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 旧日本陸海軍の生態学 - 組織・戦闘・事件 
 秦郁彦/著(中央公論新社)2014/10/10

2015/11/14
 本書は、軍事史を中心とした近現代史の論文15編を集成したものです。各論文のタイトルと初出は次のとおりです。各論文は独立しており、それぞれ興味深い読み物となっています。
第1章 統帥権独立の起源
第2章 日清戦争における対東学軍事行動
第3章 閔妃殺害事件の全貌
第4章 再考・旅順二〇三高地攻め論争
第5章 満州領有の思想的源流
第6章 張作霖爆殺事件の再検討
第7章 「百人斬り」事件の虚と実
第8章 第二次大戦における日米の戦争指導—戦争終末構想の検討
第9章 ミッドウェー海戦の再考
第10章 太平洋戦争末期における日本陸軍の対米戦法—水際か持久か
第11章 ベトナム二百万人餓死説の実態と責任
第12章 第二次世界大戦の日本人戦没者像—餓死・海没死をめぐって
第13章 軍用動物たちの戦争史
第14章 第二次大戦期の配属将校制度
第15章 旧日本軍の兵食—コメはパンに敗れた?


 著者は、東京大学法学部卒、大蔵省(現財務省)入省、防衛庁(現防衛省)に出向、軍事史・現代史が専門という、やや異色の歴史学者です。産経新聞「正論」執筆メンバー(正論大賞受賞者決定)、新しい歴史教科書をつくる会結成15周年シンポジウムに参加、慰安婦問題での積極発言(慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明)、「朝日・グレンデール訴訟」支援など保守派論客としても活動しています。  
 本書においても、東学農民戦争、閔妃殺害、「百人斬り」事件など、日中・日韓関係をめぐり論争を呼んでいるテーマを取り上げていますが、日本軍の侵略的性格を踏まえ、おおむね客観的な記述だと思います。ただ、その一方では、日本軍を擁護したいという心情も随所に感じられます。著者には、現代史家としての実証主義と、軍部へのシンパシーとの葛藤があるように感じられます。著者自身は、日本陸海軍への思いを次のように述べています(582〜583ページ)。
 一九四五年に消滅した旧日本陸海軍に対する功罪の評価、好悪の情は人により分れるだろうが、日本近代史に残した巨大な役割を疑う人はいないだろう。その足跡に対する検討は戦後だけでも七十年、さまざまな角度から試みられ、今後もつづくはずである。
 著者自身も、微力ながら昭和二十年代後半から、巨象にも似たこの怪物の組織と事績の解明にとりくみ、少なくない数の著書や論文を送りだした。幸運だったのは、十二歳まで戦前期を通過したおかげで日本軍と戦争への「土地勘」を持てたこと、ひきつづくアメリカの日本占領時代に、秘密扱いされてきた八十年分の日本陸海軍や外務省等の公文書が一挙に公開されたことであった。
 願っても見られない処女地の風景が眼前に開けたのであるが、終戦からしばらく、日本陸海軍は諸悪の権化と見なされ、反軍・反戦の立場から有無を言わせぬ批判と攻撃の対象とされる日々がつづいた。そうした風潮のなかで、日本軍と戦史の研究にのめりこんだ著者は、よほどの変り者と思われていたらしい。
 私かこのテーマと本格的に取り組んだのは、大学三年の一九五三年春で、まずは巣鴨プリズンに服役していたA級戦犯たちへのヒアリングから始めた。
 その紹介もあって芋ヅル式に旧陸海軍の幹部を訪ね歩く。東京裁判でも未解明に終った柳条湖事件、第一次上海事変、盧溝橋事件の真相を突きとめたような成果もあったが、私の主な狙いは旧陸海軍や軍人たちを支配したエートスを知ることにあった。内在的理解を深める手法と言ってもよいが、公職を追放され尾羽打ちからした心境にあった老将軍や提督は、奇特な学生の来訪を欲迎してくれた。
 こうして公史書の字面だけでは感得しにくい旧陣海軍の生態を、内側から理解できたような気がする。局外者が陥りやすい単純ミスや思いこみを回避できる勘や知恵をつけたのも、目に見えない収穫と言えるかもしれない。
 かつての軍国少年が、旧軍部の最高幹部と知己を得て、それが軍事史研究の端緒となったのですから、日本陸海軍に並々ならぬシンパシーを抱く一方で、研究を続けて行くうちに、旧軍部の暗部と欺瞞に気づいたものと思われます。実証的立場からは旧軍部を批判的に捉えつつ、一方では旧軍部を擁護したいという心情があり、その両者の葛藤があるように思えるのです。
