top / 読書ノート / 近現代史
 司馬遼太郎が描かなかった幕末:松陰・龍馬・晋作の実像 
 一坂 太郎/著(集英社新書)2013/9/18

 2018/1/19
 著者は、下関市の東行(とうぎょう)記念館の学芸員をしていましたが、東行記念館の閉館により退職し、現在は萩博物館特別学芸員をしています。東行記念館は、東行庵(高杉晋作の霊位礼拝堂)の敷地内にありますが、現在は2階部分が下関市立東行記念館となっています。つまり、東行記念館の運営が東行庵から下関市に移ったようです。
 東行記念館と萩博物館には、高杉晋作の遺品が多数保存されており、著者は学芸員(幕末長州の歴史研究者)として、その整理と保管に携わってきました。著者は、そのような研究者の立場から、司馬遼太郎が描いた吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作の歴史像に検証を加えています。
 著者は、政治家や実業家が司馬遼太郎作品を愛読書に挙げ、その主人公に、自分自身の姿を重ね合わせるという現象について、次のように述べています(10〜12ページ)。
 偉人に憧(あこが)れ、尊敬し、その生き方を真似(まね)ようとすることにケチをつけるつもりはないが、司馬遼太郎が描いたのは小説、つまりフィクションだ。美事(みごと)なエピソードの羅列である。読者はそれを承知の上で、娯楽として楽しめばいいのだが、すでに多くの日本人にとって司馬遼太郎作品は「歴史教科書」と化してしまっている。小説ではあるが、そのような読まれ方をしていないという現実があるのだ。
 それは全(すべ)て読者側の責任かと言えば、そうとも言えぬ一面もある。例えば物語のあちこちに司馬遼太郎自身が顔を出し、史料を提示したり、史跡や子孫を訪ねたりする。当然、読者にノンフィクションのような印象を与えることを意図したものだろう。読んでいると、果たしてこれは本当に小説として書いたのだろうかと、首を傾(かし)げたくなる部分もある。
 かく言う私も中学、高校生の頃、胸躍らせて司馬遼太郎作品を次々と読んだファンの一人だが、二十代になると読まなくなっていた。その後、歴史研究を続けていたが、ある時ひさびさに司馬遼太郎作品に「再会」したところ、なんとも言えぬ違和感に襲われた。一人か二人の特別な英雄が出現し、さっそうと時代を変えてしまうといった、いわゆる「英雄史観」で貫かれていることがその第一。人物を好き嫌いで評している部分が多いのが、その第二。また、歴史が進む上で重要な要素の多くが、意外と物語から除外されていることも気になった。 
 @英雄史観、A嫌悪の感情による人物評価、B重要な歴史事実の脱落、という批判は、歴史小説や大河ドラマ全般に当てはまるように思われます。ただ、善玉と悪玉が登場し、観客や読者は登場人物に感情移入し、拍手喝采するという構図がなければ、時代劇や歴史読み物は成立しません。

松陰は革命思想家だった? 
