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読書ノート / 社会
この僧侶は、岐阜・垂井町にある真宗大谷派(東本願寺)の明泉寺の元住職(1925年住職を甥に譲っています)竹中彰元です。 禁錮4か月執行猶予3年の判決を受けて、真宗大谷派も軽停班(階級の降格)3年の処分を下し、布教師の資格剥奪しました。この処分は後に軽減され、布教師の資格も再度与えられています。 彰元は1945年10月に没しています。 そして、2007年9月25日、大谷派は、ほぼ70年前のこの処分を撤回し、10月19日には「竹中彰元師復権・顕彰大会」が開かれました。本書が出版されたのは、処分撤回からほぼ1年が経った2008年10月11日です。ちょうど同じ時期の2008年10月12日に放送されたETV特集「戦争は罪悪である 〜ある仏教者の名誉回復〜」も、この話を取り上げています。 本書の著者・大東仁(だいとうさとし)は、真宗大谷派の圓光寺住職です。著者は1986年、学生のときに、彰元の調査を始めたましたが、戦前に反戦を唱えた一老僧のことは、そのころはほとんど忘れられていたようです。 1990年ころから、名古屋や大垣の大谷派別院の「平和展」で 彰元の反戦言動が紹介されるtようになり、2004年から東本願寺の「非戦・平和展」で展示されるようになったということです。 「岐阜県宗教者平和の会」は、2000年から7年間、「彰元忌」を主催続け、2005年には彰元の名誉回復嘆願署名2375名分を本山に提出しています。この署名運動が直接のきっかけとなり、処分撤回が実現したということです。 本書の構成は次のようになっています。
「第二章 反戦僧侶 竹中彰元」では、満州事変以降、平和発言により逮捕され執行猶予の判決を受けるまでを取り上げています。 満州事変以降、1937年の平和発言まで、彰元の考え方が変化したことを示す記録は残っていません。満州事変は関東軍による軍事行動であり、その後小規模な衝突はあったものの、日本全体が戦争に巻き込まれるという実感は一般にはなかったのかもしれません。 著者は、彰元の意識に変化をもたらしたものとして、戦争協力に傾倒してゆく大谷派の動きがあったのではないかと次のように推測しています(53ページ)。
「宗祖聖人の神祇観」は、河野法雲が大谷派機関紙「真宗」に発表した論文ですが、その中の次のような内容の記述(著者が原文を現代語に直しています)が問題とされました(56ページ)。大谷派は、これを天皇に対する不敬と見たようだと、著者は指摘しています。
「宗祖聖人の神祇観」問題や「御伝鈔拝読禁止」は、天皇や国家神道批判に対する大谷派の自主規制とも見られ、権力への迎合といえなくもなさそうです。 この後、大谷派法主は明治神宮、靖国神社、伊勢神宮を参拝しています。 大谷派のこのような姿勢に対する彰元の反発が、反戦言動の背景にあるのではないかと著者は見ています。著者は、彰元の反戦言動を通して、大谷派を弾劾しているとも考えられます。 彰元の反戦言動は、1937年9月15日、出征兵士を見送るため村人500人とともに国鉄垂井駅に向かう途中になされました。特高警察の史料によると、その内容は次のようなものです(64〜65ページ)。
さらに1937年10月10日、近くの寺院の年忌法要の席で6人の僧侶に次のように語りかけています(67ページ)。この発言に対しては、「痛罵難詰」はなく、反論や注告があっただけだそうです。しかし、翌日、僧侶の1人が村役場に届出ました。
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