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 伊藤博文をめぐる日韓関係:韓国統治の夢と挫折、1905〜1921 
 伊藤之雄/著(ミネルヴァ書房)2011/9/30

2015/12/17
 出版社のページでは、本書の内容を次のように説明しています。
近代日本を創った男、伊藤博文が晩年に精力を傾けた韓国統治の構想は、いかなるものだったのか。本書では、伊藤の理想と挫折を通じて、その構想とは異なる朝鮮植民統治が展開したことを示し、それにもかかわらず伊藤や明治天皇の死後も原敬内閣までは伊藤の理想の影響が残っていたことを明らかにする。
 ただ、本書の目的は別のところにあるようです。著者は、「はしがき」で次のように述べています(C〜D)。「以上の著作」というのは、「伊藤博文と韓国統治―初代韓国統監をめぐる百年目の検証 (シリーズ・人と文化の探究)」のことで、「一部の研究者」というのは、中塚明、趙景達、小川原宏幸、安田浩の諸氏のことです。
 これらの反響の大きさもあって日本において一部の研究者たちからは以上の著作に対し歴史的事実に基づいて争うのではない、感情的ともいえる反発があった。このような姿勢は、研究能力や価値観を越えて、相手の研究を正確に理解し、事実に基づいて批判する、という研究者としてのモラルの欠如を示しているともいえる。彼らからの批判については、本書第八・九章(第V部)や本書の各章の注記の中で具体的に反論しておいた。
 著者は、これらの批判に相当腹が立ったようで、次のように述べています(164ページ)。つまり、本書は、学者バトルで強烈カウンターを繰り出すのが狙いだったようで、第八・九章(第V部)に力点が置かれており、そのほかは付け足しといった感じです。
 なお、後述するように、これらの論文のうち、とりわけ伊藤博文と韓国統治に関する言及のかなりの部分は、私の論拠に対して、具体的史料や事実を挙げて批判するという手法をとっていない。私が具体的論点に言及しながら批判しているにもかかわらず、それにほとんど答えず、違った部分を取り上げ、しかも、私の論旨と異なるものを批判しようとしているのである。無視しても良いものも多いが、学術研究や日本の民主主義の進展のため、そのような態度にも具体的に触れながら、注意を喚起したい。

 中塚明との論争は、閔妃殺害(1895年10月8日)に伊藤博文が関係していたかどうかについてのものです。この点について、中塚明は次のように述べています(NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回「韓国併合への道」を見て)。三浦梧楼公使が、閔妃殺害事件の首謀者だとされていますが、その三浦公使に軍隊の指揮権を与えるのに伊藤首相が関与したというのが、この文章の趣旨です。
 つまり、三浦公使から出兵の要請があった時は、いつでも応じられるようにして取りはからってほしい、と伊藤首相は陸軍大臣に申し伝えたのです。
 
 西園寺外相は激怒したのですが、伊藤首相によって、9月19日付の三浦公使から川上参謀次長あてに送られた「……本官(三浦公使)の通知に応じ、何時にても出兵するよう、兼て兵站司令官に御訓令相成……」ということは追認されて大山陸軍大臣に通知され、大本営と然るべくと計らうようにと、伝えたのです。
 
 伊藤博文首相が「閔妃殺害」と「関係していないことはすでに論証されている」という伊藤之雄氏の論証は、改めて検証されるに値する不十分な論証だと私は思いますが、いかがでしょうか。
 この件に関しては、陸軍の意向に、西園寺外相が強硬に反対したため、伊藤首相が西園寺外相を説得して決着をつけたという経緯があります。ただ、だからといって、伊藤首相が「閔妃殺害に積極的に関与した」という証拠にはならいないと思います。ただ、「関係していないことはすでに論証されている」という主張への反証とはなりえなくはありません。
 この点について、著者は次のように述べています(169ページ)。こうなると、学問上の論争というよりも、感情が先立った泥仕合という感じがしなくもありません。
 明成皇后殺害事件に伊藤博文が関わっていたのかどうか、という重要な問題で、史料の誤読を避ける可能性は二つあった。一つは日本の近代史料の読解能力をしっかり身に付けることである。もう一つは、伊藤博文をつまみ食い的に取り上げるのでなく、その生涯にわたって史料を読み、伊藤の行動規範を理解することである。明成皇后殺害は帝国主義時代の国際規範をはずれており、伊藤が是認する行為ではない。同皇后殺害を暗示するように解釈できる史料が出てきたなら、史料の誤読か、史料が本物でないか、伊藤理解を変えるべきか、さらに検討することで、誤読を防げた。

