現在端的に『福沢全集』と呼ばれているのは、大正版『全集』と昭和版『続全集』を併せたうえさらにその後に発見された論説や書簡を収録した富田正文・土橋俊一編の『福沢諭吉全集』である。この現行版の「時事新報論集」の編集方針は第八巻「後記」(一九六〇・二)によれば、以下のようなものである。
「時事新報」の社説は一切無署名で、他の社説記者の起草に係るものでもすべて福沢の綿密な加筆削正を経て発表されたもので、漫言や社説以外の論説も殆んど無署名または変名であるから、新聞の紙面からその執筆者を推定判別することは、今日の我々では能く為し得ない。大正昭和版正続福沢全集の編纂者石河幹明は、終始福沢の側近に在って社説のことを担当してゐたので、右のやうな判別はこの人でなければ他に為し得る者はないといってよいであらう。大正版全集の「時事論集」は、石河が時事新報社に在ったとき、自分の社説執筆の参考にするため、福沢執筆の主要な社説や漫言を写し取って分類整理して座右に備へておいたものを、そのまゝ収録したものであった。昭和版続全集の「時事論集」は、やはり石河が、大正版全集に洩れたものを、創刊以来の「時事新報」を読み直して一々判別して採録したものである。本全集では全く右の石河の判別に従って私意を加へず、僅かにその後に原稿の発見によって福沢の執筆と立証し得たものを追加したに過ぎない(現行版G六七一頁)。
つまり、富田は従来までの論説について新たな考証を何もしなかったのである。現行版『全集』は厳密な校訂に定評があり、富田はその功をもって一九六五(昭和四〇)年の学士院賞を受賞したのであるが、それはすでに選択されている論説を原典や原稿にまで立ち返って復元した、ということであって、新たに厳密な考証を行って選定しなおした、というのではなかったのである。先にも触れたように、富田は石河の助手として『福沢諭吉伝』や正続『全集』の編纂に携わったことから福沢研究の道に進んだのであった。その富田が昭和版の信頼性を損ねかねない論説の排除をしたくはなかったのは当然のことではある。
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さらに現行版の「時事新報論集」には多くの人々の福沢像を惑わす原因となった構成上の欠陥がある。それは、テーマ別に分類されていた大正版と昭和版の論説・漫言をいったん完全に個別化し、新たに掲載順に並べ替えたことである。そうすることでどの論説が福沢の真筆に近いものでどれが遠いのかを推定する手がかりが失われてしまい、結果として全てが福沢のものであるという誤解が生じてしまったのである。
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