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 保元・平治の乱 平清盛勝利への道(角川ソフィア文庫) 
元木泰雄/著(角川学芸出版)2012/7/25

 2016/9/29
 本書は、「保元・平治の乱を読みなおす」(NHKブックス、2004/12)を改題し文庫化したものです。本書が出版された2012年は、NHK大河ドラマ「平清盛」が放送された年です。平清盛を扱った同じ著者の本は、この前後に、 「平清盛の闘い 幻の中世国家」 (角川ソフィア文庫、2011/11/25)「平清盛と後白河院」 (角川選書、2012/3/24)と立て続けに出版されています。「平清盛の闘い」は、 「平清盛の闘い―幻の中世国家」(角川叢書、2001/3)を角川ソフィア文庫で再度出版したもののようです。 

 著者は、「はじめに」で、河内祥輔「保元の乱・平治の乱」(2002/6/1、吉川弘文館)を次のように批判しています(9〜10ページ)。  
……かつて、骨肉の争いの背景として、この時代の「道徳的頑廃」などという説明がなされたこともある。この背景には、院政期を武士などの中世封建的勢力が十分勢力をもたず、依然として院や大寺院などの古代的勢力が衰退しながらも権力を掌握していた腐敗した時代と捉える古めかしい歴史観が介在していたのである。
 しかし、今や院政期こそは、荘園・公領制度が確立する中世の成立期、すなわち新たな時代が切り開かれる画期と考えられている。それに、貴族と武士か対立し、後者が前者を克服するという「発展段階説」が「金科玉条」の座を失った今、道徳的頽廃などという超歴史的理由では、この時代特有の現象を説明することは困難である。
 摂関政治と院政の政治構造の変化、それを前提として分立したさまざまな政治勢力か激しい骨肉の争いを繰り広げながら、武力抗争に突入した原因こそが問われなければならない。武士が登場したことについては、たんに治安が悪化して暴力か横行し、自力救済(無警察状態)が一般化して武士が台頭したといった説明に終わる書物もある。
 さらに驚くべきことに、最近の河内祥輔氏の著書『保元の乱・平治の乱』では、つぎの平治の乱とあわせて、各天皇・院が自身の皇統に固執して内紛を引き起こした点が強調されている。天皇・院の意志だけで周辺が動き、内乱も惹起されるという理解は、まさに天皇・院こそが歴史の中心であり、臣民はそれに追随するだけということになりかねない。いかに天皇・院といえども、政治的活動をすべて個人の意志や判断のみで行うわけではない。皇位継承問題も含めて、その背後にある種々の政治勢力の支援や利害を反映していることは政治史理解の基本であろう。
 歴史の動因を個人の思惑や恣意に還元する短絡的で平板な視角では、保元の乱、さらに平治の乱の真相を解明することなど、とうてい困難と言わねばならない。たしかに河内氏の書物は、保元・平治の乱に関する既往の見解を根本的に見直し、事実を確定しなおそうという野心作である。評価すべき点もあるし、その意図には敬意を表するか、先述の点も含めて、結論にはとうてい首肯しかねるところが多い。それらについては、文中で言及する。
 著者の批判はさらにエスカレートし、元木泰雄「河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書) 」(2011/9/22)では、「こんなリポートを学生が提出すれば躊躇なく不可にする。おそらくは天皇・院の皇位継承の混乱こそが紛争の原因であり、天皇制こそが諸悪の根源という結論が先にある見解らしいが、そうであれば学問をねじ曲げ政治に従属させようとする暴挙である。絶対に許されるものではない。」とまで罵倒しているそうです(平治の乱の要因と12月9日の事件の経緯について : 河内祥輔氏の学説検討を手がかりにして)。伊藤博文の評価をめぐるバトルが思い出されますが(読書ノート/伊藤博文をめぐる日韓関係:韓国統治の夢と挫折、1905〜1921)、河内祥輔氏からの反論はなかったようです。保元の乱については「天皇・院の皇位継承の混乱が紛争の原因」だったことは事実だと思うのですが、その指摘に対して、著者はどうしてこのように過剰とも思える反応を示すのでしょうか。河内氏自身は「天皇制こそが諸悪の根源と主張をしたことはない」と述べているそうです(平治の乱の要因と12月9日の事件の経緯について : 河内祥輔氏の学説検討を手がかりにして、347ページ)。
 なお、「文庫版あとがき」では、次のように批判は少しトーンダウンしています(252ページ)。 
 本書の執筆を「後押し」してくれたのが、河内祥輔氏の書物である。氏の書物に対する批判は、今も変わるものではないが、氏がなぜ極端に天皇・院を中心とした叙述をしたのか、という点にっいては、その後の氏の著作を通して理解できた点もある。
 氏の論理の根底には、天皇を中心として支配階級は結合しており、貴族と武士は一体の存在で、諸悪の根源は院・天皇にあるという見方が存する。これは、まさに権門体制論であり、その意味では「親近感」もあるが、何もかも院や天皇に結びっけるのはいかがなものか。

