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 日本書紀の真実 : 紀年論を解く 
 倉西裕子/著(講談社選書メチエ)2003/5/1

 2022/8/18
 本書の検討に入る前に、いくつかの基本的事項をおさらいしておきます。

日本書紀と古事記
 古 事記と日本書紀のちがい|なら記紀・万葉を参考に、日本書紀と古事記の概要を比較すると次のようになります。
  日本書紀 古事記
完成  720年:元正天皇  712年:元明天皇
編集期間 38年 4か月
内容 30巻:神代〜持統 3巻:神代〜推古 
形式 編年体・漢文 物語調・和化漢文
出雲神話 大部分は省略  詳細
ヤマトタケル 自慢の息子 恐ろしい息子
神話 1巻 2巻

 日本書紀と古事記は、いずれも写本でしか残っていません。また、江戸初期に木版印刷で出版されています。これらの画像データは、ネット上で 閲覧できます。 
  出版本  写本
日本書紀 慶長 15年古活字版本(1610) 内 閣文庫本(1596〜1615)
古事記 寛永 版本(1610) 真福 寺本(1371〜1372) 
 日本書紀と古事記が木版印刷で出版されたことにより、江戸期に入って、新井白石や本居宣長らの本格的な研究が始まることになります。

紀年とは
 紀年とは「ある紀元から数えた年数」のことです。西暦年はキリストの誕生年を紀元とする紀年です。皇紀年は神武天皇の即位を紀元とする紀年 です。西暦2020年は、皇紀2680年となります。
 日本書紀では、各天皇の即位年を紀元とし、紀年順に歴史事実を編年体で記述しています。持統11年は西暦697年だと分かっているので、各 天皇の紀年をたどると、神武元年は紀元前660年であることが分かります。したがって、西暦2020年は、皇紀2680年となります。なお、 日本書紀によると、数か所の空位期があるので、皇紀の算出には、それらの年数も合算しています。歴代天皇の紀年数は次のようになります(14 ページ)。


十干十二支
 ところで、東アジア各国共通の暦法として干支があります(干 支@六十干支(ろくじっかんし) | 日本の暦)。
 十干はもともと、甲、乙、丙、丁…と、日を順に10日のまとまりで数えるための呼び名(符号)でした。
十干 音読み 五行 陰陽 五行陰陽 訓読み
こう 陽(兄) 木の兄 きのえ
おつ 陰(弟) 木の弟 きのと
へい 陽(兄) 火の兄 ひのえ
てい 陰(弟) 火の弟 ひのと
陽(兄) 土の兄 つちのえ
陰(弟) 土の弟 つちのと
こう 陽(兄) 金の兄 かのえ
しん 陰(弟) 金の弟 かのと
じん 陽(兄) 水の兄 みずのえ
陰(弟) 水の弟 みずのと
 十二支は、もともと12ヶ月の順を表わす呼び名でしたが、やがてこれらに12種の動物を当てはめるようになったものです。
十二支 音読み 訓読み 五行
ちゅう うし
いん とら
ぼう
しん たつ
うま
ひつじ
しん さる
ゆう とり
じゅつ いぬ
がい
 干支の組み合わせは60通りあり、これを順番に割り当てて行くと60年で一巡し還暦となります。 一巡したら、最初から順番に割り当てて行きます。 干支は東アジア各国共通ですから、干支に換算することにより異なる国の紀年を比較することができます。ただし、60年単位でずれが生ずる可能性はあります。
1 甲子 11 甲戌 21 甲申 31 甲午 41 甲辰 51 甲寅
2 乙丑 12 乙亥 22 乙酉 32 乙未 42 乙巳 52 乙卯
3 丙寅 13 丙子 23 丙戌 33 丙申 43 丙午 53 丙辰
4 丁卯 14 丁丑 24 丁亥 34 丁酉 44 丁未 54 丁巳
5 戊辰 15 戊寅 25 戊子 35 戊戌 45 戊申 55 戊午
6 己巳 16 己卯 26 己丑 36 己亥 46 己酉 56 己未
7 庚午 17 庚辰 27 庚寅 37 庚子 47 庚戌 57 庚申
8 辛未 18 辛巳 28 辛卯 38 辛丑 48 辛亥 58 辛酉
9 壬申 19 壬午 29 壬辰 39 壬寅 49 壬子 59 壬戌
10 癸酉 20 癸未 30 癸巳 40 癸卯 50 癸丑 60 癸亥
 
