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 戦争の日本史8 南北朝の動乱 
森茂暁/著 (吉川弘文館)2007/9/1

2017/1/6
 南北朝というのは非常に分かりにくい時代です。
 南朝といっても、どう見ても統治機関としての実質は伴っていないように思われますが、そのような組織が室町幕府の京都と100キロほどしか離れていない吉野に本拠を構え、60年近くも対抗できたのはどうしてでしょうか。また、その間の国の統治体制はどのようになっていたのでしょうか。
 また、明治期以降の南北朝正閏論争(南北朝のうちどちらが、正統で、どちらが、閏統かをめぐる論争)では、明治天皇が北朝の系統であるにもかかわらず、なぜ、明治国家が南朝を正統と認めたのでしょうか。
 このような疑問を解き明かすため、この本を読んでみました。

 目次は次のようになっています。タイトルに「戦争の日本史」とあるように、「正中の変(1324)」から「南北朝の合体(1392)」までの南北朝の戦乱の歴史を扱っています。戦乱の叙述は、時代背景や政争の話が随所に挿入され、また時系列となっていないので少しわかりにくいです。また、著者が九州出身ということもあるのか、九州関係の記述が詳しくなっています。
 南北朝通史の著作として、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965年、中公文庫 新版2005年) が古典的名著として高い評価を受けており、本書もその成果を踏まえて、さらに独自色を出そうとしているように思われます。その意味では、「日本の歴史9 南北朝の動乱」をまず読んでみた方が良かったのかもしれません。 
南北朝の動乱とは何か―プロローグ
T=内乱の時代の到来
U=元弘・建武の争乱と南北朝動乱の開始
V=観応の擾乱
W=南北合体へのみちすじ
X=国内の統一と対外関係の変貌/喧噪のあとに―エピローグ

新旧勢力の対立が争乱長期化の背景に
 
 南朝が60年近くも対抗できたことについては、次のような意見があります( まぐまぐニュース!>尊氏はこんなにムチャクチャだった。学校で教えてくれない南北朝時代)。このページの筆者は、国際派日本人養成講座というブログを開いていて、歴史観については、新しい歴史教科書をつくる会日本会議に近い立場です。なお、株式会社まぐまぐには特定の思想的傾向はないようです。

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。

東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。

西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。

さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。

 この意見にはいくつかの問題があります。
 まず、@各地域の武力抵抗の期間を考慮していないことです。新田義貞や北畠顕家は早い時期に敗死しています。九州で優勢になった時期は少し後ですから、「全国的なネットワークを構築」という事実はありません。
 次に、A1348年に吉野が陥落してから後、南朝は各地を転々としているという事実に触れていないことです。
 さらに、B後醍醐天皇没後、何度か和議が試みられたように、幕府としては(何度も武力行使を行ったものの最終的には)力による征服ではなく交渉による解決を望んでいた事実を考慮していないことです。
 本書の著者は、争乱が広域化・長期化した理由について、多種多様な社会階層において、守旧派と革新派の対立が一般化・普遍化するという時代背景をあげています。さらに、王権が分裂したという特殊事情もあったものの、幕府が南朝を力で屈服させるよりは、正式に合体させようという方法を採用したことに根本的な理由があると見ています(3〜5ページ)。 

不屈の闘志で悲願を達成 
 本書を参考に、南北朝の歴史を概観してみます。
1324. 9 正中の変:後醍醐天皇によるクーデター未遂
1331. 5 元弘の変:後醍醐天皇が笠置山で蜂起、陥落。隠岐に流される
1332  後半、護良親王や楠木正成がゲリラ的抵抗 
1333.u2 後醍醐天皇が隠岐を脱出
.3 菊池合戦:菊池武時が鎮西探題を襲撃するが討ち取られる 
.5 足利尊氏が反旗、六波羅探題陥落。新田義貞が鎌倉制圧。鎮西探題陥落(元弘の乱) 
.6 建武の新政始まる
 倒幕の主役は後醍醐天皇であることに違いはありません。2度の失敗にもかかわらず、不屈の闘志で挑戦を続け「3度目の正直」で悲願を達成しました。また、護良親王や楠木正成のゲリラ的抵抗がボディーブローのような効果をあげたともいえるでしょう。
 菊池合戦とは、肥後・菊池の御家人菊池武時が、錦の旗をかかげ、博多の鎮西探題を襲撃するが、一族郎党ともに討ち取られたいう事件です。菊池氏は、源平合戦では平氏につき、承久の変では京都側に属したため、領地を削られ、蒙古来襲では奮戦したものの(竹崎季長絵詞に登場します)、満足な恩賞が得られず、長年の恨みが鬱積していたようです。著者はこの事件が、元弘の乱の「呼び水のような役割を果たした」と述べています(36ページ)。
 隠岐を脱出した後醍醐天皇が倒幕を呼びかけたため情勢は加速し、幕府は六波羅探題を支援するため、足利尊氏と北条一門名越高家を派遣します。名越高家は、4月27日に敗死、足利尊氏は4月29日に丹波・篠村八幡宮に旗あげの成功を祈願しています。倒幕に転じた足利軍は、5月7日に六波羅探題を陥落させます。(本書では明確にされていませんが)新田義貞の挙兵が5月8日ということですから、(本書では触れていませんが)両者に事前の申し合わせがあったのかもしれません。5月22日には、新田義貞が鎌倉を陥落させ、幕府は滅亡します。しかし、その直後から足利と新田の主導権争いが生じ、新田義貞は鎌倉を退去します。
 次の系図(詳説日本史図録 第3版115ページ)のように、足利尊氏と新田義貞はともに源義家から数えて10代目のライバル関係ですが、足利氏が北条一族と姻戚関係を築き、上総、三河に所領を広げたのに対し、新田氏は冷遇されていました。
 

