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読書ノート / 中近世史
南朝といっても、どう見ても統治機関としての実質は伴っていないように思われますが、そのような組織が室町幕府の京都と100キロほどしか離れていない吉野に本拠を構え、60年近くも対抗できたのはどうしてでしょうか。また、その間の国の統治体制はどのようになっていたのでしょうか。 また、明治期以降の南北朝正閏論争(南北朝のうちどちらが、正統で、どちらが、閏統かをめぐる論争)では、明治天皇が北朝の系統であるにもかかわらず、なぜ、明治国家が南朝を正統と認めたのでしょうか。 このような疑問を解き明かすため、この本を読んでみました。 目次は次のようになっています。タイトルに「戦争の日本史」とあるように、「正中の変(1324)」から「南北朝の合体(1392)」までの南北朝の戦乱の歴史を扱っています。戦乱の叙述は、時代背景や政争の話が随所に挿入され、また時系列となっていないので少しわかりにくいです。また、著者が九州出身ということもあるのか、九州関係の記述が詳しくなっています。 南北朝通史の著作として、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965年、中公文庫 新版2005年) が古典的名著として高い評価を受けており、本書もその成果を踏まえて、さらに独自色を出そうとしているように思われます。その意味では、「日本の歴史9 南北朝の動乱」をまず読んでみた方が良かったのかもしれません。
新旧勢力の対立が争乱長期化の背景に 南朝が60年近くも対抗できたことについては、次のような意見があります( まぐまぐニュース!>尊氏はこんなにムチャクチャだった。学校で教えてくれない南北朝時代)。このページの筆者は、国際派日本人養成講座というブログを開いていて、歴史観については、新しい歴史教科書をつくる会や日本会議に近い立場です。なお、株式会社まぐまぐには特定の思想的傾向はないようです。
まず、@各地域の武力抵抗の期間を考慮していないことです。新田義貞や北畠顕家は早い時期に敗死しています。九州で優勢になった時期は少し後ですから、「全国的なネットワークを構築」という事実はありません。 次に、A1348年に吉野が陥落してから後、南朝は各地を転々としているという事実に触れていないことです。 さらに、B後醍醐天皇没後、何度か和議が試みられたように、幕府としては(何度も武力行使を行ったものの最終的には)力による征服ではなく交渉による解決を望んでいた事実を考慮していないことです。 本書の著者は、争乱が広域化・長期化した理由について、多種多様な社会階層において、守旧派と革新派の対立が一般化・普遍化するという時代背景をあげています。さらに、王権が分裂したという特殊事情もあったものの、幕府が南朝を力で屈服させるよりは、正式に合体させようという方法を採用したことに根本的な理由があると見ています(3〜5ページ)。 不屈の闘志で悲願を達成 本書を参考に、南北朝の歴史を概観してみます。
菊池合戦とは、肥後・菊池の御家人菊池武時が、錦の旗をかかげ、博多の鎮西探題を襲撃するが、一族郎党ともに討ち取られたいう事件です。菊池氏は、源平合戦では平氏につき、承久の変では京都側に属したため、領地を削られ、蒙古来襲では奮戦したものの(竹崎季長絵詞に登場します)、満足な恩賞が得られず、長年の恨みが鬱積していたようです。著者はこの事件が、元弘の乱の「呼び水のような役割を果たした」と述べています(36ページ)。 隠岐を脱出した後醍醐天皇が倒幕を呼びかけたため情勢は加速し、幕府は六波羅探題を支援するため、足利尊氏と北条一門名越高家を派遣します。