皇紀年を干支に換算か
 日本書紀と古事記には、各天皇の没年(崩年)が干支で記されています(古 事記崩年干支についての疑念)。

 ところで、中国で干支を年暦に用いたのは、前漢時代(前202〜後8)といわれていて、日本に暦法が伝えられたのは、『日本書紀』によれ ば、553年が最初だが、実際に暦法が政治のうえに採用されたのは推古朝になってからということです(十 干十二支(じっかんじゅうにし)とは - コトバンク)。
 では、どうして、日本書紀では神武天皇の没年が丙子と分かったのでしょうか。おそらく、まず歴代の天皇の紀年を作って、次に皇紀年の没年を 定めて、それを干支に換算したものと思われます。
 しかし、古事記は物語調で記載され、天皇の享年(宝算)以外に年代を示す手掛かりはありません。享年だけでは在位年数は分からないので、紀 年を算出することは出来ません。つまり、干支に換算する元のデータが存在しないことになります。したがって、古事記における天皇の没年の干支 はかなり怪しげなものといわざるを得ません。しかも、干支から西暦に換算する場合は、60年単位のずれが生じる可能性があります。上記の表の 古事記の西暦年は仮定の上に仮定を重ねたものといえそうです。

分注崩年干支
 前述のように、古事記は写本しか残っていません。最古の写本は真福寺本古事記で1371年から1372年にかけて写本されたといわれていま す(古 事記あれこれ)。なお、真福寺は、名古屋の大須観音として知られています。
 真福寺本古事記では、没年の干支は分注として記され、分注崩年干支と呼ばれています。具体的な記述は次のようになっています( 古 事記 : 国宝真福寺本. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。赤線で囲んだのが分注崩年干支です。右は「(履中天 皇は)壬申 正月三日に崩御し、御陵は毛受にある」、左は「(反正天皇は)丁丑七月に崩御し、御陵は毛受野にある」と記されています。なお、青線で囲んだ 「履中崩」「反正立」「反正崩」「允恭立」の記載は原典にはなく、後世加筆されたものです。なぜなら、履中、反正、允恭といった漢風諡号は、 762〜764年に淡海三船(おうみのみふね)が、それまでの歴代分をまとめて一挙に撰進したものだからです(読 書ノート/名前でよむ天皇の歴史/朝日新書 )。本書31ページによれば、分注崩年干支も後世加筆されたものではないかという意見もあるそうです。

3つの論点
 紀年論とは、日本書紀の紀年に関する論争のことを指しますが、著者によると、論点は次の3つに集約されるそうです(21ページ)。
1 神功紀の年代的不整合
2 倭の5王の在位期間の不整合
3 非現実的な長期在位や長寿

神功紀・応神紀における120年のずれ
 日本書紀の神功紀には次のような記載があります。ピンクで示したのは、中国の歴史書(魏志倭人伝・晋書)からの引用(文註)で、水色で示し たのが百済関連の本文(正文)です。ピンクの部分は、(神功紀の年代から換算される)西暦と一致しています。水色の部分は、西暦とは120年 ずれています。
神功紀 西暦
干支 神功紀の記述
39年 239 景初三年 己未 魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
40年 240 正始元年 庚申 魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭国也。」
43年 243 正始四年 癸亥 魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
55年 255 近肖古王
30年(375)
乙亥 百濟肖古王薨
56年 256 近仇首王
2年(376)
丙子 百濟王子貴須、立爲王
64年 264 枕流王元年
(384) 
甲申 百濟国貴須王薨。王子枕流王立爲王
65年 265 枕流王二年
(385)
乙酉 百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王
66年 266 泰初二年 丙戌 晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」
 応神紀でも、百済関連の記述に西暦と120年のずれがみられます。
応神紀 西暦
応神紀の記述 
3年 272 阿華王即位(392) 紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸
8年 277 王子直支来日(397) 百濟記云「遣王子直支于天朝」
16年 285 阿華王没(405)  是歲、百濟阿花王薨
 このような神功紀・応神紀における120年のずれを、どう解釈するかが、紀年論の1番目の論点です。

