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 日本国紀 
 百田尚樹/著(幻冬舎)2018/11/30

 2024/10

多くの事実誤認やコピペ疑惑
 出版元の幻冬舎では、本書を次のように説明しています(書籍詳細: 日本国紀)。
私たちは何者なのか――。
神話とともに誕生し、万世一系の天皇を中心に、
独自の発展を遂げてきた、私たちの国・日本。
本書は、2000年以上にわたる国民の歴史と
激動にみちた国家の変遷を「一本の線」でつないだ、
壮大なる叙事詩である!
当代一のストーリーテラーが
、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!
 しかし、本書は発売以来、数多くの事実誤認や、ウィキペディアからのコピペ疑惑が指摘されてきました(Wikiコピペ疑惑の百田尚樹『日本国紀』を真面目に検証してみた! 本質は安倍改憲を後押しするプロパガンダ本だ)。さらに、内容について「日本の帝国主義と侵略、戦争犯罪を否定ないしは美化し、歴史修正主義を全開にしている」と批判されています(百田尚樹が朝日新聞に「『日本国紀』の近現代史は批判されてない」 ならば百田が書いた近現代史の嘘と陰謀論を徹底批判!)。
 日本国紀が、ディスインフォメーションで溢れているという噂の絶えないウィキペディア情報(日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策)をつなぎ合わせたものだとするなら、「日本通史の決定版」とは、ほど遠いものといえそうです。

右翼・保守本流」からも批判
 批判は、リベラル左派からだけではなく、自らを右翼・保守本流と称する(“脱ネトウヨ”した古谷経衡さんに聞く ネトウヨの生態と、付き合い方)古谷経衡氏も、「本棚に所蔵しておくことが恥ずかしくなるぐらいの駄本」「この程度の水準にとどまる近代史の歴史認識は、……場合によっては高校生程度」と酷評しています(ネット右翼が『日本国紀』を絶賛するワケ)。
 古谷氏は、次のようにネット右翼の関心は、「神話・神代の時代」「大東亜戦争期」「戦後混乱期」の三つの時代・時期に集中しているとします。そして、三つの時代・時期に的を絞って書籍を刊行してきた出版業界にとっては、日本国紀という長いスパンでの俯瞰本は、「灯台下暗しともいえる成功事例であった」と述べています。


「退屈でつまらない」
 一方、古市憲寿氏が、新潮社のPR雑誌「波」で日本国紀を話題の書として取り上げたところ、百田尚樹氏がTwitterで次のように反論しています(リテラ>百田尚樹が古市憲寿の『日本国紀』評に「ウソ書くなボケ」と激怒! でもウソをついてるのは百田センセイのほうだった)。
 上記リテラの記事によると、古市氏は「波」で次のように述べているということです。この文章からは、「大東亜戦争は正義の戦争だった」というのが、「彼ら」の主張の内容を指すのか、「百田」の主張の内容を指すのか、判然とはしませんが、両者の内容が近いと言っていますから、「百田」もそのように主張しているという趣旨であると解されます。
〈当時流行した日本史の特徴は、読者に勇気を与えてくれるという点である。彼らはそれまでの日本史を「自虐史観」だと批判し、日本人は「誇り」を取り戻すべきだと訴えた。「大東亜戦争は正義の戦争だった」など、百田が『日本国紀』で主張する内容と近い。というか、「ネトウヨ」と呼ばれる人々の思想的原点のほとんどは、90年代の歴史認識論争にある。〉
 リテラの記事は、さらに次のようにも述べています。「日本国紀は教科書に似ている」「教科書は退屈でつまらない」ということからは「日本国紀は退屈でつまらない」ということになりそうです。

 ただし、古市が百田の『日本国紀』を暗に低く評価していることは伝わってくる。たとえば、例のWikipediaからの借用に触れて「日本ウィ紀」「日本コピペ紀」と揶揄されていることも紹介しているし、また、〈実は「教科書」に似ている〉〈多くの生徒は教科書に退屈でつまらないという感情を抱くだろう〉などとして〈『日本国紀』も同じで、実際に最後まで読めた人はほとんどいないと思う〉とも断じている。

 そうした点を考慮すると、ひょっとしたら、百田センセイは「大東亜戦争は正義の戦争だった」云々よりも、むしろ、アキレス腱である“コピペ問題”を持ち出されたり、「退屈でつまらない」と評されたことのほうに我慢ならなかったのかもしれない。そんな気さえしてくる。