 保元・平治の乱は、登場勢力のそれぞれが内部分裂し非常に分かりにくいです。まず、院政というものが良く分かりません。院政を行ったのは、白河、鳥羽、後白河ですが、それぞれの院政期間は、次の棒グラフのピンクの部分です。いずれも、当時としてはかなり長寿で、人生の後半生にわたって「治天の君」として君臨し続けたという点が共通しています。ただし、後白河は晩年になって、清盛に実権を奪われたり、東国の独立を許したりするなど権威は大幅に低下しました。
 「治天の君」は、現天皇の直系尊属(父、祖父、曽祖父)でなければなりません。王家の家長であることにより、天皇の人事権を掌握し、それを背景に政務の主導権を握るからです。しかし、天皇が成人になると親政を主張し始める恐れもあります。そこで、白河は、成人に達した鳥羽を退位させ、その子崇徳を即位させました(堀河は30歳前に他界しています)。そして、鳥羽もそれを踏襲し、成人に達した崇徳を退位させ、崇徳の弟の近衛を即位させました。

 しかし、次の図が示すように、崇徳と近衛は兄弟ですから、崇徳は天皇の直系尊属ではなくなり、「治天の君」とはなれません(実は、後三条は、白河の皇太子に異母弟の実仁(さねひと)親王を指定していましたが、実仁親王が急死したため、息子の堀河に譲位することにより院政を始めることができたという経緯があります)。
 もっとも、近衛は崇徳の中宮の養子という形になっていたので、崇徳が「皇太子」に譲位したことになれば、「治天の君」の資格は認められるはずでした。しかし、宣命(せんみょう)には、「皇太弟」となっていましたから(23ページ)「治天の君」の資格は認められません。つまり、崇徳は一杯食わされたわけです。

 なぜ、鳥羽が崇徳にこのような残酷な仕打ちをしたのかについて、崇徳が白河の落胤ではないかという噂が影響したのではないかと著者は推測しています(25〜26ページ)。王家系図(23ページ)が示すように、崇徳は鳥羽の中宮の待賢門院が産んだ子ですが、白河と待賢門院との密通の噂があり、鎌倉時代の説話集によれば、鳥羽は崇徳を「叔父子(おじご)」と称し、忌避していたということです。一方、近衛は、美福門院の生んだ子であり、しかも白河の死後に生まれていますから、鳥羽にとって、正真正銘の「我が子」といえます。

 待賢門院は、藤原北家の閑院流の出身ですが、閑院流は、白河、鳥羽、崇徳の外戚として台頭し、政治的地位を向上させてきました。一方、美福門院の属する末茂流は藤原北家の中でも傍流で、摂関時代までは身分の低い家柄でしたが、白河・鳥羽院近臣として仕える事により次第に力をつけて来ました(閑院流・末茂流系図、28ページ)。

