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読書ノート / 中近世史
著者は、「はじめに」で、河内祥輔「保元の乱・平治の乱」(2002/6/1、吉川弘文館)を次のように批判しています(9〜10ページ)。
なお、「文庫版あとがき」では、次のように批判は少しトーンダウンしています(252ページ)。
保元・平治の乱は、登場勢力のそれぞれが内部分裂し非常に分かりにくいです。まず、院政というものが良く分かりません。院政を行ったのは、白河、鳥羽、後白河ですが、それぞれの院政期間は、次の棒グラフのピンクの部分です。いずれも、当時としてはかなり長寿で、人生の後半生にわたって「治天の君」として君臨し続けたという点が共通しています。ただし、後白河は晩年になって、清盛に実権を奪われたり、東国の独立を許したりするなど権威は大幅に低下しました。 「治天の君」は、現天皇の直系尊属(父、祖父、曽祖父)でなければなりません。王家の家長であることにより、天皇の人事権を掌握し、それを背景に政務の主導権を握るからです。しかし、天皇が成人になると親政を主張し始める恐れもあります。そこで、白河は、成人に達した鳥羽を退位させ、その子崇徳を即位させました(堀河は30歳前に他界しています)。そして、鳥羽もそれを踏襲し、成人に達した崇徳を退位させ、崇徳の弟の近衛を即位させました。 しかし、次の図が示すように、崇徳と近衛は兄弟ですから、崇徳は天皇の直系尊属ではなくなり、「治天の君」とはなれません(実は、後三条は、白河の皇太子に異母弟の実仁(さねひと)親王を指定していましたが、実仁親王が急死したため、息子の堀河に譲位することにより院政を始めることができたという経緯があります)。 もっとも、近衛は崇徳の中宮の養子という形になっていたので、崇徳が「皇太子」に譲位したことになれば、「治天の君」の資格は認められるはずでした。しかし、宣命(せんみょう)には、「皇太弟」となっていましたから(23ページ)「治天の君」の資格は認められません。つまり、崇徳は一杯食わされたわけです。 なぜ、鳥羽が崇徳にこのような残酷な仕打ちをしたのかについて、崇徳が白河の落胤ではないかという噂が影響したのではないかと著者は推測しています(25〜26ページ)。王家系図(23ページ)が示すように、崇徳は鳥羽の中宮の待賢門院が産んだ子ですが、白河と待賢門院との密通の噂があり、鎌倉時代の説話集によれば、鳥羽は崇徳を「叔父子(おじご)」と称し、忌避していたということです。一方、近衛は、美福門院の生んだ子であり、しかも白河の死後に生まれていますから、鳥羽にとって、正真正銘の「我が子」といえます。 待賢門院は、藤原北家の閑院流の出身ですが、閑院流は、白河、鳥羽、崇徳の外戚として台頭し、政治的地位を向上させてきました。一方、美福門院の属する末茂流は藤原北家の中でも傍流で、摂関時代までは身分の低い家柄でしたが、白河・鳥羽院近臣として仕える事により次第に力をつけて来ました(閑院流・末茂流系図、28ページ)。 身分の低い末茂流は、院に忠実なのに対し、閑院流は、政治に介入する動きも見せました。そんな閑院流を警戒したことが、鳥羽が崇徳を忌避した背景にあるのではないかと、著者は見ています(32〜33ページ)。 ところで、白河と待賢門院との密通の噂があったということですが、白河にとって待賢門院は、孫の鳥羽の「嫁」に当たります。アダルト動画にでも出てきそうな、そんな話が有り得るのか調べてみました。各時期の関係者の年齢は次のようになります。
鳥羽が、崇徳を退位させてまでして、即位させた近衛は17歳で夭逝してしまいます。次の天皇には、崇徳の長男の重仁(しげひと)が就き、その直系尊属である崇徳が近い将来復権して、院政を始めるのが順当なところです。 一方、美福門院は自らが養育していた、二条(守仁親王)の即位を主張し、関白の藤原忠通もそれに同調します。そして、美福門院らの主張を通す形で、二条への将来の譲位を前提として、二条の父の後白河が即位するということで決着します。崇徳は二度に渡り、煮え湯を飲まされたわけです。 このような王家の内紛に加え、摂関家の分裂も決定的となり、京には兵乱の緊張が高まります。摂関家では、兄の忠通(ただみち)と弟の頼長(よりなが)が対立し、父の忠実(ただざね)は頼長を支援するという構図です。忠通は、美福門院の末茂流と姻戚関係があり、頼長は待賢門院の閑院流と姻戚関係があります。 天皇後継問題では、二条を推す、忠通・美福門院=院近臣派連合が勝利した形です。待賢門院はこの時点ではすでに他界しています。また、頼長は崇徳とは特に近い関係にはなく、後白河の即位や二条の立太子には、特に反対ではなかったようです。 忠通と忠実・頼長が対立したのは、頼長に摂関職を譲るという約束を、忠通が反故にしたからということです(35〜36ページ)。男子のいなかった忠通が頼長を養子として跡を継がせるはずだったのですが、1143年になって忠通に実子基実(もとざね)が生まれたのが原因です。両者の対立から、忠実・頼長失脚までの経過を年表にまとめると次のようになります。