「正義の戦争だった」とは言っていない  
 古市氏の論評と百田氏の反論のどちらが正しいのか、実際に日本国紀を読んでみました。結論としては、百田氏に分があると思われます。百田氏は、「(戦争の)主目的はインドネシアの石油施設の奪取」だったと明確に述べているからです。
 ネット右翼の関心は、「神話・神代の時代 」「大東亜戦争期」「戦後混乱期」の三つの時代・時期に集中しているということですが、日本国紀では、この三つの時代・時期の記述に、全体の4割ほどを割いています。「大東亜戦争期」は30ページ余りとあまり多くはないです。
 日米対立の原因となった日中戦争について、百田氏は、次のように述べています(375ページ)。戦争の原因は中国人のテロ行為にあり、日本は巻き込まれただけという主張です。
「支那事変」は確固たる目的がないままに行なわれた戦争であった。
 乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるという感じで戦闘行為に入ったものの、気が付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものだった。
 1940年6月の西部戦線でのドイツの大攻勢以降の日本の動きについて、次のように説明しています(380〜381ページ)。1939年8月の独ソ不可侵条約、1941年4月の日ソ中立条約による日独ソ連携が、松岡外交の対米対抗姿勢の前提にあったものの、1941年6月の独ソ開戦により、その戦略が破綻した訳ですが、そのことには触れていません。1940年9月の北部仏印進駐と、1941年7月の南部仏印進駐については、英米の中華民国支援や米国の対日経済制裁に対抗するため、やむを得ず行ったという立場です。
 ドイツの破竹の進撃を見た日本陸軍内にも、「バスに乗り遅れるな」との声が上がり、新聞もそれを支持した。そして同年九月、近衛文麿(ふみまろ)内閣は「日独伊三国同盟」を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた。 しかしこの同盟は、実質的には日本に大きなメリット はなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな同盟締結だったといわざる を得ない。
 もっともアメリカのルーズベルト民主党政権はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力を かけていた。前年の昭和一四年(一九三九)には、日米通商航海条約破棄を通告し、航空機用 ガソリン製造設備と技術の輸出を禁止していた。
 また、アメリカやイギリスは、日本と戦闘状態にあった中華民国を支援しており、「援蔣ルート」を使って軍需物資などを送り続けていた。「援蔣ルート」は四つあったが、最大のものは「仏印(フランス領インドシナ)ルート」と呼ばれるもので、ハノイと昆明を結んでいた。
 日本は仏印ルートの遮断を目的として、昭和一五年(一九四〇)、北部仏印(現在のベトナム北部)に軍を進出させた。これはフランスのヴィシー政権(昭和一五年【一九四〇】にドイツに降伏した後、中部フランスの町ヴィシーに成立させた政府)と条約を結んで行なったものだが、アメリカとイギリスは、ヴィシー政権はドイツの傀儡であり日本との条約は無効だと抗議した。しかし日本はそれを無視して駐留を続けた。
「援蔣ルート」をつぶされたアメリカは、日本への敵意をあらわにし、昭和一五年(一九四○)、特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、さらに航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止する。
 アメリカから「対日経済制裁」の宣告を受けた日本は、石油が禁輸された場合を考え、オランダ領インドネシアの油田権益の獲得を目論んだ。当時、オランダ本国はドイツに占領されていたが、インドネシアはロンドンのオランダ亡命政府の統治下にあった。
 翌昭和一六年(一九四一)、日本軍はさらに南部仏印(現在のベトナム南部)へと進出した。アメリカのルーズベルト政権はこれを対米戦争の準備行動と見做し、日本の在米資産凍結令を実施した。イギリスとオランダもこれに倣った。そして同年八月、アメリカはついに日本への石油輸出を全面的に禁止したのである。
 さらに、開戦に至る経緯を次のように説明しています(382〜383ページ)。日本は必死で戦争回避の道を探るものの、ルーズベルト大統領は、日本から戦争を仕掛けさせるために、石油を全面禁輪したということですから、日米開戦はルーズベルトの陰謀によるものであったことになります。「ルーズベルト大統領は真珠湾をおとりにして日本の攻撃を故意に許した」というルーズベルト陰謀論がありますが(須藤 真志「真珠湾<奇襲>論争」)、この百田説は、その拡大版とでもいえそうです。
 この時、日本の石油備蓄は約半年分だったといわれている。つまり半年後に日本は軍艦も飛行機も満足に動かせない状況に陥るということだった。もちろん国民生活も成り立たなくなる。まさに国家と国民の死活問題であった。
 日本は必死で戦争回避の道を探るが、ルーズベルト政権には妥協するつもりはなかった。それどころかルーズベルト政権は日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたと指摘する歴史家もいる。
 アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としないが、大正一〇〜一一年(一九二一〜一九二二)のワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられる。それを見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りだけの平和を謳った「四ヵ国条約」を締結してよしとした日本政府の行動は、国際感覚が欠如しているとしかいいようがない。
 それから約二十年後の昭和一四年(一九三九)には、アメリカははっきりと日米開戦を考えていたといえる。ただルーズベルト大統領は、第二次世界大戦が始まっていた昭和一五年(一九四〇)の大統領選(慣例を破っての三期目の選挙)で、「自分が選ばれれば、外国との戦争はしない」という公約を掲げて当選していただけに、自分から戦争を始めるわけにはいかなかった。彼は「日本から戦争を仕掛けさせる方法」を探っていたはずで、日本への石油の全面禁輪はそのための策であったろう。
 著者は「大東亜戦争」という名称へのこだわりを次のように説明しています(389ページ)。百田氏は日本が閣議決定したものだからという以外に特別な意味は認めていないようです。そして、戦争の主目的は石油資源の確保だったと述べています。
 開戦四日後の昭和一六年(一九四一)十二月十二日、日本はこの戦争を「大東亜戦争」と名付けると閣議決定した。したがって、この戦争の正式名称は「大東亜戦争」である。現代、一般に使われている「太平洋戦争」という名称は、実は戦後に占領軍が強制したものだ。
「大東亜戦争」は前述したように緒戦は日本軍の連戦連勝だった。開戦と同時にアメリカの真珠湾とフィリピンのクラーク基地を叩き、三日目にはイギリスの東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという二隻の戦艦を航空攻撃で沈めた。さらに難攻不落といわれていたイギリスのシンガポール要塞を陥落させた。
 そしてこの戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功した。
 この閣議決定の発表については、日本共産党のサイトに、次のような説明があります(「支那(シナ)事変」と呼んだのはなぜ?)。閣議決定によれば、「大東亜戦争=日米英戦争+支那事変」となるようです。情報局の補足の意図は良く分かりません。「大東亜新秩序建設を目的とする」ということを強調するつもりなのか、日米英戦争がなぜ大東亜に含まれるのかを説明つもりなのか判然としません。政府と軍部の意思統一が十分なされていなかったようです。
 大東亜戦争という呼称は、41年(昭和16年)12月12日の閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」で、「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と、「大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」(同日の情報局発表)に基づきます。
 百田氏は、ルーズベルトの陰謀により日本は開戦に追い込まれたと主張していますから、「大東亜新秩序建設=アジア解放のための正義の戦争」という主張とは相容れないのです。日本が積極的に正義の戦争に突き進んだのであれば、ルーズベルトの陰謀があろうとなかろうと関係はないことになってしまうからです。
 したがって、「私がいつそんな主張をした!そんなこと、どこにも書いてない!」という百田氏の反論の方に分があると思うのです。
 なお、古谷経衡氏は、ネット右翼が『日本国紀』を絶賛するワケで、ネット右翼は聖戦説を好むと指摘していますが、百田氏が聖戦説を主張しているとは述べていません。