全国的戦乱は北朝優位に 
 鎌倉幕府があまりにも一気に崩壊したため、建武新政は準備の整わないままの船出となり、混乱は全国に広がります。
1334 新政は混乱(二条川原落書)。奥州北部や九州で旧北条勢力が反乱を起こす 
1335.7 北条時行が信濃で蜂起し行軍、鎌倉を占領(中先代の乱)。鎌倉将軍府の執権足利直義は、(政争に破れ後醍醐天皇の命で鎌倉に拘禁されていた)護良親王殺害を命じ三河に撤退 
.8 足利尊氏は勅許を得ないまま出陣し、鎌倉を奪回。逃亡した時行はその後、南朝に下る 
.11 足利尊氏・直義の官爵削られる 
.12 竹ノ下の戦いで、足利尊氏が新田義貞を破り西進。北畠顕家が奥州を出発、足利軍を追う 
1336.1 足利尊氏と後醍醐軍が京で激戦
.2 足利尊氏、敗れて兵庫から海路九州へ 
.3 足利尊氏、筑前・多々良浜で菊池軍に勝利、その後東進 
.5 摂津・湊川で足利軍に破れ、楠木正成自刃。後醍醐天皇は比叡山へ退去 
.6 足利尊氏、京都占拠 
.8 光明天皇が践祚(北朝の成立)。後醍醐天皇は和議に応じ、比叡山を下りる 
.12 後醍醐天皇は京都を出走し大和吉野に拠る(南朝の成立) 
1337.8 北畠顕家が奥州から2度目の上洛 
1338.5 北畠顕家が和泉堺浦・石津で敗死
.u7 新田義貞が越前藤島で敗死 
.8 足利尊氏、征夷大将軍に就任 
1339.8 後醍醐天皇が死去 
 新政翌年には、奥州北部や九州で旧北条勢力が反乱を起こし、1335年7月には、北条高時の次男の時行が信濃で蜂起し、たちまちのうちに鎌倉に迫ります(中先代の乱)。鎌倉には将軍府が置かれ、足利直義がを執権として実権を握っていましたが、三河に撤退、反乱軍は鎌倉を占領します。このとき、足利直義は、護良親王殺害を命じます。護良親王は後醍醐天皇の皇子で、倒幕の功労者ですが、後醍醐天皇や足利尊氏と対立し(本書ではこの経緯の説明はありません)、天皇の命で鎌倉に拘禁されていました。  
 1335年8月、足利尊氏は勅許を得ないまま反乱鎮圧に出陣します。尊氏は征夷大将軍任官を望んだものの希望がかなえられなかったため、独断の行動となったのです。反乱は10日ほどで鎮圧され、尊氏は鎌倉を奪回します。
 しかし、その後、朝廷からの帰還要請に応じず、尊氏は鎌倉に居座り続けます。京都と鎌倉の間に緊張が高まり、1335年12月、討伐に向かった新田義貞軍と足利軍が激突、敗れた新田軍は京都へ撤退、それを足利軍が追いかけます。一方、陸奥将軍府の北畠顕家が奥州から救援に駆けつけます。
 1336年、下図(詳説日本史図録 第3版116ページ)のように全国を巻き込んだ戦乱が続きますが、最終的には足利尊氏が京都・鎌倉を制圧します。
 
 まず、1336年1月に、足利軍と後醍醐軍が京都で激突、劣勢となった足利尊氏は2月に海路九州へ撤退します。しかし、3月には筑前・多々良浜で菊池軍に勝利し勢いを盛り返し、九州の軍勢を加え大軍となって4月に京都へ進撃を開始、5月に摂津・湊川で新田・楠木軍を破り、楠木正成は自刃、後醍醐天皇は比叡山へ退去します。
 6月には足利尊氏が京都占拠、8月には光明天皇が践祚し北朝の成立します。一方、後醍醐天皇は和議に応じ、比叡山を下り、新田義貞は越前に撤退します。しかし、12月に後醍醐天皇は京都を出走し大和吉野に拠って、南朝を樹立し、南北朝の対立が始まります。
 1337年8月には、2度目の上洛を目指して北畠顕家が奥州を出発します。しかし、1338年5月には北畠顕家が和泉堺浦・石津で敗死、閏7月には新田義貞が越前藤島で敗死、8月には足利尊氏は征夷大将軍に就任し名実ともに室町幕府が始まり、北朝の軍事的優位は動かしがたいものとなります。1339年8月には後醍醐天皇が死去します。

九州下向は予定内の行動だった? 
 1336年2月に兵庫から敗走した足利軍が5月には大軍を率いて新田・楠木軍を破り、6月には京都を制圧しますが、その転機となったのが3月の筑前・多々良浜での勝利です。
 太平記によると、足利軍はわずか300騎で、3万余騎の菊池軍を破ったとあります(Cube-Aki太平記第十六巻(その一))。このような勝利が本当に可能だったのでしょうか。当時の熊本の人口や菊池氏の勢力から考えて、3万余騎というのは到底ありえない数値に思えます。
 この点について、著者は次のように述べて(78ページ)、足利尊氏の九州下向は単なる敗走ではなく予定内の行動であり、多々良浜の戦いでは足利軍の方がむしろ優勢であったと指摘しています。  
 このように考えると、尊氏の九州下向は単なる敗走とはいえなくなる。九州に到着する以前に「室津の軍議」で山陽・四国地方の体制固めを熟考しているし、鞆では院宣を獲得し朝敵の汚名をはらすなど、将来の幕府体制樹立に向けて着実な歩みを進めているし、予定内の行動とみる方が実態に即している。足利と菊池の戦争である筑前国多々良浜の戦いも『太平記』や『梅松論』では勝ち目のない足利軍が大敵菊池軍を劇的に撃破したような軍記物特有の筆致で描かれているが、他の信頼できる古文書など関係史料を集めて整理して考えてみると、九州の三有力守護(少弐・大友・島津)のみならず、北部九州の中小の豪族たち(宗像氏や香椎大宮司など)も多く尊氏に与同したとみられるところから、尊氏軍が劣勢であるどころかむしろ優勢で、菊池軍の敗退は必然であったとみられ、ようするに、尊氏の九州下向は鎮西探題が滅亡した元弘の乱以来培ってきた九州武士との関係をたどっての当初からの計画に従ったものと考えられる。

「罪深き妄念」が愛国のスローガンに  
 本書では、摂津・湊川での楠木正成自刃については、簡単にしか触れられていません。しかし戦前においては、楠木正成は、忠君愛国のシンボルとして戦意の高揚・国威発揚に利用され、湊川への出陣途上、息子正行(まさつら)を桜井の地(現・大阪府島本町桜井)で帰す場面(桜井の別れ)は、尋常小学読本で取り上げられていました(尋常小学読本 - 歴史と物語:国立公文書館)。この場面は、(ネット上では正確なデータは見つかりませんでしたが)「桜井のわかれ」あるいは「大楠公の歌」と呼ばれる唱歌にもなっていたそうです(大楠公 _創価合唱団_SokaChorus(SGI) )。なお、大戦中には、「楠木記述は、ドラマチックな美文調物語に作り替えられた」ということです(萬晩報隠されたクスノキと楠木正成(六))。
 また、太平記(Cube-Aki太平記第十六巻(その三))によれば、湊川の戦いに敗れ、楠木勢72人が自刃するとき、弟の正季が語ったとされる「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」という言葉が、戦前の軍国主義時代に「七生報国」というスローガンとなり、次のように 陸軍大臣布告にも使われました。
 全軍将兵に告ぐ、「ソ」連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すといえども大東亜を侵略せんとする野望歴然たり、事茲に至る、また何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。

