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読書ノート / 中近世史
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なお、本書は中立的・客観的立場を意識してか、文禄・慶長の役という表現を避け、壬辰倭乱(第一次朝鮮侵略)・丁酉倭乱(第二次朝鮮侵略)という表現を使っています。また、朝鮮・明側の記述には、宣祖・万暦などの年号が使われているので、基礎知識がないと少し戸惑ってしまいます。ただし、第一次朝鮮侵略の主要な戦闘は天正年間に起こっているので、これを文禄の役と呼ぶのも適切ではないかもしれません。 読書ノート/特別企画展 唐入り―秀吉の朝鮮侵略―で秀吉の朝鮮侵略の経緯を次のような年表にまとめましたが、その多くは本書を参考にしたものです。
朝鮮侵略の原因については、秀吉の個人的な野望にあったと著者は見ているようです。また、倭寇とヨーロッパ勢力の進出により、明帝国を中心とする中華体制が崩壊のきざしをみせていたことがその背景にあったと指摘しています。 朝鮮侵略を正当化する神国意識について、著者は次のように述べています。
鍋島直茂(肥前佐賀藩)や松浦鎮信(肥前平戸藩)の家臣の日記に、「神功皇后の新羅征伐」の伝説が出てくるということですが、彼らは、いずれも現在の佐賀・長崎といった九州北部出身の武将のようです。九州北部は、白村江の戦いの前線基地が置かれた場所であり、また香椎宮や筥崎宮など神功皇后伝説ゆかりの地でもあります。それらのことが精神的バックボーンとなっていたのかも知れませんが、秀吉は神功皇后伝説をどう見ていたのでしょうか。 次の年表(19ページ)から、第一次朝鮮侵略を概観して見ましょう。なお、本書の地図はわかり難いので、特別企画展 唐入り―秀吉の朝鮮侵略―の地図を参考に載せました。したがって丸数字は符合していません。 赤線で囲った部分は初期の陸戦で、日本軍は破竹の勢いで平壌まで進撃します。青線で囲った部分は海戦で、こちらは朝鮮軍が全勝しています。 紫線で囲った部分では、明の参戦もあって陸戦でも朝鮮側が反撃に転じます。1592年7月の明軍の平壌攻撃は失敗しますが、翌年1月8日の攻撃で落城し日本軍は漢城まで撤退します。1月27日、明軍は漢城北方の碧蹄館に迫りますが敗退。2月12日、日本軍は朝鮮軍の籠もる幸州山城を攻撃しますが、反撃に合い撤退します(幸州山城の戦い - 朝鮮の歴史wiki)。4月には、日本軍は漢城を撤退し、5月から肥前名護屋で和議交渉が始まります。 秀吉は交渉を進める一方で、全羅道の確保を狙って、晋州城を攻め、6月29日に落城させています。さらに、朝鮮半島の南岸沿いに倭城を築き兵士を駐屯させ、和戦両様の構えを続けます。 ![]() ![]() 結局、和議交渉は決裂します。本書ではその理由を明確には説明していません。実際に、具体的にどのようなやり取りがあったのかは当事者しか知りえないのかもしれません。 ただ、日本軍が倭城に駐屯を続け、朝鮮南四道の割譲を要求したのであれば、もともと交渉がまとまる余地はなかったようにも思われます。 第二次朝鮮侵略の目的は、朝鮮南四道の割譲を実力で実現することにあったので、次の関係略図(75ページ)が示すように、戦場は半島の南半分に限定されています。本格的戦闘は1597年夏ごろから始まり、日本軍は7月16日、巨済島の海戦で勝利したのを皮切りに陸上でも各地に進撃します。8月16日の南原の戦いでは、大量殺戮と悪名高い鼻切りが行われます。 しかし、9月17日の鳴梁の海戦では、李舜臣の朝鮮水軍が勝利し、12月22日から1598年1月4日にかけての蔚山(うるさん)の籠城戦では、加藤清正らは降伏寸前まで追い詰められます。 その後の戦局については、簡略な記述しかないのでよく分かりませんが、1598年8月18日の秀吉の死によって、日本軍の撤退が決まります。 ![]() |