top /
読書ノート / 社会
多くの事実誤認やコピペ疑惑 出版元の幻冬舎では、本書を次のように説明しています(書籍詳細: 日本国紀)。
日本国紀が、ディスインフォメーションで溢れているという噂の絶えないウィキペディア情報(日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策)をつなぎ合わせたものだとするなら、「日本通史の決定版」とは、ほど遠いものといえそうです。 「右翼・保守本流」からも批判 批判は、リベラル左派からだけではなく、自らを右翼・保守本流と称する(“脱ネトウヨ”した古谷経衡さんに聞く ネトウヨの生態と、付き合い方)古谷経衡氏も、「本棚に所蔵しておくことが恥ずかしくなるぐらいの駄本」「この程度の水準にとどまる近代史の歴史認識は、……場合によっては高校生程度」と酷評しています(ネット右翼が『日本国紀』を絶賛するワケ)。 古谷氏は、次のようにネット右翼の関心は、「神話・神代の時代」「大東亜戦争期」「戦後混乱期」の三つの時代・時期に集中しているとします。そして、三つの時代・時期に的を絞って書籍を刊行してきた出版業界にとっては、日本国紀という長いスパンでの俯瞰本は、「灯台下暗しともいえる成功事例であった」と述べています。 「退屈でつまらない」 一方、古市憲寿氏が、新潮社のPR雑誌「波」で日本国紀を話題の書として取り上げたところ、百田尚樹氏がTwitterで次のように反論しています(リテラ>百田尚樹が古市憲寿の『日本国紀』評に「ウソ書くなボケ」と激怒! でもウソをついてるのは百田センセイのほうだった)。
「正義の戦争だった」とは言っていない 古市氏の論評と百田氏の反論のどちらが正しいのか、実際に日本国紀を読んでみました。結論としては、百田氏に分があると思われます。百田氏は、「(戦争の)主目的はインドネシアの石油施設の奪取」だったと明確に述べているからです。 ネット右翼の関心は、「神話・神代の時代 」「大東亜戦争期」「戦後混乱期」の三つの時代・時期に集中しているということですが、日本国紀では、この三つの時代・時期の記述に、全体の4割ほどを割いています。「大東亜戦争期」は30ページ余りとあまり多くはないです。 日米対立の原因となった日中戦争について、百田氏は、次のように述べています(375ページ)。戦争の原因は中国人のテロ行為にあり、日本は巻き込まれただけという主張です。
したがって、「私がいつそんな主張をした!そんなこと、どこにも書いてない!」という百田氏の反論の方に分があると思うのです。 なお、古谷経衡氏は、ネット右翼が『日本国紀』を絶賛するワケで、ネット右翼は聖戦説を好むと指摘していますが、百田氏が聖戦説を主張しているとは述べていません。 軍部では「自存自衛」論が多数派 ところで、戦争目的については、次のように軍部では「自存自衛」論が多数だったようです(読売新聞検証戦争責任)。百田氏の論理は、この主張に近いようです。
日本陸海軍と南進では、 「自衛」と「自存」の違いを次のように説明しています。 「自衛」は、援将ルート遮断と英国に対する安全保障上の要請なので、主な進出対象は仏領インドシナとなります。「自存」は、石油などの資源確保をめざすので、進出対象は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)となります。
日中戦争は膠着状態に そもそも、「援将ルート遮断」という「自衛」がなぜ必要になったのでしょうか。 満州事変後、日本軍(関東軍・支那駐屯軍)は、中国の河北省など華北一帯を、中華民国政府から分離独立させ、日本の支配下に置こうと華北分離工作を活発化しますが、蒋介石は、国共内戦を優先し、日本軍に譲歩を重ねたため、国内に不満が高まります。そして、張学良が蔣介石を監禁し、国共内戦の停止を迫り、合意させるという西安事件が起こります。 華北分離工作/世界史の窓を参考に一連の経緯をまとめると次のようになります。