干支二運繰り上げ説
 新井白石や本居宣長も、このような矛盾に気づいていました。明治に入り、東洋史学者の那珂通世が「干支二運(120年)繰り上げ説」という 主旨の学説を提唱します。この説では、日本書紀の編者が、日本の紀年をより古くみせ、各天皇の寿命をより長くみせるために、神功皇后・応神天 皇の年次を実際よりも120年引き上げた、と推定したそうです( 神 功・応神朝の実年代について)。
 この説に従えば、神功皇后の在位期間は、321年から389年となり、応神天皇の在位期間は、390年から430年となります。一方、雄略 天皇以降の年次は信頼できるとしています。 
 従って、仁徳天皇から安康天皇までの5代、313年から456年までの144年間の合計在位期間が、433年から456年までの24年間に 圧縮されることになります。
 では、魏志倭人伝を引用した神功記の各条はどうなるのでしょうか。これらの記述については「史料としての有効性、妥当性を認めず、紀年延長 のためのいわば方便とみなし、百済国王関連記事のみに信頼を置いた説として理解されるでしょう」と著者は述べています(27ページ)。

百済三書vs三国史記
 日本書紀の百済関係の記述の史料となっているのが百済三書です。
原本は散逸していますが、引用文などから三書の内容は次のようなものであると推測されています( 百済記・百済新撰・百済本記とは - コトバンク)。
百済記 物語的 神功〜雄略紀
百済新撰 編年体のよう 雄略〜武烈紀
百済本記 日付に干支まで添え 継体〜欽明紀
 百済三書は、次のように、日本書紀の26か所の註で具体的に引用されているほか、百済との対外交渉を 示す記載の主要な編纂史料とされたと考えれています(『日 本書紀』編纂史料としての百済三書)。
百済三書 註で具体的に引用
百済記 神功・応神・雄略紀に5条
百済新撰 雄略・武烈紀に3条
百済本記 継体・欽明紀に18条
 百済三書が引用され ているのは日本書紀のみで、逸文(引用などの形で残っている断片的文章)には、「天皇」や「日本」など、明らかに7世紀後半以降に使用が開始 された用語が含まれているそうです。各史書は、次のような内容であったと推測されています(『日 本書紀』編纂史料としての百済三書)。
百済本記 亡命百済王氏の祖王の時代を記述
百済記 百済と倭国の通交および「任那」支配の歴史的正統性を描く目的
百済新撰 系譜的に問題のあったF毗有王〜J武寧王の時代を語ることにより、傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識 をまとめたもの
 また、百済三書の成り立ち及び信頼性について、次のような指摘もあります(4 世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−)。
……@百済で編纂された某種の史料があり、A百済遺民がこれらを一部再編し日本朝廷に提出し、B『日本書紀』撰者がこれ を全般的に潤色することで『日本書紀』の百済関連記事が成立したという総合的観点、すなわち三段階編纂論が通説だと言える。 したがって百済三書記事の史料的価値を過度に信頼することは危険である。
 一方、朝鮮の古代史を扱った歴史書としては、三国史記と東国通鑑があります。三国史記は、高麗時代の1145年に完成したもので、それ以前 にあった「三国史」(現存していない)を基にして補完したものと考えられています( 三国史記とは - コトバンク)。東国通鑑は、李氏朝鮮時代の1484年に完成したものですが、他書の引用や誤りが多く、史料と し てはあまり重視されていないということです( 東国通鑑とは - コトバンク)。
三国史記 1145 朝鮮の古代三国 (新羅、高句麗、百済) に関する唯一の体系的史書。原史料が散逸したためか、百済本紀は貧弱
東国通鑑 1484 三国時代から高麗時代末までを記術。他書の引用や誤りが多く信憑性が薄い
 前述のように、神功記と応神記において、百濟関連の記述に西暦と120年のずれが生じていますが、それは、百済三書の百済記の引用されてい る年代と、三国史記や東国通鑑から導かれる年代に120年のずれが生じていることを意味します。百済記を引用するとき年代を間違えた可能性も あると思うのですが、意図的にずらしたというのが「通説」だそうです。

