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 吉田松陰の思想―尊王攘夷への思想的道程 
 本山幸彦/著(不二出版)2010/4/20

 2014/3/25
 1924年生まれ(出版当時で80代半ばだったことになります)の歴史家による松陰論です。
 著者は、この本を書くに至った動機は次の3つであると説明しています。
 1つめは、2006年に著者が出版した「近世儒者の思想挑戦」(思文閣出版)で吉田松陰を(儒者ではないからとして)扱わなかったことに、心残りがあったことです。
 2つめは、従来の松陰伝が全面的な礼讃か、著者の時代思潮の投影(吉田松陰 変転する人物像(中公新書)はそのような投影の変遷を探ることをテーマとしています)であることが多いことに対し、客観性のある実像に近い思想を書いてみたいと思ったことです。
 3つめは、保守化する時代風潮に対する次のような危惧です(9〜10ページ)。
 三つめは、現在の時代思潮、時代状況における松陰に関する危惧である。いまや国家権力を構成する多くの勢力、保守的なナショナリズムに憧れる社会勢力は、すでに人間の尊厳を窮極の拠り所とした「教育基本法」を不満とし、国家主義、伝統主義、郷土愛、奉仕精神、規範主義などを「教育基本法」にとり入れようとして、「教基法」の改悪をはかり、すでにその一部を実現し、さらに以前から日本国憲法を改悪して戦争を放棄した国日本を、再び世間なみの戦争のできる国にしたいと、憲法九条改悪の世論をあおっている。日の丸、君が代はもはや学校行事に定着して久しい。
 最近ではさらに危険な風潮が横行している。「日本は侵略国家などではない」という太平洋戦争の合理化、美化の論文が、前航空幕僚長田母神俊雄なる人物によって書かれ、雑誌の懸賞論文に首位で当選した。それが広く社会に迎え入れられているのである。昨今の新聞広告には、田母神氏の戦争美化の講演集が、『自らの身は顧みず』という題名の下に一冊の本となって宣伝され、宣伝文句には、たちまち十三万部を突破し、「遂に日本国民必読の書となった」と記されている。いまの政治、社会の状況、風潮に不満な人は無数にいる。これらの人々が田母神論文をどう受けとるか、安心できないのである。それだけに危険なのである。
 このように国家や社会が、「何時かきた道」にもどろうとしているとき、かつて戦争中に松陰が国民教育の目標とされ、松陰といえば愛国者、愛国者といえば松陰だなどと国民教育、社会教育に利用されたが、いままたその轍をふむ危険性がないとはいえない。
 これまでの松陰の伝記や評論の多くが、著者の時代思潮の代弁だったとしたら、田母神氏なる人物のような〈愛国者〉が、この危険な時代に自分の思想を反映させ、或は自分の思想を宣伝するため、最も利用価値のある松陰を利用しないとは限らない。そのようなとき、松陰の思想的な実像が不明であれば、松陰ならざる〈松陰〉の〈愛国心〉は、どこまでも世の潮流に流されて一人歩きする危険性があるにちがいない。実像に接近したいという第三の動機はこれである。以上が本書を書くにいたった三つの動機にほかならない。

 目次は次のようになっています(出版元のカタログより)。

 第1章は、松陰の生涯を、次の4つの時期に分けて、簡潔にまとめています。
@修学の時期:1830(文政13)〜1850(嘉永3)
 松陰は、杉家の次男に生まれ、5歳で山鹿流兵学師範・吉田大助(松陰の叔父、杉家から養子に入っていた)の仮養子となり、大助の死去により、6歳で吉田家を継ぎます。杉・吉田両家は縁戚関係にある学者の家系で、松陰は幼児のころから、実父や叔父の指導で厳しい英才教育を受けます。
 10歳で藩校明倫館に家学教授見習として出仕し、19歳で兵学師範となります。   
A遊学の時期:1850(嘉永3)〜1854(安政元)
 1850年8〜12月まで九州遊学。1851年4月〜1852年5月まで江戸遊学。この間、1851年12月〜1852年4月まで東北遊学に出ますが、これが無許可であったため、脱藩の罪で士籍剥奪・家禄没収処分を受け浪人となります。ただし、藩主の計らいで私費による10年間の諸国遊学が認められます。