 身分の低い末茂流は、院に忠実なのに対し、閑院流は、政治に介入する動きも見せました。そんな閑院流を警戒したことが、鳥羽が崇徳を忌避した背景にあるのではないかと、著者は見ています(32〜33ページ)。
 ところで、白河と待賢門院との密通の噂があったということですが、白河にとって待賢門院は、孫の鳥羽の「嫁」に当たります。アダルト動画にでも出てきそうな、そんな話が有り得るのか調べてみました。各時期の関係者の年齢は次のようになります。
治天の君 天皇
白河 清盛 鳥羽 待賢
門院
崇徳 後白
美福
門院
近衛 二条 重仁
生年 1053 1118 1103 1101 1119 1127 1117 1139 1143 1140
没年 1129 1181 1156 1145 1164 1192 1160 1155 1165 1162
1118清盛誕生 66歳 1歳 16歳 18歳 2歳
1119崇徳誕生 67歳 2歳 17歳 19歳 1歳 3歳
1123鳥羽譲位 71歳 6歳 21歳 23歳 5歳 7歳
1127後白河誕生 75歳 10歳 25歳 27歳 9歳 1歳 11歳
1129白河死去 77歳 12歳 27歳 29歳 11歳 3歳 13歳
1139近衛誕生 22歳 37歳 39歳 21歳 13歳 23歳 1歳
1140重仁誕生 23歳 38歳 40歳 22歳 14歳 24歳 2歳 1歳
1141崇徳譲位 24歳 39歳 41歳 23歳 15歳 25歳 3歳 2歳
1143二条誕生 26歳 41歳 43歳 25歳 17歳 27歳 5歳 1歳 4歳
1155後白河即位 38歳 53歳 37歳 29歳 39歳 17歳 13歳 16歳
1156保元の乱 39歳 54歳 38歳 30歳 40歳 14歳 17歳
1158後白河譲位 41歳 40歳 32歳 42歳 16歳 19歳
1159平治の乱 42歳 41歳 33歳 43歳 17歳 20歳
 崇徳が生まれたとき、白河は67歳、待賢門院は19歳ですから、生物学的には崇徳が白河の落胤ということは十分有り得ることになります。後白河も待賢門院が産みの母ですが、こちらは出生にまつわる噂はなかったようです。因(ちな)みに、清盛が白河の落胤だったという話もありますが、清盛は崇徳よりも1歳年上ですから、(真偽のほどは別にして)こちらも十分に可能ということになります。
 鳥羽が、崇徳を退位させてまでして、即位させた近衛は17歳で夭逝してしまいます。次の天皇には、崇徳の長男の重仁(しげひと)が就き、その直系尊属である崇徳が近い将来復権して、院政を始めるのが順当なところです。
 一方、美福門院は自らが養育していた、二条(守仁親王)の即位を主張し、関白の藤原忠通もそれに同調します。そして、美福門院らの主張を通す形で、二条への将来の譲位を前提として、二条の父の後白河が即位するということで決着します。崇徳は二度に渡り、煮え湯を飲まされたわけです。

  このような王家の内紛に加え、摂関家の分裂も決定的となり、京には兵乱の緊張が高まります。摂関家では、兄の忠通(ただみち)と弟の頼長(よりなが)が対立し、父の忠実(ただざね)は頼長を支援するという構図です。忠通は、美福門院の末茂流と姻戚関係があり、頼長は待賢門院の閑院流と姻戚関係があります。
 天皇後継問題では、二条を推す、忠通・美福門院=院近臣派連合が勝利した形です。待賢門院はこの時点ではすでに他界しています。また、頼長は崇徳とは特に近い関係にはなく、後白河の即位や二条の立太子には、特に反対ではなかったようです。

 忠通と忠実・頼長が対立したのは、頼長に摂関職を譲るという約束を、忠通が反故にしたからということです(35〜36ページ)。男子のいなかった忠通が頼長を養子として跡を継がせるはずだったのですが、1143年になって忠通に実子基実(もとざね)が生まれたのが原因です。両者の対立から、忠実・頼長失脚までの経過を年表にまとめると次のようになります。
1120 白河院により忠実が関白を事実上罷免され、宇治に謹慎。以降、忠通が摂関家を支える 
1129 白河院が死去、鳥羽院政のもとで忠実が復権、家長たる大殿忠実と現職の関白忠通が併存、以降しばらく両者の関係は平穏を保つものの次第に微妙なものとなる
1150 忠通の摂関譲渡拒絶や、入内問題などで対立は決定的となり、忠実が忠通を義絶し、氏長者(うじのちょうじゃ)の地位と、それに付随する荘園や興福寺の管理権を頼長に与える 
1151 鳥羽院が頼長に内覧(事実上の関白の地位)を与え、摂関家は、忠実・頼長(主流)と忠通(院近臣に接近)に分裂する。頼長が、院近臣藤原家成の邸宅を破壊し、鳥羽院の信頼を失う。以後、頼長の騒擾は激化、院近臣との対立を深め孤立するようになる。さらに近衛天皇が頼長に露骨に嫌悪を示すようになる。ただし、鳥羽院の忠実への信任は維持されていた 
1155  近衛天皇が17歳で夭逝、後継天皇を決める王者議定(おうじゃぎじょう)から、忠実・頼長が排除され、後継の後白河天皇は頼長に内覧を宣下せず、鳥羽院も忠実・頼長を忌避するようになる。忠実・頼長は政治的に失脚する 
 白河院が忠実を罷免したということは、院の力が摂関家を凌駕していたということでしょうか。鳥羽院政では忠実が復権したということですが、関白は忠通ですから、忠実にどのような力があったのでしょうか。そもそも、忠実が忠通に氏長者の地位を譲っていたのか明確ではありません。忠通を義絶し、氏長者の地位を頼長に与えたということは、いったん与えた氏長者の地位を取り戻したということでしょうか。内覧・頼長と関白・忠通が並存したということですが、両者の力関係はどのようになっていたのでしょうか。頼長の騒擾が激化したということは、氏長者の権力(経済力・武力)を背景に横車を押したということなのでしょうか。本書の説明だけでは、実態が良く分かりません。 