 趙景達との論争は、伊藤博文と韓国併合についてのものです。著者の主張は次のようなものです(174〜175ページ)。
 研究を歪めて紹介し批判する 
 次に、趙景達「戦後日本の朝鮮史研究――近代史研究を中心に」(『歴史学研究』八六八号)を取り上げる。趙氏は、「両者〔伊藤之雄・浅野豊美〕は、伊藤博文は朝鮮の近代化や自治育成のために朝鮮を保護国にしただけであって、植民地化=『併合』するつもりはなかったと論じている。こうした議論は、安重根が伊藤を射殺しなければ『併合』は行われなかったという、かねてからある俗説をまともに議論したものといえる」と、浅野氏にも言及して私の見解を要約する。その根拠として、「伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国併合、、』(ミネルヅア書房、二〇〇九年)の所収論文参照」とする(傍点は伊藤之雄)。しかし、李盛煥と私の共編著の題は、『伊藤博文と韓国統治』である。
 本の題の誤りと比べ物にならないくらい問題なのは、安重根が伊藤博文を射殺しなければ「併合」はなかったという「俗説」をまともに議論したもの、と私の説を総括していることである。私がこのような主張をしたことはない。
 私の見解は、(1)帝国主義の時代において、伊藤は韓国の不安定さが日露戦争の一因にもなったと考え、防衛力の弱い韓国はこのままでは実質的に独立を維持することは困難で、日本の安全保障の阻害となるとみた、(2)そこで、韓国は日本の保護国になる他はないと考え、一九〇九年二月までは併合をしない形で韓国を近代化する統治構想を持っていた、(3)それは韓国民の支持を調達し、治安などへの負担を削減できるので、何よりも日本の経費負担を少なくできる点では好ましいと考えた、(4)伊藤は、韓国の近代化によって、日本のみならず、日本に準ずる形で韓国も利益を受けるべきであると考えた(東洋拓殖会社設立に関する大蔵省原案に対し、伊藤が韓国民の利益を増進させる修正を強く求めたことは一例)、(5)しかし、一九〇九年(明治四二)一月から二月にかけて行われた皇帝純宗の韓国南北巡幸の後、伊藤はそれまで行ってきた韓国の近代化を目指す統治に韓国人の強い支持が得られないことを認識し、併合せざるを得ないと判断した、(6)伊藤は韓国を併合せざるを得ないと考えるようになった後も、「副王」(総督)の下で、韓国に「責任内閣」制や公選制の植民地(地方)議会を設けて、ある程度の「自治権」を与えるなど、その後に実際に展開した併合とは異なる理想を持っており、準備を考えると併合の時期は何年か先になると考えていたと思われる、(7)一九〇九年一〇月二六日に伊藤が暗殺されると、一二月一〇日頃には山県有朋元帥と寺内正毅陸相が韓国政策を主導することになる、(8)山県と寺内は一九一〇年一月初頭から二月にかけて併合を近く実施することを決意し、山県系軍人と官僚が統治するという、伊藤の構想とは異なった形の併合が八月二九日に実施された。
 私の研究は平易な文章で明確に書いており、普通に読めば誤読の余地がないことは、読んでくださった方にはわかっていただけるはずである。
 これに対する趙景達の批判とそれに対する著者の反論は次のようなものです(176〜178ページ)。趙景達の問題としているのは、著者の歴史観なので、「何の根拠も挙げずに一方的に批判」というのはどうも議論がかみ合ってない感じです。
 根拠を挙げない批判 
