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 高宗・閔妃:然らば致し方なし(ミネルヴァ日本評伝選) 
 木村幹/著(ミネルヴァ書房)2007/12/10

2016/1/15
 本書の見返しに次のような説明があります。本書のタイトル「然らば致し方なし」は、伊藤博文に問い詰められ、高宗が退位を決意したときの言葉です。
高宗(1852〜1919)李氏朝鮮第26代国王、大韓帝国初代皇帝(在位1863〜1907)。閔妃(びんひ/ミンビ、1851〜1895)明成皇后。清国の影響下で長らく鎖国を続けてきた韓国は、西欧列強や新興国日本に対していかに対処したか。相次ぐクーデタ、大規模な内乱、日清・日露戦争、そして日韓併合。歴史の流れに翻弄された国王夫妻の軌跡を描く。
然(しか)らば致し方なし
ハーグへ密使を派遣したことについて伊藤博文に問われた高宗は、自分は無関係であると強調した。だが、もはや受け入れようとはしない伊藤の様子を見て、「然らば致し方なし」と退位を決意した(本書357頁参照)。
 本書の目次は次のとおりです。大院君執政(1864〜1873)、高宗親政(1873〜1907)、壬午軍乱(1882)、甲申政変(1884)、日清戦争(1894〜1895)、乙未事変(1895)、露館播遷(1896)、日露戦争(1904〜1905)、韓国の保護国化(1905〜)、日韓併合(1910)などの重要事件を中心に、年代順に李朝滅亡の経緯を詳述しています。本書のタイトルは「高宗・閔妃」となっていますが、閔妃はほとんど登場せず、もっぱら高宗の評伝です。
プロローグ——生家との訣別 
1 生家と養家——朝鮮王族に生まれて
2 大院君執政期とその帰結——制度的裏づけなきリーダーシップ
3 高宗の親政、そして挫折——若き国王による失敗
4 壬午軍乱——養家と生家の激突
5 甲申政変と清国との葛藤——勢力均衡政策の開始
6 日清戦争への道——列強と臣下との対立
7 乙未事変——閔妃の死
8 露館播遷と大韓帝国——高宗の孤独な覇権
9 破局——日露戦争
10 韓国の保護国化と高宗の退位——然らば致し方なし
エピローグ——退位後の高宗