 源氏と平氏の盛衰は次の図(山川出版社「詳説日本史図録第3版」83ページ)のようになります。

 桓武平氏は関東に土着しますが、一族の内紛が平将門の乱に発展し、将門は平貞盛や藤原秀郷らに討たれます。伊勢平氏は、貞盛の子・惟衡(これひら)が伊勢に拠点を築いたことに起源を持ちます。
 一方、清和源氏は、摂津国多田庄に本拠を置いた満仲から、摂津源氏、大和源氏、河内源氏に分かれます。多田源氏については、摂津源氏から枝分かれしたとする説や、摂津源氏の別称だとする説もあり、良く分かりません。源頼政は摂津源氏の系統です。
 河内源氏は、頼信、頼義、義家が、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役で功績を挙げ、源氏の主流となります。義家は東国の平氏豪族を従え主従関係を結びます。このような関係は、後の義朝、頼朝にも見られます。しかし、源義親の乱以降、内紛により河内源氏は衰退します。
 代わって勢いを増したのは伊勢平氏です。源義親の乱で功績を挙げた、正盛や忠盛は、白河院、鳥羽院に取り立てられ、受領を歴任し昇殿を許されるなど、急速に地位が向上します。  
 白河院、鳥羽院に冷遇されていた、河内源氏の為義は、摂関家主流の忠実・頼長に臣従し密接な関係を持つようになります。頼長の騒擾が激化した背後には、河内源氏の武力があったということでしょうか。
 為義の長男の義朝は、坂東に下向し、河内源氏と東国武士の主従関係を再編する重要な役割を担ったとされていますが、著者は「義朝は廃嫡され、坂東に追いやられた」と見ています(52ページ)。
 1156年の保元の乱の直前において、河内源氏内部の対立(源為義vs 源義朝)は決定的なものとなっていました。この時点では、源平の争いはなかったようです。