軍部では「自存自衛」論が多数派
 ところで、戦争目的については、次のように軍部では「自存自衛」論が多数だったようです(読売新聞検証戦争責任)。百田氏の論理は、この主張に近いようです。
 海軍では戦争目的を「自存自衛」とする意見が強かった。米国の石油禁輸措置で、「油が切れ、やむにやまれず立ち上がる」というのだった。
 陸軍でも、「自存自衛」論が多かった。ただ、東条首相兼陸相は、国策の立案過程で説明を受けるたび、「大東亜共栄圏が基本だからね」とクギをさしていた。佐藤賢了(さとうけんりょう)陸軍省軍務局軍務課長も一貫して、「大東亜共栄圏」を主張し続け、自存自衛論には耳を傾けなかった。
 日本陸海軍と南進を参考に、1930年代後半から1940年代にかけての政府、陸軍、海軍の対外戦略をまとめると次のようになります。政府は日独ソの連携で英米に対抗しようとしたのに対し、陸軍は徹頭徹尾、ソ連を仮想敵国と見ていたということです。しかし、日中戦争で手こずってしまい、援蒋ルートを断つために南方侵攻も視野に入れるようになります。ただし、その場合も米国は参戦しないであろうと楽観していました。一方、海軍は陸軍との対抗上、南方侵攻を唱えますが、本音では米国に勝てないと見ていました。また、英国軍を攻撃すれば、米国が参戦するであろうと見ていました。
政府 大東亜共栄圏を視野に入れ、日独伊三国同盟(1940年9月)で英米を牽制、ソ連を同盟に引き込むことも画策
陸軍 北主南従、基本戦略は対ソ戦、当面は日中戦争を早期に解決。南方は、米と英蘭は可分で、英・蘭との限定戦争は可能
海軍 北守南進、長期的な戦略は対英米戦争、ただし対米戦には自信が持てない。英米は不可分で、限定的な対英戦は考えられない
 大東亜共栄圏という言葉は、1940年8月、近衛文麿内閣の松岡洋右外相が公表しました。近衛内閣では、大東亜新秩序の建設をうたっていましたが、大東亜共栄圏はそれと同じ意味のキャッチフレーズです(大東亜共栄圏)。東亜新秩序は、日本書紀に記された神武天皇の建国精神(八紘一宇)を海外にまで拡大し、中国と満洲の支配を正当化する主張ですが、大東亜新秩序は、それを東南アジアに拡大するものです。
  日本陸海軍と南進では、 「自衛」と「自存」の違いを次のように説明しています。 「自衛」は、援将ルート遮断と英国に対する安全保障上の要請なので、主な進出対象は仏領インドシナとなります。「自存」は、石油などの資源確保をめざすので、進出対象は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)となります。
 陸軍の仮想敵国は徹頭徹尾ソ連であったが、1937年からの日中戦争をひとまず解決しなければならず、対ソ戦についてはその時期を延期せざるを得なかった。
 さらに日中戦争に決着をつけるためには、仏印・ビルマからの援将ルートを遮断することが必須であったため、1940年の欧州戦争の激化に伴い、「好機南進」の方針が出てくるのは必然の帰結であったといえる。しかし一口に南進と言っても、日本にとっての仏印・泰の確保はあくまでも「自衛」のためであり、同地域への進出は援将ルート遮断と英国に対する安全保障上の要請から生じるものであった。それに対して蘭印は、「自存」の地域であり、これは蘭印が日本の資源供給源となるという構想から生じていた。このように1941年まで少なくとも計画のレベルにおいては、南進問題は「自衛」と「自存」の観点から考慮されていたのである。1940年6月頃には、陸軍省軍事課で「南方問題解決構想」が起案され、そこでは英米可分、そして蘭印分離案が提示されている。
 しかし日本にとっての優先的な問題は、日中戦争の早期解決であったため、蘭印への「自存」の対策は外交的に解決することが優先された。1940年7月30日に近衛首相は小磯国昭大将に対して蘭印対策の検討を依頼しており、それは「対蘭印施策要綱」として纏められる。ここでも蘭印を大東亜共栄圏に組み込むことが提唱されているが、それはあくまでも外交的手段によるとされていた。また米国に対しては日米による蘭印の共同資源開発を提案する、という方針であった。

日中戦争は膠着状態に
 そもそも、「援将ルート遮断」という「自衛」がなぜ必要になったのでしょうか。
 満州事変後、日本軍(関東軍・支那駐屯軍)は、中国の河北省など華北一帯を、中華民国政府から分離独立させ、日本の支配下に置こうと華北分離工作を活発化しますが、蒋介石は、国共内戦を優先し、日本軍に譲歩を重ねたため、国内に不満が高まります。そして、張学良が蔣介石を監禁し、国共内戦の停止を迫り、合意させるという西安事件が起こります。
 華北分離工作/世界史の窓を参考に一連の経緯をまとめると次のようになります。
1931/9  満州事変 
1933/2  熱河侵攻:関東軍は山海関を占領し、一部は万里の長城を越えて中国本土に入 
1933/5  塘沽(タンク)停戦協定:事実上、中国は満州国を認め、関東軍は河北省東部の非武装地帯から撤退 
1935/6  梅津・何応欽協定:中国軍は河北省から撤退、すべての抗日運動は禁止 
1935/11 河北省東部に、冀東防共自治政府を樹立、実態は日本軍の傀儡政権 
1936/12 西安事件:張学良が蔣介石を監禁し、国共内戦の停止を迫り、合意させる