 ポーツマス条約で日本は大韓帝国に対する保護権をロシアに認めさせた上で、1905年11月、第2次日韓協約を締結しましたが、韓国と北朝鮮は現在でもこの条約は日本の軍事的圧力のもとで押しつけられたもので、正式な条約ではないという立場をとっています。この第2次日韓協約では、日本は統監を置き外交を監理させることになります(世界史の窓>日韓協約)。
 1906年渡韓した伊藤博文統監と高宗と対立する様子を、著者は次のように説明しています(351〜352ページ)。伊藤にとって、高宗は「背後で排日を煽っている裏切り者」と映っているようです。
 こうして、いったんは修復されたかに見えた高宗と伊藤の関係は急速に悪化してゆくこととなる。皇室の特権を維持し、秘密外交の可能性を模索する高宗と、彼の権力を外形だけのものにしようとする伊藤。両者の対立は原理的、かつ決定的なものだったということができる。高宗は、内閣を通じて、「顧問警察」による王宮警備に反対させた。伊藤は皇室の財産に対しても挑戦し、皇室所有の土地に病院を建築すべきことを提議した(『韓国併合史料:一』二六四〜二六五頁)。……
 これに対して高宗は、伊藤が直接閣議に臨席してこれを指導する一方で、自らが事実上その決定過程から排除されていることに対して不満を述べている。高宗は、韓国統監は外交権においてのみ管轄権を有する存在であり、あたかも国王に代わるかのように、内閣を主宰するのは明白な越権行為であると考えていた。これに対して伊藤は、第二次日韓協約第五条、「日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証す」という文言を拡大解釈し、韓国皇室の安寧と尊厳を維持するためには内宮改革が必要であり、自分は日本国政府からその全権を委任されているのだと、主張した。
 高宗はこのような伊藤の態度に不信感を強め、この不満を様々な形で海外に伝え、諸列強を動かすことにより、事態を解決しようと試みた。イギリス紙『トリビューン』には、第二次日韓協約は韓国皇帝の意思に反するものであるという趣旨の記事が掲載され、一〇月三〇日、内謁見の場で、伊藤はこの責任を高宗に問い詰めた。押された形になった高宗は早速、この記事を否定する書簡を同紙に送ることを約束させられた。
 伊藤の高宗に対する不満は高まり、以後、彼は内謁見の場であからさまに高宗に対して非難を向けるようになる。伊藤は繰り返し、高宗の真意が「排日」にあり、背後でこれを煽っているのではないかと指摘し、高宗はこれに対する弁解を繰り返した。
 1907年6月にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に高宗が密使を派遣し、第2次日韓協約の無効を世界に訴えようとしましたが、出席を拒否され失敗に終わります(世界史の窓>ハーグ密使事件)。なお、3人の宿泊先だった小さなホテルは「李儁烈士記念館」となっているそうです(ハーグ密使事件の李儁 - 大塚愛と死の哲学)。
 著者は、この事件を「すなわち先に高宗が否定したことが、高宗自身の委任状によって現実となったわけである」と批判的な論調で紹介しています(353〜355ページ)。
 事態を動かぬものとしたのは、六月二九日、李相卨(イサンソル)、李儁(イジュン)、李璋鍾(イウィジョン)らが、ハーグで聞かれた第二回万国平和会議に、高宗からの委任状を示して出席させることを要求したことだった。すなわち先に高宗が否定したことが、高宗自身の委任状によって現実となったわけである。そもそも事件は、内宮御雇教師だったアメリカ人ハルバート(Homer B. HUllbert)と高宗の甥、趙南昇(チョナムスン)が計画し、李相卨、李儁の二名に高宗の信任状を託し、併せてロシア皇帝ニコラスニ世にあてた親書を手渡したものと言われている(『日韓併合:一』三七頁)。……
 彼らの会議への出席は、各国によって拒否されたものの、七月一〇日には、ハルバートらもパークに合流、第二次日韓協約が高宗の意思に反するものであることを、新聞や記者会見の場を利用して大々的に宣伝した。
 本書の山場ともいうべき高宗の退位の場面を、著者は次のように述べています(357〜358ページ)。策略と弁解を繰り返し、最後は動かしがたい証拠を突きつけられ、身内の保全と引き換えに国家を売り渡した哀れな皇帝として高宗を描いています。日韓併合も「然らば致し方なし」ということなのでしょうか。
 それでもその日はやってきた。伊藤は七月一八日、高宗への内謁見を行った。そして、この会談は、高宗が皇帝として、伊藤と行った最後の謁見となることとなる。謁見の冒頭、高宗は再び、パークに出現した密使が自らと無関係であることを強調したが、伊藤はもはやこれを受け入れようとはしなかった。高宗はこのような伊藤の態度を見て、次のように述べている。

 然(しか)らば致(いた)し方(かた)なし(陛下は此時最低声にて)我内閣大臣等は朕に向て此際譲位のことを頻りに迫れり。之に対し統監の意見は何如(いかん)。                 
              (『韓国併合史料:二』六〇五頁)

 これに対して伊藤は、自らは外臣であり、そのような重大事に対して意見する立場にはない、と前置きした上で次のように述べている。

 世間説を為すものあり。統監は義親王を推し、或は李竣鎔を以て帝位に即(つ)かしむるならん云々に対し、是(こ)れ毫(ごう)も根拠なき虚構の浮説にして、本官は陛下に対し斯(かか)る背反の意思を有するものには断じて之れあらずと奏し置けり。                 
             (『韓国併合史料:二』六〇六頁)