近肖古王以前に、肖古王
 百済世界遺産センターによると、百済王家の系図は次のようになっています( 百済歴代王系図)。これによると、百済には、近肖古王以前に、肖古王という国王がいたことになります。神功記55年は「肖古王」 が死去したとなっていますが、これは「近肖古王」を指すと一般的には考えられているようです。

 もっとも、コトバンクによれば、百済の歴史が文献のうえで確実になるのは近肖古王(在位346〜375)の時代からということですから( 近肖古王とは - コトバンク) 、この系図がどこまで信頼できるのかについては、疑問も感じます。

分注崩年干支は中国文献と整合性?
 紀年論の第2の論点は「倭の5王の在位期間の不整合」です。宋書など中国の歴史書に、倭の5王が使いを遣わしたという記録があります。王名 と年代は次のようになります(29〜30ページ)。
讃 (賛) 421
425
珍 (彌) 438
443
451
462
478
502
 日本書紀の歴代天皇の在位期間から推測して、倭の5王にあてはめると次のようになります。
允恭 讃・珍・済
雄略 興・武
武烈
 古事記の各天皇の崩年(没年)から推測して、倭の5王にあてはめると次のようになります。
仁徳
允恭 珍・済
安康 興・武
雄略 興・武
武烈
 この結果について、本書では次のように説明しています(32、34ページ)。しかし、「比較的無理なく整合性を主張され得る」といっても、 たまたま仁徳の場合うまくあてはめることが出来ただけであって、それ以外は納得の行く結果は得られていないのではないかという気がします。
 しかしながら、中国文献の伝える「倭の五王」の遣使年代は、『書紀』の編年による歴代の在位期間ではなく、むしろ、分 注崩年干支による歴代の在位期間との間において比較的無理なく整合性を主張され得る結果となっていることは注目されま す。……
 明治時代の「紀年論争」において、那珂博士も、まず、この点に着目しています。「紀年論争」の発端となった『書紀』の「紀 年」の修正案は、分注崩年干支と「倭の五王」の遣使の年代という二種類の絶対年代を比較検証することによって導き出されたと 言うことができます。那珂博士が「上代年紀考」において提示した分注崩年干支は、史実としての真偽の問題は別として、五世紀 以降の応神天皇以降の歴代に関しては、今日においても、最も説得力のある学説として受け入れられています。

繊緯思想の影響を受けて構想?
 紀年論の第3の論点は「非現実的な長期在位や長寿」です。
 日本書紀と古事記における歴代天皇の在位期間と享年(宝算)は次のとおりです(36〜37ページ)。