 1937年7月7日に盧溝橋で発砲事件が起き、日本と中国は全面的戦争に突入します。蔣介石は、ドイツ軍の軍事顧問により組織・訓練された最精鋭部隊を投入して、上海で決戦に挑みますが敗退し、首都を重慶に移転し長期持久戦略へ移行します。そして、英米仏ソの軍需物資支援ルート(援将ルート)が、持久戦の生命線となります。
 中国の地形は次のようになっています(中国コンサルタントサービスセンター>中国の地形)。重慶のある四川盆地(赤楕円)は山に囲まれた自然の要塞となっています。

 現在の中国の人口分布は次のようになっています(中国人口空?分布公里网格数据集)。華北と華中の平野部と四川盆地に人口が集中しています。

 日中戦争の戦線は次のように拡大しています(日本の侵略戦争■第2回■ 中国全面侵略への拡大)。援蔣ルートが本格始動するのは、武漢三鎮が陥落し、国民政府が重慶に完全移転した1938年11月からですが、この時期以降は戦線はあまり拡大していません。「四川は、広大で急峻な山岳地帯によって中原と分断されており、大規模な軍事活動による攻略は困難であり、さらに武漢から重慶は直線 700km もの距離」があり「長大な兵站を支えつつ、山々を踏破して重慶を攻略するということは日本軍にとって容易でないことは明らか」です。一方、「軍事力で劣る蔣介石・国民党が日本に対して採れる方策は、遊撃戦と外交的方策によるしかなく」、日中ともに軍事的に決着をつけることができない膠着状態となっていました(日中戦争における蒋介石の戦略形成と重心移行)。

 太平洋戦争開戦後の華南での戦線拡大は大陸打通作戦によるものです。大陸打通作戦は、1944年4月から1945年2月にかけて、北京から華南までの鉄道沿線を作戦範囲とし延べ2400キロメートルにわたり、日本陸軍史上最大規模の50万人以上を動員して実施されました。(大陸打通作戦)。「中国奥地の米空軍基地を攻略して、B29爆撃機による本土空襲を防ぐこと」が主な目的でしたが、「B29はすでにマリアナ基地に移って、日本全土に対する空襲が始まっており、大軍を動かしたことの戦略的意義はすでに失われていた」ということです。
 作戦は、次の図(別所弥八郎とアジア・太平洋戦争末期の「報道写真」――大陸打通作戦従軍関連写真を中心に――)のように進行しました。

 日中戦争は勃発から3年経っても決着がつかず泥沼化していましたが、1940年5月に、ドイツが西部戦線への侵攻を始めたことが転機となります。これを機会に、日本軍は援将ルート遮断へ軍事圧力を強めますが、その結果、日米対立が激化します。結局、日本の真珠湾攻撃で開戦し、日米戦争は3年半以上に及び、日本の敗戦で幕を閉じます。その後、中国では、国共内戦の末、共産党が勝利し、蒋介石は台湾に逃れます。
 日中戦争における蒋介石の戦略形成と重心移行を参考に、日米開戦までの日中戦争の経緯をまとめると次のようになります。
1937/7/7 盧溝橋で発砲事件 
1937/7/12 現地では停戦に合意、しかし双方が部隊を増強し武力衝突が再燃 
1937/7/28 北平(北京)が陥落。蔣介石は民衆に抗戦を呼びかけ 
1937/8/12 上海で5,000名に満たない日本海軍特別陸戦隊を50,000名の中国軍が包囲し、戦闘開始。中国は増派を続け、総兵力は30万に 
1937/8/23 日本から上海派遣軍2個師団が上陸、一進一退の戦いとなる。最終的兵力は中国軍50万余、日本軍20万余に。9月になると、中国軍は敗勢に 
1937/9/22 蔣介石が国共合作を了承 
1937/11/12 上海戦が終結 
1937/11/20 蒋介石は、長期持久戦(消耗戦)への転換を視野に入れ、首都の重慶への移転計画を公表、漢口にほとんどの政府機能を移転させる
1937/12/13 南京陥落 
1938/1/16  近衛内閣が第一次声明「爾後、国民党を対手とせず」、蒋介石は講和を断念し、不戦不和に基づく徹底抗戦へ舵を切る 
1938/5/19  徐州陥落 
1938/6/9  蒋介石は漢口の各機関に重慶への移転を命じる。このころまでに4か所の援将ルート整備の目途が立つ 
1938/10/24 武漢三鎮は陥落、日本側の死傷者は20万人、中国側の死傷者40万人以上。蒋介石は中原以東の主要な近代都市を失う。各地に日本の傀儡政権が次々に樹立され、形の上では国民党は一地方政党へと転落した 
1939/9/1  ドイツがポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告 
1939/10/27 アメリカの中立法の改正、戦争当事国に対する軍需品輸出が解禁、中国への武器供与も可能となる 
1940/5〜6  ドイツが西部戦線に侵攻開始、フランスを占領、英本土を空襲。これを機会に日本軍は援将ルート遮断へ動き出す
1940/7/17  日英がビルマ・ルートの輸送停止を協定 
1940/7/23  仏印ルートの遮断のため日本軍が北部仏印に進駐 
1940/7/26  米国が石油、屑鉄輸出許可制法案を可決し、日本に圧力 
1940/9/27  日独伊三国同盟を締結、新たな国(米国を想定)が参戦するのを牽制するのが目的。日本が、「脅威」から「敵国」へと変化 
1940/10  ビルマ・ルートがアメリカにより再開 
1941/4/13  日ソ中立条約締結 
1941/7/28  日本軍がオランダ領インドシナ(現在のインドネシア)の石油資源を狙って、南部仏印へ進駐。英米陣営はその報復として「石油の対日禁輸」及び「日本の資産凍結」を決定 
1941/12/8 日本軍が真珠湾を攻撃、英米蘭と開戦 