 「第2章 日清戦争における対東学軍事行動」では、東学農民戦争(革命)を取り上げています。以前の教科書では東学党の乱と呼ばれていましたが、邪教による賊徒の暴動というイメージを与えるため、甲午農民戦争と呼ばれるようになりました。一方、民主化後の韓国では、政治思想・革命思想として東学を見直す動きが出始め、東学農民革命と呼ばれるようになり、日本でも東学農民戦争という呼び方が広がりつつあります。
 このことに関連して、著者は次のように述べています(59〜60ページ)。
 ただし、第二次大戦後における朝鮮史、日清戦争史の日本人(および在日朝鮮人)研究者で「東学党の乱」を使っているのは池井優ぐらいで、旗田巍、中塚明、大江志乃夫、藤村道生、井上勝生、姜在彦、朴宗根、趙景達、朴孟洙など大多数、それに教科書も「甲午農民戦争」の呼称を愛用している。数年前のことだが、著者が「東学の乱」と口にしたところ、前記の一人から「甲午農民戦争」と呼びなさい、ときつく注意された経験がある。
 1894年春、東学農民軍が圧政に対し蜂起(第1次蜂起)したのに対し、6月1日、朝鮮政府が清国に派兵を依頼したところ、日本も出兵の動きを見せたため、6月10日、農民軍が朝鮮政府と和約。清は両軍の撤退を主張したものの日本は応じず、7月23日、日本軍が王宮を占領し、朝鮮政府に清国兵撃退を依頼させる。王宮占領を聞いた農民軍が抗日闘争(第2次蜂起)に立ち上がったというのが、多くの研究者の見方です。
 農民軍蜂起に対し、日本軍は「悉く殺戮」の方針で望み、農民軍を朝鮮半島の西南部に追い詰め、殲滅作戦を実行します。この結果、3万人以上が死亡し、日清戦争で最大の戦死者を出したと見られています。
 これに対し、著者は次のように述べ(61〜62ページ)。農民軍と朝鮮政府軍の戦闘が中心であったと暗に示唆しています。なお、李氏朝鮮が大韓帝国と国号を改めるのは、1897年10月なので、1894年には未だ「韓国政府」は存在しなかったのではないかとも思えます。
第二次蜂起は第一次と違い抗日が主因だったとする学界の定説は必ずしも妥当とは言いがたく、むしろ主たる標的(韓国政府)に日本が途中から追加されたと見るべきであろう。
 ただ、著者も「悉く殺戮すべし」という指令が日本軍に出されていたことは認め(70ページ)、朝鮮政府軍の状況を次のように述べています(72ページ)。
 日本軍の目から見てやや信頼できるのは、ソウル守備隊が選抜して日本式に訓練を施した教導中隊だけという有様で、出撃に間に合わぬ韓国軍は後から日本車を追いかける部隊もあり、道案内や情報収集面の補助を期待していた南たちはあてがはずれたようである。
 なお、殲滅作戦については、次のように評価しています(73ページ)。
 ゲリラ戦の鎮定は狭小な地域に追いこんで掃滅するのが理想だが、実行は決して容易ではない。第十九大隊の兵員は七〇〇人弱、韓兵を加えても数千にしかならぬ少兵力で、山岳地帯をふくむかなり広い地積を二か月余の短期間で完全に制圧したことは、稀に見る成功例と評せるだろう。
 殺戮行為については次のように述べ(76〜77ページ)、もっぱら朝鮮政府軍によるものと印象付けようとしているようにも思えます。
 この第二期における戦闘の様相は、第一期に比べると顕著な特徴が見られる。第一は、東学を支援したり仲間入りする例も少なくなかった地方官や地方軍が息を吹き返し、民兵をも糾合して反撃に転じたことである。日本車の到着前に、彼らだけで東学狩りを進め人心を回復しようとする例も多かった。
 その結果、かなり過酷な復讐劇があちこちで散発する。二、三の事例を紹介すると、悪名高い金開南が地方軍に捕まると、南原の町並みを焼き払い府使を殺害したかどで地方官は親の仇を討ちたいという息子の要求を認め、日本軍が到着する前日に殺してしまった。似たような事例は錦山など各地で見られた。
 各部隊の陣中日誌を見ると、意気込んで到着したものの地方軍や民兵の手で東学は撃破されて逃散し、処刑者の氏名や人数を知らされるだけという例が多い。
 翌1895年2月、殲滅作戦を終えた日本軍が漢城(ソウル)に到着したときの様子を次のように述べています(81ページ)。朝鮮国王が、日本軍の農民軍剿滅(そうめつ=殲滅)を感謝したとありますが、前年の王宮占領など当時の朝鮮国王が置かれた(日本軍の軍事的圧力下にあった)状況を考えれば、字義通りには受け取れないようにも思えます。
