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読書ノート / 思想
三原議員は、冒頭で貞観地震にふれ、次のように述べました。
三原議員は、質問の本題に入って、グローバル企業の租税回避にふれた後、次のように八紘一宇の解説を始めます。そして、八紘一宇という根本原理を指針としてはどうかと、当時の麻生太郎財務大臣に問いかけています。
神話上の架空の人物 そもそも、神武天皇は実在したのでしょうか。 日本書紀によると神武天皇が建国したのは紀元前660年ということですが、中国の歴史書に倭の奴国が初めて登場するのは、それから700年以上も経った、紀元後57年のことです。
ヤマト王権が成立したのは3世紀後半以降と考えられています。当初は豪族たちのゆるやかな連合勢力だったようです(「大和朝廷」ではなく、「ヤマト王権」という用語を使うのはなぜですか。|株式会社帝国書院)。巨大古墳の築造にはある程度の規模の政治権力が必要ですから、箸墓古墳が卑弥呼の墓だったとするならば、ヤマト王権の成立は、3世紀前半に遡る事になりますが(箸墓古墳|いつ築造されたのか【箸墓の年代 Part2】 | 日本・史跡ナビ)、それでも、神武天皇建国説による年代とは、大幅なずれがあります。 そもそも、日本書紀では神武天皇は天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のひ孫とされています。したがって、現代人の普通の感覚からすれば、神武天皇は、神話上の架空の人物ということになります。 世界の凡てを一家のように睦まじく 麻生大臣が言及した「八紘一宇の塔」の正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」と言い、1940年に皇紀2600年を記念して建設されました。塔の台座には、県内、国内をはじめ中国や朝鮮、台湾などから集めた石も使われています。戦後、GHQの命令で「八紘一宇」の文字が削られましたが、1965年に観光振興などを理由に復元されています(「八紘一宇の塔」歴史学ぼう 内部レリーフも公開 15日、宮崎市で見学会|【西日本新聞me】)。 この復元運動の先頭に立ったのが岩切章太郎で、本書ではその理由について次のように述べています(25ページ)。岩切が主張するように、本来の八紘一宇が世界平和を目指すものであったなら、この復元には、何ら問題はなかったことになります。
翻へせ! 八紘一宇の御旗! では、戦前の日本で、「八紘一宇」という言葉はどのように使われていたのでしょうか。内閣が初めて「八紘一宇」という言葉を使ったのは、1937年11月10日に刊行された「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」という小冊子においてとされています。そこでは、次のように説明されています。
この点について、本書の著者は次のように述べています(26〜27ページ)。
三原議員は、「国民のことを第一にお思い、常に共にあろうとなされる天皇のお心」を称賛し、「神武天皇がお示しになった八紘一宇の理念の下に世界が一つの家族のようにむつみ合い助け合えるように」しようと提案していますが、これは「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」の主張と重なる部分が多くあるように思えます。 異民族支配と日中戦争を正当化 「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」が刊行されるまでの、対外関係を中心とした歴史の流れをまとまると次のようになります。
国内では、五・一五事件と二・二六事件という軍部によるクーデター未遂が続きます。一方、満州事変は日本の行為は侵略であると認定したリットン調査団報告書に不満を表明した日本は国際連盟を脱退します。さらに、天皇機関説を排撃する国体明徴声明も出ます。このように1930年代は、国粋主義による暴力支配が一段と強化されます。 盧溝橋事件の武力衝突は、第2次上海事変に拡大し、さらに第2次国共合作も成立し、日中は全面戦争に突入します。 そのような時期に刊行された「八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚」は、台湾、朝鮮、満洲での異民族支配と日中戦争を正当化するのが目的であったことが伺えます。 「世界統一」のルーツは、江戸時代の国学に 「八紘一宇」という言葉を最初に使ったのは、田中智学(1861〜1939)で、「旬刊の『国柱新聞』大正2(1913)年3月11日付で、初めて八紘一宇ということばを造語した」(30ページ)ということです。 智学は、熱心な日蓮宗信者で、国柱会を組織します。国柱会は国家主義的な宗教団体で、宮沢賢治や石原莞爾も会員でした。現在でも活動を続けていますが、国柱会のサイトを見る限りでは、国家主義的な主張はしていないようです。 智学は、大正11(1922)年に刊行した「日本国体の研究」で、「悪侵略的世界統一」と区別される「道義的世界統一」について、次のように述べています。
