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 敗者の日本史 12 関ケ原合戦と石田三成 
矢部健太郎/著(吉川弘文館)2014/1/1

 2014/12/8
   本書のタイトルは「関ケ原合戦と石田三成」となっていますが、石田三成の生い立ちや人物像にはほとんど触れていません。その理由について、著者は次のように説明しています(4ページ)。つまり、「豊臣政権の歴史を詳細に検討」することが、本書の狙いのようです。となると、敗者は、豊臣秀吉あるいは豊臣政権ということになるのでしょうか。
 本書は「敗者の日本史」シリーズ中の一冊であり、タイトルは『関ヶ原合戦と石田三成』となっている。しかし、それが示すのは、単に「関ヶ原合戦の敗者は石田三成である」ということではない。むしろ、「なぜ関ヶ原合戦の敗者は石田三成とされたのか」を明らかにすることが、本書の重要な問題意識である。すなわち、徳川幕府成立後の二次史料が作り上げてきたイメージを排し、豊臣政権期の一次史料をもとに、しかも関ヶ原合戦そのものではなく、それ以前からの豊臣政権の歴史を詳細に検討することにより、関ヶ原合戦に到る大きな流れを把握したいと思う。
 従来の豊臣政権のイメージについて、著者は次のように説明しています。つまり、従来の考え方は、晩年までは豊臣政権=秀吉独裁だったということですが、著者はそれに異議を唱えています。
 高等学校の日本史教科書などでも、多くは次のように説明されている。すなわち、豊臣政権とは秀吉の独裁色が極めて強い政権で、彼の晩年になって、幼い秀頼を護るために急場凌ぎの組織が作られた。それが「五大老・五奉行制」であり、その組織の不十分さが政権内の矛盾、ひいては関ヶ原合戦という局面を招いたというのである。
 著者の主張は、豊臣政権が大名連合的性格を持ったのは、晩年よりももう少し早かったというものです。ただし、その大名連合は公儀という権威付けのためであり、権力そのものは秀吉の独裁だったと次のように主張しています(6ページ)。かなり分かりにくい内容ですが、独裁的な権力の正当性を、諸大名の連合、つまり諸大名の支持を得ているという名目に求めたということでしょうか。
……つまり豊臣政権とは、権力自体は秀吉の独裁的な支配下に集約されていたものの、それを支える権威部分、すなわち政権の「金冠」部分においては、旧戦国大名「公儀」の集合体、すなわち「大名連合的性格」を持っていたということである。もちろん、秀吉晩年の政権を「大名連合的性格」として説明することは従来から行われている。しかし、そうした議論は、「大名連合的性格」=「合議制」と認識する傾向にあった。これに対して筆者は、豊臣政権が「大名連合的性格」を持ち始めたのは秀吉晩年のことではなく、もう少し早い段階であり、しかもそれは「合議制」とはまったく異なる形態だったと考えている。
 秀吉晩年の政権を「大名連合的性格」は、五大老行制に現れますが、天下統一以前の1588年に特殊な権威集団として、清華成(せいがなり)大名群が形成されていたと、次のように主張しています(8ページ)。
 そうした観点から、筆者は主に豊臣政権期の公武関係について考察を進めてきた。その結果、従来「五大老」として説明されていた大大名が、秀吉の晩年ではなく、いまだ天下一統を実現する以前の天正十六年段階で、すでに特殊な権威集団として組織化されていた事実を確認するに至った。それが本書の重要なキーワードの一つ、豊臣「清華成」大名である。
 この清華成について著者は次のように説明しています(38ページ)。清華家は、久我(こが)・三条・西園寺(さいおんじ)・徳大寺・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭)、のちに、広幡・醍醐を加えて九家で、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄(コトバンク)というようにその内容は明確ですが、清華成が何を意味するのかこれだけではよく分かりません。
