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読書ノート / 古代史
日本書紀と古事記 古 事記と日本書紀のちがい|なら記紀・万葉を参考に、日本書紀と古事記の概要を比較すると次のようになります。
日本書紀と古事記は、いずれも写本でしか残っていません。また、江戸初期に木版印刷で出版されています。これらの画像データは、ネット上で 閲覧できます。
紀年とは 紀年とは「ある紀元から数えた年数」のことです。西暦年はキリストの誕生年を紀元とする紀年です。皇紀年は神武天皇の即位を紀元とする紀年 です。西暦2020年は、皇紀2680年となります。 日本書紀では、各天皇の即位年を紀元とし、紀年順に歴史事実を編年体で記述しています。持統11年は西暦697年だと分かっているので、各 天皇の紀年をたどると、神武元年は紀元前660年であることが分かります。したがって、西暦2020年は、皇紀2680年となります。なお、 日本書紀によると、数か所の空位期があるので、皇紀の算出には、それらの年数も合算しています。歴代天皇の紀年数は次のようになります(14 ページ)。 十干十二支 ところで、東アジア各国共通の暦法として干支があります(干 支@六十干支(ろくじっかんし) | 日本の暦)。 十干はもともと、甲、乙、丙、丁…と、日を順に10日のまとまりで数えるための呼び名(符号)でした。
皇紀年を干支に換算か 日本書紀と古事記には、各天皇の没年(崩年)が干支で記されています(古 事記崩年干支についての疑念)。 ところで、中国で干支を年暦に用いたのは、前漢時代(前202〜後8)といわれていて、日本に暦法が伝えられたのは、『日本書紀』によれ ば、553年が最初だが、実際に暦法が政治のうえに採用されたのは推古朝になってからということです(十 干十二支(じっかんじゅうにし)とは - コトバンク)。 では、どうして、日本書紀では神武天皇の没年が丙子と分かったのでしょうか。おそらく、まず歴代の天皇の紀年を作って、次に皇紀年の没年を 定めて、それを干支に換算したものと思われます。 しかし、古事記は物語調で記載され、天皇の享年(宝算)以外に年代を示す手掛かりはありません。享年だけでは在位年数は分からないので、紀 年を算出することは出来ません。つまり、干支に換算する元のデータが存在しないことになります。したがって、古事記における天皇の没年の干支 はかなり怪しげなものといわざるを得ません。しかも、干支から西暦に換算する場合は、60年単位のずれが生じる可能性があります。上記の表の 古事記の西暦年は仮定の上に仮定を重ねたものといえそうです。 分注崩年干支 前述のように、古事記は写本しか残っていません。最古の写本は真福寺本古事記で1371年から1372年にかけて写本されたといわれていま す(古 事記あれこれ)。なお、真福寺は、名古屋の大須観音として知られています。 真福寺本古事記では、没年の干支は分注として記され、分注崩年干支と呼ばれています。具体的な記述は次のようになっています( 古 事記 : 国宝真福寺本. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。赤線で囲んだのが分注崩年干支です。右は「(履中天 皇は)壬申 正月三日に崩御し、御陵は毛受にある」、左は「(反正天皇は)丁丑七月に崩御し、御陵は毛受野にある」と記されています。なお、青線で囲んだ 「履中崩」「反正立」「反正崩」「允恭立」の記載は原典にはなく、後世加筆されたものです。なぜなら、履中、反正、允恭といった漢風諡号は、 762〜764年に淡海三船(おうみのみふね)が、それまでの歴代分をまとめて一挙に撰進したものだからです(読 書ノート/名前でよむ天皇の歴史/朝日新書 )。本書31ページによれば、分注崩年干支も後世加筆されたものではないかという意見もあるそうです。 3つの論点 紀年論とは、日本書紀の紀年に関する論争のことを指しますが、著者によると、論点は次の3つに集約されるそうです(21ページ)。