 南部仏印侵攻以降、日本軍は次々と援蒋ルート遮断します。戦争と石油(1)〜太平洋戦争編〜では、その経緯を次のように説明しています。1940年9月の北部仏印進駐で、仏印ルートが遮断されたことにより、援蒋ルート全体の輸送量は半減し、1942年5月のビルマ制圧でほぼ全滅します。
 何故、日本が仏印進駐を行ったかと言えば、昭和12年7月の日華事変開始から既に4年目に入り、泥沼化の様相を示していた中国との戦争状態の解決、すなわち中国を降伏させる促進手段として、仏印(現ベトナム・カンボジア・ラオス)経由での「援蒋」戦略物資の輸送を阻止することを求めたのである。「援助ルートを断ち切れば中国の抗戦能力が低下し、日本に降伏する」と、当時の陸軍は考えた。
 中国国民党(蒋介石総統)に支援物資を送る援蒋ルートは昭和15年時点で@仏印ルート(輸送量:月1.5万トン)、A香港ルート(輸送量:月6,000トン)、Bインド経由のビルマルート(輸送量:月1万トン)、Cソ連経由の北方ルート(輸送量:月500トン)があったが、援助物資を海上輸送によりベトナムのハイフォンに陸揚げ後、ハノイ経由で中国の昆明、南寧へ通じる仏印ルートが最大であった。@〜Bの援蒋ルートは仏印進攻、開戦時の日本軍の香港攻略、日本軍のビルマ進駐により封鎖されることになる。
 しかし、その後はインドからの空輸で、アメリカの支援物資を運び、1944年春には、インドと雲南省を結ぶ道路も建設され、援蒋ルートは継続します(日中戦争 > 小さな町の小さな橋の大役)。援蒋ルートを通じた支援物資搬入は一時途絶えたことになりますが、対英米戦争が始まり、日本軍には重慶を攻略する余裕はなくなっていたと思われます。

戦争ではないから侵略ではない?
 百田氏は、「東南アジア諸国への侵略戦争だった」という主張に対し、次のように反論しています(391〜392ページ)。
 「大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった」と言う人がいるが、これは誤りである。
 日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスである。日本はこれらの植民地を支配していた四ヵ国と戦って、彼らを駆逐したのである。
 日本が「大東亜共栄圏」という理想を抱いていたのはたしかである。「大東亜共栄圏」とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満洲、ベトナム、タイマレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策だった。昭和一八年(一九四三)には東京で、中華民国、満洲国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて「大東亜会議」を開いている。実際に昭和一八年(一九四三)八月一日にビルマを、十月十四日にフィリピンの独立を承認している(ただし、アメリカとイギリスは認めなかった)。
 残念ながら日本の敗戦により、「大東亜共栄圏」が実現されることはなかったが、戦後、アメリカやイギリスなど旧宗主国は再びアジアの国々を支配することはできず、アジア諸国の多くが独立を果たした。この世界史上における画期的な事実を踏まえることなく、短絡的に「日本はアジアを侵略した」というのは空虚である。
 なるほど、戦争を「国家間の武力衝突」と限定してとらえるなら、「侵略戦争」はなかったということになります。しかし、旧日本軍による、東南アジア各地の民衆に対する経済的搾取、思想統制、抗日運動に対する武力弾圧は侵略そのものです(太平洋戦争と東南アジア民族独立運動)。戦争でなかったのだから侵略はなかったというのは詭弁にすぎません。
 百田氏は、ルーズベルトの陰謀により日本は開戦に追い込まれたという立場ですが、大東亜共栄圏構想については「理想」と肯定的にとらえています。

