top /
読書ノート / 社会
研究者として知られる著者が、「公明党と創価学会は一心同体なのか」というテーマを分析した1冊です。 目次は次のとおりです。戦前の創設期から戦後の爆発的拡大期を経て、現在に至る流れを年代順に解説しています。
この章では、創価学会(当初は創価教育学会)の初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖が登場します。 両者はともに教職者の経験があり、牧口が校長のとき、戸田を代用教員として採用しており、いわば師弟関係にあったと言えそうですが、肌合いはかなり異なっています。牧口は、地理学者を志して上京し、「人生地理学」などの著作もあり、柳田國男と付き合いもあった知識人です。 一方、戸田は、20歳前後に代用教員をしていますが、すぐに辞めて、その後は、学習塾を開いて公開模擬試験を行い、受験参考書を出版しベストセラーになります。さらに、食品会社や証券業にも手を広げ、一時は月1万円の収入があったといいます。戸田は、教育者というよりも実業家だったといえるでしょう。 現在の創価学会理論の骨格を作ったのは牧口で、それを実践し組織化したのが戸田です。 両者の関係を年表にまとめると次のようになります。
国柱会は、日蓮宗の元僧侶である田中智学が始めた国家主義の宗教団体で、石原莞爾や高山樗牛、宮沢賢治も会員だったそうです。国柱会は現在も宗教法人として残っています(宗教法人 国柱会)。智学は、「侵略的宗門というコンセプトを提示、一種の宗教的軍事主義と皇道ファシズムを説いていた。当時のカリスマ」だったそうです(378夜『化城の昭和史』寺内大吉|松岡正剛の千夜千冊)。 血盟団の井上日召は日蓮主義者で、北一輝も法華経を読誦していたということですが、昭和のテロと日蓮主義・法華信仰はどのような関係にあるのでしょうか。 牧口が、日蓮正宗に入信したのは、1928年ごろです。本人はその動機については何も語っていませんが、柳田國男は貧苦と病苦が原因ではないかと述べています。牧口に続いて、戸田も入信しています。牧口は、日蓮正宗の教義を学ぶとともに独自の宗教思想として、「価値論」と「法罰論」を展開します。価値論は西欧哲学に独自の現実主義的な解釈を付け加えたもので、戦後、戸田が現世利益(げんせりやく)を強調したことにつながります。また、牧口は、少人数が集まり話し合う「座談会」を重視しており、それが今日の創価学会に受け継がれています。 牧口は、教祖としての要素は希薄だったようで、その点について著者は次のように述べています(31〜32ページ)。
しかし、1943年7月6日に、牧口、戸田ら幹部が逮捕、起訴されたことにより、創価教育学会は壊滅的打撃を受けます。そのいきさつを次のように説明しています(37〜39ページ)。つまり、日蓮信仰を貫き天皇崇拝を拒んだから弾圧されたのではなく、むしろ天皇崇拝を純粋に貫こうとして神宮大麻を拝むことを拒否したため、危険思想と看做されたと著者は考えています。
神宮大麻は神棚の中央にまつるということです。なお、現在でも全国の3分の1の家には神棚があるそうです(世論調査:日本人の宗教団体への関与・認知・評価の20年)。2013年度の神宮大麻の頒布数は874万体で、約70億円が歳入として計上されたということです(神社本庁「コロナ禍の初詣」強行のウラ、金と権力の罰当たりな事実)。 戦前の神宮大麻の頒布について、昭和戦中期の暦一一暦と大麻の頒布強制と頒暦数の急伸を参考に、以下にまとめてみました。
凡夫とは仏教用語で普通の人間を指します。天皇は人間だというのは当たり前の常識であり、そう言ったから不敬になるというのはさすがに無理があります。また、教育勅語に注文を付けても天皇に対する不敬にはならないでしょう。「大東亜戦争の原因は謗法国であるから」というのは戦争批判になっても、不敬にはなりません。 結局、「伊勢神宮などを拝む要はない」という発言や、神宮大麻の焼却という行為が、逮捕の根拠となったものと思われます。 牧口は、1944年11月18日、巣鴨の東京拘置所で病死しています。牧口の死の意味について、著者は次のように述べています。