 在位期間と享年(宝算)は、客観的基礎データであるにもかかわらず、ごく一部の例外を除いて、日本書紀と古事記では全く異なっています。日 本書紀と古事記の編纂時に帝紀が文書として存在したのであれば、このような著しい食い違いは生じなかったのではないかと思われます。
 さらに、日本書紀と古事記においては、仁徳以前は100歳以上の長寿が普通であって、60歳で即位し120歳まで生きた例も珍しくありませ ん。今でこそ100歳以上の長寿も可能となっていますが、それはごく最近のことです。弥生時代や古墳時代では、ありえないデータです。
 この点に関して、本書では次のように述べています(17〜18ページ)。
 また、江戸後期の国学者であり、本居宣長没後門人の伴信友(ばんのぶとも、一七七三〜一八四六年)は、一八四七(弘化 四)年に「日本紀年暦考」(『比古婆衣(ひこばえ)』所収)を著して、『書紀』の「紀年」が繊緯(しんい)思想の影響を受け ている点を指摘しています。繊緯思想と陰陽思想の結びついた繊緯暦運説においては、「一蔀(ほう)」及び「辛酉革命(しんゆ うかくめい)」という観念があります。十干と十二支から組み合わされる干支においては、同じ干支がめぐってくる一運分が六〇 年となるわけですが、一運分の六〇年を「一元(げん)」として、身体構造上に変化が起こり、二一元の一二六〇年(六〇×二 一=一二六○)を「一蔀」として、政体上の大変化が起こるとされています。また、「辛酉」の年には天命が革(あらた)まって 革命があるとする「辛酉革命」が観念されています。「神武元年」の紀元前六六〇年は、ちょうど「辛酉」の年に当たるために、 『書紀』は、西暦六○一(推古九)年の「辛酉」の年から「一蔀」の一二六〇年を引いた紀元前六六〇年に「神武元年」が位置す るように、紀年が適宜人為的に引き延ばされていると伴信友は主張したのです。表1のように、孝安(こうあん)天皇の一〇二年 や垂仁天皇の九九年など、一代の紀年数(在位年数)にしては、現実的ではない長すぎる数字となっていることも、伴信友の説を 補強するものとなっています。
 このように、江戸時代において、『書紀』の「紀年」には疑義があるとする基本認識がすでに成立しており、本居宣長によって 指摘された巻九の神功紀、もしくは、巻一○の応神紀のころに紀年が一二○年繰り上げられているとする知見、そして、伴信友に よって提唱された紀年は繊緯思想の影響を受けて構想されているとする考えは、今日においても『書紀』の紀年研究の定石として の価値を失っていません。
 神武元年から1260年経った推古9年は辛酉の年にも当たります。しかし、次のように(推 古紀)、その前後で政体上の大変化が起こっていませんし、天命も革まっていません。つまり、神武元年が紀元前660年でなければ ならない必然性はないのです。むしろ、乙巳の変や壬申の乱から1260年遡って神武元年とした方が、繊緯暦運説にかなっているといえます。ま た、辛酉革命については、「辛酉の年は天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な運にあたる年であるため、改元してその難を避ける習慣が おこった」(辛 酉革命とは - コトバンク)ということですから、神武元年になぜそのような危険な干支を選んだのか疑問です。もっとも、王朝が 始まるのは一種の革命と言えるのかもしれません。
600年  境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍とし万余の軍で新羅を撃つ (推古8年)
601年2月 皇太子、宮室を斑鳩に建てる(推古9年) 
601年3月 大伴連齧を高麗に、坂本臣糠手を百済に遣わし詔勅「急救任那」
601年5月 推古天皇は耳梨の行宮に居
602年2月 来目皇子を新羅を撃つ将軍とし、兵2万5千を授けた (推古10年)
602年6月 大伴連齧と坂本臣糠手が共に百済から帰る
 伴信友説が「定石としての価値を失っていない」ということですが、その理由は、この説が「もともと合理的な歴史記述があった」が、「適宜人 為的に引き延ばされた」ため「非現実的な記述になった」ということを前提にしているからだと思われます。

いずれも満足できる結果は得られていない
 そこで、「引き延ばされた」ものを元に戻せば、「合理的歴史記述」にたどり着けるのではないかと、次のような試みがなされて来ましたが、い ずれも満足できる結果は得られていないということです(38〜40ページ)。
春秋二倍歴説 
内容  上古代では、春夏、秋冬をそれぞれ1年として数えていた
問題点 3〜8月の紀年と9〜2月の紀年が交互に組まれていなければならないが、実際はそのようになっていない 
復元紀年説 
内容  空白年次をすべて除く 
問題点 倭の5王の遣使年代との整合性が保たれていないため、別の操作が必要となる 
統計学的手法 
内容  平均在位年数を用いる
問題点 平均在位期間と史実としての在位期間の間に、現実には大きな齟齬が生じてしまう 
 