 伊藤のこの一言は、おそらく高宗が最後の決断を下すのに重要な役割を果たした。幾度も述べてきたように、高宗は大院君の愛孫だった李竣鎔が自ら、あるいは皇太子の地位を脅かすことを警戒し、また自らの子でありながら、一貫して王宮の外で育った義親王との間には信頼関係を全く有していなかった。高宗は彼らの手に帝位が渡ることを恐れ、どうにかして自らの作り上げた「皇帝」の位を自らが愛した二人の子供、つまり、閔妃の忘れ形見である皇太子と、厳妃との間に生まれた英親王に伝えようと考えていた。「毒茶事件」以降、皇太子が身体に問題を抱えていたのは周知の事実だったから、高宗にとって、まず皇位を皇太子に継がせ、次いで子を為すことのできない皇太子の跡を、英親王へ継がせるというのが既定の方針であり、この段階での最後の望みになっていた。
 つまり、伊藤は最後にそのことを示唆して見せたわけである。こうして高宗は遂に退位を決意する。

 江華島事件については、次のように述べ(105ページ)、事件は朝鮮側の一方的な攻撃で始まったと示唆しています。高宗が実質的に親政を始めたのは1874年からであり、1875年から鎮撫営から武衛所への財源移譲することになっていたということですから(97ページ)、高宗の失政により防衛力が大きく削減され、大打撃を蒙ったとは言えない感じもします。
 日本国軍艦「雲揚号」が江華島草芝鎮(チョジジン)の前洋に至るという事件が発生したのは、朝鮮王朝がこのような混乱状態のさなかにあった、一八七五年九月二〇日のことだった。草芝鎮砲台は接近した「雲揚号」へ発砲し、これをきっかけに「雲揚号」と江華島周辺の砲台の間の砲撃戦へと発展した。いわゆる江華島事件がこれである。鎮撫営から武衛所への財源移譲に典型的に現れていたように、高宗親政後、江華島の防御は軽視されており、その防衛力も大きく削減されていた。事実、五年前にアメリカ艦隊五隻を見事撃退して見せた江華島の諸砲台は、この時、わずか一隻の日本軍艦により大打撃を蒙ることとなっている。日本軍は一時、江華島対岸の永宗島にあった砲台をも占領した。朝鮮王朝は混乱し、一時はこの軍艦がどこの国のものであるかさえ把握できない有様だった。
 2010年1月31日に放送されたETV特集「日本と朝鮮半島2000年(10)“脱亜”への道 〜江華島事件から日清戦争へ〜」によると事実関係は次のようなものだそうです。政府が発表した公式報告では、@目的は航海研究で、A飲料水の補給のため、Bボートが国旗を掲げ、江華島草芝鎮に近づいたところ砲撃され、C小戦闘を行った、となっていますが、雲揚号の艦長の詳細な報告書によると、@目的は測量及び諸事検捜で、Aボートが国旗を掲げず、江華島草芝鎮に近づいたところ砲撃され、B翌日、初めて国旗を掲げた雲揚号が草芝鎮と砲撃を交わし、午後には近くの島を攻撃し、Cさらにその翌日、南の永宗島(ヨンジュンド)に上陸し、3日間にわたり戦闘を行い、多くの戦利品を押収し引き揚げたということです。日本の学者は、雲揚号の艦長が独断で暴走し、日本政府はそれを取り繕った報告書を発表したと見ていますが、韓国の学者は、日本政府が意図的に戦闘を起こしたと見ています。なお、草芝鎮の砲台は残っていますから、「防衛力を大きく削減されていたため、大打撃を蒙った」わけでもなさそうです。

  1894年2月、全琫準ら東学農民軍が全羅道・古阜で武装蜂起し、5月31日、全羅道の首府・全州を占領したため、朝鮮政府が清に出兵を依頼し、日本も独自に出兵を決めたことから朝鮮半島に緊張が高まります。このような中で、6月11日、朝鮮政府と東学農民軍の間に和約(全州和約)が成立し、農民軍は全州を撤退しますが(読書ノート/東学農民戦争と日本:もう一つの日清戦争)、本書ではこの間の経緯を次のように述べています(217ページ)。 「反乱に参加した東学徒」は一方的に蹴散らかされたように述べ、全州和約には全く触れていません。著者は、朝鮮王朝実録をベースにしているようですが、朝鮮王朝実録は東学農民軍の動きについては、あまり触れていないのでしょうか。なお、本書では、第2次農民戦争と殺戮命令については、全く触れていません。
 しかし、その頃、全州では、廟堂の予想を超えた事態が進行していた。いまだ清国軍の来援を得られずにいた洪啓薫が、総衛営の兵らと合流して勢いを盛り返しつつあったのである。六月六日、洪啓薫は全州北門外にて大勝を収め、一一日、遂に全州を奪還することに成功した。反乱に参加した東学徒は「四散」し、一帯の秩序は急速に回復した。六月一七日には、両湖巡辺司李元会、および招討使洪啓薫が全羅道における反乱の鎮圧を正式に廟堂に報告することとなっている(『朝鮮王朝実録』高宗三一年五月一四日、二六日)。

