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読書ノート / 中近世史
解説文を参考に、朝鮮侵略の流れを年表にまとめてみました。
交渉は3年余り続き、秀吉は朝鮮南四道の割譲で手を打とうとしますが、明はともかく朝鮮は割譲に同意するはずはなく、交渉は決裂します。このままでは、唐入りは何の成果もなく失敗に終わるため、実力で朝鮮南四道を獲得すべく、秀吉は第2次朝鮮侵略(慶長の役・丁酉再乱)を決行します。 慶長の役では、夏ごろから戦闘が本格化したようです。日本軍は、忠清道、全羅道、慶尚道に展開しますが、首都漢城に到達することができませんでした。暮れには、普請途中の蔚山(うるさん)城が、反撃に転じた明と朝鮮の大軍に包囲され、籠城した加藤清正、浅野幸長らは、降伏寸前まで追い詰められるという事件が起こり、諸大名の中には戦線縮小論も出ます。 結局、朝鮮南四道の確保は困難な状況の中、翌1958年に秀吉が死去、五奉行が撤退命令を出し、朝鮮侵略は失敗に終わります。そのまま戦闘を続けていても、当てのない消耗戦が続くだけであり、朝鮮民衆の苦難はさらに計り知れないものとなっていたでしょう。 解説では、秀吉が、なぜ「唐入り」という暴挙に出たのかについては、次のように分析しています。確かに、秀吉の個人的野心と政権維持の手段という2つの側面があり、いずれか一方に結論付けることはできず、その必要もないでしょう。
ところで、当時の日本軍は火縄銃という最新兵器を大量に所有していましたが、朝鮮軍も意外と善戦しています。そこで、朝鮮軍の装備がどのようなものであったのか興味が惹かれます。 この点、図版では朝鮮軍の武器をいくつか紹介しています。 当時の朝鮮軍の軍艦には、地字銃筒(ちじじゅうとう)という大型火気が搭載されていて、数十個の鉄丸を一度に発射できたそうです。銘文から嘉靖年間(1522〜1566)に製造されたことが分かるそうです。 朝鮮では、16世紀後半に銃筒が開発され、写真一番下の勝字銃筒(しょうじじゅうとう、1579年)は、8〜10個の鉄丸を一度に発射できたそうです。 壬辰倭乱時に朝鮮軍が携帯した十連子銃(じゅうれんしじゅう)は、連続発射を目的として、木製の台座に10本の銃身が取り付けられています。 講和交渉の休戦期に、倭城に残留した大名は盛んに虎狩りを行っていたようです。虎狩りに使ったと伝えられる火縄銃には、虎の模様の金象嵌が施されています。 「大虎・小虎の歯」と呼ばれる虎の牙。大虎の方は、薬用に用いたらしく、表面や根元が削られています。 松浦鎮信が狩りとった虎を進上したことに対して秀吉から賞与された朱印状。秀吉は虎肉を薬(強壮剤?)として欲しがったそうです。 1595年3月に薩摩の島津義弘が昌原(全羅南道)で行った虎狩りの様子を描いた絵巻。この虎狩りも秀吉の指示により行われたそうです。 。 |