戦前、戸田は事業家として成功し、牧口の宗教活動を財政面から支え続けていましたが、牧口が治安維持法違反で起訴されたのに連座する形で逮捕されます。本書では、牧口については起訴されたとされていますが(公判が開かれたのかどうかは明確ではありません)、戸田については起訴されたかは明確にされていません。戸田は、「ちょうど、20年1月8日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」と述べていますから(日蓮大聖人御書|池田大作著書|御書検索|スピーチ検索)、2人とも起訴されたものの、公判は開かれなかったようです。 戸田は、東京拘置所で「獄中の悟達」と呼ばれる宗教体験をしたとされていますが、著者は懐疑的です。 1945年7月に保釈された戸田は、1946年3月、「創価教育学会」を「創価学会」と改称し、理事長として再建に乗り出します。しかし、1951年3月に会長に就任するまでは、むしろ実業活動の方に重点を置いています。 「獄中の悟達」を体験した戸田が、どうしてこのように5年間も回り道をしたのかその謎解きが、志茂田景樹の中篇小説「折伏鬼」(読書ノート/折伏鬼)のテーマのひとつとなっています。 戸田が会長に就任したときの会員数はせいぜい5000人だそうですから、戦前とおなじ程度の規模にとどまっていました。しかし、戸田が自分が死ぬまでには75万世帯の折伏を達成すると宣言し、「折伏大行進」が始まり、組織は驚異的な速度で拡大し、戸田の亡くなる1958年には目標をはるかに上回る100万世帯を達成しています。その後も、組織は拡大を続け、1964年には500万世帯を突破しています。 著者は、次のように述べて(61〜63ページ)、このような急成長の最大の要因として、高度経済成長による農村から年への人口流入をあげています。
この点について著者は、創価学会と霊友会・立正佼成会の共通点と相違点を次のように整理することによって説明しています。
一方、霊に対する信仰の点で、両者は異なっています。 まず、霊友会・立正佼成会の創立者である長沼妙佼・小谷喜美は神憑りする霊能力者でした。そして、病や不幸をもたらす先祖の霊を祓うため先祖供養を重視します。それに対し、創価学会の開祖の牧口常三郎は霊能力者ではなく、先祖供養の要素も希薄でした。 このことの意味するところを、著者は次のように述べています(65〜66ページ)。
著者は、さらに「ひとり勝ち」の理由として、次のように述べて(67〜68ページ)、創価学会は伝統的信仰の否定を徹底したのに対し、霊友会や立正佼成会伝統的信仰に融和的だったことを指摘しています。
また、立正佼成会や霊友会の信者が、「元々の家の宗派の形式に則って葬儀を上げることが多くなり、会への信仰を捨てて既成仏教への信仰に逆戻りするきっかけとなる危険性を秘めている」との指摘についても、次のような指摘もあります(初公開! これが「幸福の科学」のお葬式=宝島2010/09)。
高度成長期に地方から都会にやってきた人たちは、地縁社会のしがらみから解放されました。それは、自分の意思で宗教を選択する自由が与えられたことも意味します。そして、そのことは新宗教にとって、膨大な信者獲得の機会が与えられたことにもなります。ただ、それは創価学会のみならず、立正佼成会や霊友会も同じです。 しかし、結局は創価学会のひとり勝ちという結果になりました。 それは、第二代会長・戸田城聖の強烈な個性に負う所が大きいように思われます。著者は、戸田の講演を録音したレコードについて、次のように述べています(48〜50ページ)。宗教指導者としては、かなり俗っぽい生臭坊主的な雰囲気が伺えます。
「第二章 政界進出と挫折」では、戸田の下での折伏大行進と政界進出、第三代会長・池田大作の下でのさらなる躍進、1969年の言論弾圧事件、1970年の池田の陳謝と政教分離への路線転換、1970年代後半の宗門との対立、1990年の宗門との全面対決と決別までを扱っています。 その中で、折伏大行進の戦闘性を象徴する事件として1952年の「狸祭り事件」に触れた後、1954年の「出陣式」の様子を次のように紹介しています(72〜74ページ)。折伏大行進が始まったのは、軍国主義の時代からから10年も経っていなかったころであり、軍事教練や軍歌に抵抗はなく、むしろ軍隊的な集団行動に高揚し陶酔したのかもしれません。戦争という目的を失った軍国少年少女らに折伏という新たな目的を与えることにより強固な団結を生み出し、組織拡大に役立てようという巧みな戦略が感じられます。
|