神功紀・応神紀における120年のずれ 日本書紀の神功紀には次のような記載があります。ピンクで示したのは、中国の歴史書(魏志倭人伝・晋書)からの引用(文註)で、水色で示し たのが百済関連の本文(正文)です。ピンクの部分は、(神功紀の年代から換算される)西暦と一致しています。水色の部分は、西暦とは120年 ずれています。
干支二運繰り上げ説 新井白石や本居宣長も、このような矛盾に気づいていました。明治に入り、東洋史学者の那珂通世が「干支二運(120年)繰り上げ説」という 主旨の学説を提唱します。この説では、日本書紀の編者が、日本の紀年をより古くみせ、各天皇の寿命をより長くみせるために、神功皇后・応神天 皇の年次を実際よりも120年引き上げた、と推定したそうです( 神 功・応神朝の実年代について)。 この説に従えば、神功皇后の在位期間は、321年から389年となり、応神天皇の在位期間は、390年から430年となります。一方、雄略 天皇以降の年次は信頼できるとしています。 従って、仁徳天皇から安康天皇までの5代、313年から456年までの144年間の合計在位期間が、433年から456年までの24年間に 圧縮されることになります。 では、魏志倭人伝を引用した神功記の各条はどうなるのでしょうか。これらの記述については「史料としての有効性、妥当性を認めず、紀年延長 のためのいわば方便とみなし、百済国王関連記事のみに信頼を置いた説として理解されるでしょう」と著者は述べています(27ページ)。 百済三書vs三国史記 日本書紀の百済関係の記述の史料となっているのが百済三書です。 原本は散逸していますが、引用文などから三書の内容は次のようなものであると推測されています( 百済記・百済新撰・百済本記とは - コトバンク)。
近肖古王以前に、肖古王 百済世界遺産センターによると、百済王家の系図は次のようになっています( 百済歴代王系図)。これによると、百済には、近肖古王以前に、肖古王という国王がいたことになります。神功記55年は「肖古王」 が死去したとなっていますが、これは「近肖古王」を指すと一般的には考えられているようです。 もっとも、コトバンクによれば、百済の歴史が文献のうえで確実になるのは近肖古王(在位346〜375)の時代からということですから( 近肖古王とは - コトバンク) 、この系図がどこまで信頼できるのかについては、疑問も感じます。 分注崩年干支は中国文献と整合性? 紀年論の第2の論点は「倭の5王の在位期間の不整合」です。宋書など中国の歴史書に、倭の5王が使いを遣わしたという記録があります。王名 と年代は次のようになります(29〜30ページ)。
繊緯思想の影響を受けて構想? 紀年論の第3の論点は「非現実的な長期在位や長寿」です。 日本書紀と古事記における歴代天皇の在位期間と享年(宝算)は次のとおりです(36〜37ページ)。 在位期間と享年(宝算)は、客観的基礎データであるにもかかわらず、ごく一部の例外を除いて、日本書紀と古事記では全く異なっています。日 本書紀と古事記の編纂時に帝紀が文書として存在したのであれば、このような著しい食い違いは生じなかったのではないかと思われます。 さらに、日本書紀と古事記においては、仁徳以前は100歳以上の長寿が普通であって、60歳で即位し120歳まで生きた例も珍しくありませ ん。今でこそ100歳以上の長寿も可能となっていますが、それはごく最近のことです。弥生時代や古墳時代では、ありえないデータです。 この点に関して、本書では次のように述べています(17〜18ページ)。
いずれも満足できる結果は得られていない そこで、「引き延ばされた」ものを元に戻せば、「合理的歴史記述」にたどり着けるのではないかと、次のような試みがなされて来ましたが、い ずれも満足できる結果は得られていないということです(38〜40ページ)。
紀年論自体が閑却される傾向 著者は、次のように述べて(41〜42ページ)、紀年論の論争点は解明されていないこと、そして、学問領域としての紀年論自体が閑却される 傾向にあることを認めています。そして、異なる論証方法を用いて再構築することを宣言しています。