 假令、草を喰み土を噛り野に臥すと雖も断じて戦うところ死中自ら活あることを信ず、是即ち七生報国「我一人生きてありせば」という楠公救国の精神なると共に、時宗の「莫煩悩」、「驀進進前」以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀進進前すべし。

 昭和20年8月10日             陸軍大臣

 ただし、太平記によれば、弟の正季の言葉に、正成は「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ」と答えたとなっています。この「罪業深き悪念」の意味については、「後のストーリーへの伏線」だという次のような指摘があります(歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん>楠木正成伝 第八章 湊川に散る)。なお、この時代には陣僧(じんそう)が戦陣に赴き討ち死にの様子を遺族に語ったことがあるそうですが(137〜139ページ)、太平記の記述には陣僧は登場していないようです。

 仲間たちを間道から故郷に逃した後、農家に残った最後の楠木勢は28名であった(『南都興福寺文書』)。
 一同、居並んで念仏を唱えた。
 『太平記』によれば、正成はここで弟の正季と向き合い、こう問うた。
 「最後の一念で来世の運命が分かれるというが、お前の存念は何だ?」
 正季は応えた。「七生まで人間に生まれ変わり、朝敵を滅ぼしたい」
 正成は笑った。「罪深い妄念だが、私もそう願う」
 言うまでもなく、これは『太平記』の作り話である。落ち着いて考えれば簡単に分かることだが、この会話を聞いた人は、この直後にみんな死んでいる。だから、正成の末期の言葉が後世に伝わるわけはないのである。
 この「七生報国」の会話は、実はそんなに深い意味がある創作ではない。これは、後のストーリーへの伏線なのである。『太平記』には、この後も「正成の怨霊」が登場して足利方を苦しめる。これに上手に繋げるために、正成の最後の言葉をこのように締めくくったのである。正成は、「罪深い妄念」を抱いて死んだから、怨霊になったと言いたいのだ。
 しかし昭和戦前は、この「七生報国」の会話が史実ということになった。そしてこの会話は、正成の魂が怨霊になるための作劇上の伏線ではなく、愛国心ゆえの言葉ということにされたのである。真面目な若者たちは、これを合言葉にして特攻機で出撃して行った。まさに、歴史が悪用されたのである。
 だから、「小説」を読むときは十分に気をつけなければならない。

 たとえば、太平記(Cube-Aki太平記第二十三巻(その一))によれば、暦応5年(1342年)、伊予国の住人大森彦七盛長のもとに、正成、後醍醐天皇、護良親王、新田義貞、平忠政、源義経、平教経の怨霊が大挙し押し掛けたということです。

吉野が陥落、南朝は窮地に
1348.1 高師直が四条畷の戦いで勝利、楠木正行は敗死。後村上天皇は、行宮を西吉野・賀名生(あのう)に移す
高師直が吉野を焼き討ち 
.8 足利直冬が紀伊南軍と合戦 
 北朝=幕府の軍事的優勢は動かしがたい事実となりますが、それに追い討ちをかけるように、1348年1月28日に高師直が吉野の行宮(あんぐう=仮の皇居)に進入し火を放つという事件が起きます。1月5日に、高師直が四条畷の戦いで勝利、楠木正行は敗死させており、攻撃を察知した後村上天皇が事前に退去していたので、吉野の行宮はもぬけの空でした。
 この焼き討ちで、南朝の皇居、公家の邸宅のみならず、 金峯山寺(きんぷせんじ)本堂の蔵王堂も炎上しました。Google マップによると、吉野朝宮跡は金峯山寺の西隣となっています。後醍醐天皇は、当初、僧坊であった吉水院(現吉水神社)に移りましたが、その後、蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とし、寺号を金輪王寺と改めたということです。いまは南朝妙法殿が建ち、皇居跡公園として整備されています(なら旅ネット吉野朝宮跡)。高師直が焼き討ちしたのは、金峯山寺と金輪王寺(行宮)で、吉水神社は難を免れたらしく、後醍醐天皇の遺品が今も残っています。

 吉野を退去した後村上天皇一行は、やがて大和のさらなる奥地である賀名生(あのう)に落ち着きます。吉野の南西10キロほどですが、道路が整備されていない当時はかなりの辺境だったと思われます。

 一行は郷士「堀孫太郎信増」の邸宅に身を寄せ、行宮とします。賀名生皇居跡は現在も堀家住居として使用されており、以前は見学の申し込みも受け付けていたそうです(グラフ|【やまと建築詩】堀家住宅(賀名生旧皇居)堀家住宅 賀名生皇居跡)。隣接して資料館(賀名生の里歴史民俗資料館)も建てられています。当時の住居がそのまま残っているとはちょっと考えられませんが、行宮と呼ぶにはあまりに侘しい仮住まいといえそうです。
 8月には、足利直冬が紀伊南軍と戦い勝利します。足利直冬は尊氏の庶子ですが冷遇されていたため、直義が養子として引き取り、この合戦が初陣でした。南朝は拠点であった河内、紀伊を攻められ、吉野の行宮も焼き討ちされ、かなり厳しい状況となりました。このような状況の中、幕府に内紛(観応の擾乱=じょうらん)が起こり、南朝は息を吹き返します。とは言っても軍事的に劣勢であったことには変わりはなかったようです。

足利直義vs高師直、まずは師直派が勝利
1349.4 足利直冬が中国管領として、備後鞆に赴く
.u6 足利直義派が先制攻撃、高師直が執事を罷免される(観応の擾乱の伏線) 
.8 高師直派が、軍勢を動員し反撃、足利直義は事実上、政務から引退 
.9 足利直冬が追われて四国へ(その後九州へ向かい猛威を振るう)
.12 足利直義が出家 
 観応の擾乱の対立構造は次のようになっています(詳説日本史図録 第3版117ページ)。足利政権は南朝派武士団や北条遺臣と戦いつつ(破壊)、統治機構の踏襲・整備(建設)を同時に行わなければならず、それを尊氏と直義が分担して行っていたのであり、両者に対立があったわけではありません。ただし、「破壊=急進」と「建設=守旧」は対立的要素を孕んでおり、それが直義派と師直派の対立という形で顕在化したものと思われます。
  