「国性芸術」に多彩な才能を発揮 本書の記述を参考に、田中智学の生涯をまとめると次のようになります。智学は、10歳で寺に入り、日蓮宗の僧侶となりますが、19歳で還俗し、以降は終生にわたり、在家信者として宗教活動を続けます。智学は、弁舌のみならず、作詞、作曲、脚本などに多彩な才能を発揮し、「国性芸術」という芸術運動を展開します。
日蓮の教えを忠実に実践 智学は、20代で立正安国会を立ち上げ、40歳を過ぎて、立正安国会を国柱会に改称します。著者は、智学の宗教活動について、次のように説明しています(51〜52ページ)。日蓮の信仰の特徴は、法華経を最重視し、個人の救済よりも社会変革に力点を置くことにありましたが、智学の宗教活動は、日蓮の教えを忠実に実践することが目標となっています。
『国体の本義』が天皇を神格化 智学は、1910年の大逆事件に危機感を抱き、国体擁護を強調するようになりますが、著者は国体について次の様に述べています (32〜33ページ)。
儒学と国学が合体、後期水戸学に 国体ということばを使いはじめたのは、後期水戸学の儒学者の会沢正志斎ということですが、荻生徂徠や本居宣長も使っていたということです(近代国体論の誕生)。水戸学が明治以降の国体概念に影響を与えたものと考えられますが、教育勅語との関連を指摘する意見もあります(教育勅語の徳目「忠孝」をめぐる教育史的流布説の再考察 )。 江戸時代には、水戸光圀等による前期水戸学をはじめとして、儒学、特に朱子学が武士の知識層に広がってゆきます。幕末長州藩の思想 を参考に、その大まかな流れを以下にまとめてみました。
江戸時代中期以降、国学が盛んになります。国学は、古事記や万葉集など古代の文献の訓詁注釈を行う学問分野ですが、歴史や神道など思想分野も含みます。 荷田春満 (かだのあずままろ) 、賀茂真淵 (かものまぶち) 、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)が四大人(したいじん)と呼ばれています。
この流れは、宣長によって加速され、篤胤によって完成されます。 宣長は、当時は資料としてはほとんど重んじられなかった古事記に注目し、35年かけて膨大な注釈書である古事記伝を完成します。 宣長は、次のように古事記に描かれた古代社会を理想視します( 幕末長州藩の思想)。日本は「万世一系」で「皇統連綿」であり、易姓革命がないから、中国よりも優れているというのは、山鹿素行の尊皇思想を継承しているともいえます。しかし、儒学的な思考を全面的に否定し、理性主義を排除するという、宣長のナショナリズムは、排外的攻撃的な攘夷論に転化する危険性もはらんでいます。
水戸学は、水戸藩第2代藩主の徳川光圀(1628〜1700)の大日本史編纂事業に端を発した思想体系ですが、朱子学を基盤に、神道や国学も取り入れ、尊王思想を強調するという特徴があります(弘前図書館、皇朝史略)。ただし、次のように、光圀は天皇を天照大神の子孫とは見ていなかったという指摘もあります(水戸学の思想と教育)。
18世紀後半は、農村荒廃や蝦夷地でのロシア船の出没など、内憂外患の危機感が強まっていました(後期水戸学における攘夷思想の形成)。 後期水戸学の代表的学者は、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖の3人です。 会沢正志斎は藤田幽谷の弟子で、藤田東湖は藤田幽谷の息子です。会沢正志斎は、第8代藩主徳川斉脩(1797〜1829)の継嗣問題では、第9代藩主の徳川斉昭(1800〜1860)擁立に尽力し、藤田東湖と共に、斉昭の藩政改革の推進を補佐します。
藤田幽谷の『正名論』については、次のように説明しています。 易姓革命がなかった日本は中国より優れているという論理は、山鹿素行の主張と通じるところがあります。そして、綿々と続く天皇へ忠誠を尽くすことにより幕府の支配が正当化され、そんな幕府に忠誠を尽くすことにより諸大名の支配が正当化されるという構図となります。つまり、尊王論が幕藩体制の強化に役立っています。
東湖は、道の根源を「神」 にもとめていますが、これは神道・国学の考え方です。一方、別の箇所では、天神とともに天地も道の根源ととらえています。天地が道の根源であるとするのは、儒学の考え方です。 弘道館記には、「敬神崇儒=神州の道を奉じ、西土の教を資り」と明記されていますから(弘道館記碑の沿革)、東湖の本心が、国学に傾いていたとしても、儒学を無視することはできなかったものと思われます。 吉田松陰(1830〜59)は、1851年に水戸を訪れ、会沢正志斎の教えを請い、その尊王攘夷思想に大きな影響を受けています。長州藩学明倫館の学頭であった山県太華は、次のように、松陰の尊王論に反論しています。水戸学の尊王攘夷論の目的は、幕藩体制を強化することにありましたが、尊王論を突き詰めると倒幕論に転じる可能性もあります。太華は、それを危惧していたものと思われます。
尊王攘夷の旗頭、徳川斉昭 水戸学と尊王攘夷論の展開に、第9代藩主徳川斉昭が大きな影響を及ぼしています。徳川斉昭|ジャパンナレッジと天狗党の乱|ジャパンナレッジを参考に、徳川斉昭の生涯を年表にまとめてみました。
