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読書ノート / 中近世史
これを見る限りでは、意外な歴史エピソードを集めた歴史読み物という感じを受けますが、実際は一般読者をも意識した歴史論文集です。論文といっても、学術誌に掲載するようなものではなく、研究者が専門分野の研究内容を一般読者にも分かるように工夫して紹介したものです。
それぞれの寄稿文では、古文書を写真で紹介し、それに釈文と現代語訳を付け、その内容を検証するというスタイルがとられています。これは、次のような編者の指摘(324ページ)と関連しているようです。
出版社のページの紹介文にある「○徳川家康は豊臣家康だった?」というのは、「第五章 豊臣秀吉と「豊臣」家康 堀 新」に出てくる話です。しかし、明確に「豊臣家康」と名乗っていた証拠はないようで、「羽柴江戸大納言殿」という徳川家康宛の文書が一点残っているだけだそうです。そして、この論文の著者はそのことから、家康が「羽柴名字・本姓豊臣」を授姓されたのではないかと推測しています。本姓と名字の関係についての説明はありませんが、足利将軍の場合、「足利名字・本姓源」ということになるのでしょうか。 ところで、なぜ本姓を問題とするのかについて、著者は次のように説明しています(151〜153ページ)。つまり、家康が豊臣姓であったことを立証するのは「徳川史観のフィルターを剥がす」意味があるようです。
出版社のページの紹介文にある「○長久手の戦いで秀吉は負けていなかった。」というのは、「第一章 長久手の戦い 秀吉が負けを認めたいくさ 鴨川達夫」に出てくる話です。 この論文の著者は、「秀吉が負けを認めたいくさ」とタイトルにあるように、「長久手の戦いで秀吉は負けていなかった」とは言っていません。次のように、秀吉は書状で負けたことを認めていると説明しています(50ページ)。
出版社のページの紹介文にある「○○50日以上前に出された命令で戦う朝鮮在陣の大名たち!」というのは、「第七章 秀吉と情報 佐島顕子」に出てくる話です。これは、秀吉の戦況把握と実際の現地での戦況悪化とでは、かなりのタイムラグがあったという話ですから、いわゆる徳川史観とは直接関係はありません。 古文書の記載から当時の通信状況をまとめると次のようになります(231ページ)。漢城(ソウル)から名護屋(佐賀県唐津市)まで最短で14日かかっています。漢城などから畿内までは1ヶ月以上かかっていますが、さほど急ぎの文書ではなかったのかもしれません。 当時の戦況は次のように経緯しています(秀吉の朝鮮侵略(日本史リブレット)34)。5月の漢城占領のときには、秀吉は名護屋にいますから、月内にはその知らせを受け取っていたものと思われます。7月下旬には、母危篤の知らせを受けて、秀吉は畿内に向かっていますから、7月中旬の漢城での軍議(明への侵攻延期)の報告を受け取ったのは、8月以降だったと思われます。いずれにしても、具体的な作戦は現地の部隊に任せるほかなかったでしょう。
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