  本書の著者は、佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論社1965、中公文庫2005)の意見を土台に、この争乱を、「急進派=高師直グループ」と「守旧派=足利直義グループ」の対立とし、両派の構成員を次のように分析しています(110〜111ページ)。この色分けからは、楠木一族は利害関係からいえば、急進派=高師直グループに近い立場にいるようにも思えます。
守旧派=足利直義グループ  急進派=高師直グループ 
一門の有力者、旧幕府官僚  合戦での武功組 
一族の惣領  一族の庶子 
高い家格の一門  低い家格の一門 
東国や九州の後進地域の武士  畿内先進地の反荘園的新興武士 
 両派の抗争は、1349年6月、直義派が先制攻撃を仕掛け、高師直が執事を罷免されます。8月になると、師直派が反撃に出ます。直義を討とうと一族郎党を集め、直義は尊氏邸に逃れます。両派の軍勢が京都に馳せ参じ洛中は騒然となります。しかし、師直派は軍勢の数で圧倒しており、師直派に有利な形で話し合いによる決着がつきます。その内容は、@尊氏の嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せ政務を任せ、直義はその補佐をする、A直義の側近の上杉重能(しげよし)と畠山直宗(ただむね)を越前に配流する、というものです。しかし、@政務の実権は義詮に握られ、A上杉重能と畠山直宗は師直の命で殺害されてしまいます。
 この事件では、尊氏が直義をかくまった形になりますが、尊氏と師直が内通していたのではないかという見方が当時からあったそうです。著者は、「やはり義詮を登板させるためのシナリオが用意されていたと考えるほうが自然である」と述べています(114〜115ページ)。
 12月には、直義は出家し、政治生命は全く絶たれたかのようになります。

直義派が反撃、師直一族殲滅  
 しかし、その後直義派が反撃に転じます。
 本書では、観応の擾乱の説明はかなり省略されているので、峰岸純夫「足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)」 を参照して以下にまとめてみました。
1350.11 足利直義が自派勢力の拡大し反撃の準備            
.12 足利直義が南朝に降伏 
1351. 2 足利直義が、足利尊氏・高師直に勝利を重ね、高師直一族の多くは摂津武庫川で上杉能憲勢に惨殺される
 まず、反旗を翻したのは九州に逃れた直冬です。肥後の豪族を味方に付け勢力を伸ばしたため、尊氏は1350年6月に高師泰を追討に差し向けますが、師泰が石見で直冬派と戦っている間に、北九州の少弐・大友勢が直冬方に付きます。そこで、尊氏・師直が九州へ向け出陣しますが、その直前の10月末、直義が諸国の武士に師直・師泰誅罰を呼びかけ、直義派武将が続々と上洛の途につきます。また、直義は(降伏した形にして)南朝と手を組みます。
 1351年正月、直義派が次々と入京し、留守を預かっていた義詮は辛うじて脱出し、出陣途中から引き返してきた尊氏・師直と合流します。尊氏軍は京都奪回を図るも失敗し播磨に退きます。同じころ、鎌倉は直義派によって制圧され、上杉能憲(よしのり=上杉重能の甥で養子)らが鎌倉から京都に向かいます。
 態勢を立て直した尊氏・師直軍は、2月、摂津・打出浜(現芦屋市)で直義軍と激闘の末、敗北し、師直・師泰の出家・引退を条件に、尊氏と直義との間に和議が成立します。ところが、帰京の途上で師直一行は上杉能憲勢に襲撃され皆殺しにされてしまいます。 

尊氏が逆襲、さらに南朝が東西同時蜂起 
 和議によって、将軍尊氏のもとで義詮・直義が共同統治を行うという態勢に戻りますが、ここから尊氏の逆襲が始まり、薩埵山(さったやま)合戦で直義が敗北その後死亡、さらに南朝側が東西同時蜂起し京都と鎌倉を占拠するも、最終的には足利方が勝利します。本書ではこれらの経緯の説明をかなり省略しているので、峰岸純夫「足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)」を参照してデータを追加しました。
1351. 8 尊氏・義詮の挟撃作戦を察知し、足利直義派が越前金ヶ崎城目指して京都を退去            
.9 直義軍が近江に出陣するも敗退。その後、東国へ下向 
.10 尊氏が南朝と和議 
.11 南朝が北朝の年号を廃止し崇光天皇と直仁皇太弟を廃する(正平の一統)
尊氏が関東に出陣。直義が鎌倉に到着、基氏は伊豆に退去 
.12 駿河・薩埵山で尊氏軍と直義軍が対峙。直義軍が数で有利だったが、下野の宇都宮軍が背後に迫り、直義軍は逃亡者が続出し戦意を失い、直義は伊豆の山中に逃れる 
1352. 1 足利直義が、和議を受け入れ鎌倉に戻る
.2 直義死亡、尊氏が毒殺したとの風評。 
.u2 南朝側が東西同時蜂起。上杉憲顕と南朝の新田義興らが関東で蜂起、義興は一時鎌倉を占拠するが、尊氏が反撃し撃退(武蔵野合戦)。南朝軍が京都に侵攻、義詮は敗れ近江に退去。後村上天皇は八幡(石清水八幡宮)に留まり、ここを軍陣とする。このとき、北朝の3上皇と親王が南朝側に連れ去られる。正平の一統は破綻 
.3 義詮が京都を奪回し、南朝軍は八幡に撤退
.5 義詮が八幡を攻略、後村上天皇は賀名生に撤退 
.8 北朝の後光厳天皇が即位 
 高師直・師泰の助命が和議の条件であったのですから、2人の殺害は約束違反です。しかし、1349年の事件では、上杉重能は配流とされていたのに、高師直の命により殺害されたのですから、上杉能憲はその仇を討ったともいえます。尊氏は能憲の死罪を望んだものの、直義によって流罪で押し切られてしまいます。しかし、このことは尊氏側の攻撃材料となり、事態は義詮派と直義派の抗争へと発展します。そして、尊氏と義詮が一時京都を離れ味方を結集して、直義派を撃砕するという陰謀が進行します。8月、直義はこの動きを察知して、武将や吏僚を率いて越前金ヶ崎城目指して京都を退去します。9月、直義軍は近江に出陣するも敗退し、その後、再起を期して鎌倉に向かいます。
 一方、尊氏は直義派との対決を優先するため、10月に南朝と和議を結び、11月に北朝が南朝の年号を廃止し、崇光天皇と直仁皇太弟を廃します(正平一統)。直義は前年、南朝に降伏したことになっていますが、具体的には何らの行動もしていないため、両者の連携は自然消滅していたということでしょうか。
 11月15日、直義は足利基氏のいる鎌倉に到着、基氏は尊氏・直義の調停を提案しますが容れられなかったので伊豆に退去します。父と叔父の喧嘩には中立を守ったということでしょうか。
 12月13日、東進して来た尊氏軍と、迎え撃つ直義軍が、駿河・薩埵山(現静岡市)で対峙します。直義軍が数で有利ですが、尊氏側は下野の宇都宮氏綱が大軍を率いてやってくる手はずとなっていました。15日、宇都宮軍が出立、上野、武蔵で直義勢を撃破するうちに、軍勢は雪だるま式に膨れ上がり、27日に箱根・竹下に着陣します。その大軍を見て、直義軍からは逃亡者が続出し総崩れになり、直義は伊豆の山中に逃れます。1352年1月6日、尊氏からの和議を受け入れ、直義は鎌倉に戻ります。高師直殺害からちょうど1年を経た2月26日、直義は鎌倉で死去します。太平記は黄疸の病としつつ、尊氏により毒殺されたという風評もあると記しています。
 直義死去の直後の閏2月、直義派の上杉憲顕と南朝の新田義興ら関東で一斉に蜂起し、新田義興は一時鎌倉を占拠するも、閏2月25日、尊氏が反撃し撃退します(武蔵野合戦)。
 一方、西では、後村上天皇が八幡(石清水八幡宮、男山八幡宮、143メートルの山頂にあります)に進出、ここを軍陣として、閏2月20日、南朝の北畠顕能、千種顕経、楠木正儀の軍勢が京都に突入、義詮は敗れ近江に退去します。この結果、正平の一統は破綻します。このとき、北朝の光厳院、光明院、崇光院の3上皇と、廃太弟の直仁親王らの皇族が拉致され、八幡、河内・東条を経て、賀名生へ連れ去られます。
 態勢を立て直した義詮は3月に京都を奪回、南朝軍は八幡に撤退します。幕府軍に包囲された八幡では兵糧の欠乏で逃亡者が相次ぎ、5月11日の総攻撃で、多数の重臣が落命し陥落します。
 京都を回復した尊氏は北朝の再建に迫られます。主だった皇族は南朝に連れ去られているため、天皇の有資格者も授権者(院)も見当たりません。そこで、妙法院に入室する予定だった弥仁(いやひと=光厳院の皇子で崇光院の弟)を探し出し、祖母の広義門院寧子(こうぎもんいんねいし)を院の代行とし、8月、後光厳天皇として即位させます。
 
