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読書ノート / 近現代史
もっとも、1895年時点で、韓国の完全支配、さらに満州への勢力拡大の意図や、それに伴いロシアとの武力衝突が不可避なものとなるとの予測があれば、電信線確保は重要な意味を持つことになります。 @日露戦争は日本がロシアに仕掛け、A仁川、旅順奇襲や日本海海戦で電信線が重要な役割を果たしたことを証明するのはその傍証となります。それが「朝鮮王妃殺害と日本人」の続編としての本書の狙いであるように思われます。 王妃殺害以降の流れを年表にまとめると次のようになります。
1896年2月11日、高宗は(二度にわたり日本軍に蹂躙された)景福宮を脱出し、ロシア公使館に保護を求め、そこを拠点に巻き返しを図ります。そして、親日派の閣僚を罷免し、新内閣を組織し、反日の姿勢を明確にします。王妃殺害という強硬手段は、日本にとって、裏目と出たことになります。 しかし、ロシアは日本と全面対決してまで朝鮮王朝に肩入れするつもりはなかったようで、1896年6月、山形・ロバノフ協定で日本と手打ちを図ります。ソウル以北については、ロシアの電信架設権を認める代わり、釜山−ソウル間では、日本に電信線の保持を認め、限定的ながら部隊の派遣も認めました。 その後、1897年2月20日、高宗がロシア公使館を出て、慶運宮に移り、10月12日、国号を大韓帝国とします。一方、日本とロシアは、1898年4月、西・ローゼン協定を結び、満韓交換の姿勢がさらに鮮明となります。 しかし、1900年の義和団事件を契機に、ロシアが満州に派兵、事件後も撤兵しなかったため、日本との間に緊張が高まります。 日露交渉から開戦までの動きについて、著者は次のように述べています(33〜34ページ)。「もっぱらロシアの南下政策が過大に宣伝され」たことが、日露戦争=祖国防衛戦争という主張につながったものと思われます。
本書の記述にしたがって、日露交渉から開戦までの動きを年表にまとめると次のようになります。
一方、ロシアは直前まで妥協の道を探っていたようで、戦争する意志はなかったようです。ロシアのラムスドルフ外務大臣は、2月2日にも譲歩案を示せそうだと、栗野中露公使に伝えています。実際、2月4日までには回答書を旅順の極東総督と駐日ロシア公使に電送されています。ただし、電文が駐日ロシア公使に届いたのは7日午前7時だったということです。著者は、日本政府が電文を検閲し、7日まで留め置いたと見ています。 ロシアとしては、妥協案を示したにもかかわらず、いきなり最後通牒を通告され面食らったものと思われます。さらに、電信線を遮断されたことにより、旅順艦隊や仁川の軍艦は、最後通牒通告という状況が把握できないまま、突然日本艦隊の奇襲を受けたようです。 当時、駐露公使であった栗野慎一郎は、次のように再三にわたり、「ロシアに戦意はなかった」と発言しているとのことです(127〜128ページ)。
本書では、基本史料として、「極秘明治三十七八年海戦史」と「日露戦役参加者史談会記録」に依拠しています。 著者は、「極秘明治三十七八年海戦史」について次のように説明しています(148ページ)。
つまり、東郷ターンやT字戦法などはなかったようであり、バルチック艦隊の航路もちゃんと把握されており「東郷さんは神のような英和」によって予測したのではなかったようです。 「日露戦役参加者史談会記録」については、著者は次のように説明しています(154〜155ページ)。
本書によると、日本海軍は開戦直前に、対馬と佐世保から韓国南岸に、(赤と青で示した)2本の海底電線を次の図(242〜243ページ、クリックで拡大)のように敷設しています。 佐世保−八口浦(パルグポ)の第一線は、1904年1月11日、佐世保から敷設を始め、1月15日に作業を完了しています。2月6日に佐世保を出港した連合艦隊(第一艦隊、第二艦隊)は、7日に八口浦に集合し、海底電線により軍令部から最新情報を受け取り、旅順と仁川への奇襲に出撃します。 厳原(いずはら)−馬山浦(マサンポ)の第二線は、第三艦隊の鎮海(チネ)湾占領と並行して敷設されます。