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読書ノート / 近現代史
ポーツマス条約で日本は大韓帝国に対する保護権をロシアに認めさせた上で、1905年11月、第2次日韓協約を締結しましたが、韓国と北朝鮮は現在でもこの条約は日本の軍事的圧力のもとで押しつけられたもので、正式な条約ではないという立場をとっています。この第2次日韓協約では、日本は統監を置き外交を監理させることになります(世界史の窓>日韓協約)。 1906年渡韓した伊藤博文統監と高宗と対立する様子を、著者は次のように説明しています(351〜352ページ)。伊藤にとって、高宗は「背後で排日を煽っている裏切り者」と映っているようです。
著者は、この事件を「すなわち先に高宗が否定したことが、高宗自身の委任状によって現実となったわけである」と批判的な論調で紹介しています(353〜355ページ)。
江華島事件については、次のように述べ(105ページ)、事件は朝鮮側の一方的な攻撃で始まったと示唆しています。高宗が実質的に親政を始めたのは1874年からであり、1875年から鎮撫営から武衛所への財源移譲することになっていたということですから(97ページ)、高宗の失政により防衛力が大きく削減され、大打撃を蒙ったとは言えない感じもします。
1894年2月、全琫準ら東学農民軍が全羅道・古阜で武装蜂起し、5月31日、全羅道の首府・全州を占領したため、朝鮮政府が清に出兵を依頼し、日本も独自に出兵を決めたことから朝鮮半島に緊張が高まります。このような中で、6月11日、朝鮮政府と東学農民軍の間に和約(全州和約)が成立し、農民軍は全州を撤退しますが(読書ノート/東学農民戦争と日本:もう一つの日清戦争)、本書ではこの間の経緯を次のように述べています(217ページ)。 「反乱に参加した東学徒」は一方的に蹴散らかされたように述べ、全州和約には全く触れていません。著者は、朝鮮王朝実録をベースにしているようですが、朝鮮王朝実録は東学農民軍の動きについては、あまり触れていないのでしょうか。なお、本書では、第2次農民戦争と殺戮命令については、全く触れていません。
著者は、清戦争開戦直前の1894年7月23日、日本軍が朝鮮王宮を占領した経緯について次のように述べています(219〜220ページ)。開戦不可避の状況下で、「景福官前に移動した日本軍に朝鮮王朝側が応戦した」とありますが、これでは「王宮の東側にある景福宮近くまでやってくると、朝鮮警備兵が突然発砲した」(読書ノート/朝鮮開国と日清戦争:アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか)というのとニュアンスはあまり変わらないように思われます。しかし、当時の大本営参謀・東條英教の「隔壁聴談」によると、「日本軍が清国兵と衝突するのに適当な口実を得る」ため、「武力で脅迫」し、「朝鮮政府の方から清国兵の撃退を日本に依頼させ」たということです(読書ノート/東学農民戦争と日本:もう一つの日清戦争)。それが事実だとしたら事情はかなり異なっていたことになります。
日清戦争に勝ったものの、三国干渉に屈服したことにより朝鮮に対する日本の影響力は大きく損なわれ、ロシアの力が増して行く状況下で、1895年10月8日、親ロシア路線の中心にいた閔妃をターゲットにした朝鮮王宮襲撃が決行されます。 このような状況下で、苦境に立たされていた朝鮮王朝内の親日派の動きを著者は次のように説明しています(242ページ)。つまり、王宮襲撃は朝鮮王朝内の親日派がイニシャティブを取り、三浦梧楼公使は直前にその計画を持ちかけられたと示唆しています。
なお、「在韓苦心録」は、王宮襲撃の公使館側の現場責任者であった杉村濬(ふかし)の回想録ですから、三浦公使に都合のよい潤色がされている可能性はあります。
結局、高宗の失政が江華島事件を招いたのであり、閔妃殺害は大院君との権力闘争の結果であり、高宗の裏切り行為が退位を余儀なくさせたのであるとするならば、日韓併合も自然の成り行きということでしょうか。併合する立場からの日韓併合史と見ることも出来そうです。 |