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 司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う 
 中塚明/著(高文研)2009/8/1

 2013/3/7
 この本は、国民的作家・司馬遼太郎の歴史観を批判的に考察しています。
 著者がこの本を書き下ろしたきっかけは、NHKが「スペシャルドラマ・坂の上の雲」の放映を始めることを知ったことにあります。「スペシャルドラマ・坂の上の雲」は2009年から2011年の年末に隔週で全13回(1回90分)放映されました(NHK松山放送局)。いわば大河ドラマの特別編ともいえるわけですが、ほぼ1年間隔のブランクを挟み3年越しに放映されたこともあって、断片的にごくたまにしか見ていなかったので、なんとなく印象の薄い番組でした(ちなみに私は大河ドラマもほとんど見ていません。歴史にはおおいに興味はありますが、歴史をテーマにしたテレビドラマは歴史そのものとは別もののように思われます)。そもそも、この「坂の上の雲」を含めて、司馬作品はほとんど読んだことはないので、もともと関心が薄かったともいえます。
 この番組については、放映開始前から市民団体などから批判的な声明や質問状がNHKに寄せられました(NHKが制作・放映しようとしている「坂の上の雲」に対する声明NHKドラマ『坂の上の雲』への公開質問状NHK「坂の上の雲」に申し入れ 有識者指摘、原作の認識誤り)。本書も、そのような批判のひとつです。
 このように、放映前から話題の多かった番組ですが、平均視聴率は、第1部17.5%、第2部13.5%、第3部11.8%でした(坂の上の雲)。大河ドラマの視聴率は回を追うごとに下がっていくのが一般的傾向であり、落ち込み度は「義経」「武蔵」「新撰組」「平清盛」と同じ程度です(ドラマ視聴率)。1年間隔のブランクを挟んだという不利な情況を差し引いたとしても、さほど成功したドラマとはいえないようです。
 この作品については司馬遼太郎自身が「坂の上の雲はなるべく映画とかテレビなど視覚的なものに翻訳されたくない作品であります。うっかり翻訳するとミリタリズムを鼓吹しているように誤解される恐れがありますからネ」と語っていたということです(NHKが制作・放映しようとしている「坂の上の雲」に対する声明)。このような原作者の意向にもかかわらず映像化することは、戦争賛美にもつながりかねないという懸念がこの番組に対する批判的意見の背景にあったように思われます。
 ただ、この本の著者の目的は、「坂の上の雲」の背景にある司馬遼太郎の歴史観を批判的に考察することにあります。つまり、NHKの番組制作が批判の対象ではなく、あくまでも執筆のきっかけであったといえます。
 では、司馬遼太郎の歴史観とは何かというと、その概略は「T 司馬遼太郎は近代日本の歴史をどう見ていたのか」に述べられています(高文研の紹介の目次参照)。
 司馬遼太郎の歴史観の前提として、戦前の昭和への否定的評価があります。日本の戦争責任は否定しがたい事実であり、にもかかわらず日本の近代史を肯定的に描くために次のような歴史観を提示します。
 日露戦争は防衛のための戦争であり、そこまでの日本の歩みは正しかった。それを昭和の「三代目」が台無しにした。日本の近代は栄光あるものであったが、その後、不幸にして道を誤ったに過ぎない。したがって、明治と昭和は歴史的には連続していない。
 「U 司馬遼太郎の『朝鮮観』」では、司馬遼太郎の朝鮮観は次のように、日本の植民地支配を正当化するものであると批判します。
 李朝500年は貨幣経済がなく、合理的思考が育たなかった。農村は停滞したままであり、自力では変われないから、外国からの侵略によって倒れるほかなかった。また、朝鮮半島は、清国、ロシア、日本にはさまれているという地理的位置にあったことが、日清戦争の原因である。さらに、帝国主義時代の宿命として、帝国主義国の仲間入りした日本の植民地となるほかなかった。
 「V 『近代の朝鮮』を書かないで『明治の日本』を語れるか」では、日清戦争前後の朝鮮の情況について、特に次の3つの重要事件に触れていないと批判します。
 第一のキイ──朝鮮王宮占領
 第二のキイ──朝鮮農民軍の抗日闘争と日本軍の皆殺し作戦
 第三のキイ──朝鮮王妃を殺害した事件
 「朝鮮王宮占領」は、豊島沖の海戦(7月25日)の前々日(7月23日)に起きた事件です。軍の公式見解では、偶発的な事件であり、日本側には侵略の意図はまったくなかったとされていましたが、「清軍駆逐」の公式の依頼文書を出せ、と朝鮮政府に迫るため、日本陸軍の混成旅団が計画的に王宮を占領した事件だったというのが著者の見解です。この詳細が明らかとなったのは、1994年に著者が『明治廿七八年日清戦史』の草案を発見したことによるということですから(『新しい歴史教科書』(扶桑社)を斬る15)、司馬遼太郎が1978年出版の「坂の上の雲」で、この事件に触れていないのも無理はないかなという気もしないではありません。
 「朝鮮農民軍の抗日闘争」とは、1894年秋に起こった東学農民の第2次蜂起のことです。春に起こった第1次蜂起は、甲午農民戦争(東学の乱)と呼ばれ、朝鮮政府がその鎮圧のため清に出兵を要請し、日本も出兵したことが、日清戦争勃発の原因となったことは高校教科書にも記載されています。第2次蜂起は、その規模は第1次蜂起をはるかに上回るもので、鎮圧による犠牲者は3万人を越えるといいます。日本軍は、北では平壌会戦、黄海海戦、旅順占領によって清国軍を駆逐するのと並行して、南では東学農民を鎮圧するという2面作戦を遂行したことになります。ただし、この第2次蜂起についての記録は日本外交文書には1点も収録されておらず、近年になって本格的研究も出始めたようですから、「坂の上の雲」で、この事件に触れていないのも無理はないかなという気もしないではありません。
 「朝鮮王妃を殺害した事件」とは、1895年10月8日、駐韓公使三浦梧楼が公使館守備兵に王宮を占拠させ、親露派の閔妃( びんひ)を殺害させた事件のことで、最近の高校日本史の教科書にも載っています。日本でも角田房子著「閔妃暗殺 朝鮮王朝末期の国母」(1988年)でこの事件のことが知られるようになりました。また、金文子著「朝鮮王妃殺害と日本人」(2009年)は、この事件は参謀本部の意向を反映したものであると指摘しているそうです。この事件が日本でも知られるようになったのは最近ですが、関係者は軍法会議にかけられているのですから(乙未(いつび)事変に関する考察)、「坂の上の雲」執筆当時の司馬遼太郎が全く知らなかったとは考えられません。 
 「W 歴史になにを学ぶのか」では、日露戦争当時、ロシアは朝鮮をさほど重要視しておらず、朝鮮半島の利権を放棄する提案をしていたことが明らかとなったという近年の研究を紹介しています。
  司馬遼太郎が「坂の上の雲」を書いてから30年以上の月日が流れ、新たな歴史資料が見つかり、歴史研究も進んだことにより、歴史の闇の部分が次第に明らかとなっています。30年以上前には司馬遼太郎はそれらのことを知りえなかったのですから、そのことで司馬遼太郎を批判するのは酷な感じもします。
 しかし、司馬遼太郎が「司馬史観」に不都合な事実について薄々認識しながら、あえて無視したという可能性も完全には否定できないように思えます。
 征韓論、日清戦争、日露戦争の流れが、満州事変、日中戦争に繋がっていないのか、改めて検証してみる必要がありそうです。