 趙氏は拙論について、「伊藤は朝鮮の近代国家化のために献身的に努力した政治家ということになってしまいます。そのような善意の政治家が、何故に明治国家の最高指導者として君臨できたのでしょうか。大陸国家化を当為と見なしていた明治政府の最高指導者の中にあって、伊藤は全くの異端になってしまい、彼が国権のイニシアチブを握ることは不可能になってしまうでしょう。政府から追放されてもおかしくない人物です」と、何の根拠も挙げずに一方的に批判する。
 このような趙氏の疑問は、上に挙げた私の三つの研究や、伊藤と山県の権力関係を、韓国統治以外も含めて実証した、拙著『山県有朋』(文春新書、二〇〇九年)をしっかり読んでいれば、出てこないはずである。もしそれでも納得できないなら、伊藤の構想や彼を取り巻く権力関係を一次史料で明らかにした拙論を、具体的事実に基づいて批判していただきたい。
 また趙氏は「義兵闘争」で多数の朝鮮人が「殺害」されたことをもって、私の提示した伊藤の構想は事実でないとも批判する。拙論では、義兵運動を伊藤の朝鮮の近代化構想を妨害するものとして、伊藤は鎮圧のため山県元帥や陸軍の全面的な協力を求めたこと、それでも「良民」・「一般の国民」に危害を加えないよう、陸軍将校に注意したこと等を論じている。
 植民地支配ではないが、フランス革命、西南戦争までを含めた日本の維新変革、ロシア革命等、近代のあらゆる大変革・近代化は、反対勢力を鎮圧することによって成し遂げられた。多数の犠牲は望ましいものではないが、目指す変革や、その後に実現する社会の可能性をどうみるかという問題もあり、犠牲の問題からのみ簡単に評価することはできない。とりわけ、変革を指導した大物の構想を考察する場合は、まずその構想自体を考察すべきである。帝国主義の時代の中、ウィルソン大統領がメキシコに軍事干渉したことをウィルソンの評伝中で決して忘れてはいけないが、メキシコヘの軍事干渉や当時のメキシコ大のウィルソン観のみから、彼が国際連盟を作った構想や尽力を十分に理解できないのと同様である。
 伊藤の韓国統治構想の考察は、伊藤やその周囲の人々によって書かれた書状、日記、書類等の一次史料を読むことによって、初めて可能となる。そうしたものをあまり読まず、伊藤の本当の考えや当時の列強の国際ルールを十分に理解しないまま伊藤を論じることは、説得的でも生産的でもない。ましてや、他人の研究を誤った形で紹介して批判するのは、多くの読者を混乱させるだけである。
 小川原宏幸との論争も、伊藤博文と韓国併合についてのものです。ここでも、議論がかみ合ってない感じです。
 趙氏と同様の手法 
 同様のことは、趙氏らの編著『近代日本のなかの「韓国併合」』所収の小川原宏幸「韓国併合と朝鮮社会」にもみられる。小川原氏は、「そもそも伊藤之雄さんには伊藤博文は誠実で策を弄するような人物ではないといった認識があり、そこから伊藤の韓国統治政策に対する評価を導いているようですが、真面目な人間は『悪事』を犯さないといったナイーブな人間観は、一般的通念としても到底通用しませんし、もちろん歴史的実証にも堪えないものです」と言う。
 私は、(1)伊藤博文の韓国統治を研究するのであっても、彼の全生涯の史料を見て、伊藤という人間の思想や人柄を理解し、韓国統治期の伊藤の構想や言動を理解すべきである、(2)伊藤の韓国統治期に関しても、できる限り伊藤に即した一次史料を正確に読んで、伊藤の構想や言動を理解すべきである、と考えて実証研究を行い、本章2節でまとめたような結論を得た。これに対し、「真面目な人間は『悪事』を犯さない」といった、私が主張してもいないことを挙げて批判し、自説を正当化する手法は、趙氏と同様である。