「残敵」の掃討作戦を終えた後備歩兵第十九大隊も同じ二月五日、全隊が羅州への集結を終り翌日からソウルヘ向った。そして二月二十八日、龍山で韓国軍務大臣の出迎えを受け、国王の勅使が勅語を読みあげた。同行した韓兵も一緒に整列した。
 その一節に「隣邦の交誼により……東学匪徒を剿滅して一国の治安を保全し、地方生民を塗炭の苦中より救わる。朕深く其高誼を嘉し其功労を謝す」とある。
 殲滅作戦の死者について、著者は次のように述べています(82ページ)。
 約一年に及んだ乱の被害者数(死傷)も、確実な情報が少ないが、趙景達は二〇万とか三〇〜四〇万説は過大すぎると評したのち、日韓連合軍との戦闘によるもの約六〇〇〇(うち十九大隊が二一○○)、処刑者が全半島で約一万人などで、死者は三〜五万人と推計している。著者はいずれも過大な数字という印象を持つ。
 それに対し、日本軍の戦死者は『靖国神社忠魂史』第一巻でカウントした限りでは、大尉一人、下士官兵八名、軍属二名、計十一名にすぎず、かわりに戦病死者は内地還送後の死亡者をふくめ約一〇〇名(過半は休戦後)もいる。
 やや奇異な感もしないではないが、釜山を本拠とする後備第十連隊からは第一中隊長福富孝元大尉(明治二十八年五月十三日)と後任の遠田喜代大尉(明治二十八年十月六日)と二人の自決者を出している。すでに休戦期に入り、内地復員も遠くない時期なのにとの思いを禁じえないが、事情は不明なままである。
 以上をまとめると、@農民軍の蜂起は朝鮮政府に対するものであり、A日本軍は朝鮮政府を助けるために掃討作戦を実行したのであり、B残虐行為はもっぱら朝鮮軍によるものであり、C死者も研究者が推測するほど多くはなかった、というのが著者の結論なのでしょうか。

 「第3章 閔妃殺害事件の全貌」では、1895年10月8日、日本軍と日本人浪人が、朝鮮王宮に侵入し、王妃である閔妃を殺害した事件を取り上げています。閔妃は最近の韓国では敬意を込めて「明成皇后」と呼ばれることが多くなっているそうです(知っていますか明成(ミョンソン)皇后)。KNTV ドラマ 明成皇后では、製作の趣旨を次のように説明しています(もっとも、「正史を追うことを基本とするが、俗説を適切につないで、明成皇后と大院君の人間的な面をメインに描く」とも説明しています)。本書の著者も「彼女が才女であり、賢女であったことはまちがいない」と述べています(87ページ。) 
 “明成皇后”に関する多くの否定的な認識は、帝国主義の日本政府が、明成皇后を弑逆して朝鮮を強制的に占領した事実を正当化するために作り出した、歴史の捏造と偽造に起因するものが大部分を占める。「権力に執着した女」、「国家の利益を犠牲にして、親族の利益を図った女」、「闘争心と気まぐれにまみれた女」、これらはすべて、明成皇后を弑逆した当時の日本の名分である。 衰弱した朝鮮王朝、侵略のツメを隠そうともしない欧米列強と日本の野心の前に、朝鮮の独立を引き出した「鉄の女=明成皇后」。彼女の偉大さは、日本の初代総理大臣=伊藤博文が漏らした、「朝鮮を侵略するためには朝鮮の国母を弑逆するほかない」という嘆息に含蓄されている。 この時代、明成皇后と比肩する人物といえば、大院君だ。外戚とそれを支持する政治家たちにより、失墜した王室を再び立て直し、強固な国家再建のため、改革の先鋒にたった大院君。そして再び王室を守るために保守に回った大院君。彼の没落の過程は、朝鮮王朝の最後の姿でもある。
 本書では、事件の経緯を詳細に述べていますが、その概要は、以下のとおりです。
 計画は、朝鮮駐在公使・三浦梧楼(ごろう)、杉村濬(ふかし)一等書記官が中心となり、日本人浪人と後備歩兵第18大隊(東学農民軍の殲滅作戦を支援した部隊です)が実行に当たりました。計画では、大院君の指示による朝鮮政府内の権力闘争に見せかけるため、朝鮮訓練隊を主役にする手はずでした。しかし、大院君の説得に手間取り、また、部隊が大院君との合流地点を間違えたため、深夜に決行するはずが明け方近くになり、早起きの市民に異様ないでたちの日本人浪人を見咎められ、王宮にいた外国人武官や技師に惨劇を目撃され、さらには、何も知らされず駆り出され朝鮮訓練隊は役に立たず、日本軍部隊が主役を演じることになります。直接、王妃を手にかけたのは日本人浪人だったようですが、女官を含め、それと思しき女性を複数殺害したところ、そのうちの1人が王妃だったようで、結局下手人は特定できなかったということです。 
 ところで、本章の論文を執筆当時の2005年10月6日付けの朝鮮日報が「日本の伊藤内閣、明成皇后殺害に介入」という記事を掲載しています。
