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読書ノート / 近現代史
著者は、東京大学法学部卒、大蔵省(現財務省)入省、防衛庁(現防衛省)に出向、軍事史・現代史が専門という、やや異色の歴史学者です。産経新聞「正論」執筆メンバー(正論大賞受賞者決定)、新しい歴史教科書をつくる会結成15周年シンポジウムに参加、慰安婦問題での積極発言(慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明)、「朝日・グレンデール訴訟」支援など保守派論客としても活動しています。 本書においても、東学農民戦争、閔妃殺害、「百人斬り」事件など、日中・日韓関係をめぐり論争を呼んでいるテーマを取り上げていますが、日本軍の侵略的性格を踏まえ、おおむね客観的な記述だと思います。ただ、その一方では、日本軍を擁護したいという心情も随所に感じられます。著者には、現代史家としての実証主義と、軍部へのシンパシーとの葛藤があるように感じられます。著者自身は、日本陸海軍への思いを次のように述べています(582〜583ページ)。
「第2章 日清戦争における対東学軍事行動」では、東学農民戦争(革命)を取り上げています。以前の教科書では東学党の乱と呼ばれていましたが、邪教による賊徒の暴動というイメージを与えるため、甲午農民戦争と呼ばれるようになりました。一方、民主化後の韓国では、政治思想・革命思想として東学を見直す動きが出始め、東学農民革命と呼ばれるようになり、日本でも東学農民戦争という呼び方が広がりつつあります。 このことに関連して、著者は次のように述べています(59〜60ページ)。
農民軍蜂起に対し、日本軍は「悉く殺戮」の方針で望み、農民軍を朝鮮半島の西南部に追い詰め、殲滅作戦を実行します。この結果、3万人以上が死亡し、日清戦争で最大の戦死者を出したと見られています。 これに対し、著者は次のように述べ(61〜62ページ)。農民軍と朝鮮政府軍の戦闘が中心であったと暗に示唆しています。なお、李氏朝鮮が大韓帝国と国号を改めるのは、1897年10月なので、1894年には未だ「韓国政府」は存在しなかったのではないかとも思えます。
「第3章 閔妃殺害事件の全貌」では、1895年10月8日、日本軍と日本人浪人が、朝鮮王宮に侵入し、王妃である閔妃を殺害した事件を取り上げています。閔妃は最近の韓国では敬意を込めて「明成皇后」と呼ばれることが多くなっているそうです(知っていますか明成(ミョンソン)皇后)。KNTV ドラマ 明成皇后では、製作の趣旨を次のように説明しています(もっとも、「正史を追うことを基本とするが、俗説を適切につないで、明成皇后と大院君の人間的な面をメインに描く」とも説明しています)。本書の著者も「彼女が才女であり、賢女であったことはまちがいない」と述べています(87ページ。)
計画は、朝鮮駐在公使・三浦梧楼(ごろう)、杉村濬(ふかし)一等書記官が中心となり、日本人浪人と後備歩兵第18大隊(東学農民軍の殲滅作戦を支援した部隊です)が実行に当たりました。計画では、大院君の指示による朝鮮政府内の権力闘争に見せかけるため、朝鮮訓練隊を主役にする手はずでした。しかし、大院君の説得に手間取り、また、部隊が大院君との合流地点を間違えたため、深夜に決行するはずが明け方近くになり、早起きの市民に異様ないでたちの日本人浪人を見咎められ、王宮にいた外国人武官や技師に惨劇を目撃され、さらには、何も知らされず駆り出され朝鮮訓練隊は役に立たず、日本軍部隊が主役を演じることになります。直接、王妃を手にかけたのは日本人浪人だったようですが、女官を含め、それと思しき女性を複数殺害したところ、そのうちの1人が王妃だったようで、結局下手人は特定できなかったということです。 ところで、本章の論文を執筆当時の2005年10月6日付けの朝鮮日報が「日本の伊藤内閣、明成皇后殺害に介入」という記事を掲載しています。 そこでは、「1895年の明成皇后殺害に、日本の総理大臣伊藤博文や閣僚が関わっていたことを裏付ける史料が日本の国会図書館・憲政資料室で発見された」と報じています。その史料とは芳川顯正司法大臣が1895年6月、奧宗光外務大臣宛てに送った手紙であり、その手紙の内容は、朝鮮政策変更について、(芳川大臣が)井上馨公使に伊藤博文総理大臣を説得するよう依頼したというものです。それが、どのような依頼かというと、「(伊藤総理に)弥縫(びほう)策はきっぱり放棄し、『決行の方針』を採択するよう強く勧めよ」というものです。 著者は、この報道について、次のような(102〜103ページ)反論を試みています。
「第7章 「百人斬り」事件の虚と実」は、百人斬り競争報道をめぐる名誉毀損訴訟を取り上げています。この訴訟は、1937年に中国兵の「百人斬り競争」をしたと報じられ、戦後に処刑された旧日本軍将校2人の遺族が「虚偽の報道で名誉を傷つけられた」として、2003年4月、毎日新聞社と朝日新聞社、柏書房、本多勝一を相手に損害賠償などを求めたものです。 訴訟は、2005年8月の第1審、2006年5月の控訴審、2006年12月の上告審でいずれも原告が敗訴し確定しています。 訴え提起の時には、東京日日新聞の記事は掲載から20年が経っていますから除斥期間が経過し、請求権が消滅していますから、勝訴の見込みはありませんでした。そもそも、戦場で多くの敵を倒すことは名誉なことっであったので、たとえそれが虚偽の報道であったとしても、名誉毀損にはならなかったように思われます。 なお、2人は東京日日新聞の記事が証拠となって、南京法廷で死刑判決を受け、執行されています。ただ、「百人斬り」が理由ではなく(戦闘で敵を殺しても処罰の対象とはなりません)、捕虜と非戦闘員を殺したとされたからです。しかし、東京日日新聞の記事でそれが証明できたのでしょうか。 本多勝一の朝日新聞記事は、中国各地の取材ルポで、「百人斬り」は20数行程度1回触れられているだけで、しかも、2人は仮名となっていました。したがって、これだけでは、特に問題とはならなかったように思われます。 しかし、イザヤ・ベンダサン=山本七兵、鈴木明らが、「百人斬り」を「虚報「マボロシ」と批判したことから論争となりました。このころ、「百人斬りは投降兵斬殺(据え物斬り)だったらしい」という志々目証言が発表されています。 一連の経緯を年表にまとめると次のようになります。
志々目証言とは、戦時中に一時帰国した「百人斬り」将校が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰が、1971年発行の月刊誌に発表したものですが、著者は、その一部を次のように紹介しています(295〜296ページ)。
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