 著者は、清戦争開戦直前の1894年7月23日、日本軍が朝鮮王宮を占領した経緯について次のように述べています(219〜220ページ)。開戦不可避の状況下で、「景福官前に移動した日本軍に朝鮮王朝側が応戦した」とありますが、これでは「王宮の東側にある景福宮近くまでやってくると、朝鮮警備兵が突然発砲した」(読書ノート/朝鮮開国と日清戦争:アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか)というのとニュアンスはあまり変わらないように思われます。しかし、当時の大本営参謀・東條英教の「隔壁聴談」によると、「日本軍が清国兵と衝突するのに適当な口実を得る」ため、「武力で脅迫」し、「朝鮮政府の方から清国兵の撃退を日本に依頼させ」たということです(読書ノート/東学農民戦争と日本:もう一つの日清戦争)。それが事実だとしたら事情はかなり異なっていたことになります。
 事態は緊迫し、七月一三日にはロシア代理公使ヴェーペルが漢城府に帰任し、逆に一九日には李鴻章の命により袁世凱が漢城府を離れた。清国はもはや漢城府における日本との外交交渉は不可能と考えたことになる。七月一八日には、朝鮮王朝は日本の提案した内政改革を事実上拒絶する書簡を大鳥に送る。そして七月二三日、遂に大鳥は、本国政府の同意の上、兵力をもって「日本国の利益を保護」することを決定し、龍山に駐屯させていた日本軍を景福官前に移動させた。朝鮮王朝側がこれに応戦する中、日本車は王宮に突入し、朝鮮王朝側の軍隊を駆逐した。こうして壬午軍乱と甲中政変に次いで、三度、王宮は軍靴にて踏みにじられた。