東南アジアは、次々と植民地に
 大戦前の東南アジアの植民地の分布は次とおりです(東南アジア植民地化の特色 | 世界の歴史まっぷ)。

 タイ以外の東南アジア各国は、いずれも欧米諸国の植民地でしたが、歴史的経緯や支配体制はそれぞれ異なります。
 フィリピンとオランダ領東インドとイギリス領マラヤは、16、17世紀以来の植民地の歴史があります。ただし、フィリピンはアメリカ支配のもとで独立が約束されていたのに対し、資源に恵まれたオランダ領東インドでは独立運動は厳しく弾圧されていました。イギリス領マラヤは、海峡植民地(直轄)とマレー連合州(保護国)により構成されていました。
 一方、フランス領インドシナとビルマの植民地が完成するのは19世紀後半になってからです。フランスは、ベトナムの阮朝を征服し、カンボジアとラオスに領土を拡大しています。イギリスも、3度の戦争でビルマのコンバウン朝を滅ぼし、イギリス領インドに編入していますこ。これらはいずれも、東南アジアに残された独立国に襲い掛かる帝国主義による侵略戦争そのものです。  
フランス領インドシナ連邦(仏印)
1858年のインドシナ出兵以後、次々と範囲を拡大し、1899年のラオス編入で完成します。連邦は、ベトナム南部の直轄領と各地の保護国、名目上の阮朝で構成されていました(世界史の窓 フランス領インドシナ連邦)。
フィリピン
16世紀以来スペインの植民地でしたが、1898年の米西戦争後、2000万ドルでアメリカに譲渡されました。アギナルドは独立を求め抵抗しましたが鎮圧されました。その後も独立を求める動きは続き、アメリカは1934年に10年後の独立を認め、フィリピン独立準備政府が成立しました(世界史の窓 フィリピン
ビルマ
11世紀以来、ビルマ人の王朝が興亡を繰り返していましたが、19世紀後半、コンバウン朝が、3次にわたる対英戦争に破れ滅亡し、1886年イギリス領インドに編入されました。独立を目指すアウンサンらは日本に亡命、軍事訓練を受け、ビルマ独立軍の母体となりました(世界史の窓 ビルマ/ミャンマー
イギリス領マラヤ
この地域にあったマラッカ王国は、15世紀に中継貿易で繫栄していました。この地域との通商によって琉球王国の南蛮貿易も最盛期を迎えていました。しかし、16世紀になると、ポルトガルがこの地域を支配し、南蛮貿易を独占します。その後、支配者は、オランダ、イギリスへと変遷します。19世紀になって形成されたイギリス領マラヤは、海峡植民地(直轄)とマレー連合州(保護国)と非連合州により構成されていました。海峡植民地は海上交通の要衝で、マレー連合州は、ゴムとスズの産地です(世界史の窓 マラッカ王国/マラッカ5分でわかる!イギリスが東南アジアを植民地化するわけは?世界史の窓 イギリス領マラヤマレー連合州
オランダ領東インド(蘭印)
1602年のオランダ東インド会社設立から始まります。東インド会社は香辛料貿易を目的としていました。1799年の東インド会社解散後、プランテーション経営が始まり、その後、主力産品はゴムやスズに移行し、石油も産出するようになります(世界史の窓 オランダ領東インド

仏印は、欧州戦局が大きく影響
 開戦直前と戦争中の各地域の動きは次のようになっています。
仏印 1940年6月、電撃戦、独仏休戦
1940年8月、松岡=アンリー協定「静謐保持」(日本陸軍の仏印駐留に係る諸問題
1940年9月、北部仏印進駐
 タイと仏印が国境紛争、日本の仲介で解決
1941年7月、南部仏印進駐
1944年8月、パリ解放、ヴィシー政府消滅
1944〜45年、ベトナム北部で大量の餓死
1945年3月、明号作戦(仏印武力処理)
フィリピン 1941年12月、日本軍侵攻
1942年4月、バターン半島のアメリカ・フィリピン軍が降伏、バターン死の行進
1945年2〜3月、マニラ市街戦で日本軍による集団殺害・戦争犯罪頻発(フィリピンで日本軍は何をしたのか?
ビルマ 1942年5月までには日本軍が全土を制圧
1943年、東条内閣は独立を認めたが、アウンサンらは名目上の独立に反発、1945年3月から抗日武装闘争を開始
マラヤ 1941年12月、マレー沖海戦でプリンスオプウェールズとレパルス撃沈
1942年2月、シンガポール陥落、華僑を虐殺
蘭印 1940年5月、ドイツ軍の侵攻により、本国政府はロンドンに亡命
1940年9月、日独伊三国同盟により、日本は敵対国ドイツの同盟国となる。ただし、11月までの日本との交渉で、135万5,500トンの石油輸出を約束する(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油
1941年7月、対日制裁措置として輸出許可制を実施する旨を発表、ただし石油は輸出禁止品目から除外
1942年1月11日に侵攻開始、3月9日にはオランダ軍が降伏
 仏印については、欧州の戦局の変化が大きく影響します。
 仏印の援蔣ルートを通じて、蔣介石の国民政府への支援が行われていました。しかし、1940年6月、ドイツ軍の電撃戦でフランスが降伏し、ヴィシー政府がドイツと休戦したことにより状況は一変します。立川京一「戦時下仏印におけるフランスの対日協力--1940〜45年」を参考に、一連の経緯をまとめると次のようになります。
 フランスの植民地ほぼすべてはド=ゴールの自由フランスに付きますが、唯一フランス領インドシナだけがヴィシー政府に忠誠を誓いました。そして、日本の要求にしたがい、援蔣物資輸送の完全停止と、国境監視団の受け入れを決定します。
 1940年8月末に、松岡=アンリー協定が結ばれ、@相互利益尊重A日本軍の仏印進駐を認め、可能な限り便宜供与を行うB経済関係の緊密化、が約束されます。
 9月には、日本軍は北部仏印に進駐し、その際結ばれた協定により使用が認められた飛行場から、援蔣ルートの爆撃を行います。
 日本軍の北部仏印進駐と前後して、タイと仏印で国境紛争が激化し、陸上ではタイが優位でしたが、海戦でフランスが起死回生の1勝を挙げ、日本の仲介で調停が成立します。
 松岡=アンリー協定では、経済関係の緊密化が約束されていますが、その背景にはイギリスによる経済封鎖がありました。独仏休戦後、イギリスはフランス本国と仏印の間を海上封鎖し、仏印と周辺のイギリス植民地との貿易も禁じたため、日本以外に大量貿易相手はなくなりました。
 1941年7月、南部仏印進駐が実施され、その際結ばれた協定により、日本軍は仏印全土に部隊を展開できるようになり、サイゴン、プノンペンの飛行場やサイゴン港を使用できるようになります。
 北部仏印進駐で、援蔣ルートの爆撃が可能となりました。しかし、2000キロ離れたマレーの英軍基地への爆撃は困難です。一方、南部仏印からは1000キロしか離れていないので爆撃が可能となります。実際に、加藤隼戦闘隊や海軍航空部隊は南部仏印の基地から出撃し、先制攻撃で大きな成果を挙げています。そのため、南部仏印進駐の動きに対して、ルーズベルト大統領は石油輸出禁止で対抗すると強く警告していました。しかし、日本軍部は、それを単なる脅しと楽観していたようです。
 開戦後も、仏印における協力関係(静謐保持)は維持されます。
 「要するに実力で仏印政権を排除した場合に予想されるコストからすれば、仏印進駐以後の日・仏印関係をそのまま維持することによって、資源を確保し、それを可能とするように治安を安定させることはきわめて合理的な選択であった」(赤木完爾、仏印武力処理をめぐる外交と軍事 :「自存自衛」と「大東亜解放」の間)ということです。
 この赤木論文では、陸軍と外務省の対立を次のように説明しています。田中智学の提唱した「八紘一宇」は侵略戦争を「聖戦」化するスローガンとなっていましたが(「大東亜戦争」と「八紘一宇」―近代からの撤退戦としての世界最終戦争論―)、外務省の方がそのような動きに、より積極的であったということでしょうか。
陸軍 戦争目的は自存自衛
「今次戦争は白人対有色人種間の民族戦争ではない」「米英が企図している人種闘争の形態に導かないことが肝要」→独・英米和平が成立すれば、白色人種による日本包囲の悪夢となる
大東亜新秩序建設の主張は戦争終末の妨げとなる
外務省 戦争目的は大東亜解放に重点
フランス植民地の存在は明らかに矛盾
ただし、ヴィシー政権との協定がある以上、「静謐保持」を認めざるを得ない
 1943年頃から枢軸側は劣勢となり、9月にはイタリアが無条件降伏します。1944年8月、パリ解放によりヴィシー政府は消滅します。仏印でも自由フランス系の活動が活発となり、日本軍と仏印政府との間に不協和音が目立つようになります。1945年1月、アメリカ軍はマニラに総攻撃を加え、日本陸軍は2月にマニラを撤退します。
 このような状況下で、1945年3月、日本軍は仏印軍の武装解除(明号作戦=仏印武力処理)を決行します。「日本側の参加兵力4万名弱に対し、仏印軍はフランス人と外人部隊が2万名、現地兵7万名の計9万名」だったということです(赤木完爾、仏印武力処理をめぐる外交と軍事 :「自存自衛」と「大東亜解放」の間)。一部で短期の激戦があったものの、作戦は大成功で終了しました。武装解除後、安南帝国、カンボジア王国、ルアンプラバン王国(ラオス)が独立を宣言します。
 百田氏は、「日本は、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスと戦って、駆逐した」と述べています。最終的には、日本軍は仏印軍を武装解除していますが、その経緯は百田氏の理解とは少し異なっているようです。

