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 特別企画展 唐入り―秀吉の朝鮮侵略― 
佐賀県立名護屋城博物館/編(佐賀県立名護屋城博物館)1995/9/30

 2014/11/25
   本書は、佐賀県立名護屋城博物館が、1995年秋に開催した特別展「唐入り―秀吉の朝鮮侵略―」の解説図録として作成したものです。30ページ足らずの図版と10数ページの解説からなる小冊子です。
 解説文を参考に、朝鮮侵略の流れを年表にまとめてみました。
1585  秀吉が関白任官直後に唐入り(中国侵攻)計画表明 
1587  秀吉は九州平定に際し、対馬の宗氏に朝鮮国王の「内裏出仕(だいりしゅっし)」(服属の印しとして国王が来日し天皇に謁見すること)を申し付ける 
1590  朝鮮通信使が聚楽第で秀吉と会見。通信使は、秀吉の国内統一を祝賀したつもりであったが、秀吉はこの会見を服属の証しとみて「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明侵攻の道案内)を命じる。通信使は秀吉の真意をはかりかねたまま帰国。通信使の正使は、帰国後、秀吉は侵攻するつもりだと報告し、副使は、侵攻はありえないと報告する。朝鮮との交渉に当たった宗義智(そうよしとし)は、朝鮮が征明嚮導に応じることは有り得ないと判断し、「仮道入明(かとにゅうみん)」(日本軍が明へ行くために朝鮮を通る)を求めたが、朝鮮はこれを拒否した。一方、秀吉の侵略準備は着々と進行し、宗義智と小西行長の朝鮮との交渉はついに時間切れとなる 
1592/4  宗・小西軍の釜山上陸(4/12)に続き、日本軍が続々と朝鮮侵攻を始める(第1次朝鮮侵略、文禄の役・壬辰倭乱)。日本軍は20日足らずで首都漢城(現在のソウル)を占領(5/3)、朝鮮国王は平壌(現在のピョンヤン)へ都落ちする 
1592/6  小西軍が平壌を攻略(6/15)、朝鮮国王は明との国境近くの義州に逃れる。このほか、日本軍は朝鮮全土に散開する。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍は目覚しく、抗日義兵も各地で蜂起する 
1592/7  明の援軍と朝鮮軍が平壌を攻撃するが、小西軍が撃退する(7/16)。日本軍は、漢城で軍議を開き、冬に向かい食料の調達も困難になるとの小西行長の報告を受けて、明への侵攻を延期する(事実上の中止)。 
1592/9 小西行長と明の沈惟敬が講和交渉を始める
1593/1  明軍の攻撃により平壌陥落(1/7)、小西軍は漢城に撤退する。漢城で講和交渉再開、日本軍の漢城撤退と引き換えに明軍は講和使節を派遣することとなる 
1593/5  明軍の講和使節が肥前・名護屋に到着、秀吉と交渉するも平行線となる。その後も交渉は続く。秀吉は、和睦の条件を朝鮮南四道の割譲、朝鮮王子の出仕、明の冊封使の派遣のみに限定するところまで譲歩した 
1596/9  大阪城に明の冊封使が到着、朝鮮の通信使が同行するが朝鮮王子は来参せず和睦は成立しなかった 
1597/1  加藤清正が慶尚南道多大浦に上陸、西生浦に着陣(1/14)。小西行長もこれに続く 
1597/2 秀吉が朝鮮再派兵の陣立定める
1597/7 巨済島漆川梁の海戦(7/15)で本格的戦闘始まる(第2次朝鮮侵略、慶長の役・丁酉再乱) 
1597/12 加藤清正が蔚山に籠城
1598/8 豊臣秀吉死去
1598/10 五奉行が撤退命令
 第1次朝鮮侵略(文禄の役・壬辰倭乱)では、1592年4月の侵略開始以来、平壌攻略までの2ヶ月間は日本軍の快進撃が続きますが、明の参戦と抗日義兵の蜂起により形勢が逆転し、明への侵略はおろか、朝鮮の戦線維持も危うくなり、侵略開始から1年余りで秀吉と明の間で講和交渉が始まります。
 交渉は3年余り続き、秀吉は朝鮮南四道の割譲で手を打とうとしますが、明はともかく朝鮮は割譲に同意するはずはなく、交渉は決裂します。このままでは、唐入りは何の成果もなく失敗に終わるため、実力で朝鮮南四道を獲得すべく、秀吉は第2次朝鮮侵略(慶長の役・丁酉再乱)を決行します。
 慶長の役では、夏ごろから戦闘が本格化したようです。日本軍は、忠清道、全羅道、慶尚道に展開しますが、首都漢城に到達することができませんでした。暮れには、普請途中の蔚山(うるさん)城が、反撃に転じた明と朝鮮の大軍に包囲され、籠城した加藤清正、浅野幸長らは、降伏寸前まで追い詰められるという事件が起こり、諸大名の中には戦線縮小論も出ます。
 結局、朝鮮南四道の確保は困難な状況の中、翌1958年に秀吉が死去、五奉行が撤退命令を出し、朝鮮侵略は失敗に終わります。そのまま戦闘を続けていても、当てのない消耗戦が続くだけであり、朝鮮民衆の苦難はさらに計り知れないものとなっていたでしょう。