 日清戦争に勝ったものの、三国干渉に屈服したことにより朝鮮に対する日本の影響力は大きく損なわれ、ロシアの力が増して行く状況下で、1895年10月8日、親ロシア路線の中心にいた閔妃をターゲットにした朝鮮王宮襲撃が決行されます。
 このような状況下で、苦境に立たされていた朝鮮王朝内の親日派の動きを著者は次のように説明しています(242ページ)。つまり、王宮襲撃は朝鮮王朝内の親日派がイニシャティブを取り、三浦梧楼公使は直前にその計画を持ちかけられたと示唆しています。
 そして、このような状況は、趙義淵ら、かつての「開化派」内閣に近い立場にあった人々や、李周会(イシュフェ)ら、朴泳孝に近い人々を、大きく追い詰めてゆくこととなった。こうして追い詰められた人々は次第に、日本公使館を中心に集結をはじめ、一つの計画を練り上げることになる。具体的な計画は単純だった。日本公使館守備隊および訓錬隊の力を借りてまたもやクーデタを実行するとともに、大院君をもう一度かつぎだし、四度目の政権の座に就かせようというのである。一〇月三日、このような話を朝鮮側から持ち込まれた三浦公使は、杉村に対し次のように述べたと言われている。
 著者は、閔妃殺害の直接の実行犯とされる日本人浪人(壮士)達と三浦公使との関係を次のように説明しています(247ページ)。つまり、浪人達は念のための予備であり、三浦公使は浪人達が王宮内に入り閔妃を殺害することは想定していなかったことを示唆しています。
 なお、「在韓苦心録」は、王宮襲撃の公使館側の現場責任者であった杉村濬(ふかし)の回想録ですから、三浦公使に都合のよい潤色がされている可能性はあります。
 いずれにせよ三浦はこの時点で、すでに王宮襲撃の腹を固めていた。三浦は、この計画が公使館守備隊と訓錬隊のみにて成功するか否かを危ぶみ、国友重章、安達謙三ら漢城府在住の日本人「壮士」一〇名程度をも、この企てに参加させることとなる。日本公使館は、「壮士」には朝解式の服装をさせ、できるだけ王宮内に入ることを避け、万一入った場合にも夜明け前には王宮外に出るよう求めている。諸列強をして、日本の直接的な関与を明白なものとさせないように、一応、配慮したわけである(「在韓苦心録」一九〇頁)。後に「壮士」達は、この際に三浦から、閔妃殺害を依頼されたと証言する(「在韓苦心録」二〇四頁)。
 決行当日の1895年10月8日未明、日本人浪人達は大院君を連れ出し、王宮へと向かいますが、著者はその経緯を次のように説明しています(248ページ)。これによると、大院君は計画に積極的に参加し、「狐は臨機処分すべし」つまり「閔妃殺害」を指示したことを示唆しています。しかし、角田房子「閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母」、秦郁彦「旧日本陸海軍の生態学 - 組織・戦闘・事件」、金文子「朝鮮王妃殺害と日本人:誰が仕組んで、誰が実行したのか」など多くの書籍では、大院君の説得に手間取ったため、深夜に決行するはずが明け方近くになり、早起きの市民に見咎められる結果となった説明しています。また、三浦公使が閔妃暗殺を「狐狩り」と呼んでいたという記述もあります。
 別邸についた一行は、岡本龍之介をして大院君にすべての準備が整った旨を伝えさせ、クーデタ成功の暁に張り出す予定の、杉村起草の告示文の原案を提示した。午前三時、一向は大院君を輿に乗せて孔徳里を出発した。一向には李竣鎔も同行した。孔徳里から王宮に向かう途上の大院君は大事を前にしても悠然とかまえており、「壮士」らからは「さすがに大院君だ」という声があがったという。孔徳里を出てからしばらくしたところで休憩をとる一行を前に、大院君は、高宗と王世子には危害を与えてはならぬ、と述べている。さらに大院君は路上で、「壮士」らに対し、各々の大臣の名を挙げて、殺すべき者と殺さざるべき者に分けて見せたという。岡本龍之介がこれを訳したというから、あるいは岡本が「狐は臨機処分すべし」と述べたのは、実際にはこの大院君の発言を訳したときだったかもしれない。
 閔妃殺害の責任について、著者は次のように述べています(253〜254ページ)。直接手を下したのは、日本人浪人だったにせよ、それは大院君に煽られた結果発生した突発的な事件であり、日本公使館は直接関与していないとするのが、著者の見方のようです。これは、大院君主犯説(日本の研究者の多くも、この説は否定していますが)に近い考え方とも言えそうです。
 後に行われることになった裁判でも、三浦や杉村らと「壮士」らは、この閔妃殺害については、互いにその責任をなすり付けているようにも見える(「在韓苦心録」二〇七〜二一二頁)。また公使館守備隊が合流に手間取ったことからも明らかなように、この襲撃はそもそもの計画段階から粗雑なものであり、「壮士」らの一部は、この襲撃に当たり、あたかも自らが「小説上の人物」になったかのような異常な高揚感の中にあった。王宮に至る途上、大院君に煽られた彼らが、「大勢に駆られて」閔妃の殺害に至ったとしても不思議とは言えない。とはいえ、言うまでもなく、公使館守備隊を先頭とする一隊が、王宮を襲撃するという事態そのものが、少なくとも日本公使館の深い関与のもとに行われたこと、そして、その中で誰も閔妃の身辺保護を重視しなかったこと、三浦や杉村が閔妃を露骨に敵視していたことは、否定できない事実である。そこに日本政府の責任があることは言うまでもない。

 結局、高宗の失政が江華島事件を招いたのであり、閔妃殺害は大院君との権力闘争の結果であり、高宗の裏切り行為が退位を余儀なくさせたのであるとするならば、日韓併合も自然の成り行きということでしょうか。併合する立場からの日韓併合史と見ることも出来そうです。