって滅亡した。このころ、大内氏や陶氏と 能島家の関係は、相当険悪だったようである。『武家万代三島海賊日記』の物語るところによると、陶氏は翌二 〇年冬、将軍家に納める進上米を回船三〇艘に積んで東行させた時、その警固衆は、上ノ関(山口県熊毛郡)で 停船を命ずる能島の関衆を鉄砲で威嚇射撃して関所破りをした。この報を受けて、能島の村上武吉は大いに怒 り、直ちに出動して、蒲刈瀬戸で陶氏の船団を殲滅して、進上米も没収してしまったという。安芸国厳島や周防 国上ノ関での関銭徴集権は、能島家が軍功によって、大内義隆から与えられていたものであった。しかし、両者 が対立したことや、堺の商人などが、迷惑であると陶氏に訴えたこともあって、この事件後ほどなく、この権利 は陶氏に没収されてしまった(大願寺文書・一七七〇)。

「村上水軍という言葉は極力避ける」
 村上氏については、村上水軍と呼ばれることがありますが、最近は次のように村上海賊と呼ばれることが多くなっているそうです( 村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課)。
 ところで昨今では、彼らを「村上水軍」ではなく、「村上海賊」と呼ぶことが多い。「水軍」は、江戸時 代以降に用いられた呼称であり、明治から昭和初期には、近代海軍の前身と評価する見方が強かったため、この ように呼ばれていた。しかし、「水軍」では彼らの多様な活動を表現できないため、最近では当時の古文書など に見える「海賊」と言う呼称を用いることが多くなってきている。
 一般に「海賊」と聞けば、理不尽に船を襲い金品を略奪する無法者、いわゆる「パイレーツ」がイメージされ るかもしれない。しかし、展示室をめぐるとき、「海賊」と呼ばれた人々が、必ずしもマイナスイメージで語ら れなかった時代があったことに気づくだろう。
 本書の著者も、次のように、村上水軍という言葉は極力避けるようにしているそうです(228ページ)。村上氏の場合は、海 上通行料の徴収という海賊的行為のほか、海運、交易や漁業など多角的に経営しており、軍事行為は副業的に行っていたようです から、水軍と呼ぶのは相応しくないといえそうです。
 海賊衆としての村上氏は、しばしば村上水軍などと呼ばれることがある。別に間違った用法というわけで はないが、私はできるだけ使わないようにしている。理由は二つある。一つは「水軍」は、史料用語ではないと いうことである。つまり戦国時代以前の古文書や文献に「水軍」という言葉が出てくることはない(逆に「海 賊」は史料用語だから古文書や文献に出てくる)。「水軍」という言葉は、海賊が歴史上から姿を消した近世以 降になって軍学書などで使われ始め、主として近代以降に定着した言葉である。もう一つの理由は、「水軍」と いう言葉を使うとどうしても軍隊のイメージが強くなるが、村上氏は、専門の軍事集団ではなく、基本的には海 の民とでも言うべき、海を生業の場として活動する人々であると考えているからである。もちろん彼らは、水軍 としての活動をする場合も数多くあるが、他方では、海運、交易や漁業など、海にかかわる多様な活動をしてい るのであり、「水軍」といってしまうと、そのような多様さが失われるのではないかとおそれるのである。
 そこで本書では、村上水軍という言葉は極力避け、海賊衆村上氏は「戦国大名毛利氏の水軍として活動した」 「水軍力を駆使して瀬戸内海を駆けめぐった」などという表記の仕方をしたいと思う。

賊的ニュアンスが抜け落ちる
 東国では、海賊から賊的ニュアンスが早い時期に消えてしまったそうです。その理由について、著者は次のように推測していま す(171ページ)。
 このような西国と東国での海賊のニュアンスに相違が生まれたのはなぜだろうか。それは戦国大名の水軍 の成り立ちに関係しているように思われる。西国、特に瀬戸内海では、(生業としての)海賊活動をおこなって いる海上勢力が戦国大名の水軍として取り込まれたが、東国の北条氏や武田氏の場合、伊勢・志摩・紀伊など他 国から海上勢力を招致して水軍を編成することが多かった。これらの海上勢力は故国にいたころには西国でいう 「海賊」活動をおこなっていた可能性があるが(そのような記録も記憶もすでに失われてしまっていて実態はよ くわからないが)、故国を離れて東国へやってきた時点で「海賊」活動の場を失い、またそのような活動の必要 もなくなり、戦国大名のために「海賊の奉公」をする水軍に特化していった。それにともなって、海を活動の舞 台とする者としての「海賊」という言葉は残ったが、そこからは賊的ニュアンスが抜け落ちていったものと思わ れる。
 ただし、戦国時代が終わった直後の東国人の中にも、水軍武将を海賊と呼ぶことに違和感を覚える者がいたらしく、北条五代記 の中の次のようなエピソードが紹介されています(170ページ)。
ある人が、「いくさ舟の侍衆」を海賊の者と言ったので、そこにいた侍がこの言葉を聞きとがめて、「むか しより山賊海賊というのは、山で盗みをなし、舟にて盗みをするからこう名付けたのである。文字の読み方もそ うなっている。侍たるものが盗みをすることがあろうか。それを海賊などというのは言語道断のけしからぬこと である。そのようなことを言うのは、物をも知らぬ木石である」と怒った。それを聞いて先ほどの者は、「我は 文盲ゆえ文字の読み方も知らない。それでは、舟乗りの侍を何と呼ぶのか教えてください」といったので、この 侍は返答につまって無言になった。文字だけを見れば侍がとがめるのも理由がある。一方、昔から海賊と俗にい い伝えているから、この言い方にも理由がある。今との言葉について考えてみると......