1894/7/23 |
日本軍が朝鮮王宮占領。8月になってその事実を知った東学農民軍は地方の改革を取りやめ、武装蜂起の準備を進める。また、各地で抗日闘争が始まる |
1894/10/12 |
全琫準ら南接(南部)指導部が「起包(蜂起)」を宣言 |
1894/10/16 |
北接教主・崔時亨が「起包」を宣言 |
1894/10/23 |
日本軍第1軍の鴨緑江渡河作戦始まる |
1894/10/25 |
日本軍第1軍の第5師団司令部も鴨緑江を渡河
忠清道東学農民軍が兵站部を狙って一斉蜂起 |
1894/10/27 |
川上操六兵站総監が「悉く殺戮」を命令 |
1894/10/28 |
大本営が、ソウル守備隊3個中隊(後備第18大隊)と東学農民軍討伐専任の3個中隊(後備第19大隊)の派遣を決定。(1個中隊の兵力は220人程度) |
1894/11/12 |
3個中隊(後備第19大隊)がソウル近郊から3方面に南下、東学農民軍を全羅道西南部に追い込み殲滅する作戦を開始(12/9終了予定)、さらに後備第18大隊第1中隊と後備第10連隊第1大隊、軍艦2隻も応援に加わる。朝鮮全体で討伐作戦に動員された日本兵は4000人程度と見られる |
1894/11/20〜22 |
北接農民軍と南接農民軍が合流、第2中隊との間で、東学農民戦争最大の激戦(第1次戦)が公州南方の牛金峙(ウグムチ)で行われる |
1894/12/4〜7 |
第2次戦が行われ、東学農民軍が敗退。竹槍と火縄銃の農民軍と、訓練されたライフル銃の近代歩兵隊では、200名に1名で対抗できるほどの著しい戦力差があった |
1895/1/4 |
後備第19大隊の3個中隊が全羅道の羅州府にそろい、殲滅作戦本部を設置。以後、殲滅命令相次ぐ |
1895/2/11 |
南大隊長が本部を引き払って帰途につく |
後備第19大隊の行軍路は次の地図(52ページ)のとおりです。日本軍の朝鮮王宮占領の事実が広まると各地でゲリラ的な抗日闘争が始ますが、標的となったのは、釜山から漢城(ソウル)に通じる兵站線と軍用通信線でした。その多くは北接農民軍の勢力圏にありました。