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読書ノート / 中近世史
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秀吉の天下統一により、船手に統一 「第一章 戦国時代の水軍と海賊」は、水軍と海賊の違いについて説明し、各地域の水軍と海賊を概観しています。 水軍と海賊について、著者は次のように定義しています。なお、水軍という語彙は当時の史料では確認できず、学術・概念用語と捉えるべきと著者は述べています。
徳川将軍家は、1609年に諸大名の軍船を原則として500石積以下に制限しますが、それは水軍の解体を意味する措置ではなかったとし、著者は次のように述べています(31ページ)。
本格的な戦闘は計2年余り 「第六章 朝鮮出兵における水軍と海賊」は、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)の海上の戦いを取り上げています。 本書では、地上の戦いについてはほとんど触れられていないので、秀吉の朝鮮侵略(日本史リブレット)34を参照してまとめると、概略は次のようになります。期間は、1592年から1598年に及んでいますが、1593年から1597年まで講和期間を挟んでいるので、本格的な戦闘が行われたのは、文禄の役(1592/4〜1593/4)と慶長の役(1597/7〜1598/10)の計2年余りです。 文禄の役の関係図は次のとおりです(文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城)。 ![]() 慶長の役の関係図は次のとおりです(文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城)。 ![]() 日本軍の軍勢は、文禄の役で16万人、慶長の役で14万人ということになっていますが、これは所領の知行石高に基づいた計算上の数値であり、割り当てられた人数を出せたとは限りません。また、次のように、動員された軍勢の全てが純戦闘員というわけはなかったということです(文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城)。実際の戦闘員は4万人程度といったところでしょうか。
「一時は降伏や死をも覚悟」 文禄の役では、開戦2か月で日本軍は首都漢城、平壌を占領し、朝鮮国王は国境の義州へ退避します。まさに向かうところ敵なしの快進撃ですが、まもなく各地で抗日義兵が蜂起し、明の参戦もあって、戦況は一変します。年が明けて、平壌が陥落し、4月には漢城も撤退し、日本軍は朝鮮半島の南岸沿い各地に城を築き防戦に回ります。その後、明との講和交渉が始まります。4年余りの期間を経て交渉が決裂し、慶長の役が始まります。日本軍は開戦直後は一時漢城へ向け進軍しますが、その後は南岸沿い各地の城をめぐる攻防となります。1597年12月22日から1598年1月4日にかけての蔚山(うるさん)の籠城戦では、加藤清正は「一時は降伏や死をも覚悟するほど極限状況に追い込ま」れます(蔚山城の籠城戦 )。1598年8月、秀吉が死去したことにより、日本軍は撤退します。
3人の水使が戦死 朝鮮の水軍は各道沿岸に配置され、日本軍と対峙した慶尚道と全羅道では、それぞれ右道(西)と左道(東)の2つの軍区に分かれ、次の4人の節度使(右水使・左水使)を司令官としていました。慶尚道左水使の朴泓は、日本軍侵入の知らせを聞くと逃亡します。元均も戦いを避け退避したため、日本軍は、ほとんど無抵抗で続々と上陸します。元均は、李舜臣ら全羅道水軍の救援を得て、5月から反撃に出ます。朴泓以外の3人の水使が指揮を取りますが、元均と李億祺は漆川梁海戦で戦死し、李舜臣は露梁海戦で戦死しています。
制海権は確保? 秀吉は、陸路で平壌まで進軍し、船団による兵員と兵糧の輸送を待ち、黄海道を基地として海路で北京を衝く計画であったが、朝鮮半島西海岸の制海権を確保できなかったため、目論見は崩れ去ったという指摘があります(海幹校戦略研究/近世における水陸両用戦について)。
これに対して、次のように異を唱える意見もあります(李舜臣と文禄・慶長の役の海戦に関する考察)。李舜臣の活躍を重視する意見では、もっぱら朝鮮半島西海岸の制海権を問題としているのに対し、この意見では肥前名護屋−釜山間の制海権も含めて論じているので議論はかみ合わないようにも思われます。