「清華成」という文言は、公家社会の伝統的な「家格」である「清華家」と「成る」という語句が合わさってできたものである。「清華家」とは、「摂関家」につぐ名門で、極官(その家格の者が昇進できる上限の官職)を太政大臣・近衛大将とする家柄である。「清華成」という文言が、豊臣期の、それも大正十六年三・四月に初めて確認できるということは、当時の時代背景と「清華成」が密接に関わっている可能性を示している。その当時、豊臣政権は大きな事業を計画していた。それが、聚楽第行幸である。
 本能寺の変(1582)後の秀吉の政権樹立への動きは次のようになります。
 1582 山崎の合戦
 1583 賤ヶ岳の戦い 
 1584 小牧長久手の戦い
 1585 関白任官、四国平定
 1587 九州出兵
 1588 聚楽第行幸
 織田家の一家臣に過ぎなかった秀吉は、信長死後まもなく、その勢力圏を引き継ぎ、わずか5年で東北・関東を除く日本全国を支配下に収めてしまいます。
 この成功を可能にしたのは、秀吉と家臣団の軍事力、政治力、経済力だったのであり、その実態はどうだったのか、大いに興味の惹かれるところです。聚楽第行幸は、いわばその成果のお披露目だった言っていいでしょう。
 この聚楽第行幸について著者は次のように述べています(42ページ)。つまり、著者は、もっぱら家格による武家衆の身分秩序という観点から豊臣政権の実態を探ろうとしているように思われます。
 このように、聚楽第行幸という一大行事を通じて、秀吉は豊臣「清華成」大名という新たな身分集団を披露することに成功した。聚楽第行幸が豊臣「武家官位」制度の大きな画期であることはすでに指摘されているけれども、それらは、行幸前後に多くの大名衆が叙任されたという、いわば量的な側面に注目したものであった。しかし、「家格改革」から聚楽第行幸への流れの中で「清華成」という新たな「家格」が披露されたことは、秀吉が、質的にも武家衆の身分秩序に新たな意味づけをする機会として、聚楽第行幸を利用した事実を示しているのである。
 このような著者の姿勢は、秀次切腹事件の記述にも見られます。
 秀次を失脚させ、切腹に追い込んだ張本人は石田三成であるとする「三成讒言説」について、著者は次のように反論しています(83ページ)。つまり、豊臣宗家の家格を維持するという目的があったのだから、秀次を切腹させるはずがないというものです。
 しかし、本書の考察によれば、こうした見方は一八〇度転換されなければならないだろう。秀吉や三成には秀次を切腹させる意思などなかったのであり、正則が伝えるべきは「切腹命令」ではなく「住山掟三ケ条」であった。すなわち、生きたまま秀次を高野山に拘留しておくことが秀吉・三成の意思なのであって、命を奪うことまでは望んでいなかったのである。
 豊臣政権のヒエラルヒーにおいては、「官位」とともに「家格」が重要な意味をもっていた。「官位」は人につき、時により変動するものなのに対して、「家格」は家につき、原則的に変動しない。幼い秀頼を首班とする豊臣政権を維持していこうとする場合、豊臣宗家が他の大名家とは隔絶した高い地位にあることを示す必要があった。そこにこそ、「関白職」世襲の最大の意義がある。すなわち、豊臣宗家は武家にあって唯一の「摂関家」という「家格」を標榜し続けることで、他の大名家との格差を明示していたのである。
 この点を考えるならば、秀吉が現任関白の秀次に切腹を命じるということは、そもそも考えにくい。
 しかし、秀次を切腹させる意思はなかったのであれば、何故その後、秀次の妻子30余名を公開処刑する必要があったのか疑問が生じるところですが、その点について、著者は次のように説明しています(84ページ)。つまり、豊臣宗家の家格維持路線に対する反逆は許さぬということでしょうが、それは、「秀吉が怒りを抑えられなかった結果」ということになるのではないでしょうか。むしろ、念には念を入れて秀頼にとっての邪魔者を消したと考える方が自然な感じもします。
 秀吉や三成にとっては、秀頼が成長するまで秀次を高野山に「住出」させ、しかるべき時に秀頓に「関白職」を世襲させることが目的だったと考えられる。秀次の切腹は、そうした秀吉・三成の意思に反する「想定外」の事態であり、いわば豊臣政権に対する反逆行為であった。「関白職」を世襲するという豊臣宗家のアイデンティティーは、「想定外」の秀次切腹によって大きなダメージを受けてしまったといえよう。「地獄絵巻」と化した八月二目の秀次妻子三〇余名の公開処刑は、そうした流れのなかで理解されるべき事件なのであって、晩年の秀吉が怒りを抑えられなかった結果というように、単純な見方をしてはならないのである。