名越高家は、4月27日に敗死、足利尊氏は4月29日に丹波・篠村八幡宮に旗あげの成功を祈願しています。倒幕に転じた足利軍は、5月7日に六波羅探題を陥落させます。(本書では明確にされていませんが)新田義貞の挙兵が5月8日ということですから、(本書では触れていませんが)両者に事前の申し合わせがあったのかもしれません。5月22日には、新田義貞が鎌倉を陥落させ、幕府は滅亡します。しかし、その直後から足利と新田の主導権争いが生じ、新田義貞は鎌倉を退去します。 次の系図(詳説日本史図録 第3版115ページ)のように、足利尊氏と新田義貞はともに源義家から数えて10代目のライバル関係ですが、足利氏が北条一族と姻戚関係を築き、上総、三河に所領を広げたのに対し、新田氏は冷遇されていました。 全国的戦乱は北朝優位に 鎌倉幕府があまりにも一気に崩壊したため、建武新政は準備の整わないままの船出となり、混乱は全国に広がります。
1335年8月、足利尊氏は勅許を得ないまま反乱鎮圧に出陣します。尊氏は征夷大将軍任官を望んだものの希望がかなえられなかったため、独断の行動となったのです。反乱は10日ほどで鎮圧され、尊氏は鎌倉を奪回します。 しかし、その後、朝廷からの帰還要請に応じず、尊氏は鎌倉に居座り続けます。京都と鎌倉の間に緊張が高まり、1335年12月、討伐に向かった新田義貞軍と足利軍が激突、敗れた新田軍は京都へ撤退、それを足利軍が追いかけます。一方、陸奥将軍府の北畠顕家が奥州から救援に駆けつけます。 1336年、下図(詳説日本史図録 第3版116ページ)のように全国を巻き込んだ戦乱が続きますが、最終的には足利尊氏が京都・鎌倉を制圧します。 まず、1336年1月に、足利軍と後醍醐軍が京都で激突、劣勢となった足利尊氏は2月に海路九州へ撤退します。しかし、3月には筑前・多々良浜で菊池軍に勝利し勢いを盛り返し、九州の軍勢を加え大軍となって4月に京都へ進撃を開始、5月に摂津・湊川で新田・楠木軍を破り、楠木正成は自刃、後醍醐天皇は比叡山へ退去します。 6月には足利尊氏が京都占拠、8月には光明天皇が践祚し北朝の成立します。一方、後醍醐天皇は和議に応じ、比叡山を下り、新田義貞は越前に撤退します。しかし、12月に後醍醐天皇は京都を出走し大和吉野に拠って、南朝を樹立し、南北朝の対立が始まります。 1337年8月には、2度目の上洛を目指して北畠顕家が奥州を出発します。しかし、1338年5月には北畠顕家が和泉堺浦・石津で敗死、閏7月には新田義貞が越前藤島で敗死、8月には足利尊氏は征夷大将軍に就任し名実ともに室町幕府が始まり、北朝の軍事的優位は動かしがたいものとなります。1339年8月には後醍醐天皇が死去します。 九州下向は予定内の行動だった? 1336年2月に兵庫から敗走した足利軍が5月には大軍を率いて新田・楠木軍を破り、6月には京都を制圧しますが、その転機となったのが3月の筑前・多々良浜での勝利です。 太平記によると、足利軍はわずか300騎で、3万余騎の菊池軍を破ったとあります(Cube-Aki>太平記>第十六巻>(その一))。このような勝利が本当に可能だったのでしょうか。当時の熊本の人口や菊池氏の勢力から考えて、3万余騎というのは到底ありえない数値に思えます。 この点について、著者は次のように述べて(78ページ)、足利尊氏の九州下向は単なる敗走ではなく予定内の行動であり、多々良浜の戦いでは足利軍の方がむしろ優勢であったと指摘しています。