 解説では、秀吉が、なぜ「唐入り」という暴挙に出たのかについては、次のように分析しています。確かに、秀吉の個人的野心と政権維持の手段という2つの側面があり、いずれか一方に結論付けることはできず、その必要もないでしょう。
 愛児鶴松の死を哀しんでのことだという童話じみた話は「唐入り」表明の時期からみてもとるに足りないが、そのほかにも秀吉の功名心・名誉欲がそうさせたのだとか、明との勘合貿易の復活を望んだのだとか、関心を外国に向けることによって政権内部の家臣間の対立を緩和しようとしたのだとか、さまざまな説が唱えられている。家臣に与えるための領土を拡張していく必要があったからというのも、また軍役動員を行うことによって支配権力の強化を狙ったのだというのも、それぞれ納得しうる話ではある。明に攻め込むことによって、当時の明を中心とした東アジア国際秩序からの脱却をはかったのだとする見方もある。
 最近よくいわれるのは、秀吉が――豊臣政権が国内を統一していくためには「唐国までも」の政治スローガンが不可欠であり、その必然的な帰結として[唐入り]が実行されたのだということである。秀吉は、天皇の権威を借りながら、あらゆる私戦を停止し、全ての紛争裁定権を自らの手に集中させる「惣無事」の論理でもって国内を統合していったが、「唐国」は、その過程で出てくる諸大名の不満をそらすために掲げられたより大きな目標であり、また自らの権威をより高めるための仕掛けでもあった。つまり、秀吉は唐国までも平定する予定なのだから、国内の大名はみな誰であろうと秀吉に服するのは当然である、という論法を用いたわけである。この論理的帰結のために「唐入り」は実行されたという。 
 しかし、それに続いて次のようにも述べています。実際に、殺戮と略奪を繰り広げたのは諸大名と家臣団であり、また多くの人買い商人が暗躍したのも事実です。
 「唐入り」は秀吉の誇大妄想的な夢であり、それによって引き起こされた朝鮮侵略戦争は、「無謀な」「大義なき」戦いだった――そう言ってしまうことはたやすい。しかし、この戦いの原因を秀吉という一個人に帰することは危険である。この侵略戦争には全国の大名のほとんどが動員された。また大名や武士たちだけではなく、僧侶や商人・職人をはじめあらゆる階層の人々が、直接・間接に係わったのである。秀吉の朝鮮侵略――対外派兵の真の原囚は豊臣政権の論理構造と当時の国際関係、さらにはその時代を生きた人々の意識までも踏まえたうえで検討すべき問題であろう。

 ところで、当時の日本軍は火縄銃という最新兵器を大量に所有していましたが、朝鮮軍も意外と善戦しています。そこで、朝鮮軍の装備がどのようなものであったのか興味が惹かれます。
 この点、図版では朝鮮軍の武器をいくつか紹介しています。
 当時の朝鮮軍の軍艦には、地字銃筒(ちじじゅうとう)という大型火気が搭載されていて、数十個の鉄丸を一度に発射できたそうです。銘文から嘉靖年間(1522〜1566)に製造されたことが分かるそうです。

 朝鮮では、16世紀後半に銃筒が開発され、写真一番下の勝字銃筒(しょうじじゅうとう、1579年)は、8〜10個の鉄丸を一度に発射できたそうです。 

 壬辰倭乱時に朝鮮軍が携帯した十連子銃(じゅうれんしじゅう)は、連続発射を目的として、木製の台座に10本の銃身が取り付けられています。

 講和交渉の休戦期に、倭城に残留した大名は盛んに虎狩りを行っていたようです。虎狩りに使ったと伝えられる火縄銃には、虎の模様の金象嵌が施されています。

 「大虎・小虎の歯」と呼ばれる虎の牙。大虎の方は、薬用に用いたらしく、表面や根元が削られています。

 松浦鎮信が狩りとった虎を進上したことに対して秀吉から賞与された朱印状。秀吉は虎肉を薬(強壮剤?)として欲しがったそうです。 

 1595年3月に薩摩の島津義弘が昌原(全羅南道)で行った虎狩りの様子を描いた絵巻。この虎狩りも秀吉の指示により行われたそうです。
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