 この東北遊学は藩の許可を得ていたものの、親友と打ち合わせた出発日になっても、過書(旅行証明書)が発行されないので、予定通りに出発したため、無許可遊学となってしまったというものです。出発を遅らせるなり、後から追いかけるなり何とでもやりようはあったと思います。それにしても、無許可旅行で士籍剥奪・家禄没収というのも何とも重い処分です。また、浪人となったのであればどこへ行こうと自由とも思えますが、士籍剥奪は停学処分のようなものなんでしょうか。現代人には、封建社会の倫理観や規範意識は理解困難に思えます。
 そのような次第で諸国遊学が認められた松陰は、1853年1月萩を出発し、5月江戸到着、6月浦和でペリー艦隊を見物、アメリカとの一戦を決意します。その後、ロシア軍艦での海外密航を計画し、9月に長崎に出かけるが、ロシア軍艦はすでに出港していて目的は果たせません。
 次いで、1854年3月、ペリーの軍艦でアメリカへ密航を試みるが、乗船を拒否され失敗、下田番所へ自首します。9月、幕府から自宅蟄居の処分を受け、10月萩へ送還され、直ちに野山獄に収監されます。
B読書・教育の時期:1854(安政元)〜1858(安政5)
 1854年10月〜1855年12月、野山獄に入獄。獄中で618冊の書物を読破、2日で3冊を読んだ勘定になります。
 1855年12月出獄、以後は自宅謹慎となります。
 1856年3月ころから、久保五郎左衛門の松下村塾を継承し、本格的に教育活動を始めます。1858年7月、幕府の違勅調印以後、尊王攘夷運動にのめりこむので、教育者としての活動は2年半ほどということになるのでしょうか。
C尊王攘夷運動の時期:1858(安政5)〜1859(安政6)
 1858年7月11日、幕府の違勅調印を知った松陰は倒幕の意志を明らかとし、老中の間部詮勝暗殺などを計画するも、門下生(高杉晋作や久坂玄瑞)は自重を求め離れていきます。藩は計画を阻止しようと、12月5日に松陰を投獄します。孤立と絶望の中で死を願う松陰は、草莽崛起(そうもうくっき)に願いを託すようになります。
 1859年6月、幕府の命により江戸に送られ、7月の取調べで老中暗殺などを自ら自白し、10月27日に処刑されます。
 松陰は失意のうちに死に急いだ尊王攘夷運動家のひとりに過ぎなかったのですが(無謀な決起で命を落とした志士は数多くいます)、幕府要人暗殺は、1860年3月、桜田門外の変の井伊直弼暗殺という形で実現します。1863年には、長州藩の攘夷が下関海峡の外国船砲撃で実行されますし、草莽崛起は高杉晋作の提言した奇兵隊に生かされます。さらに、伊藤博文、山県有朋という2人の首相が門下生であったことから、後世になって注目を集めはじめることになります。

 第2章では、内面的価値観の形成を取り上げています。
 士道、忠誠、死生観、学問観のそれぞれが4つの時期でどのように形成・変化したかを、松陰の著作物や手紙などの資料(古文)を引用しながら検証しています。 
 第3章では、4つの時期の外面的思想を、対外観、国体観、幕府観、政治思想の側面から分析しています。
 対外観は、アヘン戦争など西欧諸国のアジア侵略(当時においては時事問題)を背景に、欧米諸国への強い警戒感で一貫していますが、ペリー来航以降はその矛先はもっぱらアメリカに向けられます。
 著者は、松陰の国体観について次のように説明しています(137ページ)
 国体とは何か。簡単にいえば、国体とは一国の独白な国の体質だと解することができる。松陰にとって国体とは、世界に冠たる特別の価値あるものであり、内外の対立物から絶対に守護すべき国家の価値であるとともに、彼の尊王攘夷思想を支えるナショナリズムの源泉であった。松陰の国体観は、つねに彼のナショナリズムを鼓舞し、尊王攘夷の実践に向けて彼を駈り立てる思想であった。
 松陰が国体に目覚めたのは、脱藩して水戸訪問したときであり、その後、自宅謹慎の間に日本古代史を猛勉強します。
 このようにして形作られた「世界に冠たる国体」が、ナショナリズムの源泉であり、それが攘夷(日本を外的から守ること)に結びつきます。さらに、外国征服・国威拡大へと発展します。
 そして、尊王は攘夷のための手段であった(攘夷尊王)のですが、やがて、天皇を憂うることから出発する攘夷でなければならない(尊王攘夷)と考えるようになります。