歴史的事実との乖離、さらに
 フィリピンについての、百田氏の説明は、歴史的事実との乖離が、さらに明確になります。
 百田氏は、「日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、彼らを駆逐した。戦後、アメリカはフィリピンを支配することはできず、フィリピンは独立を果たした」という内容の主張をしています。
 一方、世界史の窓 ハイパー世界史用語集から、フィリピンの歴史の概略をまとめると次のようになります。
 フィリピンは、16世紀以来スペインの植民地でしたが、19世紀後半から独立運動が活発になります。1898年米西戦争が起きると、アメリカはフィリピン独立運動を支援します。しかし、アメリカは米西戦争に勝利し、フィリピンを獲得したものの、独立を認めなかったため、フィリピン=アメリカ戦争(1899〜1902)が起こります。この戦争では、アメリカ軍による残虐行為が行われたということです。
 アメリカによる統治が本格化した後も、民衆の抵抗は続き、1934年のフィリピン独立法で、1946年7月の独立が約束され、1935年にはフィリピン独立準備政府が発足します。
 1941年12月8日、真珠湾攻撃の10時間後、日本軍の爆撃機が米軍基地を爆撃、フィリピン侵攻開始。日本陸軍は、1942年1月2日、無防備都市宣言がなされていたマニラを占領します。日本軍と米軍・フィリピン軍の主な戦場となったのは、バターン半島とコレヒドール島で、戦闘は5月まで続きました。この間、バターン死の行進が起きました。
 日本軍はマニラを占領すると直ちに軍政を始め、1943年10月、対米戦争への参戦を条件に、ラウレルを大統領とする共和制政府が樹立されました。アメリカ軍は、1945年1月にフィリピンに上陸。日本軍は2月、マニラから撤退しますが、その際に10万人のマニラ市民が殺害されたということです(フィリピンで日本軍は何をしたのか?)。
 1945年8月、親日政権は崩壊し、1946年7月、戦前からの約束に基づき、フィリピンは共和国として正式に独立しました。
 以上のように、フィリピンは1946年7月の独立が約束されていて、フィリピン軍はアメリカ軍と共に、日本軍と戦っています。戦後、約束に基づき、フィリピンは独立をしています。