朝鮮水軍の主力戦は板屋船 日本軍は、16万人を延べ4万隻の荷船等で渡海させたということですが、船の建造は諸大名の負担となりました。船種の構成については、次のように軍船は少なかったようです(海幹校戦略研究/近世における水陸両用戦について)。
![]() 朝鮮水軍の主力戦は板屋船で、韓国の国立海洋文化財研究所の報告によると、次のようなものであったということです(「李舜臣の板屋船、推進力・方向転換に優れていた」-Chosun online 朝鮮日報)。日本の主力船である関船に比べ頑丈で衝突の破壊力があり、大型火器も複数搭載していたようです。 ![]() 文禄の役の初期の海戦では、朝鮮水軍の李舜臣と亀甲船の活躍が有名です。晋州博物館の壬辰倭乱室には、板屋船(左)と亀甲船(右)の模型が展示されています(【韓国の博物館 必見の文化財】D国立晋州博物館)。 ![]() 亀甲船は板屋船と同じくらいの大きさで、上部は亀の甲羅のように堅い板で覆われ、甲羅部分にはびっしりと刀が埋め込まれ剣山のようになっていました。船首に1門、左右に6門ずつ、計13門もの大砲を装備していたということです。日本水軍は接舷して相手船に兵士が乗り込み白兵戦に持ち込む戦法を得意としていましたから、亀甲船のこのような特殊な装備はきわめて有効だったと思われます(文禄・慶長の役で秀吉率いる日本軍を苦しめた「亀甲船」はどれだけ強かった?13門の大砲を装備したという戦闘力を技術的に解析する)。 文禄・慶長の役では、3隻が艦隊の先鋒を務める突撃船として活躍したということです(朝鮮王朝後期における船の文化)。亀甲船は突撃用戦艦だったので敵船と接戦を繰り広げるには適していますが、敵を追撃して攻撃を加えるには不便なため隻数が余り多くはなかったということです(我が国自慢の戦艦?(コブクソン亀甲船))。亀甲船は防御攻撃ともに優れているものの、重すぎて速度が出せず使える局面は限定されていたということでしょうか。 文禄の役では日本水軍は守勢 文禄の役の前半の海戦は次の図(150ページ)のように展開しました。 ![]()
![]() 朝鮮水軍に壊滅的打撃を与える 慶長の役の海戦は次の図(163ページ)のように展開しました。 ![]()
巨済島海戦について、著者は次のように説明しています(163ページ)。
日本水軍の戦果について、著者は次のように説明しています(164ページ)。
鳴梁海戦では日本水軍は苦戦 鳴梁海戦について、著者は次のように、日本水軍は苦戦して、少なからぬ損害を出したと述べています(166〜167ページ)。
ただし、著者は次のように、日本水軍は鳴梁海戦で苦戦したものの、慶尚道・全羅道の南部沿岸は、ほぼ日本側の制圧下に置かれることになったと述べています(168〜169ページ)。
露梁海戦では所期の目標を達成 露梁海戦については、次のように説明し(169〜170ページ)、日本軍は、明・朝鮮水軍と互角以上に渡り合いつつ、所期の目標を達成したと述べています。
蔚山の籠城戦では、加藤清正が一時は降伏寸前まで追い込まれ、順天城では、小西行長が最後まで陸海から攻囲され、かろうじて撤退できたということですから、慶長の役では、日本勢はかなり厳しい戦いを強いられたようです。 小西行長の脱出路は次の通りです(露梁海?-快?百科)。朝鮮の水軍が包囲を解いて露梁海峡に向かった隙をついて、小西行長の船団は、南方に大きく迂回して脱出したようです。 ![]() 大東亜共栄圏構想の先駆 ところで、本書では慶長の役の目的は、朝鮮から譲歩(日本への謝罪)を引き出すことにあったとしていますが、文禄の役の目的については、特に述べられていません。 秀吉は、大陸への軍事作戦を唐入りと称し、朝鮮に征明嚮導を要求していますから、明への侵攻が目的であった事には間違いはないと思われます。 文禄の役で、開戦から1か月足らずで日本軍が首都漢城を占領しますが、それからまもない1592年(天正20)5月18日に、秀吉は25ヶ条にのぼる事書を関白秀次に与えています。これは、三四国割計画と言えるもので、概略は次のようになっています(W. 世界征服の構想とその挫折)。これによると、後陽成天皇を唐の都(北京)に移し、日本の帝位は若宮(皇子·良仁親王)か八条殿(皇弟·智仁親王)が継承し、それぞれに関白を置き、朝鮮八道を秀吉の直轄領とし、秀吉は寧波府に居所を定め、いずれは天竺 = インドに攻め込むという計画です。まさに大東亜共栄圏構想の先駆とも言えるものです。