 明治後半期には、吉田松陰関係の書籍の刊行は2年に1冊程度でした。大正期には、年1冊程度のペースとなり、昭和に入って急増し、年5冊以上のペースとなります。戦後は、年1冊半程度のペースに落ち着きましたが(吉田松陰 変転する人物像(中公新書))、今世紀に入って少し増える傾向にありました。そして、2015年放送のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、松陰の妹文が主人公となったことから、2014年後半から2015年前半にかけて、一挙に25冊ほどが刊行されました。まさに、大河ドラマ恐るべしです。
 明治の前半は、簡単な伝記以外は、松陰に関する書籍はほとんど発行されていなかったようですから、全国的な知名度はさほどでなかったのかもしれません。1893(明治26)年に、最初の本格的な吉田松陰論として、徳富蘇峰の「吉田松陰」(民友社)が出ますが、そこでは松陰は反体制の革命家と描かれているようです。しかし、蘇峰が平民主義者から帝国主義イデオローグに急旋回したことにより、1908(明治41)年の改訂版では、「革命」が「改革」に置き換えられます。昭和に入ってからは、松陰伝は、教育者像に圧倒的比重をかけたものとなっていきます。しかし、軍国主義の進展によって、忠君愛国の殉国教育者として祭り上げられた松陰が、戦争遂行の思想動員にフルに活用されます。一方、革命家としての松陰はテロリストの側面も持っています。いずれにしても、松陰はどのような描き方をしても、マイナスのイメージを伴うことは否定できません。
 著者によると、司馬遼太郎は、そんな松陰を革命家として描いているそうです(50ページ。)
 吉田松陰という人物に対する評価は明治以来、様々な変遷を繰り返したが、司馬遼太郎は「革命家」としての一面を、特に強く前面に押し出す。玉虫色の松陰像を、革命家という評価で一貫させる。そのヒントになっているのは、ジャーナリスト徳富蘇峰(猪一郎)が明治二十六年(一八九三)に発表した『吉田松陰』であろう。初めて著された、松陰のまとまった評伝だ。 
 司馬遼太郎の草莽崛起(そうもうくっき)論についての解釈は次のようなものだと、著者は述べています(53〜54ページ)。松陰が言う草莽が下級藩士のことを指すとするならば、革命家・松陰の革命は身分社会を前提としたものとなるのでしょうか。
 続いて吉田松陰の心中を、司馬遼太郎は次のように解釈する。
「松陰はこの時期、公家にも絶望し、大名もたのむべからず、ついに救国の革命事業はそのような支配層よりも革命的市民(草莽=そうもう)のいっせい蜂起(ほうき)によってとげざるをえないとおもうようになった」
「ついに万策つきたかれは革命的市民の一大結集を大まじめに考えた。萩においてである。革命的幻覚ほど華麗なものはないであろう」
 これは、松陰が晩年唱えた「草莽崛起(くっき)論」のことだ。孟子が言った「草莽の臣」を意識したのだろう。野山獄中の松陰は最初草莽の人が立ち上がることを期待するが、ついには自分自身が草莽であると悟る。生きて獄を出て、十年、あるいは十五年後に草莽崛起の人となり、死んでみせるとの決意を固めた。
 司馬遼太郎は「草莽」を「革命的市民」と同義語としている。しかし、「市民」の範囲を司馬遼太郎自身がどのように考えていたのか、いま一つはっきりしない。
 ただ、もし読者が「市民」の部分を「民衆」や「庶民」と解釈したとすれば、それは注意が必要かもしれない。松陰が言う草莽に、農民や町人が含まれていたわけではあるまい。藩の政策決定に関与させてもらえない下級武士の中に眠っている人材を、草莽と呼んだのだ。あくまで全人口の一割ほどの武士という特権階級の中での話である。例えば先に見た吉田栄太郎が実際行っていた仕事といえば、参勤交代のさいの宿の手配とか、江戸藩邸の茶室の茶碗(ちゃわん)洗いとかである。彼こそはまさに、松陰が言う草莽の典型だ。そして、松下村塾は草莽の巣窟(そうくつ)だった。
 松陰を革命家として描くならば、革命の手段としてのテロリズム(老中・間部詮勝の暗殺計画)に触れざるを得ませんが、次のように司馬遼太郎はそこには深入りしていないようです(41〜42ページ)。
