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読書ノート / 中近世史
では、本書はそのような意図に沿うものとなったのでしょうか。これについて、原稿を読んだ編集者の反応を、著者自身が次のように述べています(221ページ)。
著者は、プロローグで、これまでの清正像について次のように説明しています。
では、清正の実像がどうであったかというと、本書からはその姿は見えてこないように思われます。本書は、秀吉の朝鮮侵略に焦点を絞り、清正の足跡をたどっていますが、「実証に徹する」姿勢からか、戦闘や外交交渉(ほとんが小西行長との悪口の言い合いの感がありますが)の経過を詳細に述べていますが、そこからは清正の実像が見えてこないのです。 とはいっても、大河ドラマのような赤裸々な人間ドラマが欲しいというのではないのです。そうではなくて、清正像がどのように作られ、当時の民衆はそれをどのように見ていたのかを知りたいのです。 この点、熊本市ホームページ/加藤清正の実像の〈24〉清正公信仰 ―神になった清正 ―では次のように説明しています。
本書のカバー写真は大判錦絵「地震加藤」ですが、それについて特に説明はありません。「地震加藤」は、明治初期の歌舞伎「増補桃山譚(ももやまものがたり)」(文化デジタルライブラリー/黙阿弥/明治期の作品)の1シーンです。 「増補桃山譚」は、「桃山譚」の前に、秀次乱行の件三幕を加筆したものですが、「桃山譚」については、次のような説明があります(《桃山譚》(ももやまものがたり)とは - コトバンク)。
「地震加藤」では、加藤清正は、石田三成らの讒言により謹慎させられていたが、大地震の際に、伏見城に駆けつけ、申し開きをし許されたとなっており、一般的にも歴史的事実と受け取られています。 本書でも、小西行長と石田三成が加藤清正を讒訴したとしています。その内容は、@行長のことを堺の商人にすぎないと悪口を言ったA自分のことを豊臣朝臣と名乗ったB家臣が冊封使に狼藉を働いた、というもので、それが秀吉の逆鱗に触れ切腹させられることになったというものです。 しかし、なぜ秀吉が激怒したのかよく分かりませんし、それが切腹させるほどのことなのかなという感じもします。 この点、熊本市ホームページ/加藤清正の実像の〈15〉「地震加藤」の真相は次のように述べています。果たして、歴史の実像はどうなのでしょうか。
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