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 福沢諭吉の真実 
 平山洋/著(文芸春秋)2004/8/20

 2016/2/4
 出版社の担当編集者は、本書を次のように紹介しています。
福沢諭吉はアジア蔑視の侵略主義者である。左翼論壇の一部からはこんな主張が絶えません。確かに『福沢諭吉全集』(岩波書店刊)には清国や朝鮮を下品な言葉で批判した文章がたくさん収録されています。しかし、それを書いたのは実は福沢ではなく、ある人物が福沢が書いたと偽って全集にもぐりこませたのだとしたらどうでしょうか。一体、誰がそんな悪質なまねをしたのか。その目的はなんだったのか。まさに前代未聞というべき「思想犯罪」の謎がついに解明されました。(AM)
 ここにある「左翼論壇の一部」の代表格は、安川寿之輔・名古屋大学名誉教授で、「福沢諭吉はアジア蔑視の侵略主義者である」とする多くの著作がありますが、週刊金曜日でその主張を紹介したインタービュー記事を、週刊金曜日の編集員である佐高信氏が批判し、論争になっています(週刊金曜日「論争欄」から: 『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク(ブログ))。
 ここに登場する「ある人物」とは、石河幹明のことで、雁屋哲氏によると、著者の論旨は次のようなものだそうです(福沢諭吉について2 | 雁屋哲の今日もまた)。 
 前回、私は福沢諭吉は興味のある思想家とは思えなかったたと書いた。
 しかし、AERAの記事を読んで福沢諭吉に改めて興味を抱き、まず平山洋氏の「福沢諭吉の真実」を買って読んだ。
 一読して、実に奇怪な本だと思った。
 長谷川煕氏はその元時事新報主筆をAと仮名で呼んでいるが平山洋氏はA氏ではなく本名の石河幹明氏を名指しで批判し、石河幹明氏が陰謀策動を時事新報社内で繰り広げ時事新報社内に生き残り、その結果主筆となり、晩年は福沢諭吉の言うことも聞かなくなり、自分で勝手に新聞の社説を書いたのみならず、後に福沢諭吉全集をまとめる際に、自分の書いた社説を福沢諭吉の物として沢山紛れ込ませたというのである。
 これを信ずるなら、途方もない、陰謀家がいたものである。
 そうともしらず、安川寿之輔氏などは、石河幹明氏の書いた粗悪な文章を福沢諭吉の物と思いこんで、福沢諭吉を批判しているのだと平山洋氏は言うのである。
 更に加えて、晩年脳溢血を患った福沢諭吉は、失語症にかかり、口もきけず文章も書けない状態になり、ますます石河幹明氏の言うなりになり、晩年の時事新報の社説はすべて石河幹明氏が書いたと平山氏は言う。

 平山氏は、大妻女子大学教授の井田進也氏が発明した、一つの文章を誰が書いたか判定するための「世界に冠たる画期的な方法」(と本人が言っている)を用いて、福沢諭吉全集の中の、「時事新報社説」の文章を本人が書いた物か、他の人間が書いた物か判定していったところ、福沢諭吉の真筆になるものははなはだ少ない、と言う結論に達した。

 私は、流石にこの記事に興味をひかれ、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」、井田進也氏の「歴史とテクスト」、安川寿之輔氏の「福沢諭吉と丸山真男」「福沢諭吉のアジア認識」を購入して精読した。
 その結果、平山洋氏と、井田進也氏の福沢諭吉について書いた物の内容は、とうてい信じるに値しない物と思った。
 安川寿之輔氏によると、井田進也氏は「平山(洋)氏と並べて”井田・平山呼ばわりはどうか御勘弁ください”」と返信しているそうです(週刊金曜日「論争欄」から: 『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク(ブログ))。
「井田進也をはじめ……『時事新報』の社説や漫言が福沢の直筆であったかどうか」を問題にした研究が「全面的な誤謬」であることは、私の『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(二〇〇六年、高文研、以下同様)で論証済みであり、井田からは直接の反論はなく、注文として「私の名前と方法を騙った・・・平山(洋)氏と並べて”井田・平山呼ばわりはどうか御勘弁ください”』という返信が来た(平山洋が同列同格以下という井田の見解は、共有)。
 私は、井田進也「歴史とテクスト」、安川寿之輔「福沢諭吉と丸山真男」「福沢諭吉のアジア認識」は読んでいないので、以下は本書を読んだ限りでの感想となります。