 本書の記述をもとに、鳥羽院の死去から保元の乱までの経過をまとめると次のようになります。ピンクの部分は後白河側の動きで、ブルーの部分が崇徳側の動きです。
1156/6/1 5/22に発病した鳥羽院の病状が絶望的となり、鳥羽殿に北面の有力武士が動員される。しかし、平清盛一族は動員されていない。後白河天皇の里内裏(さとだいり)高松殿(たかまつどの)は、河内源氏の義朝、義康が警護する。なお、為義も北面の一員であったが動員されていない。 
7/2 鳥羽院が死去、葬儀は鳥羽の近臣が中心になったが、清盛、頼盛ら平氏一門の顔ぶれは見えない 
7/5 検非違使として、平基盛(清盛の次男)が召集される(清盛一門が後白河陣営に参陣決める?)。後白河側は地方武士に動員をかけ、さらに崇徳と頼長が天皇打倒を計画しているとの噂を流す 
7/6 検非違使が宇野親治(頼長の家人)を拘束する 
7/8 後白河側は、摂関家領からの武士の動員を停止させる綸旨を下す(摂関家謀反のアナウンス効果)。さらに、義朝の髄兵が頼長の正邸東三条殿に乱入(頼長は不在?)、捜索、押収、尋問(頼長の罪状の証拠固めか) 
7/9 崇徳が鳥羽田中殿を脱出し、白河北殿に移る 
7/10 頼長が白河北殿に合流、平忠正や源頼憲らが兵を起こす。その後、逡巡したものの為義一族も参入する
7/11 未明、後白河側の清盛、義朝、義康が白河北殿を攻撃、4時間近くの激闘の末、後白河側が勝利する。崇徳、頼長や主要な武将は逃走する。頼長は流れ矢に当たり負傷する 
7/13 崇徳が投降 
7/14 頼長が奈良の逃亡先で、深手のため死亡 
7/16 為義が義朝のもとに出頭 
 天皇後継問題では、忠通・美福門院=院近臣派連合が勝利しましたが、鳥羽院が死去すると権力の空白が生じます。後白河天皇は、二条天皇へのつなぎでしかないため権威に欠け、頼長は失脚したとはいえ、経済力と武力は維持していたから、崇徳が復権すれば、巻き返しは可能です。また、北面の武士は鳥羽院との個人的主従関係にあったから、鳥羽没後、どちらの陣営に付くか予断を許さない状況でした。
 鳥羽院の病状が絶望的となった6月1日、鳥羽殿に北面の有力武士が動員されます。このとき、後白河天皇の里内裏(さとだいり=天皇の居所 )である高松殿(たかまつどの)は、河内源氏の義朝、義康が警護していますから、義朝、義康が後白河陣営に付くことが明らかとなっています。
 7月2日、鳥羽院が死去、葬儀は鳥羽の近臣が中心になったが、清盛、頼盛ら平氏一門の顔ぶれは見えません。清盛の継母で父忠盛の正室藤原宗子(そうし)が、崇徳の皇子重仁親王の乳母であったことから、警戒されたのではないかと著者は見ています。
 ところが、7月5日になって、検非違使として、平基盛(清盛の次男)が召集されるたことから、この頃までに、清盛一門が後白河陣営に参陣決めたのではないかと著者は見ています。最大の兵力を持つ清盛一門の帰趨が明らかとなったことにより、後白河陣営は、崇徳・頼長への挑発を始めます。まず、地方武士に動員をかける一方で、崇徳と頼長が天皇打倒を計画しているとの噂を流します。
 7月6日には、検非違使が宇野親治(頼長の家人)を拘束します。
 7月8日には、摂関家領からの武士の動員を停止させる綸旨を下します。これは、頼長の武力動員を阻むとともに、摂関家が謀反をたくらんでいるとの印象を与えるアナウンス効果があったと見られます。さらに、義朝の髄兵が頼長の正邸東三条殿に乱入(頼長は不在?)、捜索、押収、尋問します(頼長の罪状の証拠固めか)。東三条殿は地図(107ページ)の赤で示した場所で、青で示した高松殿(後白河天皇の居所)の北隣に位置します。摂関家の正邸の方が里内裏よりも立派で、合戦が始まると、後白河は居所を東三条殿に移しています。

 後白河陣営の挑発に追い詰められた崇徳と頼長は白河北殿に合流しますが、兵力は平忠正や源頼憲、源為義一族ら数十騎程度に過ぎません。それに対し、後白河陣営は、平清盛勢300騎、源義朝勢200騎、源義康勢100騎ですから、勝負になりません。崇徳陣営は4時間持ちこたえたものの、敗北が明らかとなり、崇徳、頼長や主要な武将は逃走します。
 頼長は流れ矢が当たり、逃走中に死亡、崇徳や為義は、出頭します。その後、崇徳は讃岐に配流され、為義らは斬首となります。

 保元の乱に比べて、平治の乱については、基本的な史料が極めて少ないという問題があります(平治の乱における源義朝謀叛の動機形成?勲功賞と官爵問題を中心に?)。
平治の乱については,保元の乱と違って『兵範記』のような古記録史料に乏しく基本的な史料がきわめて少ないため,比較的記述の詳しい『愚管抄』を中心に,軍記物語の『平治物語』を参考にする形で叙述されてきた。こうした史料的制約のもとに,乱の説明は,比較的定型的な枠の中で説明されてきたと判断される。いわゆる通説である。 
 事件の経緯は、一応次のようになっています。
 1159年12月9日、藤原信頼(のぶより)、源義朝の軍勢が、院の御所(三条東殿)と信西邸を襲撃し、火をかけて逃げる者に矢を射掛けます。ターゲットは、信西と子息達ですが、取り逃がしてしまいます。信頼らは、後白河上皇を内裏内の一本御書所に移し、二条天皇とともに軟禁状態にします。信頼は実権を掌握し、藤原経宗(つねむね)、藤原惟方(これかた)も加わります。信西は逃亡先で自害し、子息達も捕縛されます。
 このような状況の中で、藤原公教(きんのり)がクーデター勢力の切り崩しを図り、経宗と惟方を寝返らせます。熊野詣から帰京した清盛は中立を保っていましたが、公教は清盛の協力も取り付けます。
 12月26日未明、惟方らの手引きで、二条天皇は一本御書所を脱出し、六波羅の清盛邸に移ります。六波羅には、公卿・諸大夫らが続々と集結します。後白河も25日夜に、仁和寺に脱出しています。
 26日、六波羅合戦で敗北した義朝は都から脱出。信頼は仁和寺に出頭しますが、翌27日に処刑されます。義朝は逃走途中に殺害されます。
 一方、寝返った経宗と惟方は、後白河の命により清盛によって捕縛され、流刑となります。
 平治の乱の舞台の所在地は次のとおりです( 一本御書所(平治の乱ゆかりの地) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る)。 