1937年7月7日に盧溝橋で発砲事件が起き、日本と中国は全面的戦争に突入します。蔣介石は、ドイツ軍の軍事顧問により組織・訓練された最精鋭部隊を投入して、上海で決戦に挑みますが敗退し、首都を重慶に移転し長期持久戦略へ移行します。そして、英米仏ソの軍需物資支援ルート(援将ルート)が、持久戦の生命線となります。 中国の地形は次のようになっています(中国コンサルタントサービスセンター>中国の地形)。重慶のある四川盆地(赤楕円)は山に囲まれた自然の要塞となっています。 現在の中国の人口分布は次のようになっています(中国人口空?分布公里网格数据集)。華北と華中の平野部と四川盆地に人口が集中しています。 日中戦争の戦線は次のように拡大しています(日本の侵略戦争■第2回■ 中国全面侵略への拡大)。援蔣ルートが本格始動するのは、武漢三鎮が陥落し、国民政府が重慶に完全移転した1938年11月からですが、この時期以降は戦線はあまり拡大していません。「四川は、広大で急峻な山岳地帯によって中原と分断されており、大規模な軍事活動による攻略は困難であり、さらに武漢から重慶は直線 700km もの距離」があり「長大な兵站を支えつつ、山々を踏破して重慶を攻略するということは日本軍にとって容易でないことは明らか」です。一方、「軍事力で劣る蔣介石・国民党が日本に対して採れる方策は、遊撃戦と外交的方策によるしかなく」、日中ともに軍事的に決着をつけることができない膠着状態となっていました(日中戦争における蒋介石の戦略形成と重心移行)。 太平洋戦争開戦後の華南での戦線拡大は大陸打通作戦によるものです。大陸打通作戦は、1944年4月から1945年2月にかけて、北京から華南までの鉄道沿線を作戦範囲とし延べ2400キロメートルにわたり、日本陸軍史上最大規模の50万人以上を動員して実施されました。(大陸打通作戦)。「中国奥地の米空軍基地を攻略して、B29爆撃機による本土空襲を防ぐこと」が主な目的でしたが、「B29はすでにマリアナ基地に移って、日本全土に対する空襲が始まっており、大軍を動かしたことの戦略的意義はすでに失われていた」ということです。 作戦は、次の図(別所弥八郎とアジア・太平洋戦争末期の「報道写真」――大陸打通作戦従軍関連写真を中心に――)のように進行しました。 日中戦争は勃発から3年経っても決着がつかず泥沼化していましたが、1940年5月に、ドイツが西部戦線への侵攻を始めたことが転機となります。これを機会に、日本軍は援将ルート遮断へ軍事圧力を強めますが、その結果、日米対立が激化します。結局、日本の真珠湾攻撃で開戦し、日米戦争は3年半以上に及び、日本の敗戦で幕を閉じます。その後、中国では、国共内戦の末、共産党が勝利し、蒋介石は台湾に逃れます。 日中戦争における蒋介石の戦略形成と重心移行を参考に、日米開戦までの日中戦争の経緯をまとめると次のようになります。
南部仏印侵攻以降、日本軍は次々と援蒋ルート遮断します。戦争と石油(1)〜太平洋戦争編〜では、その経緯を次のように説明しています。1940年9月の北部仏印進駐で、仏印ルートが遮断されたことにより、援蒋ルート全体の輸送量は半減し、1942年5月のビルマ制圧でほぼ全滅します。
戦争ではないから侵略ではない? 百田氏は、「東南アジア諸国への侵略戦争だった」という主張に対し、次のように反論しています(391〜392ページ)。
百田氏は、ルーズベルトの陰謀により日本は開戦に追い込まれたという立場ですが、大東亜共栄圏構想については「理想」と肯定的にとらえています。 東南アジアは、次々と植民地に 大戦前の東南アジアの植民地の分布は次とおりです(東南アジア植民地化の特色 | 世界の歴史まっぷ)。 タイ以外の東南アジア各国は、いずれも欧米諸国の植民地でしたが、歴史的経緯や支配体制はそれぞれ異なります。 フィリピンとオランダ領東インドとイギリス領マラヤは、16、17世紀以来の植民地の歴史があります。ただし、フィリピンはアメリカ支配のもとで独立が約束されていたのに対し、資源に恵まれたオランダ領東インドでは独立運動は厳しく弾圧されていました。イギリス領マラヤは、海峡植民地(直轄)とマレー連合州(保護国)により構成されていました。 一方、フランス領インドシナとビルマの植民地が完成するのは19世紀後半になってからです。フランスは、ベトナムの阮朝を征服し、カンボジアとラオスに領土を拡大しています。イギリスも、3度の戦争でビルマのコンバウン朝を滅ぼし、イギリス領インドに編入していますこ。これらはいずれも、東南アジアに残された独立国に襲い掛かる帝国主義による侵略戦争そのものです。