 著者は、福沢諭吉と石河幹明の違いについて、次のように述べています(149ページ)。
 福沢と比較して石河の考え方がどのように異なっているかといえば、概ね次の三点が挙げられる。まず第一に、石河は福沢と比べて天皇への崇敬心が甚だしく深いということである。また第二に、国際関係を経済的側面から考えることをせず、具体的な政治的勢力範囲として捉えがちであるということである。また第三に、中国人と朝鮮人に対する民族的偏見が非常に強いということである。これら三点が、福沢の署名論説や、無署名ではあってもはっきりと真筆と確認できる論説との著しい違いである。
 福沢諭吉の論説とされるもののうち、侵略主義的、中国朝鮮蔑視的表現は、すべて石河幹明によるものであると示唆しているようです。

 著者は、現行の福沢諭吉全集について、次のように述べています(77〜79ページ) 。

 現在端的に『福沢全集』と呼ばれているのは、大正版『全集』と昭和版『続全集』を併せたうえさらにその後に発見された論説や書簡を収録した富田正文・土橋俊一編の『福沢諭吉全集』である。この現行版の「時事新報論集」の編集方針は第八巻「後記」(一九六〇・二)によれば、以下のようなものである。

 「時事新報」の社説は一切無署名で、他の社説記者の起草に係るものでもすべて福沢の綿密な加筆削正を経て発表されたもので、漫言や社説以外の論説も殆んど無署名または変名であるから、新聞の紙面からその執筆者を推定判別することは、今日の我々では能く為し得ない。大正昭和版正続福沢全集の編纂者石河幹明は、終始福沢の側近に在って社説のことを担当してゐたので、右のやうな判別はこの人でなければ他に為し得る者はないといってよいであらう。大正版全集の「時事論集」は、石河が時事新報社に在ったとき、自分の社説執筆の参考にするため、福沢執筆の主要な社説や漫言を写し取って分類整理して座右に備へておいたものを、そのまゝ収録したものであった。昭和版続全集の「時事論集」は、やはり石河が、大正版全集に洩れたものを、創刊以来の「時事新報」を読み直して一々判別して採録したものである。本全集では全く右の石河の判別に従って私意を加へず、僅かにその後に原稿の発見によって福沢の執筆と立証し得たものを追加したに過ぎない(現行版G六七一頁)。

 つまり、富田は従来までの論説について新たな考証を何もしなかったのである。現行版『全集』は厳密な校訂に定評があり、富田はその功をもって一九六五(昭和四〇)年の学士院賞を受賞したのであるが、それはすでに選択されている論説を原典や原稿にまで立ち返って復元した、ということであって、新たに厳密な考証を行って選定しなおした、というのではなかったのである。先にも触れたように、富田は石河の助手として『福沢諭吉伝』や正続『全集』の編纂に携わったことから福沢研究の道に進んだのであった。その富田が昭和版の信頼性を損ねかねない論説の排除をしたくはなかったのは当然のことではある。
 ……
 さらに現行版の「時事新報論集」には多くの人々の福沢像を惑わす原因となった構成上の欠陥がある。それは、テーマ別に分類されていた大正版と昭和版の論説・漫言をいったん完全に個別化し、新たに掲載順に並べ替えたことである。そうすることでどの論説が福沢の真筆に近いものでどれが遠いのかを推定する手がかりが失われてしまい、結果として全てが福沢のものであるという誤解が生じてしまったのである。

 著者の主張どうりであったとしても、福沢諭吉の後継者が「福沢諭吉全集」として出版しているのですから、そこに収録されたものは、福沢諭吉自身によって書かれたものであると信頼するのは無理のないことだと思えます。さらに、福沢諭吉以外の者が書いた論説が含まれているとしても、誰がその区別を決めるのでしょうか。論者にとって、不都合なものは福沢諭吉が執筆していないとするのであれば、水掛け論となってしまいます。

 福沢諭吉の、侵略主義的、中国朝鮮蔑視的性格を象徴するものとして、頻繁に引用される「脱亜論」について、筆者は次のように述べ、諭吉自身によって書かれたものであると認めています(205ページ)。 

 とはいえ、井田進也によれば、日清戦争に先立つ一〇年前の「脱亜論」自体はやはり福沢のものであると判断してよいようである(『歴史とテクスト』一〇四頁)。私としても、先にも述べたように、論の運びの巧みさと語彙の平明さからいって真筆であると考えている。例えば「脱亜論」の中盤は『文明論之概略』第五章の要約になっているのであるが、そのまとめかたの手際のよさは作者ならではといえよう。また後半には朝鮮と中国における明治維新のような革命実現への期待が述べられているが、すでに見たように、同様の考えは一三年後に口述筆記された『福翁自伝』に示されている。