 保元の乱に比べ、平治の乱の事件の経過や人間関係は、かなり錯綜しています。保元の乱をめぐる系図は次のようになっています(鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき)。鳥羽と崇徳の対立が遠因となり、鳥羽の死後、崇徳と後白河の対立から事件が発生します。

 平治の乱をめぐる系図は次のようになっています(悲劇の貴公子か?ジャイアニズム全開の暴君か?木村昴が演じた以仁王とは【鎌倉殿の13人】)。保元の乱後、後白河は二条に譲位し、権力をめぐり両者には緊張関係にありましたが、それが事件の直接の原因となったわけではありません。

 事件当時の関係者の年齢とその後の運命をまとめると次のようになります。
二条天皇 17 1165年9月5日、23歳で死去
藤原経宗 40 1160年2月、後白河上皇の命により捕縛、失脚
藤原惟方 34 1160年2月、後白河上皇の命により捕縛、失脚
後白河上皇 33 1192年4月26日死去まで、治天の君として権力維持
信西 53 1159年12月15日、遺骸が発見され、17日梟首 
藤原信頼 26 1159年12月26日に出頭、27日処刑 
源義朝 36 1159年12月29日ごろ、殺害される
藤原公教 56 1160年7月9日、死去
平清盛 42 1179年クーデター敢行、1181年3月20日、死去
 藤原経宗と藤原惟方は、二条親政派とされています。ただし、河内祥輔は「経宗や惟方も後白河の側近でもあった」と主張しています。
 信西と藤原信頼は、後白河院政派とされています。しかし、信西は鳥羽院の近臣であり、鳥羽の遺志に従って、二条への橋渡しをするのが本位であったという見方もあります。とするなら、信西と藤原公教は、旧鳥羽院政派とでも言えることになります。
 12月9日事件は、後白河院政派である信頼が源義朝と手を組んで、同じ院政派の信西を襲い、さらに院の御所を襲い、院を内裏まで連行するという衝撃的なクーデターです。さらに、二条派の経宗と惟方が、後白河院政派の信頼と手を組み、二条天皇を軟禁するという複雑な構図となります。つまり、両派ともに主人に歯向かったことになります。
 しかし、公教がクーデター派の切り崩しに成功し、経宗と惟方が寝返ります。平清盛は当初は中立の立場でしたが、公教の説得によりクーデター鎮圧に踏み切ります。
 国立国会図書館デジタルコレクション平治物語[絵巻]. 第1軸 三条殿焼討巻には、「藤原信頼と源義朝らが後白河上皇の御所である三条殿を襲撃し、上皇を拉致した」 様子が描かれています。しかし、この絵巻は 鎌倉時代中期(13世紀後半)の作とされていますから、百年前の事件を描いたものということになります。
 表面的には、信頼と義朝が怨恨から信西をターゲットに院の御所を襲撃し、二条と後白河を軟禁し、実権を握ったということになりますが、26才の信頼が独断でそのような大それたことを為し得たのかという疑問が生じます。
 そこで、黒幕は二条親政派とする見方が出てきます。後白河院政派の内部対立に目を付け、信頼・義朝を利用して信西を襲撃し、それに成功すると、最後は信頼・義朝を切り捨てたというものです。また、黒幕は後白河だったとする見方もあります(源頼朝が「天皇の完全犯罪」を告発?「平治の乱」に隠された歴史ミステリー)。
首謀者 展開
信頼・義朝 怨恨から信西を襲撃。二条と後白河を軟禁。長期的展望なく、公教に切り崩される
朝廷総がかり  信西の台頭に反感を抱いた後白河の近臣たちと朝廷社会全体が、信頼をリーダーとして信西を抹殺⇒元木泰雄説 
二条親政派 信頼・義朝を利用して信西を襲撃。後白河を軟禁。最後は用済みの信頼・義朝を切り捨て⇒古澤直人説
後白河 信頼・義朝に命じて信西を襲撃。二条を軟禁。公教に切り崩され、信頼・義朝を見捨てる⇒河内祥輔説