紀年論自体が閑却される傾向
 著者は、次のように述べて(41〜42ページ)、紀年論の論争点は解明されていないこと、そして、学問領域としての紀年論自体が閑却される 傾向にあることを認めています。そして、異なる論証方法を用いて再構築することを宣言しています。
 前節において述べてきましたように、『書紀』をめぐる「紀年論」は、研究方法や論証過程は複雑化し、なおさら混迷を深 めています。(1)巻九の神功紀に見られる年代的不整合、(2)国内外の史料による絶対年代と巻一○の応神紀以降の歴代天皇 の在位期間との矛盾、そして、(3)在位期間や宝算における非現実的数字、以上三つの論争点をめぐって、諸説が立てられてい るのですが、結論は、しばしば相互に矛盾するものとなっています。これらの三つの論争点のすべてを、満足に解決し得る「紀年 論」は、これまでのところ登場していません。
 ……
 すなわち、『書紀』の編纂者が、どのように紀年と実年代との対照関係を構想し、構築していたのかは、未解決の現状にあるの です。
 また、戦後においては、『書紀』そのものに対する史料的評価の低下から、むしろ、神代上下を中心に神話学や民族学において 扱われ、紀年と実年代との対照関係を解明することを学問領域とする「紀年論」自体が、閑却される傾向にあります。
 本書は、明治時代において取り組まれながらも、いまだ、多くの問題点と疑問点を抱え、また、袋小路に入ってしまったかの観 のある『書紀』の紀年問題を再び取り上げます。そして、これまでの研究成果を踏まえながらも、従来の研究方法・アプローチと は異なる論証方法を用いて、「紀年論」を再構築するものとなります。

神功皇后は、3人の人物の総称?
 では、著者の言う「異なる論証方法」とは、どのようなものでしょうか。「神功皇后は、少なくとも3人いた」という次のような記述 (177〜179ページ)を参考に検討することにします。
少なくとも三人いた
 本章における考察を通して、『書紀』においては「神功皇后」という一人の人物に対して複数の人物の事績が投影されている点 も、また明らかとなりました。
 神功紀は、西暦二〇一年から三八九年までの一八九年間を扱っていますので、『書紀』において神功皇后の事績として記される 内容は、人間の寿命を考えると、ただ一人の人物の事績を記録したものではあり得ません。『書紀』の編纂者は、『魏志倭人伝』 に通じており、女王卑弥呼をB'列における「神功皇后」として扱っています。しかしながら、『魏志倭人伝』は、魏朝の正始八 年の二四七年頃に女王卑弥呼が崩御し、その後に男王によるわずかな在位の後に女王卑弥呼の宗女の壹与が擁立されたと記してい ます。このため神功摂政六六年条(B'列:二六六年)に記される『晋書』「起居注」からの引用文に登場する「倭女王」とは、 卑弥呼ではなく壹与であると『書紀』の編纂者は想定していたこととなります。