南朝行宮の変遷は和平の動きと連動か 
 南朝の行宮(あんぐう=仮の皇居)、行在所(あんざいしょ)は、何度か移転しています。1336年に後醍醐天皇が吉野・金峯山寺の行宮を構えたことから南朝が始まったことは周知のとおりです。戦前において南北朝正閏論争を経て国定教科書の「南北朝」が「吉野の朝廷」に書き換えられたように(南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは - コトバンク)、「南朝=吉野」という認識が一般的であるように思われます。
 しかし、南朝の56年間で吉野・金峯山寺に行宮があったのは初期の12年間で、その後、西吉野・賀名生、摂津・住吉、河内・金剛寺、河内・観心寺、大和・栄山寺などを転々とし、最後の20年間は吉野(賀名生?)に戻ったようです。
 そもそも、行宮とは「天皇が外出したときの仮の御所」(行宮(アングウ)とは - コトバンク)ですから、様々の事情で天皇が移動すれば行宮も転々とすることになります。それぞれの行宮の位置関係は次の図(詳説日本史図録 第3版117ページ)のようになります。男山八幡は京都攻略の軍陣が置かれた所ですから統治の拠点とは言えないように思われますが、天皇が滞在した所だから行宮ということになるのでしょうか。

 吉野焼き討ちや男山八幡陥落など重大な事件については、その後の行宮の行方については、本書にも説明がありますが、そのほかの説明は省略されています。一方、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965年、中公文庫 新版2005年)では、南北朝前半の行宮の移転については、ある程度具体的な説明があります。
 ネット上には信頼できる情報はあまり見当たりません。五條市の賀名生の里歴史民俗資料館のサイト南朝と西吉野の歴史年表に行宮の変遷がまとめられています。このほか、 住吉行宮(すみよしあんぐう)とは - コトバンク南朝に想いをよせてにも断片的な情報が載っています。これらは、自治体の運営サイトや、活字媒体からの引用なので、一応、信頼できるものと思われます。
 本書や「日本の歴史9 南北朝の動乱」の記述を基に、ネット情報も参考にして、(正確かどうか自信はありませんが)南朝の歴史をまとめてみました。本書は、和議の動きに重点が置かれており、南朝側の反撃についてはあまり説明されていません。しかし、京都が南朝軍に4度も占領されるなど、幕府の体制も完全には確立されていなかったように思われます。それらを、「日本の歴史9 南北朝の動乱」で補足しました。
 行宮の場所南朝天皇の譲位幕府軍の攻撃南朝軍の反撃南朝の内紛和議の動きを太字で色分けしてあります。  
1336.12 後醍醐天皇は京都を出走し大和吉野・金峯山寺に拠る(南朝の成立) 
1339. 8 京都奪回を厳命し後醍醐天皇が死去
.10 (主戦派の)後村上天皇が即位  
1348. 1 四条畷の戦いの直後、和議が試みられる
吉野焼き討ち
、後村上天皇は、吉野山をのがれ、紀州阿瀬川城に入る 
.9 阿瀬川城が落ち、後村上天皇、穴生(賀名生)に入る 
 京都奪回を厳命し後醍醐天皇が死去し、後を継いだ後村上天皇は、当初は主戦論に立っていたそうです。しかし、四条畷の戦いで、頼みの楠木正行が敗死、吉野・金峯山寺の行宮は焼き討ちされかなり厳しい状況となりました。本書によれば、高師直が吉野へ向かう陣中で、西大寺長老と夢窓疎石の仲立ちによる和議の話があったそうです(194ページ)  
1350.12 足利直義が南朝に降伏 
1351.10 尊氏が南朝と和議 
.11 後村上天皇は賀名生に留まり、北朝の年号を廃止し崇光天皇と直仁皇太弟を廃する(正平の一統) 
.12 後村上天皇、北朝の「三種の神器」を取戻す 
1352.u2 後村上天皇は、住吉を経て男山八幡に移り軍陣とする。南朝軍が京都に侵攻北朝の光厳院、光明院、崇光院の3上皇と、廃太弟の直仁親王らの皇族を連れ去る
.3 義詮が京都を奪回し、南朝軍は八幡に撤退 
.5 義詮が八幡を攻略。後村上天皇は賀名生に撤退
 窮地にあった南朝は幕府の内紛(観応の擾乱)により勢いを盛り返します。この内紛で、高師直派の攻勢に劣勢となった足利直義は(降伏した形にして)南朝と手を組み、さらに自派の軍勢を結集して尊氏・師直軍を破り和議を結びます。この時点で、直義にとって南朝との連携はさほど重要ではなくなります。しかし、その後、尊氏・義詮と直義との対立が激化、直義は京都を去り、東進し鎌倉を制圧、京都と鎌倉の東西対決となります。
 そこで、尊氏は、南朝と和議を結んだ上で、西国からの直冬の攻撃に備え、軍勢を2手に分け一部を京都の義詮に残し、自ら残りの軍勢を率いて東に向かい、駿河・薩埵山で直義軍を破り、鎌倉を奪回します。
 一方、後村上天皇は、この機会に北畠親房を京都に送り込み、北朝を廃して南北朝の合体を成します(正平の一統)。さらに、東西同時蜂起を仕掛け、一時は京都と鎌倉を奪いますが、いずれも、まもなく幕府側に奪回されます。
 京都では、後村上天皇自身が重臣を引き連れ、住吉を経て男山八幡の軍陣に入ります。幕府軍は京都を奪回した後、男山(標高143メートル)を包囲します。南朝軍は兵糧の欠乏で逃亡者が相次ぎ、総攻撃で、四条隆資、白河公冬、源具忠ら多数の重臣が落命します。この敗北で、後村上天皇は「独力で天下を統一するということは土台無理だということを痛感したのではないか」と著者は述べています(129ページ)。