神功皇后は、3人の人物の総称? では、著者の言う「異なる論証方法」とは、どのようなものでしょうか。「神功皇后は、少なくとも3人いた」という次のような記述 (177〜179ページ)を参考に検討することにします。
また、B'列の神功皇后は卑弥呼をモデルにしていると考えますが、魏志倭人伝では卑弥呼は247年に死去し、晋書によると266年に壹与が 倭女王として登場するので、神功皇后は壹与をもモデルにしていると考えます。 以上の結果、神功皇后は、応神天皇の母、卑弥呼、壹与という3人の人物の総称ということになります。そして、3人が実在したとするならば、 総称としての神功皇后も実在したことになります。 漫画のような三韓征伐 神功皇后の実在性を疑わせるものとして、三韓征伐と100歳の長寿があります。 三韓征伐とは、日本書紀によれば、200年に神功皇后が行ったという朝鮮への出兵です。「金銀宝石いっぱいの新羅を討て」という神のお告げに従わなかった仲哀天皇が急死します。そこで、妻の神功が代わって出兵したところ、風と波と海の魚が軍船を助け押し寄せ、大津波となり国の半分に達したため、恐れおののいた新羅国王が戦わずして降伏したというものです。それを聞いた高麗(高句麗?)と百済の国王も戦わずして降伏し たという漫画のような話です(日本神話・神社まとめ、神功皇后の三韓征伐の伝承は、7世紀の中ごろに作り出された参照)。 そもそも、新羅や百済が国家として成立するのは4世になってからですし、卑弥呼が朝鮮に出兵したという話は魏志倭人伝には出てきません。 また、身重の神功皇后は、遠征から帰国直後に応神天皇を産み、その後70年間摂政として統治し100歳で亡くなったということです。そし て、応神天皇は70歳でようやく即位し110歳まで生きたことになっています。そして、次の仁徳天皇は87年間在位したことになっていますか ら、130歳近い長寿となってしまいます。 これら現実離れした話について、「異なる論証方法」は何も述べていません。 三韓征伐はあながち嘘とはいえない? ネット情報や保守系出版物では、三韓征伐は事実だったという説が見受けられます。たとえば、 渡部昇一「決定版 人物日本史」は次のように述べています。
そもそも、何ら紛争もないのに金銀財宝目当てに侵攻すれば、海賊行為(倭寇)であり国家規模で行えば侵略行為です。しかし、そこは「神のお告げに従ったまで」という釈明が用意されています。 明治以後、「征韓論」「台湾征伐」「暴支膺懲」などの表現が現れますが、そこには「神国日本がアジア諸国を指導矯正するのが当然である」という意識があり、そのことに、この「三韓征伐」は何らかの影響を与えたのではないかと思われます。 ところで、ここでは好太王碑の話が出てきます。ただし、この話は400年頃のことなので、「三韓征伐」とは200年ほどずれています。 実は、神功紀49年(西暦249年)によれば、神功皇后は、荒田別と鹿我別を派遣し新羅を撃ち破ったことになっています。そこで、干支二運繰り上げ説を使えば、2回目の出兵は369年のことになり、好太王碑の話とだいぶ近くなります。すると、「神功皇后の三韓征伐はあながち嘘とはいえない」と、主張しえなくはないことになります。 仁徳天皇陵は誰のお墓? いわゆる仁徳天皇陵の被葬者が誰かは、よく分かっていません。日本書紀によれば、313年から399年まで在位したことになっていますが、堤で見つかった円筒埴輪は5世紀前半〜中頃の特徴を持っているからです(仁徳天皇陵で円筒埴輪列を確認 築造に数十年のずれか 宮内庁と堺市が初の共同調査)。 堺市では、次のように、仁徳天皇のお墓と考えられている古墳という意味で、「仁徳天皇陵古墳」と呼んでいるそうです( 仁徳天皇陵古墳百科 堺市)。
そこで、分注崩年干支を使えば、仁徳天皇は427年に没したことになるので、仁徳天皇陵の被葬者は仁徳天皇だと主張できそうです。しかし、今度は、神功皇后と応神天皇の在位期間は合わせて32年ということになり、日本書紀の記述からは、さすがに無理があります。 結局、干支二運繰り上げ説と分注崩年干支の都合の良い部分だけ採用し、不都合な部分はあえて無視するほかなさそうです。 |