仏印は、欧州戦局が大きく影響 開戦直前と戦争中の各地域の動きは次のようになっています。
仏印の援蔣ルートを通じて、蔣介石の国民政府への支援が行われていました。しかし、1940年6月、ドイツ軍の電撃戦でフランスが降伏し、ヴィシー政府がドイツと休戦したことにより状況は一変します。立川京一「戦時下仏印におけるフランスの対日協力--1940〜45年」を参考に、一連の経緯をまとめると次のようになります。
開戦後も、仏印における協力関係(静謐保持)は維持されます。 「要するに実力で仏印政権を排除した場合に予想されるコストからすれば、仏印進駐以後の日・仏印関係をそのまま維持することによって、資源を確保し、それを可能とするように治安を安定させることはきわめて合理的な選択であった」(赤木完爾、仏印武力処理をめぐる外交と軍事 :「自存自衛」と「大東亜解放」の間)ということです。 この赤木論文では、陸軍と外務省の対立を次のように説明しています。田中智学の提唱した「八紘一宇」は侵略戦争を「聖戦」化するスローガンとなっていましたが(「大東亜戦争」と「八紘一宇」―近代からの撤退戦としての世界最終戦争論―)、外務省の方がそのような動きに、より積極的であったということでしょうか。
このような状況下で、1945年3月、日本軍は仏印軍の武装解除(明号作戦=仏印武力処理)を決行します。「日本側の参加兵力4万名弱に対し、仏印軍はフランス人と外人部隊が2万名、現地兵7万名の計9万名」だったということです(赤木完爾、仏印武力処理をめぐる外交と軍事 :「自存自衛」と「大東亜解放」の間)。一部で短期の激戦があったものの、作戦は大成功で終了しました。武装解除後、安南帝国、カンボジア王国、ルアンプラバン王国(ラオス)が独立を宣言します。 百田氏は、「日本は、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスと戦って、駆逐した」と述べています。最終的には、日本軍は仏印軍を武装解除していますが、その経緯は百田氏の理解とは少し異なっているようです。 歴史的事実との乖離、さらに フィリピンについての、百田氏の説明は、歴史的事実との乖離が、さらに明確になります。 百田氏は、「日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、彼らを駆逐した。戦後、アメリカはフィリピンを支配することはできず、フィリピンは独立を果たした」という内容の主張をしています。 一方、世界史の窓 ハイパー世界史用語集から、フィリピンの歴史の概略をまとめると次のようになります。
微妙な立場の蘭印 1940年6月、フランスがドイツに降伏したことは、東南アジアの状況にも大きな影響を与えます。 仏印は、本国政府と同調し、日本と軍事的経済的協力関係を結びます。現地軍が弱体であった上、タイと敵対関係にありました。イギリスにより経済封鎖もされていました。 一方、オランダ政府はロンドンに亡命しドイツと敵対していましたが、蘭印の現地政府は、日本に対しては中立の立場でした。その背景には、英米に軍事的支援を要請したにもかかわらず、いずれもが消極的であったという事情にあります(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油)。イギリスは英独間の空中戦の最中にあり、蘭印を支援する余力はありませんでした。アメリカは、この時期に大統領選挙を控えており,三選を狙うル一ズベルトはアメリカが参戦しないことを選挙公約に掲げていたため、対蘭印援助を約束する立場にはありませんでした。現実に蘭印がアメリカから軍事的支援の確約を得ることができたのは、支援要請からすでに1年以経過していた、開戦直前の1941年11月のことであったということです。つまり、日本側の主張するところのABCDラインなるもの(ニッポニカ 「ABCDライン」)が成立するのは、南部仏印進駐以降の開戦直前ということになります。つまり、ABCDラインに包囲されたため自衛のため戦わざるを得なかったという日本軍部の主張は虚構に過ぎません。 以上をまとめると次のようになります。