第三艦隊は、5日朝、呉を出港し、6日、鎮海湾と馬山電信局を占領、ロシア船舶を捕獲します。著者は、これをもって日露戦争が始まったとしています。 鎮海湾(下図、257ページ)は、釜山西方にあり、広い湾内は、湖水のように静穏で、水深が深く、大型戦艦も入ることができ、入り口は事実上、北東の1箇所しかなく、防衛にも適しています。日本海軍は、ここを根拠地とすることを計画しており、後に、松真浦は連合艦隊旗艦「三笠」の専用泊地となります。 海底電線の敷設は、6日朝、対馬から始まり、10日朝には完了しています。これで、「三笠」は電信で東京とつながることになります。 日本海海戦に至る経緯と、海戦の真相を著者は次のように説明しています(332〜334ページ)。〈注1〉は、大江志乃夫「バルチック艦隊 (中公新書)」(196ページ)で、〈注2〉は、ロストーノフ「ソ連から見た日露戦争」(336ページ)で、〈注3〉は、外山三郎「日露海戦新史」(223ページ)です。
また、2000年3月29日放送の「その時歴史が動いた 運命の一瞬、東郷ターン 〜日本海海戦の真実〜」では、東郷ターンの成功が勝利に結びついたとしています。 これらの「定説」を覆すのが、本書の狙いであったと思われます。 「バルチック艦隊が朝鮮海峡を通過するしかない」という前提で決定された「朝鮮海峡の哨戒計画」とは次のようなものです(382〜383ページ、クリックで拡大)。第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)がバルト海のリバウ軍港を出港した1904年10月中旬から1ヶ月半、旅順要塞が降伏した1905年1月1日付けで作成、10日から実施されました。朝鮮海峡に海底電線をめぐらし、艦船の無線通信と組み合わせて、バルチック艦隊の動きを監視しようという計画です。 海軍首脳は、朝鮮海峡がバルチック艦隊との決戦場となると考えていたでしょうが、バルチック艦隊が太平洋を迂回し、津軽海峡経由でウラジオストックを目指す可能性も全く否定することもできなかったと思われます。 2000年3月29日放送の「その時歴史が動いた 運命の一瞬、東郷ターン 〜日本海海戦の真実〜」では、「極秘明治三十七八年海戦史」の記述をもとに、津軽海峡に向かうべきか直前まで迷う東郷平八郎の姿を描いています。 東郷ターンについては、2005年1月26日放送の「その時歴史が動いた 日露戦争100年 日本海海戦 〜参謀 秋山真之・知られざる苦闘〜」では、当初の作戦が失敗した様子を描いています。 結局、机上の作戦はうまく行かなかったものの、@バルチック艦隊は、装備の点検、試運転、乗員の訓練等、すべてが不十分であり、A七ヶ月、三万キロの航海で極度に疲弊、B日本海軍の海底電線と無線通信の監視網により動きが完全に読まれていたこと、が日本海海戦の勝敗を決したようです。 本書では、リヤンコ島(リヤンコールト、竹島)の戦略的価値に注目しています。 現在の竹島は江戸時代には松島と呼ばれ、鬱陵島が竹島と呼ばれていました。ところが、明治になって、松島と竹島という呼び名がそっくり入れ替わってしまうという珍事が起こります。その経緯を次のように説明しています(337〜339ページ)。
そして、日本海海戦を目前に控えた1905年1月28日、リヤンコ島を日本領とする閣議決定がなされます。その際、島名を日本風の竹島と名付けます。江戸時代は松島と呼ばれていたのだから、そのように名付ければ良さそうですが、その名前はすでに鬱陵島に使われているので、安直に竹島と名付けたようです。これで、島名の入れ替わりが完了します。 リヤンコ島は、バルチック艦隊の監視網の最終ラインにあり、ウラジオ艦隊の監視網の入り口にもなりますから、当時は戦略上重要な意味があったものと思われます。 しかし、当時の日本海軍は、日韓議定書を根拠に、韓国の領土を自由に使えたのですから、あえて日本領に編入する必要もなかったようにも思えます。この点について、著者は次のように推測しています(390〜392ページ)。
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