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読書ノート / 思想
著者は、この本を書くに至った動機は次の3つであると説明しています。 1つめは、2006年に著者が出版した「近世儒者の思想挑戦」(思文閣出版)で吉田松陰を(儒者ではないからとして)扱わなかったことに、心残りがあったことです。 2つめは、従来の松陰伝が全面的な礼讃か、著者の時代思潮の投影(吉田松陰 変転する人物像(中公新書)はそのような投影の変遷を探ることをテーマとしています)であることが多いことに対し、客観性のある実像に近い思想を書いてみたいと思ったことです。 3つめは、保守化する時代風潮に対する次のような危惧です(9〜10ページ)。
目次は次のようになっています(出版元のカタログより)。 第1章は、松陰の生涯を、次の4つの時期に分けて、簡潔にまとめています。
第2章では、内面的価値観の形成を取り上げています。 士道、忠誠、死生観、学問観のそれぞれが4つの時期でどのように形成・変化したかを、松陰の著作物や手紙などの資料(古文)を引用しながら検証しています。 第3章では、4つの時期の外面的思想を、対外観、国体観、幕府観、政治思想の側面から分析しています。 対外観は、アヘン戦争など西欧諸国のアジア侵略(当時においては時事問題)を背景に、欧米諸国への強い警戒感で一貫していますが、ペリー来航以降はその矛先はもっぱらアメリカに向けられます。 著者は、松陰の国体観について次のように説明しています(137ページ)
このようにして形作られた「世界に冠たる国体」が、ナショナリズムの源泉であり、それが攘夷(日本を外的から守ること)に結びつきます。さらに、外国征服・国威拡大へと発展します。 そして、尊王は攘夷のための手段であった(攘夷尊王)のですが、やがて、天皇を憂うることから出発する攘夷でなければならない(尊王攘夷)と考えるようになります。 しかし、そのような尊王攘夷は直接倒幕に結びつくものではなかったと著者は見ています。松陰は、当初、無条件の敬幕でした。それが、決定的に変化するのは、1858年7月11日、日米修好通商条約の違勅調印を知ったときからです。このときから、松陰の尊王攘夷論は一気に倒幕へと走り出します。 著者は、松陰の政治思想について、次のように説明しています(164ページ)。ということは、「夷狄から日本を防禦し、世界に向って日本の国威を輝かすこと」以外には、これといった国家ビジョンはなかったということでしょうか。
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