「罪深き妄念」が愛国のスローガンに 本書では、摂津・湊川での楠木正成自刃については、簡単にしか触れられていません。しかし戦前においては、楠木正成は、忠君愛国のシンボルとして戦意の高揚・国威発揚に利用され、湊川への出陣途上、息子正行(まさつら)を桜井の地(現・大阪府島本町桜井)で帰す場面(桜井の別れ)は、尋常小学読本で取り上げられていました(尋常小学読本 - 歴史と物語:国立公文書館)。この場面は、(ネット上では正確なデータは見つかりませんでしたが)「桜井のわかれ」あるいは「大楠公の歌」と呼ばれる唱歌にもなっていたそうです(大楠公 _創価合唱団_SokaChorus(SGI) )。なお、大戦中には、「楠木記述は、ドラマチックな美文調物語に作り替えられた」ということです(萬晩報>隠されたクスノキと楠木正成(六))。 また、太平記(Cube-Aki>太平記>第十六巻>(その三))によれば、湊川の戦いに敗れ、楠木勢72人が自刃するとき、弟の正季が語ったとされる「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」という言葉が、戦前の軍国主義時代に「七生報国」というスローガンとなり、次のように 陸軍大臣布告にも使われました。
吉野が陥落、南朝は窮地に
この焼き討ちで、南朝の皇居、公家の邸宅のみならず、 金峯山寺(きんぷせんじ)本堂の蔵王堂も炎上しました。Google マップによると、吉野朝宮跡は金峯山寺の西隣となっています。後醍醐天皇は、当初、僧坊であった吉水院(現吉水神社)に移りましたが、その後、蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とし、寺号を金輪王寺と改めたということです。いまは南朝妙法殿が建ち、皇居跡公園として整備されています(なら旅ネット吉野朝宮跡)。高師直が焼き討ちしたのは、金峯山寺と金輪王寺(行宮)で、吉水神社は難を免れたらしく、後醍醐天皇の遺品が今も残っています。 吉野を退去した後村上天皇一行は、やがて大和のさらなる奥地である賀名生(あのう)に落ち着きます。吉野の南西10キロほどですが、道路が整備されていない当時はかなりの辺境だったと思われます。 一行は郷士「堀孫太郎信増」の邸宅に身を寄せ、行宮とします。賀名生皇居跡は現在も堀家住居として使用されており、以前は見学の申し込みも受け付けていたそうです(グラフ|【やまと建築詩】堀家住宅(賀名生旧皇居) 、堀家住宅 賀名生皇居跡)。隣接して資料館(賀名生の里歴史民俗資料館)も建てられています。当時の住居がそのまま残っているとはちょっと考えられませんが、行宮と呼ぶにはあまりに侘しい仮住まいといえそうです。 8月には、足利直冬が紀伊南軍と戦い勝利します。足利直冬は尊氏の庶子ですが冷遇されていたため、直義が養子として引き取り、この合戦が初陣でした。南朝は拠点であった河内、紀伊を攻められ、吉野の行宮も焼き討ちされ、かなり厳しい状況となりました。このような状況の中、幕府に内紛(観応の擾乱=じょうらん)が起こり、南朝は息を吹き返します。とは言っても軍事的に劣勢であったことには変わりはなかったようです。 足利直義vs高師直、まずは師直派が勝利
本書の著者は、佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論社1965、中公文庫2005)の意見を土台に、この争乱を、「急進派=高師直グループ」と「守旧派=足利直義グループ」の対立とし、両派の構成員を次のように分析しています(110〜111ページ)。この色分けからは、楠木一族は利害関係からいえば、急進派=高師直グループに近い立場にいるようにも思えます。
この事件では、尊氏が直義をかくまった形になりますが、尊氏と師直が内通していたのではないかという見方が当時からあったそうです。著者は、「やはり義詮を登板させるためのシナリオが用意されていたと考えるほうが自然である」と述べています(114〜115ページ)。 12月には、直義は出家し、政治生命は全く絶たれたかのようになります。 直義派が反撃、師直一族殲滅 しかし、その後直義派が反撃に転じます。 本書では、観応の擾乱の説明はかなり省略されているので、峰岸純夫「足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)」 を参照して以下にまとめてみました。