 そこでは、「1895年の明成皇后殺害に、日本の総理大臣伊藤博文や閣僚が関わっていたことを裏付ける史料が日本の国会図書館・憲政資料室で発見された」と報じています。その史料とは芳川顯正司法大臣が1895年6月、奧宗光外務大臣宛てに送った手紙であり、その手紙の内容は、朝鮮政策変更について、(芳川大臣が)井上馨公使に伊藤博文総理大臣を説得するよう依頼したというものです。それが、どのような依頼かというと、「(伊藤総理に)弥縫(びほう)策はきっぱり放棄し、『決行の方針』を採択するよう強く勧めよ」というものです。
 著者は、この報道について、次のような(102〜103ページ)反論を試みています。
……「弥縫策」とは「朝鮮政府を貸与金で懐柔しようとする井上の方針」、「決行の方針」とは「武断的手段での解決を示唆するもの」という小松裕(熊本大学教授)の分析は、ほぼ妥当と思われる。
 しかし「内閣レベルで明成皇后の殺害について話しあっていた」とする李泰鎮ソウル大学教授の解釈は、飛躍にすぎると評せざるをえない。……
 従来からの流れからして、陸奥が同意したとしても、隠棲していた政敵の大院君を引き出して閔妃一派の発言力を封じる政治工作どまりではなかったか。何よりも、「三人合同の意見」を井上に伝え、伊藤を説得してもらいたいと依頼はしたものの、果して井上が同調して説得を試みたのかどうか判然としないのである。たとえ試みたとしても、伊藤が同調したかは疑わしい。
 それでも山県という陸軍の長老と結んだ芳川が、おそらくは他の有力者も巻きこんで対韓武断策への転換を画策していたことが明らかとなったのは興味深い。
 そして、次のように結論付けています(106ページ)。
……どうやら事件の主謀者ないし主犯は三浦梧楼、それも彼の単独犯行という線に落ちつきそうである。
 しかし、「決行の方針」というのは「隠棲していた政敵の大院君を引き出して閔妃一派の発言力を封じる政治工作どまり」というよりは、もっと強い意味合いがあるように思われます。また、伊藤博文が同意しなかったとしても、明治憲法では「内閣総理大臣は同輩中の首席」に過ぎなかったのですから、軍部の独自判断で決行することは可能です。1894年7月の朝鮮王宮占領のように、閣議が反対したとしても、軍部が強行して既成事実を作ってしまえばどうしようもないのです。著者も認めているように「山県という陸軍の長老と結んだ芳川が、おそらくは他の有力者も巻きこんで対韓武断策への転換を画策していたことが明らかとなった」事実は重いと思われます。にもかかわらずどうして「三浦梧楼の単独犯行という線に落ちつ」くのでしょうか。なお、この事件に関連して、殺害に直接関与した日本人浪人47人のうち21人を熊本の関係者が占め、熊本勢に強い影響力を持つ国民協会代表の品川弥二郎が抱えた膨大な借金を、井上が立て替え完済していたという興味深い指摘もあります( 朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる)。
 「第7章 「百人斬り」事件の虚と実」は、百人斬り競争報道をめぐる名誉毀損訴訟を取り上げています。この訴訟は、1937年に中国兵の「百人斬り競争」をしたと報じられ、戦後に処刑された旧日本軍将校2人の遺族が「虚偽の報道で名誉を傷つけられた」として、2003年4月、毎日新聞社と朝日新聞社、柏書房、本多勝一を相手に損害賠償などを求めたものです。
 訴訟は、2005年8月の第1審、2006年5月の控訴審、2006年12月の上告審でいずれも原告が敗訴し確定しています。
 訴え提起の時には、東京日日新聞の記事は掲載から20年が経っていますから除斥期間が経過し、請求権が消滅していますから、勝訴の見込みはありませんでした。そもそも、戦場で多くの敵を倒すことは名誉なことっであったので、たとえそれが虚偽の報道であったとしても、名誉毀損にはならなかったように思われます。
 なお、2人は東京日日新聞の記事が証拠となって、南京法廷で死刑判決を受け、執行されています。ただ、「百人斬り」が理由ではなく(戦闘で敵を殺しても処罰の対象とはなりません)、捕虜と非戦闘員を殺したとされたからです。しかし、東京日日新聞の記事でそれが証明できたのでしょうか。
 本多勝一の朝日新聞記事は、中国各地の取材ルポで、「百人斬り」は20数行程度1回触れられているだけで、しかも、2人は仮名となっていました。したがって、これだけでは、特に問題とはならなかったように思われます。