微妙な立場の蘭印
 1940年6月、フランスがドイツに降伏したことは、東南アジアの状況にも大きな影響を与えます。
 仏印は、本国政府と同調し、日本と軍事的経済的協力関係を結びます。現地軍が弱体であった上、タイと敵対関係にありました。イギリスにより経済封鎖もされていました。
 一方、オランダ政府はロンドンに亡命しドイツと敵対していましたが、蘭印の現地政府は、日本に対しては中立の立場でした。その背景には、英米に軍事的支援を要請したにもかかわらず、いずれもが消極的であったという事情にあります(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油)。イギリスは英独間の空中戦の最中にあり、蘭印を支援する余力はありませんでした。アメリカは、この時期に大統領選挙を控えており,三選を狙うル一ズベルトはアメリカが参戦しないことを選挙公約に掲げていたため、対蘭印援助を約束する立場にはありませんでした。現実に蘭印がアメリカから軍事的支援の確約を得ることができたのは、支援要請からすでに1年以経過していた、開戦直前の1941年11月のことであったということです。つまり、日本側の主張するところのABCDラインなるもの(ニッポニカ 「ABCDライン」)が成立するのは、南部仏印進駐以降の開戦直前ということになります。つまり、ABCDラインに包囲されたため自衛のため戦わざるを得なかったという日本軍部の主張は虚構に過ぎません。
 以上をまとめると次のようになります。
本国政府 軍事力 対日
仏印 フランス:降伏、ドイツに従属 弱:タイと交戦 協力関係
蘭印 オランダ:ロンドンに亡命 弱? 中立
フィリピン 米国:中立 中:非戦が公約 経済制裁
マラヤ
ビルマ
英国:ドイツと交戦 中:本国が重点 経済制裁
 仏印のフランス軍は、タイとの国境争いに苦戦していますし(立川京一「戦時下仏印におけるフランスの対日協力--1940〜45年」)、日本軍による仏印武力処理は、あっけなく終了していますから(日本陸軍の仏印駐留に係る諸問題)、あまり強くなかったと思われます。
 日本軍の蘭印への侵攻は1942年1月10日に始まり、3月1日にジャワ島の3カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏しています(世界史用語解説 インドネシア)。
 次の地図(戦争と石油(1)〜太平洋戦争編〜)が示すように、蘭印の油田はスマトラ島及びボルネオ島に集中していて、日本軍は各地の油田の占領に2か月近くを費やしています。

 ジャワ島には人口6000万のうち4000万が集中し、オランダ総督府がバタビア(現ジャカルタ)に置かれていましたから、ジャワ島が蘭印侵攻の主戦場になるはずでしたが、ジャワ島上陸から4日で、バタビアが陥落し、それから4日でオランダ軍が全面降伏しています。「連合軍捕虜は、蘭印軍66000人、オーストラリア軍5000人、英軍10000人、米軍900人だった」ということです(蘭印(オランダ領東インド)作戦)。蘭印軍も実戦では、あまり強くなかったと思われます。
 「1939年の時点で、(兵員は)約7,000人がヨーロッパ人もしくはユーラシア人、14,000人がジャワ人、9,000人がアンボン人とメナド人であり、約3,000人の兵士がその他のインドネシア人であった」ということで、1941年の時点の人口は、オランダ人は32万人、インドネシア人は6500万人だったということです( 日本との対立抗争−オランダのディレンマ 1904〜1941年−)。蘭印軍の8割は現地兵が占めていましたから、日本軍はインドネシア人とも戦ったことになります。
 マレー・シンガポール侵攻は、1941年12月3日に始まり、1942年2月15日、シンガポール守備部隊の降伏で終了します。各地で激戦はあったものの、英印軍は徹底抗戦はせず、撤退、降伏しています(マレー・シンガポール攻略戦)。ビルマ侵攻は、1942年1月末に始まり、5月18日に終了します。ビルマ防衛の英印軍のほか、中国軍も派遣されていました。英印軍は、一応は抵抗したものの、兵力温存のためインド領に撤退します(ビルマ作戦)。
 フィリピン侵攻は、1941年12月21日に始まり、1942年5月7日に終了しています。米比軍は、非武装都市を宣言し、マニラを撤退したので、日本軍は1942年1月2日、マニラをほぼ無血で占領します。
 マニラを撤退した米比軍は、マニラ湾対岸のバターン半島に陣を敷きます。

 米比軍は、次の図(バターンの戦いとは ニコニコ大百科)にあるように、ナティブ山の東西を主戦場に定め、防衛線を構築します。

 米比軍は、激しく抗戦するものの次第に後退し、半島の端まで追い詰められ、4月9日に降伏します。降伏した将兵は合計7万名、市民・婦女子も含めると10万名とされています。その将兵らをサンフェルナンド方面へ向け、炎天下を徒歩で移動させたのが、 バターン死の行進です。途中で1200名のアメリカ人将兵と、16000名のフィリピン人将兵が死亡したといわれています。戦闘は、バターン半島から2キロ沖のコレヒドール島の要塞が陥落したことにより、5月7日に終了します(フィリピン攻略戦)。

これが皇軍の聖戦の実態
 旧日本軍の東南アジアでの、虐待や虐殺は、ざっと目に付くだけでも次のようなものがあります。被害者数は、推計によらざるを得ないので、ある程度の幅があります。特に、北部仏印の大量餓死については、現地の仏印政権が動揺していて、1945年3月には仏印武力処理で日本軍が軍政を敷き、インドシナ3国に傀儡政権が独立するという混乱期にあり、詳細な実態把握は困難だったようです。仏印当局と日本軍は、食糧危機に有効に対応できなかったのではないでしょうか。
フィリ
ピン
バターン死の行進:1942年4月、7000人~1万人が死亡(ブリタニカ国際大百科事典
マニラ戦:1945年2〜3月、民間人犠牲者の総数は約10万人(マニラ市街戦──その真実と記憶──フィリピンで日本軍は何をしたのか?
蘭印< 慰安婦強制連行(慰安婦にされた女性たち−オランダ
ロームシャ強制労働(日本軍が行なった強制的徴発の実態
マラヤ
ビルマ

シンガポール華僑虐殺:1942年2月、数千あるいは数万といわれる多数を処刑(世界史用語解説シンガポール華僑粛清
泰緬鉄道建設の徴用:1942年7月〜1943年10月、捕虜の死者1万人以上、アジア人労働者の死者は3万人とも7万人ともいわれる(泰緬鉄道──犠牲と責任

仏印 北部で大量の餓死:1944〜45年、ベトナム民主共和国独立宣言(1945年)では200万人説(古田元夫「私のべトナム史研究」