1351年正月、直義派が次々と入京し、留守を預かっていた義詮は辛うじて脱出し、出陣途中から引き返してきた尊氏・師直と合流します。尊氏軍は京都奪回を図るも失敗し播磨に退きます。同じころ、鎌倉は直義派によって制圧され、上杉能憲(よしのり=上杉重能の甥で養子)らが鎌倉から京都に向かいます。 態勢を立て直した尊氏・師直軍は、2月、摂津・打出浜(現芦屋市)で直義軍と激闘の末、敗北し、師直・師泰の出家・引退を条件に、尊氏と直義との間に和議が成立します。ところが、帰京の途上で師直一行は上杉能憲勢に襲撃され皆殺しにされてしまいます。 尊氏が逆襲、さらに南朝が東西同時蜂起 和議によって、将軍尊氏のもとで義詮・直義が共同統治を行うという態勢に戻りますが、ここから尊氏の逆襲が始まり、薩埵山(さったやま)合戦で直義が敗北その後死亡、さらに南朝側が東西同時蜂起し京都と鎌倉を占拠するも、最終的には足利方が勝利します。本書ではこれらの経緯の説明をかなり省略しているので、峰岸純夫「足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)」を参照してデータを追加しました。
一方、尊氏は直義派との対決を優先するため、10月に南朝と和議を結び、11月に北朝が南朝の年号を廃止し、崇光天皇と直仁皇太弟を廃します(正平一統)。直義は前年、南朝に降伏したことになっていますが、具体的には何らの行動もしていないため、両者の連携は自然消滅していたということでしょうか。 11月15日、直義は足利基氏のいる鎌倉に到着、基氏は尊氏・直義の調停を提案しますが容れられなかったので伊豆に退去します。父と叔父の喧嘩には中立を守ったということでしょうか。 12月13日、東進して来た尊氏軍と、迎え撃つ直義軍が、駿河・薩埵山(現静岡市)で対峙します。直義軍が数で有利ですが、尊氏側は下野の宇都宮氏綱が大軍を率いてやってくる手はずとなっていました。15日、宇都宮軍が出立、上野、武蔵で直義勢を撃破するうちに、軍勢は雪だるま式に膨れ上がり、27日に箱根・竹下に着陣します。その大軍を見て、直義軍からは逃亡者が続出し総崩れになり、直義は伊豆の山中に逃れます。1352年1月6日、尊氏からの和議を受け入れ、直義は鎌倉に戻ります。高師直殺害からちょうど1年を経た2月26日、直義は鎌倉で死去します。太平記は黄疸の病としつつ、尊氏により毒殺されたという風評もあると記しています。 直義死去の直後の閏2月、直義派の上杉憲顕と南朝の新田義興ら関東で一斉に蜂起し、新田義興は一時鎌倉を占拠するも、閏2月25日、尊氏が反撃し撃退します(武蔵野合戦)。 一方、西では、後村上天皇が八幡(石清水八幡宮、男山八幡宮、143メートルの山頂にあります)に進出、ここを軍陣として、閏2月20日、南朝の北畠顕能、千種顕経、楠木正儀の軍勢が京都に突入、義詮は敗れ近江に退去します。この結果、正平の一統は破綻します。このとき、北朝の光厳院、光明院、崇光院の3上皇と、廃太弟の直仁親王らの皇族が拉致され、八幡、河内・東条を経て、賀名生へ連れ去られます。 態勢を立て直した義詮は3月に京都を奪回、南朝軍は八幡に撤退します。幕府軍に包囲された八幡では兵糧の欠乏で逃亡者が相次ぎ、5月11日の総攻撃で、多数の重臣が落命し陥落します。 京都を回復した尊氏は北朝の再建に迫られます。主だった皇族は南朝に連れ去られているため、天皇の有資格者も授権者(院)も見当たりません。そこで、妙法院に入室する予定だった弥仁(いやひと=光厳院の皇子で崇光院の弟)を探し出し、祖母の広義門院寧子(こうぎもんいんねいし)を院の代行とし、8月、後光厳天皇として即位させます。 