 一時的な南北朝の合体(正平の一統)は幕府の内部分裂の結果もたらされたものであり、幕府の混乱に乗じて仕掛けた軍事攻勢も手痛いしっぺ返しを受けた形となり、後村上天皇は(その後も何度か京都に侵攻したものの)、次第に主戦論から和平論に傾いていったのではないでしょうか。
1352. 8 北朝の後光厳天皇が即位 
.11 直冬が、九州から長門に移り、南朝にくだる 
1353 賀名生で中院具忠によるとされる事件が起こり、土民蜂起して皇居に押寄せる 
.6 直冬=旧直義派と南朝軍が京都に侵攻
.7 美濃に逃れた義詮が京都を奪回 
.9 尊氏が入京 
1354. 3 賀名生に在した北朝の3上皇ら、河内天野山金剛寺に移る
.10 後村上天皇、賀名生より河内・天野山金剛寺に移る 
1355. 1 直冬=旧直義派と南朝軍が京都に侵攻 
.3 近江に逃れた尊氏と、播磨に出陣していた義詮が京都を奪回
.8 光明院、深草金剛院に帰る 
1357. 2 光厳院、光明院、崇光院、直仁親王が河内・金剛寺から京都に帰還 
.7 和議がおおよそ決まるが破綻 
1358. 4 尊氏が死去
 南朝軍が京都を撤退するとき、北朝の光厳院、光明院、崇光院の3上皇と、廃太弟の直仁親王らの皇族を連れ去っていましたが、これは北朝再建を困難にすることに狙いがありました。しかし、幕府側は、慣例をゆがめる形で強引に後光厳天皇を即位させてことにより、この目論見は空振りに終わります。  
 一方、直冬が、九州から長門に移り、南朝にくだります。これにより、直冬=旧直義派と南朝との連合が成立し、京都に侵攻します。
 その後、北朝の3上皇らは賀名生から、河内の金剛寺に移され、南朝の後村上天皇自身も金剛寺に移ります(このころ、南朝軍は直冬軍と共同で、何度か京都に侵攻していますから、南朝側が攻勢に転じたということでしょうか)。
 その後、3上皇らは京都に帰還します。このころ、尊氏は南朝との和解路線に転じています(死期を悟って、後を継ぐ義詮のため、争いの種をなくしておこうと思ったのかもしれません)。
 なお、「中院具忠によるとされる事件」というのは女性関係のスキャンダルだったようです。
1359. 8 筑後・大保原(おおほばる)の戦いで、南朝の懐良(かねよし)親王軍が決定的勝利
.12 (幕府の攻勢に備え?)後村上、金剛寺より河内観心寺に移る 
1360. 1 南朝攻撃に向かった義詮の陣中で和議のうわさ 
.4 幕府軍が大攻勢、金剛寺の房舎が全焼、紀伊・河内の拠点が次々陥落
白銀岳にて護良親王遺子(興良、あるいは陸良、あるいは赤松宮)が乱を起こし、賀名生皇居を焼打ちして、南朝の追討軍と戦う(銀嵩の戦い)
 
.5 仁木義長が反逆し情勢が一変 
.9 (南朝が攻勢に転じ)後村上天皇が住吉に移る 
1361.12 南朝軍が入京次いで義詮が京都を奪回
1362 光厳法皇、賀名生に入り後村上天皇と対面したという 
1363  中国地方の山名時氏が幕府に帰順 
1365. 4 後村上天皇も臨席した天王寺金堂上棟式に幕府より馬が献じられる 
1366.11 南北合体がだいたい決着。南朝・楠木正儀と幕府・佐々木道誉が介在と尽力 
1367. 5 和平交渉決裂。「降参」「天気」の文字に義詮が立腹、「7、8月には南朝を攻撃するぞ」とすごむ場面も 
.12 義詮が死去 
1368. 3 後村上天皇が没し、(主戦派の)長慶天皇践祚 
 尊氏の死後、後を継いだ義詮は一気に攻勢をかけるべく、大規模な動員を掛けます。南朝は(攻勢に備えて?)行宮を金剛寺から楠木氏の本拠に近い観心寺に移します。
 幕府軍の大攻勢が始まり、金剛寺の房舎35宇が全焼、紀伊・河内の拠点が次々陥落、陸良親王も離反(赤松宮の乱=銀嵩の戦い)、赤坂城も攻め落とされ、南朝は窮地に立たされます。
 しかし、そのとき幕府軍に内紛が起こります。伊勢の守護・仁木義長が反旗を翻し、情勢は一変します。後村上天皇は住吉に移り、南朝軍は直冬党と連合して京都に侵攻します。しかし、20日後には、義詮が京都を奪回します。
 今回の南朝の延命と再起は幕府の内部事情によりもたらされたものであり、「畿内における南朝の衰勢はもはや決定的」(「日本の歴史9 南北朝の動乱」298ページ)といえます。
 
その後、幕府は、山陽の大内、山陰の山名など主な反対勢力を帰服させることに成功し、安定に向かい、南朝はの勢力基盤は九州を残すのみとなります。こうなると、南朝の住吉行宮の安全が問題になるようにも思われます。住吉大社は金剛寺より北にあり、楠木氏の本拠からさらに離れますから。
 しかし、住吉行宮が幕府軍の攻撃を受けたという記録は見当たりません。住吉大社のサイトの年表によると、1364年には「将軍足利義詮、住吉社参詣 (住吉神社文書)」ということで、その翌年には、「後村上天皇も臨席した天王寺金堂上棟式に幕府より馬が献じられた」(本書195〜196ページ)ということですから、天王寺(四天王寺のことか?)の行事に後村上天皇が列席しても特に身の危険はなかったようです。
 下図(詳説日本史図録 第3版120ページ)のように、当時の大阪の地形は現在とはかなり異なっていました。「当時の住吉の地は、大阪湾が今よりも内陸に広がっており、そこに上町台地が南に突き出た場所でした。仁徳天皇の時代には住吉津がおかれ、のちには遣唐使などが出発したという良港であったということからも、住吉の地理は海上交通の要所であった」(住吉大社の由緒・伝統について)ということですから、住吉大社は、船を使った脱出も可能だったのかもしれません。