 さらに、A'列に関しても、西暦三二一年を神功摂政元年とする「神功皇后」が、女王卑弥呼や女王壹与に比定されているはず はなく、対外関係の記述に登場する応神天皇の母后であったと考えられます。すなわち、「神功皇后」に関しては、少なくとも三 人の人物像が投影されているのです。そればかりか、さらなる「神功皇后」の存在も視野に入れる必要があるのかもしれません。
「神功皇后」をめぐって、B'列においては女王卑弥呼と壹与、そしてA'列においては応神天皇の母后の少なくとも三者を投影 させていると考えられる点は重要です。『書紀』の編纂方針として、一人の人物名に複数の実在の人物の事績を投影させることが 容認されており、こうした方針は、「葛城襲津彦」をめぐっても数代の人物像が投影されている可能性を想定したように、「神功 皇后」だけではなく他の人物名に対しても適用されていると理解されます。
 なお、図V–3に示されるように、A'列とB'列においてもカバーすることができない西暦二七〇年から三二〇年までの五一 年間には、紀年と実年代とを対照させるための年代列が存在していないことは、今後の研究課題としておくこととしましょう。
 著者は、A'列では干支二運繰り上げ説により、神功摂政元年を321年としています。一方、B'列では魏志倭人伝を引用した部分も無視でき ないとして、神功摂政元年を201年としています。そして、歴史記述としてはA'列もB'列も肯定するので、神功紀は実質的に189年に延長 されることになります。ただし、A'列は干支二運繰り上げられているので、神功紀の記載上は、A'列とB'列は同時代に混在していることにな ります。
 また、B'列の神功皇后は卑弥呼をモデルにしていると考えますが、魏志倭人伝では卑弥呼は247年に死去し、晋書によると266年に壹与が 倭女王として登場するので、神功皇后は壹与をもモデルにしていると考えます。
 以上の結果、神功皇后は、応神天皇の母、卑弥呼、壹与という3人の人物の総称ということになります。そして、3人が実在したとするならば、 総称としての神功皇后も実在したことになります。

漫画のような三韓征伐
 神功皇后の実在性を疑わせるものとして、三韓征伐と100歳の長寿があります。
 三韓征伐とは、日本書紀によれば、200年に神功皇后が行ったという朝鮮への出兵です。「金銀宝石いっぱいの新羅を討て」という神のお告げに従わなかった仲哀天皇が急死します。そこで、妻の神功が代わって出兵したところ、風と波と海の魚が軍船を助け押し寄せ、大津波となり国の半分に達したため、恐れおののいた新羅国王が戦わずして降伏したというものです。それを聞いた高麗(高句麗?)と百済の国王も戦わずして降伏し たという漫画のような話です(日本神話・神社まとめ神功皇后の三韓征伐の伝承は、7世紀の中ごろに作り出された参照)。
 そもそも、新羅や百済が国家として成立するのは4世になってからですし、卑弥呼が朝鮮に出兵したという話は魏志倭人伝には出てきません。
 また、身重の神功皇后は、遠征から帰国直後に応神天皇を産み、その後70年間摂政として統治し100歳で亡くなったということです。そし て、応神天皇は70歳でようやく即位し110歳まで生きたことになっています。そして、次の仁徳天皇は87年間在位したことになっていますか ら、130歳近い長寿となってしまいます。
 これら現実離れした話について、「異なる論証方法」は何も述べていません。

