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読書ノート / 近現代史
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日清戦争は防衛戦争? 高校講座日本史>日清戦争は次のように述べ、日清戦争は防衛戦争であったことを示唆しています。
なぜ無理を重ねて開戦に踏み切ったのか 著者は、本書の目的を次のように説明しています(B〜Cページ)。 つまり、@李鴻章は戦争回避に努力したにもかかわらず、日本は、なぜ無理を重ねて開戦に踏み切ったのか、Aなぜ満州・山東半島・台湾・澎湖諸島にまで拡大した全面戦争となったのか、Bそもそも戦争は不可避だったのか、といった疑問を解き明かすのが本書の狙いであると思われます。
征韓論争はどうなったのか 「第1章 戦争前夜の東アジア」では、日清戦争に至る19世紀後半の情勢を扱っています。 1863年、李氏朝鮮国王・哲宗が死去、跡継ぎがいなかったため傍流の高宗が12歳で即位し、実父の大院君が、金氏(外戚)の勢力を排除し実権を握ります。しかし、1873年、高宗が成人すると大院君を引退させ親政を始めます。そして、王妃閔妃の一族が取り立てられ、次第に実権を握るようになります。高宗を挟んで大院君と閔妃が熾烈な権力闘争を繰り広げ、結局、大院君は敗北します。しかし、日本勢力が介入し、閔妃を殺害し、高宗から王位(帝位)を奪い、2010年の韓国併合で国家は消滅します。なお、閔妃は、韓国や中国では、明成皇后という呼び方が浸透しているそうです(知っていますか明成(ミョンソン)皇后)。 本書の記述を参考に、この間の経緯を年表にまとめてみました。明治六年政変では征韓論を主張した西郷が政争に敗れて下野したとされていますが、内治優先を主張した大久保は着々と朝鮮進出への布石を打っています。
本書では全く触れられていませんが、江戸時代の日朝間には、釜山の草梁倭館を通じて、外交通商関係がありました(江戸時代の日朝交流と倭館跡)。ところが、明治政府になって両国の外交関係に緊張が高まります。明治政府は、王政復古により復権した天皇が朝鮮国王より名分論的に上位にあると主張したのに対し、朝鮮は旧例に反するという理由で国書の受理を拒絶したからです。そこで、「武力でもって物の道理を朝鮮に悟らせよう」という征韓論が登場します(ジャパンナレッジ征韓論参照)。ただし、征韓そのものは維新政府の指導者に共通した構想だったようです(日本人の朝鮮観 その光と影)。 朝鮮の改革を諦め、脱亜入欧路線に転換 閔氏政権はその後、日本に接近し、日本人武官を招き西洋式軍隊の別技軍創設します。一方、開港で米価高騰し、不満を持った下級兵士や下層民は、1882年、暴動を起こし、別技軍、日本人武官、日本公使館、閔氏政権高官を襲います(壬午軍乱)。 大院君は反乱軍に担がれたものの計画に直接関与はしていなかったようです。しかし、清は大院君を事件の実質的責任者と見なして、天津に連行し、閔氏政権は復権します。 金玉均ら急進開化派は、1884年、清の影響力の排除を目的に、閔氏政権に対してクーデター(甲申事変)を起こしますが失敗し、金玉均らは日本に亡命します。「このクーデター計画には日本政府と福沢諭吉らの民間人が関わっていたことが様々な史料から明らかになっている」という意見もあります(世界史用語解説 授業と学習のヒント>甲申政変/甲申事変 )。 世界史講義録/朝鮮の開国と日清両国の動きでは、金玉均と日本・福沢諭吉らとの関係と甲申事変の流れを「金玉均は1882年にも日本に視察旅行をし、朝鮮の改革に期待を寄せる福沢諭吉の紹介で井上馨、大隈重信、渋沢栄一などと面識を得ており、今回も福沢などと接触して、日本をモデルにして一刻も早く朝鮮の近代化を図ることが必要と考えるようになりました。帰国後、金玉均らは急進開化派として政治改革を試みますが、守旧派の抵抗で身動きがとれず焦りを募らせていました」「1884年12月4日、金玉均ら急進開化派は、クーデタを決行しました。ソウル駐在日本公使が軍事援助を約束したのです。また清の朝鮮駐屯軍が清仏戦争の影響で3000名から 1500名に減らされたことも好機と考えられました」「金玉均らは、国王の身柄を確保した上で閔妃派の政府要人を殺害し、5日には新政権樹立と改革を宣言しました。この間日本兵約150人は王宮の占拠にあたっていました。しかし、6日に袁世凱率いる1500名の清軍が王宮に至り日本軍を攻撃すると、日本軍は小競り合いの後に金玉均ら開化派を見捨てて退去しました。また事件を知った民衆によって日本公使館が焼き討ちにあい日本公使もソウルから逃れました。閔妃派の守旧派政権が復活し、事件に関わった開化派は処刑され金玉均は日本に亡命しました。この事件を甲申政変といいます」と述べています。ここでは、事件と福沢諭吉の直接の関係には言及していません。 2つの事件を比較すると、次のようになります。壬午軍乱では、日本に接近した閔氏政権が標的とされましたが、甲申事変では、清に乗り換えたことにより閔氏政権が標的とされました。福沢諭吉は朝鮮の改革を諦め、脱亜入欧路線に転換します。
勢いを増す主戦論 甲申事変において、日本が出兵を計画していたとするならば、本格的な軍事衝突になる可能性もあったことになります。 本書によると、このころ日本政府内には、伊藤博文ら和平派・長州派と強硬派・薩派の対立があったが、「薩派はまとまりに乏しく、政治力では長州派に後れを取っていた」(15ページ)ということです。しかし、甲申事変後は主戦派が勢いを増し、次のように(15〜16ページ)、事件後の交渉は伊藤博文の藩閥政府に厳しいものになると予測されていました。
ロシア脅威論は根拠薄弱 このころ、英国がロシア極東艦隊の日本海への回航阻止のため朝鮮南部の巨文島を占領し砲台を築いたことから、ロシアが南下するのではないかというロシア脅威論が起こり、日本政府ではその対抗策として清との協調政策を取ることとなります。 このロシア脅威論について、著者は次のように述べて(17〜19ページ)、根拠薄弱であったと指摘しています。
壬午軍乱当時の日本の軍事力は清に比べ弱体だったと次のように述べています(24〜25ページ)。
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