 やがて松陰のテロのターゲットは、大老井伊の指揮下、京都に乗り込み反対派弾圧に奔走する老中間部詮勝(まなべあきかつ)へと絞られてゆく。
 松陰は十数名の門下生の同意を得るが、高杉晋作や久坂玄瑞など反対した門下生に対しては、「僕は忠義をする積(つも)り、諸友は功業をなす積り」と、激しい口調で絶交を申し込む。
 さらに松陰は、須佐(すさ、現在の萩市)に住み、郷校(ごうこう)育英館で後進の指導にあたる同志小国融蔵(おぐにゆうぞう)(剛蔵)に手紙を書き、「死を畏(おそ)れざる少年三、四輩、弊塾(松下村塾)まで早々お遣(つか)わししかるべく」と依頼している。テロリストに仕立てたいから、死んでも構わぬ少年がいれば三、四人みつくろって、早く送れと依頼しているのだ。ここまでくると無茶苦茶で、清く正しい教育者のイメージからはほど遠い。松陰語録には、とても載せられない言だろう。松陰にはこうした過激なテロリストとしての一面があった。
 『世に棲む日日』の松陰は間部暗殺を唱え、藩に武器を貸して欲しいと希望するが、間もなく江戸に送られてしまう。司馬遼太郎はこの部分も次のように、あっさりと描く。
 「松陰のいうところでは、井伊直弼のつかいである間部は幕府代表として京に入り、公家工作をしている。公家をして『日米通商条約締結』派たらしめようとしている。間部を阻止するにはこれを殺さねばならない。殺すのは長州藩士一手でころす」
 さらに司馬遼太郎は、「外圧からの緊張がつくる日本型の狂気の最初の発揚というべきであろう」と評す。『世に棲む日日』では、テロの話はここで終わってしまう。危険を感じた藩によって、松陰はすぐに投獄される。松陰がこのテロ計画に誰を巻き込み、誰が離れてゆき、その後どのようなすったもんだがあって投獄され、ついには江戸に送られるに至ったかについては触れられていない。もちろん、先に見た松陰の書簡も引用されない。
 松陰はテロリストとして藩に危険視されて捕らえられ、テロリストとして幕府に処刑された。しかし司馬遼太郎は無味無臭の松陰を、テロに深入りさせることはしない。
 軍国主義の進展とともに、松陰は忠君愛国の殉国教育者として祭り上げられますが、松陰が熱烈な天皇崇拝者であったことも事実であり、そのことと革命家・松陰がどのように関係するのか、扱いに苦慮するところです。「草莽崛起=下級武士による体制破壊運動」と評価するなら、天皇こそ伝統的権威の象徴だから、革命を突き詰めれば、その極限に天皇否定があるはずだからです。著者によると、司馬遼太郎は、松陰の天皇崇拝を極力避けようとしているそうです(29〜30ページ)。
 吉田松陰は、熱烈なる天皇崇拝者である。父の影響もあり、子供の頃から毎朝神棚を拝んでいたという。天皇に対し絶対的な忠誠を誓っていた松陰は戦前、戦中の日本で忠君愛国のシンボルに祭り上げられ、皇国史観の為政者たちに都合よく利用された。
 『吉田松陰全集・別巻』を見ると、昭和十一年(一九三六)から十九年までの間に、ちょうど九十冊もの松陰伝記の単行本が出版されている。その大半は時局に擦り寄った、内容の薄いものだ。いまなお、戦前の教育を受けた人の間に「松陰アレルギー」のようなものが存在するのも、そうした一面があったからである。
 では、終戦から二十年以上経って著された『世に棲む日日』で司馬遼太郎は戦前・戦中に持て囃(はや)された天皇崇拝者の松陰像と、どのように向き合い、格闘したのだろうか。
 結論から先に言えば、司馬遼太郎は天皇崇拝の問題を極力避けて松陰を描こうとしたきらいがある。「さらには松陰は、この時代のもっとも急進思想である天皇崇拝主義の先端的な唱道者であった」と説明する程度で、何が「急進思想」「先端的」なのか、いま一つわからない。その結果生まれてくるのは大変純情な善人ではあるが、無味無臭の松陰像だ。
 司馬遼太郎は、吉田松陰を「草莽崛起=下級武士による体制破壊運動」の純粋な革命思想家として描こうとし、不純物であるテロリズムや天皇崇拝の要素を極力薄めようとしたのではないでしょうか。そのため「重要な歴史事実の脱落」があったとしても、何が重要かは、歴史観によりその判断は異なるように思われます。

武勇伝3点セットは史実とは確認出来ない
 著者によると、高杉晋作には、武勇伝3点セット(御成橋・箱根関所・加茂行幸)というものがあるそうです。