 しかし、イザヤ・ベンダサン=山本七兵、鈴木明らが、「百人斬り」を「虚報「マボロシ」と批判したことから論争となりました。このころ、「百人斬りは投降兵斬殺(据え物斬り)だったらしい」という志々目証言が発表されています。
 一連の経緯を年表にまとめると次のようになります。
1937/11〜12 東京日日新聞(現毎日新聞)が2人の百人斬り競争を掲載
1948/12 南京法廷で2人に死刑判決、理由は俘虜および非戦闘員屠殺
1971/8〜12 朝日新聞が本多勝一の「中国の旅」連載
月刊誌「中国」12月号が志々目証言発表 
1972/3  本多勝一が単行本「中国の旅」刊行
イザヤ・ベンダサン=山本七平、鈴木明らとの論争始まる
1999  本多勝一らが「南京大虐殺否定論十三のウソ」(柏書房)刊行
2003/4  遺族3人が、損害賠償など求め、毎日新聞社、朝日新聞社、柏書房、本多勝一を提訴 
 著者は、これらの事実関係を詳細に検証しています。
 志々目証言とは、戦時中に一時帰国した「百人斬り」将校が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰が、1971年発行の月刊誌に発表したものですが、著者は、その一部を次のように紹介しています(295〜296ページ)。
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』(著者注:お前出てこいを意味する中国語)とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……二人で競争したのだが」(中略)白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという"勇士”の体験談は私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ……国軍の生徒としての教育を受けるようになってから、そのことをあらためて思い返すようになっていた。
 著者は、この証言の裏付けをとるため、当時の同級生を取材しています(302ページ)。
 次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、著者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範学校付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校七五期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。
 また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中身はよく覚えていないとのことであった。
 さらに、当時中学3年であった人物からも取材し、次のように結論付けています(303〜304ページ)。
 野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三か所に顔を出したようだ。
 その時、鹿児島一中の三年生たった日高誠(のち陸士五八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を待ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい。
 「百人斬り」論争については、鈴木明「 『南京大虐殺』のまぼろし 」(1973/文藝春秋)を取り上げ、次のように(296ページ)、取材力は評価しつつ、現代史家の視点から、その論証に疑問も示しています。
 それ以上に影響力を与えたのは、『諸君!』の七二年四月号から連載され、改補筆のうえ七三年三月に単行本となる『〈南京大虐殺〉のまぼろし』(文藝春秋)の著者鈴水明だろう。本多側は百人斬りをマボロシと位置づけることで南京大虐殺もついでにマボロシと錯覚させる書名だと論難したが、「向井少尉はなぜ殺されたか」(七二年八月号、十月号)の部分は、その年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
 おそらく詮衝委員ばかりでなく読者の多くが、台湾まで飛んで元裁判長の石美瑜弁護士に会い「向井は堂々たる態度を少しも変えず中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた」(裁判官の間に)三人は銃殺にしなくていいという意見はあった」が「この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた」という発言を引き出した鈴木の取材力に幻惑された感もある。