和議条件7箇条を提示 しかし、日本軍の快進撃も2か月で息切れします。朝鮮各地で抗日義兵が蜂起し、明が参戦し、海戦でも朝鮮水軍に敗退します。1593年に入って日本軍の朝鮮半島南岸へ向けての撤退が始まり、5月に明の講和使節が肥前名護屋城に到着します。秀吉は次の和議条件7箇条を提示します(文禄・慶長の役(壬辰倭乱))。「大東亜共栄圏構想」は夢物語となり、明への侵攻はおろか、戦線維持さえおぼつかなくなったので、朝鮮南部4道の割譲で手を打とうという提案です。
目的・動機をめぐっては、様々の意見 朝鮮侵略の原因・目的・動機をめぐっては、江戸時代から次のような意見が出ています(文禄・慶長の役(壬辰倭乱))。
和議条件はまったく無視された? 文禄・慶長の役|国史大辞典|ジャパンナレッジによれば、交渉はおおよそ次のように経緯しています。
日本は絶えず明朝、朝鮮側に妥協 第59回 SGRA フォーラム 第3回 日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性 17世紀東アジアの国際関係――戦乱から安定へ 「発表論文2 欺瞞か妥協か──壬辰倭乱期の外交交渉」は、SGRAフォーラムに掲載されている中国人研究者の論文ですが、著者は壬辰倭乱期の外交交渉について、日本の学会の定説について、次のような疑問を示しています。つまり、外交交渉が当初から全く嚙み合わなかったわけではなく、相互に妥協を図っており、また、双方の外交担当官僚が欺瞞を共謀し、虚偽な情報を伝達したため交渉が失敗したとはいえないという立場です。
7項目について承諾したという事実はない 上記論文によれば、1593年6月の秀吉の和議条件7箇条提示に対する明朝使者の対応は次のように説明されています。 @和親要請「明朝皇女を天皇家と婚姻させること」は明確に拒否しています。A朝貢関係とB公式関係修復については交渉に応じる姿勢を示しています。C朝鮮南方四道の領土要請については反対しつつ明朝朝廷に報告することに同意しています。D朝鮮王子人質等については棚上げし、E日本側からの朝鮮国王子返還の申し出については承諾しています。明朝使者が7項目について暗に承諾したという事実はないということです。
小西行長と沈惟敬の共謀による偽作? 1593年12月の、秀吉の降表について、上記論文は次のように説明しています。降表では、もっぱら戦争責任は朝鮮にあると主張し、和議条件AないしBの要請を繰り返していますから、必ずしも秀吉の意思に反するものとは言えないように思われます。
四道の領土要請については、放棄 1595年5月22日の「大明朝鮮与日本和平条目」について、上記論文は次のように説明しています。交渉対象に朝鮮も加えたというのは秀吉側の譲歩といえます。和議条件7箇条のうち、@和親要請とC朝鮮南方四道の領土要請については、要求を放棄しています。そして、A朝貢関係、特に日明貿易の再開と、D朝鮮王子等の人質問題に要求を絞っています。日明貿易の再開については、小西行長が希望的観測を伝えたため、秀吉が可能性があると思い込んだようです。ただ、貿易は双方に利益があるので交渉の余地は残されていたのではないかと思われます。結局、朝鮮王子等の人質問題が最大の争点として残されたことになります。
秀吉が2回も立腹 交渉決裂の経緯について、上記論文は次のように説明しています。結局、朝鮮王子等の人質問題をめぐり、豊臣秀吉は2回も立腹した事が決裂の原因のようです。ただ、豊臣秀吉は大分前から朝鮮王子が来日しないと見込んだ報告を受けており、直後にも変化はなかったということですから、突然の立腹に外交担当者はおおいに戸惑ったものと思われます。
背景には神功皇后伝説が関係? ところで、秀吉の外交には、一貫して朝鮮を見下す姿勢が感じられます。このような姿勢は、当時の日本の支配階級に共通した認識であり、 その背景には 神功皇后伝説が関係しているという次のような指摘があります( 神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観)。
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