 御成橋事件とは、文久2年(1862)11月28日、大赦令が出て(罪人として葬られていた)松蔭の改葬が許されますが、文久3年(1863)1月5日、改葬の途中で、晋作が松蔭の遺骸を持って、将軍しか渡れない上野の三枚橋の中の橋(御成橋)を渡ったというものです。
 箱根関所事件とは、晋作が駕籠に乗ったまま箱根の関所を破ったというものです。
 加茂行幸事件とは、文久3年(1863)3月11日、孝明天皇の攘夷祈願の加茂行幸に随従させられた将軍家茂に対して、晋作が「いよう。征夷大将軍」と声をかけたというものです。この武勇伝3点セットについて、著者は次のように述べています(110〜111ページ)。 
 十余年前、私は「晋作ファン」という男子大学生の訪問を受けたことがある。『世に棲む日日』を読んで高杉晋作にほれ込んだのだという彼は、御成橋・箱根関所・賀茂行幸の「武勇伝三点セット」が、晋作の生涯の最も素晴らしい事跡だと語った。
 私かそれらのエピソードは残念ながら史実とは確認出来ないと説明すると、彼は衝撃を受けた様子で、「ならば、高杉晋作ってほかに何か評価出来るんですか」と問うてきたので驚いたことがあった。
 ところがいま、あらためて『世に棲む日日』を読むと、「武勇伝三点セット」を司馬遼太郎は歴史の流れの中心に引きずり出し、驚くほど重要な話にしていることに気付いた。例えば将軍を野次る場面の後で、次のように述べるのだ。
「それやこれやで、幕府は長州藩を目のかたきにしはじめ、このあとさかんに宮廷に作をして親幕派の親王や公卿をあつめ、長州藩の戦略を封じてしまおうとした。その傾向に、薩摩藩が同調した。政局は、複雑になった。
「それやこれやで」と曖昧にしてはいるが、これでは晋作の挑発がきっかけで政局が複雑になり、ついには幕長戦争(『世に棲む日日』で言うところの「革命」)が起こったかのような 説明だ。スタンドプレーが日本を二分する組織対組織の戦いへと発展したというのだから、大学生が「武勇伝三点セット」になぜあれほど興奮していたのかが、ようやくわかった気がした。幕府と長州藩の対立がなぜ深刻化したかは様々な原因があるが、少なくとも「武勇伝三点セット」がそこに加えられることはない。ちなみに公爵毛利家で、末松謙澄が中心となり編纂(へんさん)された詳細な長州藩幕末維新史『防長回天史』全十二冊の中にも、「武勇伝三点セット」は出てこない。さらに司馬遼太郎は、晋作の脳内を覗(のぞ)いたかのごとく、その真意を次のように説いてみせる。
 「晋作の理論は久坂とはちがい、いったん大乱世を現出する以外に革命の道はない、というものであった。安政末年に死んだ松陰などが、思いもよらなかった戦略論である」
 講談師たちが生み出した「武勇伝三点セット」は、司馬遼太郎作品のカリスマ性によって幕末政治史の流れを生み出した「戦略」にまでなってしまったのだ。
 高杉晋作は、イギリス公使館焼き打ち(88〜92ページ)や宇野八郎暗殺(112〜115ページ)など、かなり乱暴なことをしていますから、武勇伝3点セットはいかにも有りそうな話です。高杉晋作を物語るエピソード(噂話)として紹介するのも悪くはないと思います。しかし、それらが重要な戦略であり、歴史の流れを左右したというのは、いささか筆が滑りすぎた感じもします。

龍馬は、万国公法を使っていない
 著者は、「竜馬がゆく」で司馬遼太郎が描いた史実と、史料から明らかとなった史実との食い違いを指摘しています。いくつかをトリビア風に紹介します。
司馬遼太郎が描いた史実  史料から明らかとなった史実 
龍馬は愚童だった  大半は史実としての裏付けはない(14〜15ページ) 
龍馬は亀山社中誕生に立ち会った  龍馬は長崎には不在だった可能性がある(171〜173ページ) 
京都に居た龍馬の指示で、長崎に居た近藤長次郎が、長州藩の武器買い付けに尽力する  その事実は確認できない(173〜176ページ) 
亀山社中は商社で龍馬は社長だった  龍馬は、長崎での亀山社中の動きを掌握していなかった(178ページ) 
龍馬は日本初の新婚旅行を行った  その2年前に結婚式を挙げていた(194〜195ページ) 
龍馬は、いろは丸事件で万国公法を持ち出し勝利した  龍馬は、万国公法を使っていない。万国公法は、海上交通規則ではない(223〜226ページ)