研究を歪めて紹介し批判する
次に、趙景達「戦後日本の朝鮮史研究――近代史研究を中心に」(『歴史学研究』八六八号)を取り上げる。趙氏は、「両者〔伊藤之雄・浅野豊美〕は、伊藤博文は朝鮮の近代化や自治育成のために朝鮮を保護国にしただけであって、植民地化=『併合』するつもりはなかったと論じている。こうした議論は、安重根が伊藤を射殺しなければ『併合』は行われなかったという、かねてからある俗説をまともに議論したものといえる」と、浅野氏にも言及して私の見解を要約する。その根拠として、「伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国併合』(ミネルヅア書房、二〇〇九年)の所収論文参照」とする(傍点は伊藤之雄)。しかし、李盛煥と私の共編著の題は、『伊藤博文と韓国統治』である。
本の題の誤りと比べ物にならないくらい問題なのは、安重根が伊藤博文を射殺しなければ「併合」はなかったという「俗説」をまともに議論したもの、と私の説を総括していることである。私がこのような主張をしたことはない。
私の見解は、(1)帝国主義の時代において、伊藤は韓国の不安定さが日露戦争の一因にもなったと考え、防衛力の弱い韓国はこのままでは実質的に独立を維持することは困難で、日本の安全保障の阻害となるとみた、(2)そこで、韓国は日本の保護国になる他はないと考え、一九〇九年二月までは併合をしない形で韓国を近代化する統治構想を持っていた、(3)それは韓国民の支持を調達し、治安などへの負担を削減できるので、何よりも日本の経費負担を少なくできる点では好ましいと考えた、(4)伊藤は、韓国の近代化によって、日本のみならず、日本に準ずる形で韓国も利益を受けるべきであると考えた(東洋拓殖会社設立に関する大蔵省原案に対し、伊藤が韓国民の利益を増進させる修正を強く求めたことは一例)、(5)しかし、一九〇九年(明治四二)一月から二月にかけて行われた皇帝純宗の韓国南北巡幸の後、伊藤はそれまで行ってきた韓国の近代化を目指す統治に韓国人の強い支持が得られないことを認識し、併合せざるを得ないと判断した、(6)伊藤は韓国を併合せざるを得ないと考えるようになった後も、「副王」(総督)の下で、韓国に「責任内閣」制や公選制の植民地(地方)議会を設けて、ある程度の「自治権」を与えるなど、その後に実際に展開した併合とは異なる理想を持っており、準備を考えると併合の時期は何年か先になると考えていたと思われる、(7)一九〇九年一〇月二六日に伊藤が暗殺されると、一二月一〇日頃には山県有朋元帥と寺内正毅陸相が韓国政策を主導することになる、(8)山県と寺内は一九一〇年一月初頭から二月にかけて併合を近く実施することを決意し、山県系軍人と官僚が統治するという、伊藤の構想とは異なった形の併合が八月二九日に実施された。
私の研究は平易な文章で明確に書いており、普通に読めば誤読の余地がないことは、読んでくださった方にはわかっていただけるはずである。 |