 著者は、「脱亜論」(1885年3月16日掲載、発表当時は無署名)そのものについては、次のように述べ、侵略主義的、中国朝鮮蔑視的性格が感じられることは認めています(198ページ)。

 左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり(現行版『全集』I二四〇頁)。

 なるほどこれだけを読めば福沢のアジアヘの差別意識はひどいものだ、という感想をもたれるのもある意味当然である。この「脱亜論」の評価についてはまた後に取り上げるが、ここであえて典型的なものを一つだけ挙げるならば、韓桂玉は『「征韓論」の系譜』(一九九六・一〇)において、福沢の思想の「根柢にあるのが、先進西欧に習い、近づくためには、これまで交流してきた朝鮮、中国など遅れた国との付合いは迷惑でむしろ支障となるので、これとは絶縁し西欧に目を向けようというアジア蔑視観」(同書六七〜六八頁)であり、「それが有名な『脱亜論』の論旨である」と述べている。
 とはいえ、この論説そのものが当時の読者にどのように映ったかということは、後年それをいかに位置づけるかとはまた違った事柄である。ここで試みに自らを一八八五年の『時事新報』の一読者と想定して「脱亜論」がどのような意味をもっていたかを考えてみると、その見え方はアジア蔑視の侵略賛美とは異なったものとなる。

 そして、@当時の時代風潮としては、特に注目されることはなかった、Aそれが、1961年になって、突如、有名になった、と指摘しています。
 @「脱亜論」発表当時、李氏朝鮮では、1882年8月、開化政策に反発した軍や民衆が壬午軍乱が起こし、その鎮圧に乗り出した清の影響力が増します。それに対し、1884年12月、金玉均ら開化派が日本公使館守備隊の支援の下、クーデターを起こしますが、清軍に制圧され失敗し、金玉均らは日本に亡命します。これが、甲申政変です。この後、開化派は過酷な弾圧を受けます。
 福沢諭吉は、金玉均ら開化派を支援しており、この事件に対する憤りと失望が「脱亜論」につながったといわれています。そして、このような朝鮮情勢に対する日本社会の反発があり、「脱亜論」もそのような風潮の中で特に注目を集めることはなかったと著者は指摘しています。
 A著者は次のように述べ、戦後、「脱亜論」が脚光を浴びるのに竹内好が大きな役割を果たした、と指摘しています(223〜224ページ)

 さらに論説「脱亜論」を有名にするのに果たした竹内の役割はもう一つある。それは「日本とアジア」の発表から二年後の一九六三年八月に、『現代日本思想大系』(筑摩書房刊)第九巻『アジア主義』の解説「アジア主義の展望」においてその全文を掲載していることである。同時期に刊行されたこの大系の第二巻(六三・九)は『福沢諭吉』の巻で、家永三郎による周到な解説「福沢諭吉の人と思想」が付されているのであるが、ここでは社説「脱亜論」には一言も触れられていない。もちろん「時事新報評論」の編に採録もされていない。つまり六三年夏の時点では碩学である家永の耳にさえ「脱亜論」の存在は届いていなかったのである。
 にもかかわらず竹内は、『福沢諭吉全集』よりもはるかに多くの人の眼に触れるところに、「脱亜論」を特に単独で切り抜いたのであった。福沢本人にとってはもとより石河や富田にも何ら特別な論説ではなかった「脱亜論」が、アジア主義者樽井藤吉の『大東合邦論』(一八九三)に比肩する反アジア主義を代表する論説に祭りあげられた瞬間である。丸山は「脱亜論」の一般化には主に竹内の影響力が寄与していたと述懐している(岩波書店刊『丸山真男座談』H〈一九九八・二一〉八三〜八四頁)。
 今も述べたように、竹内が「有名」と評する以前に論説「脱亜論」が一般に知られていたということはなかった。広範な社会層に影響を与えていた丸山が論説「脱亜論」自体には「古典からどう学ぶか」(一九七七・九)まで一切触れていないこともあって、五〇年代に「脱亜論」を知っていたのは服部の読者にほぼ限られていたようである。竹内以前になされたそれへの言及は、発見から一〇年のうちに岡を含めても僅かに五名六論文に過ぎない。ところが中国文学者として日本思想史という狭いジャンルのそとに多くの読者を有していた竹内の評価によって、以後論説「脱亜論」の紹介には「有名な」という形容が付されるのが通例となったのである。

 しかし、@発表当時、特に注目されなかった、A戦後も竹内好が意図的な取り上げ方をしなかったら、特に注目されることはなかった、という主張は、「脱亜論」に侵略主義的、中国朝鮮蔑視的傾向が認められるかということとは、直接の関係はないように思われます。