1844年に斉昭は突然、失脚しますが、その背景には門閥派と改革派の対立や寺社改革への反発があったと指摘されています。維新政府の廃仏毀釈は知られていますが、水戸藩は、江戸時代を通じて2回にわたり廃仏毀釈を実施しています(水戸藩の撞鐘徴収政策)。神仏分離は、津和野藩や長州藩でも行われたそうです(幕末長州藩における神仏分離の展開 - 山口県文書館)。なお、明治の廃仏毀釈は10年足らずで終了しています(廃仏毀釈について)。 斉昭は隠居させられ、13歳の長子慶篤が家督を相続しますが、支藩の高松・守山・府中各藩主が後見し、門閥派が藩の実権を握ります。1849年、後見は解除され、斉昭の藩政関与が許され、改革派が復権します。 斉昭は、1853年、海防問題の幕政参与に任ぜられ、1855年には政務参与も命ぜられます。しかし、1857年に開国派の老中首座堀田正睦と対立し海防と政務の参与を辞任します。 このころ、将軍家定の継嗣問題で、斉昭は松平慶永らと連携し、一橋慶喜を推し(一橋派)、徳川慶福を推す井伊直弼ら(南紀派)と対立します。一方、アメリカ総領事ハリスとの通商条約交渉は大詰めを迎えます。将軍継嗣と条約調印をめぐって、一橋派と南紀派の対立が熱を帯びます。 1858年、老中堀田正睦が上京し、条約の勅許を求めますが、朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下します。しかし、大老に就任した井伊直弼は勅許のないまま条約に調印します。これに関しては「直弼はあくまで勅許を得るまで調印延期を主張しましたが、最終的には交渉当事者の下田奉行井上清直らに交渉が行き詰まったときは調印やむなし、との言質を与えました。結局、翌19日に日米修好通商条約は調印されました」という説もあります(日米修好通商条約調印 徳川齊昭 茨城歴史事典)。 斉昭や慶永ら一橋派の諸大名は登城して、勅許を得ずに調印した直弼を難詰しましたが、それに対抗するように、直弼は将軍継嗣を紀伊家の慶福に決定します。さらに、直弼は不時登城を理由に一橋派の諸大名に隠居や謹慎などの処分を下します。これに対して、朝廷からは、無断調印と一橋派の処罰とを責める勅諚(戊午の密勅)が水戸藩に下ります。朝廷が、幕府の頭ごしに、直接諸大名に働きかけるものであり、幕府への挑戦ともいえるものです。直弼はこれに対し、反対派への大弾圧を始めます(安政の大獄)。 水戸藩の尊王攘夷派は、幕府と対立しても主張を貫こうとする激派と、幕府との衝突を回避しようとする鎮派に分裂し、1860年、激派の脱藩藩士が井伊大老を暗殺します(桜田門外の変)。その後まもなく、斉昭は処分の解けぬまま死去します。結局、斉昭は直弼に敗北し、水戸藩は政治の表舞台から退場します。 尊王攘夷の主役は水戸から長州に 戊午の密勅問題では、会沢正志斎は尊皇敬幕の順を守ることを説きます(会沢正志斎が『新論』にこめたビジョンとは?)。少数の激派の過激な行動には、多くの藩士は懐疑的だったといわれており、鎮派からすれば「桜田門外の変は、御三家としての水戸藩の存廃に関わる一大事であり、許されざる事態であった」ということです(幕末水戸藩尊攘「激派」と「鎮派」の政治行動)。 斉昭の幕政改革には、門閥派の抵抗がありましたが、弘道館の運営についても同様の状況で、1941年の斉昭失脚後は門閥派が実権を握ります。1949年の斉昭復権後は改革派=尊王攘夷派が巻き返しますが、次のように(水戸学の思想と教育)戊午の密勅問題をめぐり、尊王攘夷派が分裂し、激派は弘道館の学外の郷校に行動の場を求め、農民有志らと連携するようになります。一方、学内に残った鎮派は門閥派と連携し、両派の間で抗争が始まります。その後、激派は蜂起したものの四分五裂し壊滅します。
この出兵には、長州の尊王攘夷派の桂小五郎や高杉晋作らは反対・慎重論をとなえ、久坂玄瑞も当初慎重論だったものの、強硬論におしきられたということです(禁門の変(蛤御門の変)|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ)。その後、長州藩では、保守派が実権を奪いますが、1864年末に高杉晋作の功山寺挙兵をきっかけに、尊王攘夷派が実権を奪い返し、1866年の幕長戦争で実質的に勝利します。 水戸藩校・弘道館は尊王攘夷思想の総本山だったと言われていますが、1841年に徳川斉昭によって創設されたばかりで歴史も浅く、運営方針も二転三転します。尊王攘夷において、水戸藩は一時は運動を主導する立場にありましたが、主役の座は長州藩に奪われた形となります。 しかし、後期水戸学の尊王攘夷思想は人々の潜在意識に刷り込まれ、大言壮語の夢物語に過ぎなかった「天皇によるアジア支配」が昭和維新により現実化したのではないでしょうか。 智学は清和源氏の末裔? 著者は次のように述べ、日蓮の熱心な信奉者だった智学が、次第に宗教的な要素を後退させ国家主義に傾倒して行ったと説明しています(58〜59ページ)。
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