 本書のタイトルは「関ケ原合戦と石田三成」となっているように、著者は断片的に石田三成にも触れています。七将の三成襲撃事件について、次のように述べています(150ページ)。「笠谷和比古氏による見解」とは、「豊臣七将の石田三成襲撃事件 : 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」のことと思われます。笠谷和比古氏は「関ケ原合戦と近世の国制」の「第二章 豊臣七将の石田三成襲撃事件−歴史認識生成のメカニズムとその陥穽−」でもこの事件を取り上げています。 確かに、三成が家康邸に逃げ込むというのは不自然な感じもします。
 この事件は、秀吉の死から関ヶ原合戦に至る過程で、とても大きな意味を持つ事件として従来から注目されてきた。家康と並ぶ実力者・前田利家が亡くなった翌晩、「七将」が三成排除を訴えて兵を集めたというもので、「七将」は誰かとか、三成が逃げこんだのはどこか、というような興味深い点が論点としてあげられている。現在のところ、笠谷和比古氏による見解、すなわち「七将」とは加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明であり、三成が逃げ込んだのは家康邸ではなく伏見城の一角「治部少丸」であったというのが通説になりつつある。
 著者は次のように、この事件の首謀者は徳川家康と見ているようですが(151〜152ページ)、推測の域を出ないようです。
 いずれにせよ、「七将」襲撃事件を考えるためのポイントは、「三成排除」によって大きな利益を得るのは誰かということである。また、「七将」が決起するにあたって、その後の身の安全が事前に保証されていたと仮定すると、彼らの迅速かつ大胆な行動についても一定の理解が可能となる。「七将」による三成襲撃について事前に談合の内容を承知しており、事件後は「七将」の罪科を問わず、三成を蟄居させてこの一件をまとめた人物……想定されるのは、徳川家康ただ一人なのである。
 関ヶ原合戦で、石田隊にあって奮戦した秀次遺臣「若江八人衆(わかえはちにんしゅう)」について、著者は次のように述べています(188〜189ページ)。ここでも、家格維持が目的、秀次を切腹させる意思はない、ということころから出発し、真相を知った八人衆は三成のために命を捨てて戦ったと推測しています。
 結局、本書の力点は、武家家格から豊臣政権を検証することに置かれ、石田三成に関する記述は、仮定や推論が目立つように思われます。
 「若江八人衆」はもともと三好康長の家臣で、秀吉が秀次の補佐のために配置した者の通称である。秀次の失脚・切腹後は三成に仕えた者も多く、関ヶ原合戦では大場土佐・大山伯耆・高野越中・舞兵庫・牧野成里・森九兵衛が石田隊として奮闘し、その多くが討死にした。本書では、秀次事件について従来とは異なる見方を示したので、改めて彼らと三成との関係を整理しておきたい。
 三成が彼らを召し抱えることになった理由としては、無実の家臣団に対する哀れみ、浪人増加による社会不安の防止などがいわれている。それはその通りだと思うが、従来の秀次事件に関わる通説は、「八人衆」が三成に恨みを持っていた可能性に論及していない。主君秀次を讒言によって死に至らしめた当人に、何の抵抗もなく臣従するというのも不思議な話ではある。
 しかし、本書の秀次事件に関する見方、すなわち秀吉・三成には秀次を切腹させる意思はなかった、という結論からすると、「若江八人衆」の三成への臣従についても整合的に理解することができる。三成は「想定外」の秀次切腹を憂い、残された秀次遺臣を自らの元へ招いたのであり、「八人衆」としても、三成に対しては何の恨みも持っていなかったということなのである。むしろ、三成から秀次切腹の経緯を聞かされたであろう「八人衆」には、福島正則への憎しみが生じたのではなかろうか。彼らが、関ヶ原合戦において福島・黒田らを擁する「維新軍」と対峙し、三成のために命を捨てて戦った背景には、そうした人間模様があったと考えられる。