源氏と平氏の盛衰は次の図(山川出版社「詳説日本史図録第3版」83ページ)のようになります。 桓武平氏は関東に土着しますが、一族の内紛が平将門の乱に発展し、将門は平貞盛や藤原秀郷らに討たれます。伊勢平氏は、貞盛の子・惟衡(これひら)が伊勢に拠点を築いたことに起源を持ちます。 一方、清和源氏は、摂津国多田庄に本拠を置いた満仲から、摂津源氏、大和源氏、河内源氏に分かれます。多田源氏については、摂津源氏から枝分かれしたとする説や、摂津源氏の別称だとする説もあり、良く分かりません。源頼政は摂津源氏の系統です。 河内源氏は、頼信、頼義、義家が、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役で功績を挙げ、源氏の主流となります。義家は東国の平氏豪族を従え主従関係を結びます。このような関係は、後の義朝、頼朝にも見られます。しかし、源義親の乱以降、内紛により河内源氏は衰退します。 代わって勢いを増したのは伊勢平氏です。源義親の乱で功績を挙げた、正盛や忠盛は、白河院、鳥羽院に取り立てられ、受領を歴任し昇殿を許されるなど、急速に地位が向上します。 白河院、鳥羽院に冷遇されていた、河内源氏の為義は、摂関家主流の忠実・頼長に臣従し密接な関係を持つようになります。頼長の騒擾が激化した背後には、河内源氏の武力があったということでしょうか。 為義の長男の義朝は、坂東に下向し、河内源氏と東国武士の主従関係を再編する重要な役割を担ったとされていますが、著者は「義朝は廃嫡され、坂東に追いやられた」と見ています(52ページ)。 1156年の保元の乱の直前において、河内源氏内部の対立(源為義vs 源義朝)は決定的なものとなっていました。この時点では、源平の争いはなかったようです。 本書の記述をもとに、鳥羽院の死去から保元の乱までの経過をまとめると次のようになります。ピンクの部分は後白河側の動きで、ブルーの部分が崇徳側の動きです。
鳥羽院の病状が絶望的となった6月1日、鳥羽殿に北面の有力武士が動員されます。このとき、後白河天皇の里内裏(さとだいり=天皇の居所 )である高松殿(たかまつどの)は、河内源氏の義朝、義康が警護していますから、義朝、義康が後白河陣営に付くことが明らかとなっています。 7月2日、鳥羽院が死去、葬儀は鳥羽の近臣が中心になったが、清盛、頼盛ら平氏一門の顔ぶれは見えません。清盛の継母で父忠盛の正室藤原宗子(そうし)が、崇徳の皇子重仁親王の乳母であったことから、警戒されたのではないかと著者は見ています。 ところが、7月5日になって、検非違使として、平基盛(清盛の次男)が召集されるたことから、この頃までに、清盛一門が後白河陣営に参陣決めたのではないかと著者は見ています。最大の兵力を持つ清盛一門の帰趨が明らかとなったことにより、後白河陣営は、崇徳・頼長への挑発を始めます。まず、地方武士に動員をかける一方で、崇徳と頼長が天皇打倒を計画しているとの噂を流します。 7月6日には、検非違使が宇野親治(頼長の家人)を拘束します。 7月8日には、摂関家領からの武士の動員を停止させる綸旨を下します。これは、頼長の武力動員を阻むとともに、摂関家が謀反をたくらんでいるとの印象を与えるアナウンス効果があったと見られます。さらに、義朝の髄兵が頼長の正邸東三条殿に乱入(頼長は不在?)、捜索、押収、尋問します(頼長の罪状の証拠固めか)。東三条殿は地図(107ページ)の赤で示した場所で、青で示した高松殿(後白河天皇の居所)の北隣に位置します。摂関家の正邸の方が里内裏よりも立派で、合戦が始まると、後白河は居所を東三条殿に移しています。 後白河陣営の挑発に追い詰められた崇徳と頼長は白河北殿に合流しますが、兵力は平忠正や源頼憲、源為義一族ら数十騎程度に過ぎません。それに対し、後白河陣営は、平清盛勢300騎、源義朝勢200騎、源義康勢100騎ですから、勝負になりません。崇徳陣営は4時間持ちこたえたものの、敗北が明らかとなり、崇徳、頼長や主要な武将は逃走します。 頼長は流れ矢が当たり、逃走中に死亡、崇徳や為義は、出頭します。その後、崇徳は讃岐に配流され、為義らは斬首となります。 保元の乱に比べて、平治の乱については、基本的な史料が極めて少ないという問題があります(平治の乱における源義朝謀叛の動機形成?勲功賞と官爵問題を中心に?)。