三韓征伐はあながち嘘とはいえない?
 ネット情報や保守系出版物では、三韓征伐は事実だったという説が見受けられます。たとえば、 渡部昇一「決定版 人物日本史」は次のように述べています。
 こうして三韓征伐をすることになったわけだが、その様子が『古事記』には次のように書かれている。
 追い風が盛んに吹いて船は浪に乗ってすらすらと進んだ。船の走る勢いで大波が起こり、それが新羅の国に押し寄せて 国の半分が沈んだ。新羅の国王は恐れをなして「これからは天皇の仰せに従って御馬飼になって、毎年船を並べて貢ぎ物 を捧げてお仕えします」といった。これによって新羅の国を御馬飼と定め、百済は海外にある御料田(領地)を司る 渡屯家と定めた。皇后は杖を新羅の国の国王の宮殿の門に突き立ててしるしとした。そして三柱の墨江の大神の 荒御魂を、三韓を鎮めて長く我が国に服従し朝貢するように新羅の国に祀って帰って来た。
 これが具体的に何をいっているのかはわからないのだが、その当時、このような話があったのだろう。『日本書紀』を見ると、 この三韓征伐のあと新羅や百済から貢ぎ物が毎年のように来ていることが書かれている。ということは、確かに このとき新羅と百済を征服したという事実があったということだろう。
 好太王碑によれば、西暦三九一年に倭の軍が出てきて、百済や新羅を破ったという記述がある。それから三九七年には 百済が王子を倭に人質に出している。四〇〇年には高句麗の五万の兵が南に下って新羅を助け、撤退した倭の軍を追って加羅を攻撃したが、倭の軍が反撃して新羅の首都を再び占領した。加羅というのは日本の植民地みたいなところである。 そして四〇四年には倭の軍が帯方郡に出兵し戦ったという記録がある。
 他の文献からもわかることは、当時のシナは日本のことは知らず、朝鮮半島の南と日本の島を合わせて倭といってい る。好太王碑にはシナ人から見た倭の動向を刻んでいるわけだが、この記述内容からして神功皇后の三韓征伐はあながち 嘘とはいえないのではないかと私は思っている。
 ここでは、古事記の記述を紹介していますが、古事記には高句麗は登場しないので、正確に言えば「三韓征伐」ではありません。なお、日本書紀にも「三韓を征伐する」という表現は出てきません。
 そもそも、何ら紛争もないのに金銀財宝目当てに侵攻すれば、海賊行為(倭寇)であり国家規模で行えば侵略行為です。しかし、そこは「神のお告げに従ったまで」という釈明が用意されています。
 明治以後、「征韓論」「台湾征伐」「暴支膺懲」などの表現が現れますが、そこには「神国日本がアジア諸国を指導矯正するのが当然である」という意識があり、そのことに、この「三韓征伐」は何らかの影響を与えたのではないかと思われます。
 ところで、ここでは好太王碑の話が出てきます。ただし、この話は400年頃のことなので、「三韓征伐」とは200年ほどずれています。
 実は、神功紀49年(西暦249年)によれば、神功皇后は、荒田別と鹿我別を派遣し新羅を撃ち破ったことになっています。そこで、干支二運繰り上げ説を使えば、2回目の出兵は369年のことになり、好太王碑の話とだいぶ近くなります。すると、「神功皇后の三韓征伐はあながち嘘とはいえない」と、主張しえなくはないことになります。

仁徳天皇陵は誰のお墓?
 いわゆる仁徳天皇陵の被葬者が誰かは、よく分かっていません。日本書紀によれば、313年から399年まで在位したことになっていますが、堤で見つかった円筒埴輪は5世紀前半〜中頃の特徴を持っているからです(仁徳天皇陵で円筒埴輪列を確認 築造に数十年のずれか 宮内庁と堺市が初の共同調査)。
 堺市では、次のように、仁徳天皇のお墓と考えられている古墳という意味で、「仁徳天皇陵古墳」と呼んでいるそうです( 仁徳天皇陵古墳百科 堺市)。
 仁徳天皇陵古墳は、日本最古の歴史書『日本書紀』などで4世紀(313年から399年)に在位していたと記されている仁徳天皇のお墓として宮内庁によって管理されています。しかし、最近の研究で古墳の造られた時代が5世紀だとわかってきたので、本当に葬られた人がわからなくなっています。現在、堺市では、仁徳天皇のお墓と考えられている古墳という意味で、「仁徳天皇陵古墳」という名前を使っています。
 では、干支二運繰り上げ説を使えば良いではないかということになりそうです。この説によれば、応神天皇は430年に没したことになり、仁徳天皇陵の被葬者は応神天皇だったと言えそうです。しかし、そうすると仁徳天皇の在位期間は、433年から519年ということになって、これはさすがに無理があります。
 そこで、分注崩年干支を使えば、仁徳天皇は427年に没したことになるので、仁徳天皇陵の被葬者は仁徳天皇だと主張できそうです。しかし、今度は、神功皇后と応神天皇の在位期間は合わせて32年ということになり、日本書紀の記述からは、さすがに無理があります。
 結局、干支二運繰り上げ説と分注崩年干支の都合の良い部分だけ採用し、不都合な部分はあえて無視するほかなさそうです。