南朝行宮の変遷は和平の動きと連動か 南朝の行宮(あんぐう=仮の皇居)、行在所(あんざいしょ)は、何度か移転しています。1336年に後醍醐天皇が吉野・金峯山寺の行宮を構えたことから南朝が始まったことは周知のとおりです。戦前において南北朝正閏論争を経て国定教科書の「南北朝」が「吉野の朝廷」に書き換えられたように(南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは - コトバンク)、「南朝=吉野」という認識が一般的であるように思われます。 しかし、南朝の56年間で吉野・金峯山寺に行宮があったのは初期の12年間で、その後、西吉野・賀名生、摂津・住吉、河内・金剛寺、河内・観心寺、大和・栄山寺などを転々とし、最後の20年間は吉野(賀名生?)に戻ったようです。 そもそも、行宮とは「天皇が外出したときの仮の御所」(行宮(アングウ)とは - コトバンク)ですから、様々の事情で天皇が移動すれば行宮も転々とすることになります。それぞれの行宮の位置関係は次の図(詳説日本史図録 第3版117ページ)のようになります。男山八幡は京都攻略の軍陣が置かれた所ですから統治の拠点とは言えないように思われますが、天皇が滞在した所だから行宮ということになるのでしょうか。 吉野焼き討ちや男山八幡陥落など重大な事件については、その後の行宮の行方については、本書にも説明がありますが、そのほかの説明は省略されています。一方、佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965年、中公文庫 新版2005年)では、南北朝前半の行宮の移転については、ある程度具体的な説明があります。 ネット上には信頼できる情報はあまり見当たりません。五條市の賀名生の里歴史民俗資料館のサイトの南朝と西吉野の歴史年表に行宮の変遷がまとめられています。このほか、 住吉行宮(すみよしあんぐう)とは - コトバンクや 南朝に想いをよせてにも断片的な情報が載っています。これらは、自治体の運営サイトや、活字媒体からの引用なので、一応、信頼できるものと思われます。 本書や「日本の歴史9 南北朝の動乱」の記述を基に、ネット情報も参考にして、(正確かどうか自信はありませんが)南朝の歴史をまとめてみました。本書は、和議の動きに重点が置かれており、南朝側の反撃についてはあまり説明されていません。しかし、京都が南朝軍に4度も占領されるなど、幕府の体制も完全には確立されていなかったように思われます。それらを、「日本の歴史9 南北朝の動乱」で補足しました。 行宮の場所、南朝天皇の譲位、幕府軍の攻撃、南朝軍の反撃、南朝の内紛、和議の動きを太字で色分けしてあります。
そこで、尊氏は、南朝と和議を結んだ上で、西国からの直冬の攻撃に備え、軍勢を2手に分け一部を京都の義詮に残し、自ら残りの軍勢を率いて東に向かい、駿河・薩埵山で直義軍を破り、鎌倉を奪回します。 一方、後村上天皇は、この機会に北畠親房を京都に送り込み、北朝を廃して南北朝の合体を成します(正平の一統)。さらに、東西同時蜂起を仕掛け、一時は京都と鎌倉を奪いますが、いずれも、まもなく幕府側に奪回されます。 京都では、後村上天皇自身が重臣を引き連れ、住吉を経て男山八幡の軍陣に入ります。幕府軍は京都を奪回した後、男山(標高143メートル)を包囲します。南朝軍は兵糧の欠乏で逃亡者が相次ぎ、総攻撃で、四条隆資、白河公冬、源具忠ら多数の重臣が落命します。この敗北で、後村上天皇は「独力で天下を統一するということは土台無理だということを痛感したのではないか」と著者は述べています(129ページ)。 一時的な南北朝の合体(正平の一統)は幕府の内部分裂の結果もたらされたものであり、幕府の混乱に乗じて仕掛けた軍事攻勢も手痛いしっぺ返しを受けた形となり、後村上天皇は(その後も何度か京都に侵攻したものの)、次第に主戦論から和平論に傾いていったのではないでしょうか。
