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読書ノート / 通史
本書は、天皇の名前だけ取り上げた事典です。天皇名は、歴史上の人物として区別し特定するための記号であって、あえて、それぞれの名前の由来を詳細に解説する必要はないという意見もあると思いますが、それに対して、著者は次のように述べています(28〜29ページ)。
天皇も即位前には名前がありますが、即位後は単に「天皇」であり、名前はなくなります。そして、死後に業績をたたえ諡号(しごう)が贈られます。後世の我々は歴史上の人物として、それぞれの天皇を区別するため、「諡号+天皇」という組み合わせで呼んでいます。 制度として諡号が贈られるようになったのは律令国家が成立する7世紀末になってからです。当初は諡号は和風でしたが、奈良時代の後期になって、それまでの歴代の天皇に対し、まとめて一挙に、漢風の諡号が贈られました(奈良時代初頭に完成した日本書紀には、神武や仁徳などの名称はなかったのです)。 それ以降は、和風諡号と漢風諡号が併用されるようになります。平安時代になると和風諡号は姿を消し、さらに、漢風諡号に替わり追号が贈られることが多くなります。このころには、天皇の生前退位が常態化し、実権は摂関家、さらに後には上皇(退位後の天皇、院と呼ばれます)に移っていました。天皇が在位中には実権がなく、生前退位が常態化すると、死後に業績をたたえ諡号を贈るという意味は失われ、退位後のゆかりの地名や建物の名前にちなんだ追号が贈られるようになります。さらに天皇という称号も、一部を除いて使われなくなり、天皇は「追号+院」で呼ばれるようになります(26ページ)。これが「追号+天皇」に変換されたのは、つまり、天皇号が再登場したのは1925年になってからだそうです(27ページ)。また、幕末になって、漢風諡号が復活しますが、これは、尊王思想の高まりと関係があるのでしょうか。 いずれにしても、明治国家の天皇制は、それまでの伝統とは異質だったようです。 諡号と追号の概略をまとめると次のようになります。
獲加多支鹵大王は雄略天皇? 古墳時代の統治者は、大王(おおきみ)と呼ばれていました。 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣から「ワカタケルノオオキミ」の文字が読み取れます(63ページ)。「獲加多支鹵」は、漢字の音を使って日本語音を表示したもので、いわゆる万葉仮名のようなものです。鉄剣からは「辛亥年(471年と推定される)」の文字も読み取れます(こんなに変わった歴史教科書参照)。この頃の日本は、漢字と万葉仮名を使って和化漢文を綴れる文化水準にあったといえそうです。 この時代の天皇は21代雄略天皇とされており、名前は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」となっています(76ページ)。 この点について、著者は次のように述べています(77〜78ページ)。
天皇号の成立は7世紀になってから 古墳時代の統治者が、大王を名乗り始めた時期については、著者は次のように述べて(11ページ)、5世紀後半と推定しています。稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文が決定的な証拠となり、少なくともそのころには大王が出現していたと判断できるということでしょうか。
「仁徳の実在性は極めて疑わしい」 著者は次のように述べ、「仁徳の実在性は極めて疑わしい」とし、「聖帝キャラクターも創られたものである」としています(67〜68ページ)。
仁徳を起点に血縁関係が擬制される 応神から推古までの系図は次のようになっています(64ページ)。 本文の記述にしたがって色分けすると、青とオレンジ、紫で囲ったグループは異なる血族集団となります。仁徳を起点として、それぞれの集団の血縁関係が擬制されることになります。 以上、本書の一部を紹介しましたが、本書は単なる事典にとどまらず、歴史研究を踏まえた面白い読み物となっているといえます。 |