日本軍の蘭印への侵攻は1942年1月10日に始まり、3月1日にジャワ島の3カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏しています(世界史用語解説 インドネシア)。 次の地図(戦争と石油(1)〜太平洋戦争編〜)が示すように、蘭印の油田はスマトラ島及びボルネオ島に集中していて、日本軍は各地の油田の占領に2か月近くを費やしています。 ジャワ島には人口6000万のうち4000万が集中し、オランダ総督府がバタビア(現ジャカルタ)に置かれていましたから、ジャワ島が蘭印侵攻の主戦場になるはずでしたが、ジャワ島上陸から4日で、バタビアが陥落し、それから4日でオランダ軍が全面降伏しています。「連合軍捕虜は、蘭印軍66000人、オーストラリア軍5000人、英軍10000人、米軍900人だった」ということです(蘭印(オランダ領東インド)作戦)。蘭印軍も実戦では、あまり強くなかったと思われます。 「1939年の時点で、(兵員は)約7,000人がヨーロッパ人もしくはユーラシア人、14,000人がジャワ人、9,000人がアンボン人とメナド人であり、約3,000人の兵士がその他のインドネシア人であった」ということで、1941年の時点の人口は、オランダ人は32万人、インドネシア人は6500万人だったということです( 日本との対立抗争−オランダのディレンマ 1904〜1941年−)。蘭印軍の8割は現地兵が占めていましたから、日本軍はインドネシア人とも戦ったことになります。 マレー・シンガポール侵攻は、1941年12月3日に始まり、1942年2月15日、シンガポール守備部隊の降伏で終了します。各地で激戦はあったものの、英印軍は徹底抗戦はせず、撤退、降伏しています(マレー・シンガポール攻略戦)。ビルマ侵攻は、1942年1月末に始まり、5月18日に終了します。ビルマ防衛の英印軍のほか、中国軍も派遣されていました。英印軍は、一応は抵抗したものの、兵力温存のためインド領に撤退します(ビルマ作戦)。 フィリピン侵攻は、1941年12月21日に始まり、1942年5月7日に終了しています。米比軍は、非武装都市を宣言し、マニラを撤退したので、日本軍は1942年1月2日、マニラをほぼ無血で占領します。 マニラを撤退した米比軍は、マニラ湾対岸のバターン半島に陣を敷きます。 米比軍は、次の図(バターンの戦いとは ニコニコ大百科)にあるように、ナティブ山の東西を主戦場に定め、防衛線を構築します。 米比軍は、激しく抗戦するものの次第に後退し、半島の端まで追い詰められ、4月9日に降伏します。降伏した将兵は合計7万名、市民・婦女子も含めると10万名とされています。その将兵らをサンフェルナンド方面へ向け、炎天下を徒歩で移動させたのが、 バターン死の行進です。途中で1200名のアメリカ人将兵と、16000名のフィリピン人将兵が死亡したといわれています。戦闘は、バターン半島から2キロ沖のコレヒドール島の要塞が陥落したことにより、5月7日に終了します(フィリピン攻略戦)。 これが皇軍の聖戦の実態 旧日本軍の東南アジアでの、虐待や虐殺は、ざっと目に付くだけでも次のようなものがあります。被害者数は、推計によらざるを得ないので、ある程度の幅があります。特に、北部仏印の大量餓死については、現地の仏印政権が動揺していて、1945年3月には仏印武力処理で日本軍が軍政を敷き、インドシナ3国に傀儡政権が独立するという混乱期にあり、詳細な実態把握は困難だったようです。仏印当局と日本軍は、食糧危機に有効に対応できなかったのではないでしょうか。
|