 その後、南朝・楠木正儀と幕府・佐々木道誉という双方の重鎮が介在と尽力し、和議は成立直前まで至りますが、後村上天皇の綸旨に、「降参(義詮が南朝に降参)」「天気(後村上の意思)」の文字があったため、義詮が立腹し交渉を一蹴します。義詮が立腹のあまり、「7、8月には南朝を攻撃するぞ」とすごむ場面もあったということです(裏を返せば、この時点では武力行使の意思はなかったということでしょうか)。「九州の征西府の隆盛が南朝に高飛車の態度をとらせたものらしい」と著者は見ています(200ページ)。
 交渉決裂からまもなく、義詮は亡くなっていますから、「自分の生きている間に南北朝の争いに決着を付けたい」という思いがあったのでしょうか。その後、後村上天皇が没し、(主戦派の)長慶天皇が後を継いだため、和平の動きは頓挫します。
1369. 1 楠木正儀が幕府に下る
長慶天皇、賀名生へ移る。しばらくして河内金剛寺へ移る  
1372. 8 大宰府の南朝・征西府陥落する 
1373. 3 細川氏春、金剛寺行宮を侵す 
.8 楠木正儀、金剛寺行宮を侵す 
長慶天皇、吉野へ移る 
1379 長慶天皇、大和栄山寺へ移る
1382.u1 楠木正儀が南朝に帰服 
1383末 (主戦派の)長慶天皇が(和平派の)後亀山天皇に譲位 
後亀山天皇が吉野(賀名生?)へ移る
1392.10 南北朝の合体 
 和平交渉が決裂し、さらに主戦派の長慶天皇が即位し、南朝内で立場のなくなった楠木正儀が幕府に下ります。長慶天皇の代になって、和平の動きは途絶え、行宮も転々とします。このころには、征西府も陥落しています。なお、長慶天皇は「大正15年(1926)、はじめて在位が確認されて皇統に加えられた」(「日本の歴史9 南北朝の動乱」440ページ)ということです。
 楠木正儀は南朝に帰服したものの、その直後、和泉の守護・山名氏清に大敗。その翌年には、九州の懐良親王と伊勢の北畠顕能の死去、長慶天皇から後亀山天皇への譲位が続きます。このころ、徹底抗戦からから和平への路線転換があったようです(「日本の歴史9 南北朝の動乱」441ページ)。なお、 南朝に想いをよせてによれば、「1383年頃には後亀山天皇がこの(賀名生の)行宮に入」ったということです。 
 1392年10月、ようやく南北朝の合体がなります。その条件は、
@三種の神器は、南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に譲渡する
A皇位の継承は南北交代で行う
B旧南朝君臣に経済的基盤を与える
 というものです。南朝にとっては、体面が保たれ経済的保証もされるという有利な条件です。しかし、将軍足利義満は、これらの条件を全く履行しなかったため、旧南朝君臣の不満は募り、後南朝の動きへとつながります。

九州は一時期、南朝王国だった
 畿内では、観応の擾乱以降、南朝は軍事的に劣勢となって行きましたが、九州ではむしろ勢力を拡大し、一時期、南朝王国と言えるほどの勢いでした。本書では、この経緯を「征西府と九州の南北朝」(165〜176ページ)にまとめています。
1333. 3 菊池合戦:菊池武時が鎮西探題を襲撃するが討ち取られる  
.5 足利尊氏が反旗、六波羅探題陥落。新田義貞が鎌倉制圧。鎮西探題陥落(元弘の乱)
  その後、建武の新政が始まるが、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が激化、足利尊氏は敗北し九州へ向かう 
1336. 3 足利尊氏、筑前・多々良浜で菊池軍に勝利、その後東進。一門の一色範氏を鎮西探題として博多に留める
  その後、足利尊氏が京都を制圧し、朝廷は分裂し南北朝の対立となるが、後醍醐天皇の南朝は劣勢となる 
1338. 9 後醍醐天皇が、阿蘇維時に綸旨を発して、皇子懐良(かねよし)を、征西大将軍として、九州に派遣することを伝え、忠節を励ませるが、後醍醐天皇は翌年に死去する
北畠親房が伊勢大湊から東国へ向かい常陸の東条浦に漂着、この後、常陸を拠点に足利方と激しく争う
1342. 5 皇子懐良が、九州の薩摩に到達 
1343.11 北畠親房の東国経営が失敗に終わる 
 元弘の乱に先駆けて、菊池武時が鎮西探題を襲撃するが討ち取られます(菊池合戦)。この事件の背景や影響については、本書の26〜34ページに詳しい説明があります。菊池一族は、熊本県北東部、現在の菊池市を根拠にした豪族です。源平合戦や承久の乱ではいずれも敗者側につき、南北朝時代も南朝側について戦い、戦国時代には没落し歴史の表舞台から姿を消します。
 菊池市は、菊池渓谷や温泉など自然に恵まれた観光地となっています。観光協会のサイトに、菊池一族の歴史を紹介した漫画が載っています。
 この時代の九州の有力豪族としては、次の図(菊池観光協会まんが菊池一族第一章:争乱のはじまり(1))のように、筑前(現在の福岡県)の小弐氏、豊後(現在の大分県)の大友氏、肥後(現在の熊本県)の菊池氏、阿蘇氏、薩摩(現在の鹿児島県)の島津氏が挙げられます。    