1159年12月9日、藤原信頼(のぶより)、源義朝の軍勢が、院の御所(三条東殿)と信西邸を襲撃し、火をかけて逃げる者に矢を射掛けます。ターゲットは、信西と子息達ですが、取り逃がしてしまいます。信頼らは、後白河上皇を内裏内の一本御書所に移し、二条天皇とともに軟禁状態にします。信頼は実権を掌握し、藤原経宗(つねむね)、藤原惟方(これかた)も加わります。信西は逃亡先で自害し、子息達も捕縛されます。 このような状況の中で、藤原公教(きんのり)がクーデター勢力の切り崩しを図り、経宗と惟方を寝返らせます。熊野詣から帰京した清盛は中立を保っていましたが、公教は清盛の協力も取り付けます。 12月26日未明、惟方らの手引きで、二条天皇は一本御書所を脱出し、六波羅の清盛邸に移ります。六波羅には、公卿・諸大夫らが続々と集結します。後白河も25日夜に、仁和寺に脱出しています。 26日、六波羅合戦で敗北した義朝は都から脱出。信頼は仁和寺に出頭しますが、翌27日に処刑されます。義朝は逃走途中に殺害されます。 一方、寝返った経宗と惟方は、後白河の命により清盛によって捕縛され、流刑となります。 平治の乱の舞台の所在地は次のとおりです( 一本御書所(平治の乱ゆかりの地) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る)。 保元の乱に比べ、平治の乱の事件の経過や人間関係は、かなり錯綜しています。保元の乱をめぐる系図は次のようになっています(鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき)。鳥羽と崇徳の対立が遠因となり、鳥羽の死後、崇徳と後白河の対立から事件が発生します。 平治の乱をめぐる系図は次のようになっています(悲劇の貴公子か?ジャイアニズム全開の暴君か?木村昴が演じた以仁王とは【鎌倉殿の13人】)。保元の乱後、後白河は二条に譲位し、権力をめぐり両者には緊張関係にありましたが、それが事件の直接の原因となったわけではありません。 事件当時の関係者の年齢とその後の運命をまとめると次のようになります。
信西と藤原信頼は、後白河院政派とされています。しかし、信西は鳥羽院の近臣であり、鳥羽の遺志に従って、二条への橋渡しをするのが本位であったという見方もあります。とするなら、信西と藤原公教は、旧鳥羽院政派とでも言えることになります。 12月9日事件は、後白河院政派である信頼が源義朝と手を組んで、同じ院政派の信西を襲い、さらに院の御所を襲い、院を内裏まで連行するという衝撃的なクーデターです。さらに、二条派の経宗と惟方が、後白河院政派の信頼と手を組み、二条天皇を軟禁するという複雑な構図となります。つまり、両派ともに主人に歯向かったことになります。 しかし、公教がクーデター派の切り崩しに成功し、経宗と惟方が寝返ります。平清盛は当初は中立の立場でしたが、公教の説得によりクーデター鎮圧に踏み切ります。 国立国会図書館デジタルコレクション平治物語[絵巻]. 第1軸 三条殿焼討巻には、「藤原信頼と源義朝らが後白河上皇の御所である三条殿を襲撃し、上皇を拉致した」 様子が描かれています。しかし、この絵巻は 鎌倉時代中期(13世紀後半)の作とされていますから、百年前の事件を描いたものということになります。 表面的には、信頼と義朝が怨恨から信西をターゲットに院の御所を襲撃し、二条と後白河を軟禁し、実権を握ったということになりますが、26才の信頼が独断でそのような大それたことを為し得たのかという疑問が生じます。 そこで、黒幕は二条親政派とする見方が出てきます。後白河院政派の内部対立に目を付け、信頼・義朝を利用して信西を襲撃し、それに成功すると、最後は信頼・義朝を切り捨てたというものです。また、黒幕は後白河だったとする見方もあります(源頼朝が「天皇の完全犯罪」を告発?「平治の乱」に隠された歴史ミステリー)。
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