一方、直冬が、九州から長門に移り、南朝にくだります。これにより、直冬=旧直義派と南朝との連合が成立し、京都に侵攻します。 その後、北朝の3上皇らは賀名生から、河内の金剛寺に移され、南朝の後村上天皇自身も金剛寺に移ります(このころ、南朝軍は直冬軍と共同で、何度か京都に侵攻していますから、南朝側が攻勢に転じたということでしょうか)。 その後、3上皇らは京都に帰還します。このころ、尊氏は南朝との和解路線に転じています(死期を悟って、後を継ぐ義詮のため、争いの種をなくしておこうと思ったのかもしれません)。 なお、「中院具忠によるとされる事件」というのは女性関係のスキャンダルだったようです。
幕府軍の大攻勢が始まり、金剛寺の房舎35宇が全焼、紀伊・河内の拠点が次々陥落、陸良親王も離反(赤松宮の乱=銀嵩の戦い)、赤坂城も攻め落とされ、南朝は窮地に立たされます。 しかし、そのとき幕府軍に内紛が起こります。伊勢の守護・仁木義長が反旗を翻し、情勢は一変します。後村上天皇は住吉に移り、南朝軍は直冬党と連合して京都に侵攻します。しかし、20日後には、義詮が京都を奪回します。 今回の南朝の延命と再起は幕府の内部事情によりもたらされたものであり、「畿内における南朝の衰勢はもはや決定的」(「日本の歴史9 南北朝の動乱」298ページ)といえます。 その後、幕府は、山陽の大内、山陰の山名など主な反対勢力を帰服させることに成功し、安定に向かい、南朝はの勢力基盤は九州を残すのみとなります。こうなると、南朝の住吉行宮の安全が問題になるようにも思われます。住吉大社は金剛寺より北にあり、楠木氏の本拠からさらに離れますから。 しかし、住吉行宮が幕府軍の攻撃を受けたという記録は見当たりません。住吉大社のサイトの年表によると、1364年には「将軍足利義詮、住吉社参詣 (住吉神社文書)」ということで、その翌年には、「後村上天皇も臨席した天王寺金堂上棟式に幕府より馬が献じられた」(本書195〜196ページ)ということですから、天王寺(四天王寺のことか?)の行事に後村上天皇が列席しても特に身の危険はなかったようです。 下図(詳説日本史図録 第3版120ページ)のように、当時の大阪の地形は現在とはかなり異なっていました。「当時の住吉の地は、大阪湾が今よりも内陸に広がっており、そこに上町台地が南に突き出た場所でした。仁徳天皇の時代には住吉津がおかれ、のちには遣唐使などが出発したという良港であったということからも、住吉の地理は海上交通の要所であった」(住吉大社の由緒・伝統について)ということですから、住吉大社は、船を使った脱出も可能だったのかもしれません。 その後、南朝・楠木正儀と幕府・佐々木道誉という双方の重鎮が介在と尽力し、和議は成立直前まで至りますが、後村上天皇の綸旨に、「降参(義詮が南朝に降参)」「天気(後村上の意思)」の文字があったため、義詮が立腹し交渉を一蹴します。義詮が立腹のあまり、「7、8月には南朝を攻撃するぞ」とすごむ場面もあったということです(裏を返せば、この時点では武力行使の意思はなかったということでしょうか)。「九州の征西府の隆盛が南朝に高飛車の態度をとらせたものらしい」と著者は見ています(200ページ)。 交渉決裂からまもなく、義詮は亡くなっていますから、「自分の生きている間に南北朝の争いに決着を付けたい」という思いがあったのでしょうか。その後、後村上天皇が没し、(主戦派の)長慶天皇が後を継いだため、和平の動きは頓挫します。
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