 菊池合戦で蜂起したのは菊池一族だけですが、その後、元弘の乱で六波羅探題、鎌倉が陥落すると、九州の武将の総攻撃を受け、鎮西探題も陥落します。鎌倉幕府を滅ぼして後醍醐天皇の建武の新政が始まりますが、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が激化、ついに武力衝突となり、京都争奪戦で劣勢となった尊氏軍は九州へ撤退します。前述のように、著者は「この下向は予定内の行動だった」と見ています。
 足利尊氏は、筑前・多々良浜で菊池軍に勝利し東進しますが、このとき、一門の一色範氏を鎮西探題として博多に留めます。東進した尊氏軍は、京都を制圧し北朝天皇を即位させます。一方、後醍醐天皇は吉野に南朝を開き、南北朝の対立が始まります。しかし、その後、北畠顕家と新田義貞が相次いで敗死、戦略の見直しを迫られた南朝側は東国と九州に拠点を築いて、情勢の挽回を図ることになります。
 九州には懐良親王を派遣することになり(「日本の歴史9 南北朝の動乱」299ページによると、懐良は1336年に征西大将軍として、派遣されていたものの、その後3年ほど伊予にとどまっていたということです)、1338年に後醍醐天皇が、阿蘇維時に綸旨を発して、忠節を励ませますが、翌年には後醍醐天皇が没します。1342年、懐良親王はようやく九州の薩摩に到着します。
 一方、東国へは北畠親房が派遣され、直ちに経営に着手し、以降5年にわたり、足利方と激しく争いますが、懐良親王が薩摩に到達した翌年には、拠点が陥落し、吉野に撤退します。
1348. 1 四条畷の戦いで楠木正行が敗死、吉野焼き討ち 
1349. 8 高師直派がクーデター、足利直義は事実上、政務から引退
.9 中国探題の足利直冬が、師直派に追われ、九州に撤退、川尻幸俊に迎えられ肥後に入る。以降、小弐頼尚の支持を得て強大な勢力となる
1351. 2 再起した足利直義が尊氏・師直を破り幕政に復帰する
.3 直冬が、一色氏に替わって鎮西探題に任命される 
.8 直義が北国に出奔、一色氏が鎮西探題に復帰 
.9 懐良親王・菊池武光が大宰府−博多方面へ本格的遠征に出る 
1352.11 直冬が、長門に移る 
1359. 8 筑後・大保原(おおほばる)の戦いで、懐良・武光軍が小弐頼尚軍を破る 
1361. 8 懐良親王が大宰府に入る 
1368.11 建国を告げる明の使いが大宰府に到来
1371  今川了俊が九州探題に就任
1372. 8 今川了俊により大宰府陥落
 楠木正行の敗死や吉野焼き討ちで窮地に立たされていた南朝は、高師直派と足利直義派の対立という幕府の内紛(観応の擾乱)により息を吹き返します。足利直義が事実上、政務から引退したことにより、直義派の中国探題・足利直冬も、師直派に追われ、九州に撤退します。ところが肥後に入った直冬は、筑前の小弐頼尚の支持を得て急速に勢力を拡大します。
 九州でも、図(菊池観光協会まんが菊池一族第四章:征西府の旗のもとに(5))が示すように、尊氏派の鎮西探題(博多)、直義派の直冬(肥後)、南朝の懐良親王(薩摩)という3つの勢力が対立することになります。阿蘇氏は、一族が直義派と南朝に分かれ、しかも、後醍醐天皇が懐良親王への忠節を励ませたはずの阿蘇維時が、直義派についています。
 
 京都の内紛(観応の擾乱)が九州に飛び火した形ですが、九州での直冬の急激な勢力拡大により、博多の鎮西探題が劣勢となります。そこで、尊氏・師直軍が九州へ向かいますが、その隙を突いて直義が軍勢を集め京都を制圧します。直義軍は、急ぎ引き返した尊氏・師直軍を破り、直義は幕政に復帰します。そして、直冬が、鎮西探題に任命されます。
 しかし、まもなく尊氏・義詮が反撃に出で、直義が北国に出奔。九州では、一色氏が鎮西探題に復帰します。懐良親王・菊池武光が大宰府−博多方面へ本格的遠征に出て、3つの勢力の争いが続きます。
 その後、鎌倉を占拠した直義は尊氏に破れ、まもなく死去、直冬は九州を去り、旧直義派とともに、京都の尊氏・義詮軍と戦いを続けます。直冬が去った九州は、幕府方の小弐頼尚勢(頼尚は幕府方に復帰したようです)と懐良親王・菊池武光勢との戦いが続きますが、筑後・大保原の戦いで懐良方が勝利し、大宰府を制圧します(政治経済の中心は博多ですが、懐良は王朝以来の古都である大宰府の方を重視したようです)。懐良は、薩摩に到達以来苦節20年でようやく九州制圧の宿願を果たしたことになります。
 このころ、南朝の軍事的劣勢は明らかとなり、後村上天皇は、南北合体へ向け交渉を続けていましたが、合意目前で決裂しています。「九州の征西府の隆盛が南朝に高飛車の態度をとらせたものらしい」と著者は見ているのは、前述のとおりです。
 交渉決裂からほどなくして、九州探題・今川了俊の攻撃により大宰府が陥落し、南朝側は有力な抵抗拠点を失います。
 著者は次(226ページ)のように述べて、懐良親王の九州独立構想(歴史小説上のフィクションでしょうが)は「状況が許せば現実化する可能性は十分に持った構想」としています。
北方謙三氏の歴史小説『武王の門』(上・下、新潮社、一九八九年)は、九州王国を樹立した征西府の主帥懐良親王が自らの出自の南朝という狭い世界から脱して、貿易・交易という人的交流を媒介として、高麗と結ぶことによって九州の独立を志したという壮大な構想に立っている。実現こそしなかったが、状況が許せば現実化する可能性を十分に待った構想であった。

王権至上主義は明治国家の理念と酷似?
 このページの最初に提起した「明治天皇が北朝の系統であるにもかかわらず、なぜ、明治国家が南朝を正統と認めたのか」という疑問については、著者は、「喧騒のあとに エピローグ」の「近代史における南北朝―近代のなかの追憶―」(233〜241ページ)で、検討しています。
 鎌倉時代中期に天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂しましたが、持明院統は手続主義、王権限定主義で、大覚寺統は聖断至上主義、王権至上主義の特質があるとする五味文彦氏の説を紹介しています。五味氏は、明治国家は王権(天皇の大権)至上主義であったとも指摘しています。
 著者は、このような特質は、それぞれの系譜をひく北朝と南朝にも当てはまるとし、南朝の特質は明治国家の理念と酷似しているとし、そのことが、明治国家が南朝を正統と認めたことと無関係ではないとし、「ある意味では、ねじれ現象といえる」としています。以上をまとめると次のようになります。
持明院統⇒北朝 手続主義、王権限定主義 武家政権と融和的
大覚寺統⇒南朝 聖断至上主義、王権至上主義 明治国家の理念と酷似 
 ただ、三種の神器が皇統の正統性の根拠とするならば、「三種の神器は、南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に譲渡する」というのが合体の条件でしたから、この時点では南朝が正統であり、北朝がそれを譲り受けたことを北朝が認めたことになります。
 したがって、明治国家がそのような事実があったと認めたとしても、(三種の神器が特別な意味を持つことを前提とするならば)明治天皇=北朝の正統性を否定することにはならないと思われます。しかし、そのようなことは歴史学とはあまり関係のないイデオロギーや政治の問題といえるでしょう。