 しかし、そのような尊王攘夷は直接倒幕に結びつくものではなかったと著者は見ています。松陰は、当初、無条件の敬幕でした。それが、決定的に変化するのは、1858年7月11日、日米修好通商条約の違勅調印を知ったときからです。このときから、松陰の尊王攘夷論は一気に倒幕へと走り出します。
 著者は、松陰の政治思想について、次のように説明しています(164ページ)。ということは、「夷狄から日本を防禦し、世界に向って日本の国威を輝かすこと」以外には、これといった国家ビジョンはなかったということでしょうか。
 松陰の政治は彼の尊王攘夷という政治的・道義的使命達成の手段であった。その使命とは、夷狄から日本を防禦し、世界に向って日本の国威を輝かすことであった。何度もいうが、彼の政治は彼の信ずる道義の実践であり、彼が正義だと信ずる目的を実現することであった。それゆえ、松陰の正義の実現をさまたげる既成の権力や秩序との間にさまざまな対立が生じ、それが松陰処刑の一因になったともいえる。
 松陰の富民政策については、著者は次のように説明しています(168ページ)。
 松陰がこのように徳治愛民の政治を重視したのは、必ずしも徳治愛民そのことだけが目的だったわけではなかった。彼に強い仁政意識があったことは否定しないが、ペリー来航後には、彼の愛民は富国のための愛民よりも、攘夷、海防のための愛民となる。松陰は外圧に対抗してすべての国民の一致結束が必要なとき、もし暴政が原因で、幕府や諸藩に逆らう一揆などが起り、国の統一が乱れることを何よりも恐れていたのである。それゆえ彼は民の団結をはかる民政の重視、愛民の政治を強く望んでいたのであった。
 つまり、松陰の関心は内政よりも対外関係にあったと、次のように説明しています(175〜177ページ)。秕政(ひせい)とは悪政のことです。「加模察加・隩都加」は吉田松陰 - Wikipediaでは「加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)」となっています。
 松陰は何時の日か必ず古代天皇の雄略を模範として、国威を海外に輝かさなければならないと心にきめていた。その手段が開港、貿易であり、「通信通市」であった。『幽囚録』に、そのことがはっきりと記されている。……
 松陰がこの『幽囚録』でいう「通信通市」は、海外貿易ではなく、他国の土地、物産を侵略することを意味している。松陰は「通信通市は古より之れあり、固より国の秕政に非ず」(一―三五三)といい、開国政策を積極的
に肯定しているが、現在の和親条約による幕府の開国だけは、アメリカに強制されたもので許されるものではないと否定していた。それゆえ、松陰は現在の交易ではなく、どこまでも古代雄略に範を仰ぐべきだといい、将来の国是をここに定むべしとしていたのである。
 もし、武備充実し、艦が出来れば、「蝦夷を開墾して諸侯を封建し」、「加模察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同」せしめ、「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉」らしめ、「満洲の地を割き」、「南は台湾・呂宋の諸島を収
め」、進取の勢をしめすべしという(一―三五〇)。これがこのときの松陰の「通信通市」の理想であった。
 松陰は強い夷狄に囲まれて一国が自由に生存するには、かかる「通信通市」以外に道はないと考えていたのである。
 松陰が、このような対外進出にどこまで本気だったかについて、著者は次のように述べています(193ページ)。
 しかるに海原徹氏は「満洲や朝鮮、蝦夷、オーストラリアを植民化すべきだと言った」松陰の帝国主義的な思想を、「単なるお愛敬であり、青年客気の大言壮語でしかない」(海原徹・海原幸子『エピソードでつづる吉田松陰』ミネルヴア書房、二〇〇六年、二六頁)とのべ、松陰の思想のなかに占める帝国主義の比重を問題にしていない。
 この海原氏の見方は、松陰のもつ侵略主義的な考え方を全面否定しようとするもので、筆者は賛成できない。本書で論じたように、アジア経略を「天下万世継ぐべきの業」といい、師の山田宇右衛門に民政重視か、海外侵略重視かと悩んだ末、何れを先になすべきかと問いかけているのをみても、松陰が「青年客気の大言壮語」を叫んでいたとは思えない。なお海原氏の再考を望みたい。