 もっとも二少尉と家族の悲劇的運命を軸にしてメロドラマ風に描いているので、史実の解明という観点から見れば物足りぬ感をぬぐえない。志々目証言についても「たしかめる余裕はなかった」(七二年四月号)と逃げ、単行本ではそれも削除してしまったことを洞富雄に指摘されている。
 鈴水明を激賞した大宅賞選考委員のなかからも、「一方的に鈴水明の筆力に感心したのはいささか軽率だったかな」(平野謙)と反省する声も出はじめた。
 日本刀の殺傷力をめぐる論争については、次のように述べて(305〜307ページ)、ベンダサン=山本七平の主張を、ほぼ全面的に否定しています。
 ついでに解釈が分かれた日本刀の殺傷力をめぐる論争についても触れておこう。最初に問題を提起したのはベンダサン=山本七平で、山本の著書『私の中の日本軍』上下(一九七五)における彼の言い分は「日本刀神話の実態」とか「白兵戦に適さない名刀」といった章のタイトルでおよその見当がつこう。
 山本が主として依拠したのは、中国の戦場で二〇〇〇本の軍刀修理に当った成瀬関次の著書『戦ふ日本刀』(一九四〇)などで、自身の経験も織りまぜ、「日本刀は非常に消耗が早く、実際の戦闘では、一回使えばほぼ廃品になってしまう」(R氏)とか「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」(殺陣師の談話)とか「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀は実際はほとんど皆無」(成瀬関次著より)といったくだりを引用して、「日本刀にはバッタバッタと百人斬りができるものでない」と結論づけている。
 こうした山本の所論はその後の論争に大きな影響を与え、百人斬りの全面否定論者たちによって有力な論拠にされてしまう。だが山本の所論は二つの理由から、トリックないしミスリーディングと言えよう。
 第一は首斬り浅右衛門の処刑法がそうだったように、無抵抗の「罪人」(捕虜)を据えもの斬りする場面を想定外としていること、第二は成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、悪い事例を無視していることだ。
 成瀬著に目を通すと、刀や剣士の多彩な事例が豊富に紹介されていて、総合すれば日本刀の優秀性が印象づけられる。「戦線には、何等武術の心得もなくして、実に巧妙に、如何様にも斬り落とす名手が少くない。こうした今浅右衛門は、どこの部隊にも一人や二人は居る」とか、曲ることはあるが、「二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった」とか。日中戦争では器械化戦とはいえ「他面一騎打の原始戦が盛んに行われ……斯く大量的に、しかも異国に於て日本刀の威力を発揮した記録は、全く前例のない事」のような記述である。
 成瀬は、さらに具体例として無銘古刀の修理にやってきた時目少尉から「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかった」が、多くは後から追いすがって斬ったもので、ランニング選手だった賜物という感想も聞いた。
 この少尉は中学校で剣道をやっただけというので成瀬が驚きの目をみはると、「いや、もっとえらいのがいる。それ、新聞にも出たろう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺という人間だよ」と、向井少尉らしき人物が引き合いに出されている。
 また『ペンの陰謀』に寄稿した鵜野晋太郎少尉は、捕虜一〇人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を書き、「人斬りが面白くなり、同期生を見てもいい首をしているなあこと思うようになった」と告白した。鵜野によれば、「百人斬り競争」とは「据え者斬り競争」のことだという。
 白兵戦の機会はほとんどなかったはずだとか、一刀で何人も斬る前に日本刀が破損するはずといった臆断は必ずしも当らないことが知れる。
 「百人斬り」論争については、心情的にはともかく、実証主義の立場からは、否定派に分が悪いと、著者も認めざるを得なかったようです。